「レッドスネークカモンの人」ショパン猪狩 小さい子供に言うことを聞かせようとするとき、大人は昔から幽霊や怪物など、ありもしないものを並べ立てます。そういったものが積もり積もって迷信が生まれます。迷信は「迷」というぐらいだからその殆どは益体もないものですが、中には今でこそ有名無実化しているが本当は、というものもあります。だから一概に迷信=嘘、というわけでもないでしょうが、うそだーといってしまいそうな言い伝えはいくつかあります。

例えば「夜に口笛を吹くと蛇(鬼)がでる」という言い伝え。はっきりいって口笛を吹いたぐらいで出てくる蛇なんぞはインド人のとこか「レッドスネークカモン」の人のとこにしかいないでしょう。では昔の人はみんな蛇使いだったのかというとそうでもなく、ちゃんとした理由があります。


昔の人は、貧しくて家族全員が食っていけない状況になると口減らしをしました。親が子を殺す場合もあったでしょうし、捨てにいく場合もあったでしょう。姥捨て山というのもこういった手段のひとつだったといいます。しかし、最も効率がいい、というか利益になるのは人買いに子供を売る方法だったそうです。口減らしできる上に、お金ももらえる。貧しい人にとっては、人情は別にして結構この上ない方法だったわけです。そんなわけで人買いですが、家の人にとってはよくても外聞は悪い。さらに大抵の地方で人買いは禁止されていました(と思う)。そこで夜陰、口笛を吹くことで人買いを呼んでいたのです。外をうろつく人買いは口笛を聞いてやってくるので、無闇と口笛を吹くと人買いが来てしまうぞ、というわけなのです。人買いは合法的な商売でなかった証拠に、大抵の地方で蛇が来るとか、鬼が来るとか言われるようになったといわれています。

他に変な言い伝えは「北枕で寝ると親の死に目に会えない」「靴(昔は草鞋)を履いたまま寝ると親の死に目に会えない」というのがあります。これは簡単な理由で、どちらも人が死んだ時に死者がすること(死者にさせること)だからです。どちらも死者に対する慣習という点ではちゃんとした理由があるのです。北枕は極楽浄土に近いから(それは西じゃなかったか?)だし、靴(草鞋)を履かせるのは極楽(または地獄)へ旅立つためだからです。

では後半部分の「親の死に目に会えない」というのはどういう意味でしょうか?私は昔から「親が死ぬ時に立ち会えない」という解釈でいました。同時に「そのぐらいしょうがないだろ。大人のオレは忙しいだろうし」と思ってもいましたが、最近になって正しい解釈を知りました。これは「親より先に死んでしまう」ということだったのです。

親より先に死ねばそりゃあたしかに親が死ぬ時には立ち会えないでしょう。私の解釈も間違ってはいませんが、前提として自分は生きていたからなあ。死人の格好をしていると死神が間違えて連れていっちゃうぞ、ということなのでしょう。

というわけで、言い伝えには何かしら意味のあるものもあるんだぞ、という話でした。

迷信だけでなく、UFO(未確認飛行物体)やUMA(未確認生物)、超能力などのいわゆる怪現象の発見報告の類は、肯定派と否定派の意見が真っ二つに分かれるのが常です。テレビ番組などで討論会なんぞを開こうものならお互い唾を飛ばしあって激論を繰広げます。その光景は大人気ないったらありません。こうした討論は低レベルの言いあいが続き、大抵うやむやに終わってしまいます。はっきりするだけの証拠は両陣営ともに揃えていないし、仮に揃っていても自分の意見を変えるような人はこういった場には呼ばれないからです。また、白黒はっきりさせてしまうのが番組の趣旨ではないということもありますが、はっきりしてしまうことは番組を作るネタが一つ減ってしまうことを意味するからです。

基本的に私はこういった怪現象を信じる方です。なんでもかんでも否定してしまっては面白くないからです。未知の生き物がたくさんいると思った方が楽しいし、実際いると思っています。例えば、ゴリラは20世紀に入るまでは幻の動物として扱われていましたが、今では動物園で見ることができます。それに加えて例えば幽霊やUFOについていうと、世界中で様々な心霊・UFO目撃の報告例があるということはやっぱり何かしらいる、と考えた方が自然であるからです。かといって周囲の人も同じように信じなさい、と思うわけでもありません。

論理的なことを非論理的に語る男 ただ、O教授を代表とする否定派の人たちの否定の仕方は間違っていると思います。その根拠は「科学的に説明がつかない」というものが殆どですが、学問そのものが人間が知っている真理の寄せ集めであるから、完成した真理ではないわけです。

つまり否定派の人が拠りどころにしている科学自体がおかしいというか、実際には万能でない科学を万能のものとした上で考えているから理解できないのだろうと思います。科学の元は錬金術であることを考えれば本当は一番胡散臭いんですけどね。


もっとも否定派だけでなく肯定派の人たちもやや偏りがある人たちが多いように思えます。私は肯定派よりですが、いい大人が「いる」ことを大前提に話すのもどうかとも思います。「本当にいるのかな?」程度に肯定否定するのがよろしいかと。

テレビだからしょうがないといえばまあそうなんですが、もっと論理的考察と説明をもって主張してほしい、というのはあります。

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