〓聖者の行進〓

 真夜中、枕元においたケータイがけたたましく鳴って飛び起きた。
音楽は「聖者の行進」。
 絶対に鳴るはずのない音楽だった。青白い液晶画面に映し出された数字の羅列なんて見ても、なにも思い出せやしない。自分の中でそれはずいぶんと風化してしまったようだ。
「……もしもし?」
「もしもし? ミキちゃん? 今さーバイトがようやく終わってー…」
しばらくして間違いに気づいた相手は、若い声に似合わず丁寧に詫びを入れて電話を切った。真夜中の2時に起こされた私は、笑いがこみ上げてきた。
 こんな遅い時間までバイトをして、そのミキちゃんとやらに何を買ってあげるつもりだろうか。指輪かな? 指輪はやめたほうが良い。指輪は、トールキンに捨てられてしまうから。
 それにしても、どうしてこの着信音が鳴ったのだろうか。悲しいという気持ちよりも、今は懐かしくて、そしてなんだか笑える。好きとか嫌いとか、そんな言葉で一喜一憂したあの頃、私は前しか向いていなかった。
 昔、とある人の着信音に設定していた「聖者の行進」が、今さらその陽気な音楽を奏でた理由は、意外とすぐに分かった。簡単だ。単なる自分の設定ミス。ほとんど鳴ることのないケータイは、昼間はマナーモードに設定されていて、夜だけ設定を解除される。それも目覚まし代わりに音を鳴らすためだけに。だから今までまるで気が付いていなかっただけだった。
「なーんだ。」
 問題も解決し再びベッドに仰向けになった今、妙な気持ちが胸の内に膨らみつつあった。
 おでこをポリポリと掻いて、天井を仰ぐ。どうしてだろう、このまま眠ってしまうのは惜しかった。
 部屋を出て、ダイニングキッチンに向かうと、真っ暗な闇の中に、隣の部屋から光が漏れ出してきている。グラスにウーロン茶を注ぎ、部屋の扉を軽くノックした。
「まだ寝てなかったの。」
キャスター付の椅子に片膝を立てて、健二は私にそう言った。そして、茶の入ったグラスを見ると、犬みたいな目を向けて手を伸ばす。自分より3センチ背の低いこの可愛い彼氏に、私は笑顔を向けた。ニヤニヤと笑う私からグラスを受け取った健二は、苦笑いで訊いた。
「なにか、楽しいことでもあったの?」
そこで私はことの顛末を全て話した。
「へえ、初恋ね。俺はどれが初恋だか未だにわからないけどな。」
「そう? 一番初めに好きになった子のこと覚えてないの?」
「覚えているよ。だけど幼稚園だったし。初めて告白したのは中学校だろ、初めて付き合ったのが大学だから。」
「あー、幼稚園はノーカウントだね。」
 私は中学校だった。同じ部活の先輩で、特に強かったわけではないけれど、面倒見のいい優しい人だった。
 そんな思い出に浸っていると、健二が罰の悪そうな顔をして私を覗き込んできた。なに、と目で返す。
「初恋の人、どんな人?」
「えー、自分は言わないで私には訊くわけだ。」
意地悪にそう聞き返すと、困ったように笑って、別に話したくないならいいけれど、と言い訳めいたものをこぼして、エンターキーを気前良くポンッと叩いた。
 男のくせに細くて綺麗な指がキーボードをリズム良く押していく。私なんて指は太いし、ブラインドタッチは我流だし、同じ動作をしてもきっと見苦しいものになるなあ、と頭の隅で思った。
 さっきの会話なんてなかったかのように、健二はもう画面を覗き込んでいる。しばらく、といってもほんの五秒ほどだが、私はグラス片手にボケっと突っ立っていた。やることがなくて、そろそろお暇しようかとゆっくり後ろに向き直ったとき、突然誰かが私にささやいた。

  ずっと。

それは一瞬の出来事だったが、その間、健二が叩くキーボードの音も、アパートの前を走る自動車の音も、その一切が消えた。その声は、他の何から何までをなぎ払って、私の耳に届いた。ささやくようだが、決して声を張り上げたわけではなく、耳の奥のほうにこだまするかのような、優しく、はっきり言って耳障りな声。
 楽しかった気分が嘘のように冷めていくのが分かった。それでも私は怒りがこみ上げてくるでもなく、ただ脱力しただけで、動作に何の影響もきたすことなく、そのまま左右の足をいつものように交互に動かす。その間にも、耳の奥であの人がささやく。

 ずっと――、   一緒に――。

「あれ、もう行っちゃうの?」
健二が声をかけた。おかげで私は一番聞きたくなかった言葉から逃れることが出来た。やっぱり貴方は頼りになる。
「邪魔しちゃ悪いかなと思って。」
「そんなことないのに。仕事飽きちゃった。なんか話さない?」
でわ、とウーロン茶のボトルを冷蔵庫から引っ張り出してきて、空になったグラスに注ぐ。職業柄、シェイカーからグラスに酒を注ぐときのように、丁寧に静かにやった。注ぎ終えて、キャップを閉めていると嬉しそうに健二が上を向く。まるで、上手だねと目が語っているかのようだった。ほんの少し誇らしい気分になって、また少し恥ずかしくも思えて、片方の眉を上に上げるように苦笑いをした。
 そういえば、健二とはじめて会ったのはいつだっただろう。
 どうしていま一緒にここにいるのだろう。
 はじめて会ったときのことも、はじめて言葉を交えたときのことも、朧ながらにしっかり覚えてはいるが、どれが本当のはじめてなのかが未だに分からない。
 はじめて君を見たのは、君がお店から出るときだった気がする。
 はじめて君と話したのは注文を受けたあの時だった気がする。
 はじめて挨拶したのは君が暇そうに一人でカウンターに座っていたときのような気もするし、はじめてプライベートな話をしたのはそれからしばらくたってからのことだった。
 はじめてはいつも曖昧だ。
 そしてそれを思い出そうとしている今だって、全てを完璧に思い出せているわけではないだろう。きっと自分の都合のいいように作り変えている。過去とは自分のさじ加減で楽しくも輝いても、または悲しくも思えるものだ。
 だから、と私は心のうちで言い訳をした。
 私が聞いたさっきの声は幻だ。
 電話を待ち続けたのも幻だ。
 懐かしい気持ちも幻だし、ずっと一緒にいようという言葉も幻だった。
 過去は全て行ってしまった。
聖者の行進につられて一生懸命足踏みをしていた昔の私は、それでも小さく振り返って、全てが嘘なわけではないよ、と釘をさした。それから片手を上げて、キザったらしくサヨナラのポーズをとった。だからだろうか、記憶の中のはじめてのサヨナラは、少し苛立たしく、少し懐かしい。

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とあるお題をいただいたので、柄にもなく書いてみました。
はじめてのさよならは切ないねーという内容だったのですが、まあこんなものでしょうか。
書いておいてなんですが、青人は過去のことについてあれこれ思いを馳せるのはあまり好きでないです。
やっぱり、今が一番でしょう。
典型的な「住めば都」タイプなのです。
悪いタイプではないと思いたい。前向きなのです。
(と言い訳しておこう)←前向きじゃないなあ。(苦笑)
 

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