真冬の夜中。
外の空気が一番張り詰めるこの時間に、桃夜は近くのコンビニのレジの前にいた。レジの前といっても、彼はカウンターの内側にいる役で、お客の少ない時間帯を持て余していた。
暖房が効いた店内は、有線のラジオが流れていて、好きな歌手の歌が立て続けに流れた。嬉しそうに目を細めながら、おでんのケースにお湯を足した。前の時間の人たちがやり残した伝票の整理も、一通り片付きつつある。売れ残りの雑誌を片付けたら、掃除でもしようかとぼんやり考える。まだまだ夜は長い。
お客が居ないのをいいことに、カウンターの後ろの窓から空を見た。ブラインドの隙間から、店内の光がガラスに反射しないよう、顔を近づけて息を止める。熱い息はガラスをすぐに曇らせてしまうのだ。
空は漆黒で、星はあまり見えなかったが、月だけが煌々と照っていた。
桃夜は夜が好きだった。それに静かな場所も好きだ。
店内には好きな歌手の歌が流れていて、お客も居ない。ただいま深夜二時過ぎ。しばらくは誰も来ないだろう。
外は暗く静まりかえっている。明るいのはこのコンビにだけだ。
空気さえもキンと張っていて、空に向かって弓を射れば、どこまでも飛んでいきそうなくらい。
月が自分の身を案じてか、雲に隠れた。うっすらと月の光が漏れだして、雲の縁が薄紫色に変わる。「桃夜だ」と自分で思った。お腹の中から広がる浮遊感をぐっと飲みこむと、彼はカウンターに向き直った。
知っているだろうか。
人は月からきたのだ。
月から海へ、海から陸へ。
月はすっかり雲も晴れて、また煌々と光りはじめている。押さえこんでいた浮遊感はすっかり治まってしまい、桃夜はそっけなくカウンターから離れた。
その時、見計らったように店の来客を告げるチャイムが響いた。入ってきたのは桃夜の知人の日野元だ。桃夜に軽く手を振って、彼は笑った。
おしゃれだかどうだかわからないボサボサの頭。銀縁眼鏡。色素の薄い肌は、外の寒さのせいか頬と鼻だけうっすら赤くて、漫画に出てくるキャラクターみたいだった。
「日野かぁ。お前、〆切が近いんだろう。大丈夫か?」
「大丈夫だよ、だって寝ないから。」
「ああ、そう。」
日野は高校には進学せず、持ち合わせた文才と不眠症というコンプレックスさえ利用して、小説家としてしたたかに暮らしている。中学のときは同じクラスにもなったが、お互いそんなに親しくはなかった。むしろ、あの頃の日野は常にイライラしていて、学校もよく休んでいた。
しかし、中学を卒業し、深夜のコンビニで再びで出会ったときは、珍しいほど意気投合した。不思議だったが、それはたぶん、日野が落ち着いたからだろうと桃夜は思っている。
それから二人は時々このコンビニで言葉を交わすようになった。気晴らしに日野が桃夜を一方的に訪ねるだけの、浅い付き合いだったが。
雲がゆっくり流れていく。
それと同じように、時間もゆっくりと、しかし確実に流れているのだ。
「外は寒かったか?」
桃夜は尋ねた。日野は眉毛を軽く上げて、眼鏡の奥で目を細める。
「そりゃあ寒いでしょ。なんたって冬だもん。冬だし、夜だし、風も強いし。」
「風も強い、か…、そっか。」
日野のそっけない応答に、更にそっけなく桃夜は相槌を打つ。そんな桃夜の別段変わらない態度に、日野の肩の力はようやく抜けていく。意味のない会話を繰り返しながら、ここ何日かぶりの爆笑を得て、日野は少しご機嫌だ。
感じのいい歌声が店内に響く。それは店の中に留まり、軽やかに渦巻くだけ。もしも外に漏れ出すことが出来たなら、街中に響くのではないかと思う。
しかし、楽しい空気とは裏腹に桃夜の頭の中は低迷気味だ。思考もネガティヴになりがちで、こんな所に有線で引っ張ってこられて、それしかないと思って生きているように感じられた。
自分はどうだろう。なんの因果か地球に生まれて、“あの”浮遊感に気がつかない振りをして死んでいくのか。そんな思考が頭の隅に付いてまわる。
「桃夜?」
「あ? なんだよ。どうかした?」
「いや、なんでもない。疲れたのかなって思って。」
少し気分が晴れた。
「まぁねー。接客業はたいへんだよ。」
「こんな夜中に、客なんかこないでしょ。」
「うるさい。減らず口叩くと、今度から接客してやらんぞ!」
「どうもー。」
宴もたけなわ。時間だけが刻々と過ぎて、日野は「ヨーグルトを買いにきた」と言ったとおリに、それだけそっとレジに置いた。
「他にも買えよ。」
「やだね。言ったでしょ、ヨーグルト買いにきたって。
」
袋を受け取りながら日野はそっけなく言う。
「少しは店の売上に貢献しろ。」
「関係ないね。」
「お前の秘密をあの娘にばらす。」
あの娘とは、仕立千尋のことだ。日野の通っている精神病院の一人娘で、毎週日野の家に遊びに来る小学生だ。
「秘密なんてないです。」
と日野は言ったが、キシリトールガムをそっとレジに置いた。
「なんか知られたくない秘密でもあるの?」
「桃夜が買えって言ったんでしょ。」
「秘密かぁ。どんな秘密だろう。」
「だから、ないって。」
日野はお釣りを受け取りながら、苦笑いで答えた。本当はいくつかあるけれど、秘密がない人なんていないと勝手に結論付けて、すばやく話を切り替える。
「桃夜は、なんか秘密隠してるんじゃないの?」
日野の言葉に、腹の中であの浮遊感がざわめく。
「なんで?」
「・・・秘密がない人なんて、いないんじゃないの?」
気付かれていたわけではないと、桃夜は少し安心した。だが、一度煽られた不安は、なかなか消えてはくれない。じっと日野の目を見る。すると、相手も目に怯えたような光を放っていることに気が付いた。
不意に、何もかもを打ち明けたい気分に駆られたが、ぐっとこらえた。その途端、日野は少し体を震わせた。向こうもまた、何か言われるのではないかと身構えていたのだろう。
お互い、何をそんなに隠しているのか。たぶん求めているものは、二人の間にはない。こんな非現実的な問題を慰めあえるような境遇を、お互い抱え込んでいるとは、このとき想像すらしていなかった。
それでも、見せてあげるよ、と桃夜はレジの下においてある小さいビニール袋を取り出した。
ふうっと息を吹き込み,すぐさま口元を縛り上げる。優しく手のひらで抱えていると,その小さなビニール袋は,彼の手からゆっくり上昇しはじめた。
浮いた,のだ。
ただのビニール袋がゆっくり桃夜の手を離れて,天井へとその距離を詰めて行く。
「……どうして?」
日野もさすがに驚いた様子で,そのまま桃夜と目を合わせたが,彼は無邪気に笑っただけだった。そして,軽く目線を落とすと,「変だと思う?」と訊いた。
日野はなにも言えなかったけれども,フルフルと首を振った。そして,静かに深呼吸をして、
「驚いた。でも、気持ち悪いとかそういうのはない…。」
と,ゆっくりと言葉を選んで話した。「自分も,一種,神憑り的な生活をしているから。」
そう言うと,また桃夜と目が合った。今度は普通に笑っていた。日野は少しだけ救われたような気分になった。まあ,ほんの少しだけだけれども。
気まずい沈黙が流れたが、普段と同じように日野は帰っていった。桃夜はぼんやりとそれを見送った。浮かんでいたビニール袋は,まだ落ちてくる様子すらない。天井にしっかりと張りついているように。
話の流れ上,無理には言わなかったが,桃夜は心を決めていた。
寂しいような,切ないような感情が,腹の中の浮遊感と一緒にグルグルとうずまいていた。日野の姿が見えなくなるまで,瞬きはしないでおこう。だんだんと日野がただの藍色の影になるのを見て,彼はそっと呟いた。
「良かった,普通に笑えて。」
そのまま桃夜のバイトが終わるまで客は来なかった。
そして桃夜はバイトを辞めた。日野がそのことを知ったのは,あの夜からちょうど1週間が経った今夜のことだった。新しい店員を横目で見ながら,会計を済ませて店を出る。夜空を見上げると月が出ていた。それは大きな満月で,日野はひどく胸騒ぎがした。
なぜだかイライラしてきて,息を切らせてアパートまで走った。アパートの前に着いてもそのイライラはおさまらず,前の空き地に無造作に詰まれた不法投棄物を思いきり蹴った。普段よりも音をたてて階段を上り,ドアを乱暴に開けるとイライラは頂点に達し,コンビニで買った夜食のパンとおにぎりの入った袋を壁に投げつけた。
「くそ!!」
息を吸うのも苦しくて玄関に膝をついた。呼吸が荒かった。鳩時計が三回鳴った。
潮の満ち干きは月の引力によって起こる現象なんだってさ。
不意に思い出した言葉に,ハッと息を飲む。心臓がばくばくと音を立ててせかす。体中から力が抜けて行くのを感じた。急に不安になって、両手を合わせるように握りしめると、いつもと違う厚ぼったい感触が返ってきた。それはまるで自分が自分でないような。
部屋の中に脱ぎ散らかしてあったニット帽を拾い、耳まで深くかぶった。していたマフラーを鼻までたくし上げ、手袋をはめた。一番ごついジャケットに着替えると、戸惑いながらも自転車の鍵を手に取った。
(こんなの、ただの予感だ。)
だけれども,無視するのが恐かった。
階段を降りて、自転車のチェーンを外す。震える手でハンドルを握り,重いペダルを踏みこむ。ママチャリはゆっくりと進み始めた。
目的地は,海。
海沿いの道路を全速力で走る。市場に向かうトラックが後ろから何台も追い抜いていく。海からの風をもろに受けて,日野の体は冷えていた。耳が痛い。ちぎれそうだ。手はかじかんで,ブレーキに指がうまく掛からない。ハンドルを握る力もどんどん落ちている。
道路の脇に規則正しく並んだ電灯が,奇妙なリズムで日野を照らす。波の音は風の音に打ち消されて全く聞こえなかった。
遠くに、砂浜に降りるためのコンクリートの階段が見えた。海岸が近くなってか、アスファルトの上には砂が薄く積もっていた。ゆるいカーブをまがりきれば階段,そう思った途端、自転車の後輪が砂にさらわれた。ブレーキが効かない。バランスを崩した日野は派手に転んだ。
軽く意識が飛んだようだ。ただ,防寒具がクッションの役割をしてくれて、そこまで痛い思いをしなくてすんだ。ゆっくりとした動作で体を起こすと肩を押さえながら砂浜に下りる。
イライラの原因は不安だった。桃夜の意味深な言葉と不可思議な現象。いいことって何だ。それは誰にとっていいことなの? 本当に君にとってなの,桃夜?
(だけど,ここで何かが起きるという確証はない。)
黒い海が全てをのみこむようにうねる。波打ち際まで進み出ると,その波間にじっと目を凝らす。何かが見えたような気がした。それは静かに波にのまれ沈んでいく。再び姿を見せたそれは,ただの流木のようなものであった。日野はホッと息をついたが,またすぐに波間に目を凝らす。
「連れて行くなよ……。」
そんな呟きは波の音にかき消された。風が一際強く吹き,波が荒れ,不意に見上げた空高くに,凧のように舞いあがった桃夜がいた。信じられない光景に,日野は目をむいた。
桃夜は,風の浮力をその体で受けとめ,いつの日かに見せたあの奇跡を自分に起こしている。両手を広げ,規則性のない飛び方をしながらどんどん高度を上げていく。
「桃夜!」
日野は叫んだ。だが,どんなに声を振り絞っても彼に届かない。それでもヤケクソのように叫びつづけた。
「桃夜! 桃夜!!」
風が日野を鬱陶しそうに押しやろうとする。びゅうびゅうと威力がますます増している。咽喉の痛みを感じながら,日野は必死に叫んだ。
山には山の,川には川の,釜戸には釜戸の神様がいるのならば――。
「月の女神が奇跡を起こしたっていいでしょ! 絶世の美女ならこの風くらい止めて見せろ!」
月が色白く光ったような気がした。その瞬間,どこからか飛んできた小石が、すこーんと日野の頭部を直撃し,風が止んだ。一瞬の奇跡にすかさず叫ぶ。
「桃夜ー!」
声が届いた。驚いて振りかえった桃夜はバランスを崩し,また吹き始めた風にたたみ込まれるようにして海に落ちた。
気がつくと,桃夜は毛布を被ってストーブの前に横たわっていた。ちくたくちくたく時計の音がうるさい。手はジンジンとしびれていて,うまく起きあがれずにもぞもぞしているとバシッと背中を叩かれた。振りかえると,白い顔をしてがたがた震えながらも,ものすごい怒りのオーラをまとった,今までに見たこともない日野を見た。カチカチと歯を鳴らしながら,日野は瞬きすらしない。じっと桃夜の目を見たまま,眉間に深いしわを刻んでいる。
「日野…。」
恐る恐る桃夜は声を掛けた。
「あの,眼鏡はどうした?」
「海の底だ!」
そう叫ぶと日野は,力の入らない腕を懸命に動かしながら桃夜を殴った。拳もうまく握れないから,叩いているようだった。叩きながらも,怒髪天を突くと言った感じか。青筋を立てながら,こんなに大きな声を出した日野を驚きの目で見つめる。
「何をするつもりだったの、月にでも行くつもりか!」
「……。」
「ふざけるな! お前はただ,今の不満から逃げただけだ!」
「……手厳しいね。」
「当ったり前だ! 自分だけで解決しようとして,先入観に囚われて、それで…。」
「…うん。最悪の場合,そうなると予想していた。」
「バカ。どうして自分をそのまま認められないの。普通でいることがそんなに凄いのか? 自分を隠して嘘ついて。だったら周りの人から離れても,一人でいる方がマシだ。」
「迷惑を掛けたくなかったんだよ。」
「それじゃあ,桃夜が辛すぎるじゃないか…。」
それっきり日野は黙った。よく見ると日野の髪もしっとりと濡れていて,自分がどうやって助かったのか、今更ながら理解した。
「日野,ありがとね。」
「……。もう,いいよ。もっと寝てなさい。」
そう言うと,桃夜の体に毛布を掛けなおし,拗ねたようにそっぽを向いてしまった。
「日野は寝なくて良いのか?」
「僕はね,1週間に6時間しか寝ないんだよ。人と少し変わっているのは,桃夜だけでないっていうか?」
「…コギャル?」
寝るのは止めにした。二人でコンビニまで買い物に出かけた。
日野のアパートから出て暫く歩くとパン屋がある。まだ,当然開いてはいないが,中からは良い匂いがした。
二人とも無言だったが,先程よりずっとムードは和らいでいる。良かった,と桃夜は思った。バイトを辞める直前の,桃夜のあの疲れた様子に日野は気がついてくれた。彼がいなければ,自分はきっとダメになっていたかもしれない。
逃げるな,という言葉が今では素直に聞き入れられる。この少し手厳しい一言は,自分を慰める言葉よりも何倍も強く響いた。自分に今一番必要な言葉は,これなのかもしれない。
「偶然かもしれないけれども…。」
口を開いた桃夜を日野が見やる。
「僕が一番欲しかった言葉でなくて,僕に一番必要な言葉をくれて,どうも,アリガトな。」
日野の表情が一変して晴れやかになった。破顔一笑。
素直な心がどんなに綺麗かを,太陽が照らすかのように朝日が顔を出した。
まだ完全に吹っ切れたわけではないが,この借りはどうやら大きいようだ。桃夜は大きく伸びをすると,豪快な欠伸をした。
「あ、そうそう、これ。」
目を擦っていた彼の目の前に、日野が拳を差し出す。反射的に手のひらを出すと、厚ぼったい、薄茶色をした土の塊のようなものをその上に落とした。
「なにこれ?」
「月の石。」
ふふふ、と日野は顔をそむけて小さく笑った。唖然として見返す桃夜を置き去りにして、歩きながら平然と呟く。
「ヤバイね,惚れちゃいそうだよ。」