IRON MAIDENは、スティーヴ・ハリス<b>の音楽的アイディアを具現化するためのバンドであり、数え切れないほどのメンバーチェンジを経て現在に至っているIRON
MAIDENの歴史において、不動のメンバーはスティーヴただ一人だ。ロンドンで’57年3月12日に生まれたスティーヴがIRON MAIDENを結成したのは‘75年のことだが、そのときのメンバーでスティーヴの求める水準に達している者は一人もいなかった。’76年にシンガーがポール・デイからデニス・ウィルコック(スティーヴが以前在籍したSMILERのシンガーだった)に代わるが、ここでデニスは非常に重要なミュージシャンをスティーヴに紹介した。デイヴ・マーレイ<g>だ。彼はこの時から現在に至る22年間、スティーヴと共に活動を続けることになる。
数回のメンバーチェンジを経て、‘77年にはスティーヴとデイヴだけが残った。元SMILERのダグ・サンプソン<dr>を迎えてトリオ編成でリハーサルを繰り返していた彼らが見つけたシンガーが、ポール・ディアノだった。パンク/ニューウェイブが全盛で世間はハード・ロックに冷たかったが、IRON
MAIDENは地道に活動を続け、’78年には“Iron Maiden” “Prowler” “Invasion”の3曲入りのデモ・テープを作った。そのデモがニール・ケイというDJの手に渡ったことで、IRON
MAIDENの運命は変わった。
‘70年代後半、パンク/ニューウェイブの台頭により、ハード・ロックは古臭いダメな音楽だと軽蔑されたが、「それでも俺たちはハード・ロックが好きだ」という若者達はいた。‘78年頃から目立ち始めたイギリスのそういう若いハード・ロック・バンド群を、当時『サウンズ』紙の副編集長だったジェフ・バートンは、“ニュー・ウェイブ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル(NWOBHM)”なるムーブメントとして括り、ハード・ロックの復権を呼びかけた。ジェフ・バートンは“新興勢力の新しいハード・ロック”を指す言葉として意識的に“ヘヴィ・メタル(HM)”という単語を用いたのだ。ジェフ・バートンと一緒にNWOBHMを煽ったのが、『サウンズ』にHMチャートを載せていたニール・ケイ、彼はハード・ロック専門のDJとして『HMサウンドハウス』を主催し、そこでは若いバンドのデモ・テープを流したり、時にはライヴもさせていた。IRON
MAIDENのデモに感銘を受けたニール・ケイは、これを『サウンドハウス』で掛けまくった。
IRON MAIDENは当時まだメンバーが固定しておらず、デイヴの相棒となるギタリストがくるくる変わっている状況だったが、このデモによってロンドンのヘヴィ・メタル・ファンの間では圧倒的な支持を得た。(“Prowler”はデモでありながら『サウンズ』紙のHMチャートで堂々1位に輝いた) ‘79年にデモ・テープと同内容のシングル「THE
SOUNDHOUSE TAPES」を自主制作でリリースすると、1週間で5,000枚のセールスを記録。アンダーグラウンドから飛び出すべくロッド・スモールウッドとマネージメント契約を結び、’80年には英『EMI』と契約。デイヴとツイン・ギターを組むプレイヤーとしてデニス・ストラットンが、ドラマーには元SAMSONのクライヴ・バーが加入して、スティーヴ、ポール、デイヴ、デニス、クライヴというラインナップに落ち着いたのもこの頃だ。
‘80年2月にシングル“Running Free”を発表、コンピレーション「METAL
FOR MUTAHAS」にも“Sanctuary” “Wrathchild”を提供し、3月にJUDAS PRIESTの全英ツアーのサポートを務め、4月にはついにデビュー・アルバム「IRON
MAIDEN」リリースに至る。オリジナリティに満ちたエキサイティングなHMを詰め込んだこの作品は、全英4位まで上昇するヒットを記録。8月に『レディング・フェスティバル』に出演して大いに賞賛され、KISSの全英ツアーでもサポートを努めた。その直後デニスが脱退するが、過去にもギタリスト候補に上がっていた優れたギタリストのエイドリアン・スミスを後任に迎え、活動は順調に続いた。’81年には2ndアルバム「KILLERS」をリリース。1stと同等あるいはそれ以上に素晴らしい楽曲が揃った優れた仕上がりで、一層IRON
MAIDENの評価は高まった。このアルバムのツアーで、彼らは初めてアメリカと日本を訪れている。
「IRON MAIDEN」 「KILLERS」の2枚は、ファンにHMの魅力を知らしめた名盤であり、スティーヴ・ハリスが温めていた音楽的アイディアの素晴らしさを示すと共に、IRON
MAIDENが過去のどんなハード・ロック・バンドとも異なる新鮮な魅力を持つバンドであることを示した名盤である。とりわけ、パンク的な風貌のポール・ディアノの歌唱は異彩を放っていた。彼のヴォーカルは極めてアグレッシヴではあったが、あくまでメロディを歌い上げる正統派ハード・ロック・シンガーだった。しかし、そのポールが「KILLERS」のツアー終了後、脱退してしまう。
個性的なフロントマンであるポール・ディアノが脱退したことは大きな痛手に思えたが、スティーヴはかねてより目をつけていた実力派シンガーのブルース・ディッキンソン(当時SAMSONに在籍し、ブルース・ブルースと名乗っていた)を迎え入れ、この機会にバンドをレヴェルアップさせた。広い声域と優れた表現力を持つブルースの卓越した歌唱力は、’82年発表の3rd「THE
NUMBER OF THE BEAST」で大いに威力を発揮した。HM史上に永遠に輝き続ける名曲“Hallowed Be Thy Name”や“Run To
The Hills”を収録したこのアルバムは、能力の高いシンガーを得たことでIRON MAIDENのスケールが一回り大きくなったことを示す名盤であり、ここでIRON
MAIDENの世界は確立されたと言えるだろう。一部マニアは「ブルースはIRON MAIDENに合わない」と見当違いの批判を口にしたが、バンドは精力的なツアーで世界的に成功を収めることになる。
ツアー後、クライヴが脱退すると、後任には元PAT
TRAVERS BAND〜TRUSTのニコ・マクブレインが迎えられた。実力者揃いの安定したラインナップになったIRON MAIDENが’83年に発表した4th「PIECE
OF MIND」(名曲“The Trooper”を収録)は全米チャートで14位まで上昇する大ヒット作になり、彼らは全米のアリーナ級の会場をヘッドライナーとしてツアー。この頃のIRON
MAIDENの快進撃は、JUDAS PRIESTと共に全米にHMブームを巻き起こす“ブリティッシュ・インヴェイジョン”となった。勢いに乗る彼らは’84年に5th「POWERSLAVE」をリリースすると、一層スケール・アップした大規模なワールド・ツアーを敢行。この頃がバンドのピークで、当時の彼らのステージの凄さは、このツアーで収録されたライヴ盤「Live
After Death」で味わうことができる。また、楽曲的にはスティーヴ以外のメンバーの貢献が目立ち始め、「POWERSLAVE」では劇的な名曲“Aces
High”に続く爽快なHMチューン“2 Minutes To Midnight”でエイドリアン・スミスの作曲能力の高さがアピールされた。
‘86年には6th「SOMEWHERE IN TIME」をリリース。“Deja-Vu”
“Wasted Years”といった名曲でスティーヴ以外のメンバーが曲作りに大いに貢献し、スティーヴの“Caught Somewhere In Time”他、優れた楽曲に満ちた素晴らしいアルバムだった。ギター・シンセやキーボードの導入を必要以上に取り沙汰して「モダン化した」と批判的に捉えたマニアもいたが、客観的に見てバンドの人気の高さは相変わらずで、’87年の来日では初の武道館公演も実現。アルバムはアメリカでプラチナ・ディスクを獲得している。当時、MTVブームと連動してHM/HRが音楽ビジネスのメインストリームとなったため、レコード会社が一般的なヒットを狙えるポップ路線をバンドに強要する例が増えており、この頃からIRON
MAIDENもある程度ポップな楽曲を混ぜるようになったが、それが作品の質を下げることは皆無だった。
だが、より一般化したHM/HRに対抗するアンダーグラウンドからの新勢力としてスラッシュ・メタルが台頭し、次第に“正統派HM”の居場所がなくなってきたのもこの頃で、これがIRON
MAIDENやJUDAS PRIESTの人気の翳りをもたらした。’88年に発表された7th「SEVENTH SON OF A SEVENTH SON」はIRON
MAIDEN初のコンセプト・アルバムであるのみならず、“The Evil That Men Do” “Only The Good Die Young”他、個々の楽曲のクオリティにおいても最高傑作と呼ばれるにふさわしい名盤だったが、ある種の批判的な空気が影響したためか、それほど絶賛されることがなかった。LAメタル系のバンドが“ブルーズ回帰”を口にする混迷した状況のHMシーンにあって、『モンスターズ・オブ・ロック』でヘッドライナーを務める等、不動の地位を占めているかに思えたIRON
MAIDENだが、ツアー終了後に“2年間の休養宣言”を行う。
‘90年1月にレコーディングを開始したところでエイドリアンが脱退、後任に元GILLANのヤニック・ガーズが迎えられ、8th「NO PRAYERS FOR THE DYING」完成。(ヤニックは’89年のブルースのソロプロジェクトに参加していた) アルバム自体の出来はイマイチだったが、ヤニック加入を機にステージでは皆が走り回るエネルギッシュなパフォーマンスが披露されるようになり、ファンを喜ばせた。’92年には、前作とは打って変わってメリハリの効いた劇的なナンバーが目立つ優れたアルバム9th「FEAR OF THE DARK」を発表、『モンスターズ・オブ・ロック』でのヘッドライナーを含むワールド・ツアーでIRON MAIDEN健在をアピールしたが、何と’93年に入るとブルースが脱退を表明。ツアーは続行されたが、終了後、バンドは後任探しに入る。
根強く噂されていた元WOLFSBANEのブレイズ・ベイリーが正式に後任シンガーと発表されたのが’93年12月だが、アルバム「THE
X FACTOR」のリリースは’95年10月だった。この作品とその後のツアーで「ブレイズは不適格」との声が日英両国で強く起こるが、スティーヴは意に介さず、’98年に11th「VIRTUAL
XI」を発表。
(ここまでの文章は、BURRN!1999年2月号、『1項でわかった気になる有名HM/HRバンドの歴史・IRON
MAIDEN』から転載)