全文章 柳家 松乃介
ACT O
月曜日が来る前に
もう暗くなりかけた空、わざわざこんな処でタクシーを降りたのは理由等無い。
運動不足と勝手に決め付けて歩くが以前からの頭痛が酷くなり、
人気の無い公園・・ペンキの擦れたベンチに横たわる事で其れを休めようと考えた。
もう、春だと言うのに緑が剰り感じられない其処は、
酷く自分の心に類似している・・全く笑えない冗談だった。
旧知の友人達とのパーティには結局出ず終い、その結果が此・・解らないでも無い。
昨日迄自分と他愛ない夢話や此処で遊んでいた、
其れが腹を肥やし、酒を片手に一人前に会社や政界等の事について論じ合う。
きっと想像も付かない、今からでも行けば間に合うかも知れないが足は曲がったままだ。
「あの、火を貸して貰えないでしょうか。」
離れた場所から声を聞く、シルクハットを被った中年の男、
ゆっくりだがしっかりとした足取りで此処へと距離を縮めて来る。
どうぞ、言おうとしたが喉が渇いているのか声がまともに出ない。
咳き込む振りをして其の様を隠し、急ぎ相手の用件を差し出す。
「ありがとうございます、それでは・・。」
男は手袋を填めたまま指で挟んでいた其れに火を移す、
文句を付けよう暇も無い間で一礼の後踵を返す、帽子の下は良く解らなかった。
半分起こし掛けていた腰を再びベンチに預け、
自らもと空いた手の方で煙草を探る、箱は軽く中は案の定空だった。
昼間に新しいものを買った筈・・量が増えているのだろうか。
いや、生活面に関しては元々物覚えが悪い、そう自分に告げて誤魔化した。
仕方が無い、ライターをポケットに戻す時、ふと其れに目を遣る。
持っているのはライターでは無かった、腕時計が苦手で持っている懐中時計。
確かに先程の男に火を貸した筈だが・・
本当に疲れているらしい、こんな事も忘れる迄とは自己管理の無さに呆れる程だ。
蓋を開け、見ると既にこんな時間らしい。
元々行く気は無かったが、どうも気にしている自分の天の邪鬼さに苦笑しつつ再び空を仰ぐ。
「貴方・・少し疲れているの?」
少し広めのリビング、材料を切る音が消え、テーブルに並べられた馴染みの食事。
細かい処に気が利く、皿の下の指をそっと外し、
音を立てない様置き乍ら眉を顰め此方の顔を見ていた。
「いや、何でも無い。」
「そう?でも、大変ね・・。」
彼女が頬に手を遣り、目線を外す・・大方自分の後ろのテレビを見ているのだろう。
何が大変なのか、意図が取れないが気にせずスプーンを口へと運ぶ動作を繰り返す。
味は食べ慣れた少し濃い味のシチュー、得意料理らしい。
軽く口を拭き、コップに手を掛ける。
彼女が熱心に目を向けているのが何か、確かめるかに首だけ向ける。
さて、次のニュースです・・間が悪かった。
コップの中身を喉に通し、首を戻す。
そしてふと見えた、何故かいつものビールと違い今日は水。
自分が先程迄飲んでいたのもそう、塩素の味を含んだ其れだった。
「何で、今日は水なんだ?」
「ビールが切れたの・・だから我慢してね。」
珍しい、買い物好きの彼女が買い忘れたらしい、別に構わない。
家事は殆ど任せっきりだ、感謝はすれど指摘は出来ない、良く出来た妻だ。
少しつり目だが、穏やかで笑顔の爽やかな彼女はいつもこの調子だ。
食べ終わり、手を合わせ、席を立つ。
「ねえ、明日は休みよね。」
自室に戻ろうとテーブルに背を向けた時、呼び止められる。
「ああ・・で?」
「買い物に行かない?で、その後お母さんの処に・・。」
最後の方の科白は言うつもりは無かったのだろう、そう止める。
「ああ・・。」
「じゃあ朝起こすから、お休み。」
言葉通りに彼女の声で目を覚ます、晴れだった。
主治医の話を聞いた後、未だ場所も朧気で母の病室を探す。
角の個室・・通りすがりの看護婦の言葉を頼りに歩く、
それ程広くないのであっさりと見付かった・・『杉浦 八重』。
ドアを軽く叩く、あ、来たんじゃない?中からはその声。
「よう、元気か?」
照れ隠しに慣れない言葉を選んだ。
「相変わらずね、母さんを此処に閉じ籠めといてその言い草かい?」
他の病室に響く位大きな声で、母は楽しそうだった。
入院生活の長さが感じられる、沢山と生活品が詰まったロッカーやテレビ台の引き出し。
「お母さんったら・・。」
母のその口の悪さを思い出す、妻もそうだったのか笑顔を漏らした。
「お母さん、又来るから。」
「孫の顔は未だ見れないのかい。」
「言ってろ。」
母は哀しい程懐かしい訛りのある口調だった。
もしかすると面影が無い迄衰弱しているのでは・・と心配だったが大丈夫そうだ。
「優、電話よ。」
「あ、解ったよ・・。」
妻から子機を受け取り、耳に当てようとする。
用は終わったのに何故か部屋を出ようとしない、訝しげに自分の顔を覗き込んでいた。
「あ、ごめんなさい・・。」
急に弱気な顔になり、しっぽを巻く様に背を向けた。
「おい、どうしたんだよ・・昨日は・・。」
その件から始まる会話、低くなってしまったが懐かしい友人の声だ。
「仕事が忙しいんだよ。」
社会に貢献している、そんな意味をくるめ軽口を叩いた。
もう、皆子供じゃない、自分に言い聞かせている様に。
「お前の子供や嫁さんが出てくるかと思ったけど、どうやらそっちの方は未だらしいな。」
「あ?何を言ってるんだ・・俺は・・。」
「・・何だよ。」
ふと過ぎる、昼間の母との面会、さっきの態度。
「それにしても懐かしいな、中学の頃お前の家で酒飲んでたら・・。」
・・その先は聞きたくなかった。
元々生活面に関しては物覚えが悪い。
・・違う、そんな問題ではない、連日の仕事で疲れているんだ。
・・どう、言い逃れようか必死に考えていた。
子機を戻し、ふと見ると彼女が立っていた。
「ね、あ、綾・・。」
ふと名前を呼んだ。
危うく漏らしそうになる言葉は十分にお互いに溝を作ったかに見える。
「・・もう、終わりだね。」
「ああ・・。」
その後は何も交わさず其処に人形みたいに動きもせず只見つめ合ったままだった。
時計の針の音で時間が流れるのを確認する。
「・・お腹空いたね、待ってて今作るから。」
手慣れた手つきでエプロンを着け、包丁を水で濡らす。
いつの間にか椅子に座っていた、手には新聞を。
煙草を吸おうとポケットを探る、煙草は疎かライター、良く見れば灰皿すら置いていない。
もしかしたら・・煙草なんて吸っていないのかも知れない。
段々と夢が醒め行く感覚、頭を振って取り払う。
そして読み終わるのを計った様に新聞を閉じるとテーブルには料理が並べられていた。
でも、今日も飲み物は水だった。
いや、前から水だったのかも知れない、もうどちらか判断等出来なかった。
洗い物をしている妻の背中に目を遣る。
何も代わってはいない。
やはり・・考え過ぎだ、満腹感がそう思わせた。
又、明日になれば仕事で、くたくたになって帰ってくる。
偶々2日間だけ買い忘れていたビールが机に置かれ、二人で喉を鳴らす。
休日には又病室で母の昔話に付き合って・・。
連休には昔の仲間と集まって、其処でも又昔話をするんだ。
其れが繰り返し・・繰り返して・・。
そう、思い過ごし、考え過ぎ・・自分の悪い癖なのだ。
第一そんな事あり得無い事だ。
気持ちの整理が付き、リビングを後にする。
「覚えてる?」
蛇口の水が止まり、呼び止める声がした。
何処か抜けた感じのあるいつもの彼女では無い、口調も早くしっかりとした声。
弱々しく押しに弱い、誰よりも利他的で優しい理想の妻の後ろに誰かが見えた気がした。
「ああ・・多分な。」
そんな態度ももう、可笑しくは無い、何故かこの方が自然に思えた。
「最初に・・。」
「言うなっ!」
思い出そうとする彼女を掴む様に抱き寄せる。
少し違和感があった、今迄彼女に何度もこうした事はあった筈。
彼女はそれを拒むはしなかった。
妻だから当然、もう、そうとは思えなかった。
「頼むから・・思い出さないでくれよ・・頼むから・・。」
彼女にしがみ付き言葉を繰り返した。
仲の良い二人、自分より背の高かった身近な彼女。
「優・・。」
頭を撫で眺める彼女は哀しそうに名前を呼んだ。
些細な事が始まりだった。
最初の頃はしっくりと来ない、不自然で顔の似た夫婦だった。
でも段々と慣れて来る、彼女もあなた、と呼ぶ様になる。
泥団子のご飯がいつの間にか本物になったのはいつからなのかは覚えていない。
「未だ終わっていないよ、其れに言ったら・・負けだよ・・お姉ちゃんの。」
しゃくり上げ、泣き付く子供の様に文法も滅茶苦茶だった。
既に『寡黙で頭の切れる仕事人間』と言う役割は其処には無く、
今は只、姉に縋り付く幼い弟だった、其れが本来の姿、事実だ。
「・・もう、私達は気付いてしまったから・・でも・・。」
それから先は覚えていない。
いや、話す必要は無いみたいだ。
蹴り上げた布団を掛け直し、起こさない様にゆっくり立ち上がる。
『最初にね、止ーめた、って言ったら負けだからね、解った?』
『うん、解ったよ・・じゃあ今日からお姉ちゃんは僕のお嫁さんだね・・。』
幼い、仲の良い姉弟の話は此で終わりか・・。
「・・お父さん・・。」
寝返りを打ち、夢でも見ているのだろう寝言を漏らす。
伏せていた顔が覗く。
少しつり目で、明るく年の割に大人で、笑顔が爽やかな娘。
「ビール・・今度は忘れてないよな。」
幼い日の些細な遊びは未だ終わらない。
後書き
日常の中の非日常を書こうと思って何の因果がこんな話になりました。
もしかすると一番変な話かも知れない・・。
こんな話にするつもりは無かったのに、終わり良ければ全て良しですね。
では、この辺で・・。