ちくたくと重なり響く時計の音。
それは不協和音の如く、しかしただ静かで、その音の重なりに時間の距離を感じた。
イメージで考えてみて。
それはハーモニィと言うよりもシンフォニィ。
三次元よりも四次元。
風よりも空気。
部屋中に広がる。
時計は全部で24個あった。数には特に意味はない。
そのほとんどが置時計で占められていたが、柱には大きさは違う鳩時計が二つも掛かっていた。多少大きい方の鳩時計はゼンマイ式で、数ある時計の中で、唯一正確な時を刻んでいる。
では、他の時計は一体なにか。それは彼の小さな自己満足。
彼は時計に占領された部屋の中にいた。椅子に座って本を読んでいる。傍らには小さい一本足のテーブルが置いてあって、その上には灰皿と文庫本が四冊、そして時計が三つあった。
奥の窓のカーテンは開いていて、部屋は左半分だけ明るい。右半分の暗闇には、やはり無数の時計がちくたくと自分勝手に呟き、音にまぎれてパイプベッドがひっそりと横たわっていた。
黒いパイプにグレイのベッドカヴァー。
音だけでなく、暗闇にもまぎれて。
呼び鈴も鳴らさず部屋の中に上がっていくと、本を読んでいた日野元が、ゆっくりとした動作で顔を上げた。
「なぁに? また来たの?」
「新しい本を買ってきたの。」
「またぁ? 君が選んだ本て、どれも似たり寄ったりで、作者は一人よがりだし、つまんないんだよね。」
辛辣な言葉を浴びせられた仕立千尋は、買ってきた本の袋を胸の前で抱えて、なにも言わずに下を向き、悲しそうに軽く唇をかんだ。なんというか、自分のした行為を反省しているような仕種で、そこに日野元に対する怒りのようなものは一切ない。
胸に抱えられていた本は、手提げの紙袋に入っていた。またこんなに読ませる気だったのだろうかと日野は眼鏡の奥で目を軽く細めたが、彼女の落ち込みようを見て、そのことについては触れなかった。
「これも持ってきたの。」
千尋はその場の雰囲気に言葉を十分に選びながら、紙袋を広げ、その中からオジギソウを取り出した。黒いビニールの苗床に刺さったままのオジギソウは、千尋が取り出す際に色々な所に触れたらしく、葉はおずおずと閉じていた。
「どうしたの、これ?」
「理科の実験で育てていたの。」
千尋は学校の理科の授業でオジギソウを育てていたのだ。
日野もかつて授業で育てた。そう、あのオジギソウはどうしてしまったのだろう。随分お気に入りだったのに。冬が来て、霜にやられて死んでしまったのか。
思い出せなかった。
「ここにおいても良い?」
千尋は日野の目の前に苗床を差し出した。葉はまだ開いていない。日野はテーブルの上の灰皿を文庫本の上に重ねた。そして、そこに出来たスペースを指した。
「ここにおいて。」
苗床を置こうとした千尋に「あ,やっぱり、ちょっと待って。」と声をかけた。
文庫本の上の灰皿に入っていた飴玉を手のひらにあけ、「これを受け皿にしていいよ。」と、ステンレスの安そうなそれを千尋に渡した。街のくじ引きか何かで貰ったのだ。日野は煙草は吸わないので、ずっと使うこともなく、持て余しているうちにいつの間にか飴玉入れになっていた。
千尋はそれを受け取ると、苗床を持ったまま洗面所へ向かっていった。ついでに手も洗ってきてくれるといい、と日野は思う。そしてまた、読みかけの本に目をやった。これも千尋が持ってきた本だ。
人の好みによるのかもしれないが、とてもつまらなく、こんな内容によくも570円などという値段が付けられるものだと内心うんざりした。ただ、それでも面白いと思って買ってくる人がいるから、とりあえずは読んであげている。
本は嫌いだ。好きな本は本当に少ない。
人に勧められて読んだ本は嫌いだ。
『世界中が絶賛』などという帯がついた本も嫌いだ。
すべてが高圧的に感じる。
千尋が戻ってきた。
オジギソウをテーブルにのせると、日野の読んでいる本を見た。
「どう? これ面白い?」
「千尋は、こういうのが好きなんだ?」
「うん。だってレオンがかっこいい。」
「ふーん…。」
レオンが出てくるその本は、たぶん分類するとジュニア小説で、ファンタジーと思われる内容だった。詳しいことについては一切省略するが、どうしても主人公が気に入らなかった。中途半端な正義感に煮えたぎっていて、えらそうなことばかり言う。大人になったからつまらなく感じるのだろうか。いや、本当に大人ならば、こんな些細なことで腹を立てたりはしないだろう。
「なんというか、よくわからない話だね…。」
「そう? 結構人気があるのにな。」
「人の価値観は随分ずれがあるからね。千尋とも、微妙にずれているのかもしれないね。」
栞を挟みなおし、日野はその本を閉じた。鳩時計を見るともう三時をまわっていた。窓から薄いレースのカーテン越しに外を見る。おもての空き地の草が、微かにゆらゆら揺れていた。オジギソウがようやく葉を開き、千尋がそれに気付いて満足そうに微笑んだ。そんな彼女に日野は訊ねる。
「今日はどうするの? 泊まっていくの?」
「そのつもりで来た。」
「そう。ではお父さんにそこの電話で言いなさい。」
「もう言った。明日は学校が休みなんだもん。だからお父さんも知ってるもん。」
千尋は今年で小学5年生になる。日野はこの間、中学を卒業した。しかし、高校には進学していない。
千尋の家は小さな精神病院で、日野は中学二年の秋からそこに通っていた。
不眠症。
彼は1週間にあわせて六時間しか寝ない。月火水木金、土曜日の夜だけ六時間寝て、日、月と続いていく。一番重症の時は、二ヶ月間一睡も出来なかった。世界のどこに、こんな奇病があるんだろう。尋常ではないこの症状に、どこの病院もさじを投げ、最後にやっと拾ってもらったのが仕立精神病院というわけだ。
千尋の父はとても忙しく、千尋の面倒が見られない。母は千尋が小さい時に他界した。日野はうってつけだったのだ。千尋の遊び相手に。院長に頼みこまれた日野は、自分を拾ってくれたことに対して恩を感じ、その使命を引き受けた。
それからというもの、千尋は決まって土曜日の昼頃に日野のアパートにやってきて一泊し、日曜日を遊んで過ごして家に帰って行くという生活を送っていた。
それに、日野は今でも病院に通っていた。
家族はいるが、今は街外れのアパートに独りで住んでいる。
日野家は大きな会社を経営しているため、父はスキャンダルを恐れて半強制的に彼を追い出した。月に十分な仕送りと、静かな場所。母親も病気の看病につかれ、少しノイローゼ気味になってしまった。自分が外に出るのに充分な理由がある。母の病気が少しでも治れば良い。
人の眠る時間も一人で生きることになった日野は、暇つぶしに小説を書きはじめた。何の気なしに出版社に送ったところ、それが佳作を受賞した。それからというもの、彼にはぽつぽつと仕事の依頼が入るようになる。そしてその頃から、母から手紙が届くようになった。
『一人でいたら淋しいでしょう。なにか動物でも飼ってみてはいかが?』
日野はその手紙が届いて幾日かたったある日、おもての空き地の隅に傷ついた蝙蝠を見つけた。手当てする為に家に連れて帰ったが、すっかり居座られてしまった。今では拾ってきた鳥篭に黒い布をかぶせ、部屋を作ってそこに住まわせている。昼間は寝て、夜になったら篭から出して羽ばたかせてあげるのだ。
日野の長い夜を一緒に過ごす仲間が出来た。その分、昼間の掃除は欠かせなくなったが。
「ぷるしゃ。ぷーちゃん。」
千尋が篭の中をのぞいている。蝙蝠の名前はプルシャン=ブルー。黒に限りなく近い、青い色だ。ビロードのようなその黒い羽は、てらてらと青く光った。しかし、どうにも名前が長すぎて、最近では”ぷーちゃん”と呼ばれている。
千尋が日野の方を見て、思い出したように言った。
「お仕事の方は進んでいますか?」
「ばっちりです。」
なにしろ日野は寝ないから、人より〆切が長い。編集者にも自分の不眠症については一切言っていないので、それが縮まる危険性もない。
本は嫌いだが書くのは好きだ。矛盾していると思う。
人の話を聞くのは嫌いだが、人にものを話すのは苦じゃない。そのことに、感覚的に似ている。
「千尋,今日の夕食はなにが良い?」
「ハンバーグ。」
「そんなものは作れません。今日のご飯はコロッケです。」
「では、私に聞かないで下さい。」
「どうもー。」
少し早いが、夕食の準備をしよう。
日野はジャガイモををよく洗って茹ではじめた。千尋に、いつも手の込んだ食事を作るのが、誰にも言わないが彼のモットーだ。千尋も手伝い、二人で並んで夕食を作った。
「電気消すよ。」
部屋が暗くなる。この日はプルシャン=ブルーも篭に閉じ込められたままだ。十二時過ぎて、2人はベッドにもぐりこんだ。
パイプベッドは何処かのネジが緩んでいて、寝返りを打つたび軋んだ。
「最近よく眠れる?」
「どうだろう。前よりかはマシだな。」
「…よかったね。」
「…うん。」
日野は天井を見た。目が段々慣れてきて、うっすらと周りの物も見えはじめる。
「時計、また増えたの?」
「二つだけだよ…。」
不眠症になってから、壊れた時計を拾う癖がついた。あの小さい方の壊れた鳩時計だって、プルシャン=ブルーの鳥篭だって、アパート前の空き地から拾ってきた。そこには色々な粗大ゴミが乱雑に詰まれていた。
精神的なものだが、部屋にはちまちまと物があったほうが、不思議と落ち着いた。広い部屋は寂しすぎる。そして静かな部屋は、静寂が鼓膜に突き刺さる。時計の音は、日野にとって平穏な生活を送る為に必要不可欠なのだ。
精神病院へ通っているのは、不眠症のせいだけでない。
不眠症のおかげで、彼はひどく不安定だった。
突然手渡された途方もない自由時間。
すべてが静まり返る夜,その時間を眠る事も出来ない。
自分一人だけ時間の狭間に取り残されたような錯覚。
不安と恐怖。
それは日野を必要以上に攻撃的にして、母は病み、父は金を手渡した。
兄は、仲の良かった兄は、“ごめんな”と涙を流し、そして日野は一人になった。
しかし、兄は時計をくれた。ゼンマイ式の鳩時計。
「元だけが,時間に取り残されたように思わないために。」
時計の音は時間が過ぎる音。時間はいつも平等に流れていて、眠れぬ夜も、眠れる夜も、一人のときも、二人のときも。自分は一人ではないと思いたかったあの日も、自分が普通の人にように眠れなかったあの夜も。
1年前、夏の初めの暑いあの日、必要とされていると思いたいと日野は言った。
「元くん…。」
「なぁに?」
幸せなんてないとも言った。ばかばかしいと。でも、一番幸せを夢見ていたのは日野。千尋は今そう思っている。
「お母さん元気?」
「元気だよ。そうね…、プーちゃんに対抗してインコを買ったんだって。ショッキングピンクの。信じらんない。ヤバイよ、母さん。」
「名前は?」
「ピンクのピーちゃん。そこまで対抗する? パクってるし、名前。」
いつか日野に言おうと思う。何にもない今こそが、幸せだと。それとも、もう気付いているだろうか。
「あさって、千尋の誕生日なの。」
「え、知らなかった…。そうか、結構長いこと一緒にいたけど、千尋のこと何にも知らないんだね。じゃあ、その日はプレゼントを買ってあげよう。」
「プレゼントはいらない。」
「どうして?」
「プレゼントはいらないから、千尋を元くんのお嫁さんにして下さい。」
「えっ・・・!!?」
「ウソだよ。」
「……ムカツク…!」
それからすぐに千尋は寝てしまった。日野はまだ天井を見ている。
夜は元を一人にしたが,その中で色々なことを学んだ。嬉しいことがあるだけが幸せではないということ。当たり前なことや、普通なことが幸せであったりもする事実。日野は千尋を見た。人とは違うことがたくさんあるけれど、それはなんの意味もないこと。
大丈夫、自分は特別不幸でない。
眠れる夜が普通に過ぎていく。鳩時計が二回鳴いた。日野はゆっくり目を閉じると、千尋を抱え込むようにして眠る。
Ordinary Days
なんの変哲もない普通の日々。