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ここではロドリゲス荒川さんによる荒川バンド創世記秘話を公開します。
その3はその2から10分後に読めるらしいけど、人間の時間の10分なんでしょうか?
とりあえず続きお待ちしております!

荒川バンド創世記秘話(その1)

荒川バンド紀元前約10年(1982年)4月初旬、福島、高橋、荒川3人は他の80余名と共に、
大きな希望に胸を膨らませ、東京にて新入社員教育を受けていた。
高橋と荒川の運命的出会いはその時であった。
初対面の二人は講師に無理やり向き合わされ腰から45度曲げにこっとしながら「おはようございます」と言う、
つらい訓練を受けさせられたのであった。
その後、長岡に移動した現場での新入社員研修では、
毎日鬼教官のもと油まみれになりながらの過酷な労働が待っていた。
そんな彼らの唯一の安らぎが「早川屋」での夕餉と一日の辛い事を忘れるためのその後の酒盛りであった。
始めは、ナオンの話やお互いの趣味、音楽談義をしていたが、
その後「早川屋」のリビングルーム(!?)に置かれていた唯一の楽器ピアノ
(当時中学生?の娘さんが習っていた)に加え、ビールのかん、酒瓶、コップ等、
身近な音の出る物を使いながらの即興ジャム・セッション(絶叫大会)が毎晩開かれるようになった。

今思えば、この時が後の荒川バンドにつながったと思える、
つらいながらもとても貴重な人生のひと時であった。

この後、各人各部署に配属になりながらも親交が続いていたある日、
研也のアメリカ転勤と言うショッキングな出来事がおきたが、
その間に治ちゃん、初期ドラマーのカルロス一丸との出会いがあった。
この話はまた違う機会に紹介しようと思う。

荒川バンド創世記秘話(その2)

という事で、治ちゃんとの出会いについて紹介したい。

1989年ストーンズ・ファンとしては夢のようなニュースが飛び込んできた。
この年ニューアルバム「スティール・ウィールズ」が店頭に並び、
その夏からフィラデルフィアのベテランズ・スタジアムを皮切りに、全米30箇所を回るツアーが開始され、
その後ワールド・ツアーに出かけ、何と日本でもコンサートが行われると言う物だった。
12月21日つけのスポーツ紙では
12月20日に1990年の2月14日から27日に9コンサートが東京ドームで行われると言う発表があった事、
入国ビザを法務省で審査中で本当に来日するのか一抹の不安があることなどが報道されていた。
当時、研也は会社の厳命によりヒューストン勤務をしており、ヒューストンも公演地の一つとなっており、
我愚妹も友達とお邪魔し楽しんできたということもあった。

このような世の中ストーンズ一色の雰囲気のなかで、治ちゃんとの衝撃的出会いがあった。
その前からそんな人いるなと言う程度だったある日、
某大沼氏より、ストーンズファンがいて、彼もコンサートに行くらしいとの情報を仕入れ、
まだ一言も話した事の無い彼のところへ即飛んで行き
「荒川と言います。ところでストーンズ好きなんすか?」と声をかけたのでした
(「んっ、これってなんかナンパ?」と自問自答したのを覚えています)。
それがオサム・伊藤だったのです。
それからすぐに嫌がるオサム氏を引っ張り居酒屋に行き音楽談義に(勝手に)花を咲かした所、
当時聞いていたアフリカ系ポップスや民族系音楽等音楽趣味が共通している事が判明し、
ますます荒川はオサム氏にのめりこんでいきました。
その中でストーンズに対する熱い心、またバンド経験者(現真っ黒けボックスの一員)との事を知るにつけ
「研也が日本に帰ってきたら何か面白い事ができそうだ。
絶対二人を引き合わせるぞ」と言う気持ちが強くなり、
その後研也帰国と同時に紹介しバンドをやろうと言う事になり、「荒川バンド」が誕生したのでした。

さて、バンドをやるにもドラム(当時治ちゃんはドラマーだった(今も))と
ギター小僧と宴会係だけでは何も出来るはずもなく、
他のメンバーに対するナンパ大作戦が展開するわけだが、
この間のことについては10分ほどの休憩を入れてから再び述べる事としたい。