●●● Album "CICADA"

〓pool〓

 うだるような暑さ。蝉の声。遠くに見えた逃げ水は、風鈴の声に怯えて消えた。
 開けはなした窓から不意に夏の匂いが入ってくる。多分これはお日様と、学校のプールのクロルカルキ。
 畳に寝転んで見上げた空は、大きな雲がゆっくりと、西から東へ流れて行く。青と白のコントラストが妙にはっきり見えて、思わず手足に力が入った。そのまま、空に落ちていってしまいそうで。

 湯元喜一は、仰向けに寝そべりながら読んでいた文庫本を、顔の上に乗せた。青い空はまぶしい。頭の下に折りたたんである座布団は、首の後ろの熱を蓄えてはじめている。
 仰向けのまま、手探りでうちわを探したが、その手は二、三度うちわに振れただけで掴めそうにもなかった。諦めて、顔を覆う文庫本を座部団の隣りに置くと、体を起こしてうちわに手を伸ばした。横たわっていた畳は、喜一の体温で温まりきっており、またそこに寝る気はしなかった。代わりに、少し離れた壁に寄りかかって、うちわでゆっくりと顔を煽いだ。
「かき氷…。」
自然と口から漏れた独り言に思わぬ反応が返ってきた。
「暑さで頭おかしくなったん?」
突然、頭上から声が聞こえた。聞きなれた声だ。
「さっきから何回も呼んでたんに。居るなら返事してくれいな。」
「ん〜…すま〜ん…。」
「うわ! 謝る気ないんかい。」
いつの間にやらアパートに上がってきた犬養は、東訛りの独特な喋り方で、喜一に悪態をついた。

 高校二年目の夏はやたらと暇だった。
 本当は勉強をすべきなのだろうが、素直にそうすることも出来ず、ただ暑さに頭をやられている振りしかできないでいた。
 インターハイ予選で傷めた肩は、なかなか治りが遅く、また、脱臼癖がつくと後で困るからと、喜一は部活に出させてもらえない。このままどんどん自分が弱くなって、誰からも省みられなくなったらどうしようという不安が、頭の奥底でチラチラと小さな炎のように揺れている。
 その不安を知っているかように、犬養は毎日家に押しかけてくる。喜一は犬養がいるときだけ、自分らしくない軟弱な思考が停止してくれる気がした。
「ああ暑かった。なんか飲み物ある?」
犬養は額の汗をタオルでぬぐいながら言った。
 今日も一段と暑い。少し離れたところに住んでいる犬養は、毎日この暑い中を自転車で20分かけて通っていた。
「冷蔵庫にウーロン茶が入ってるよ。」
喜一は冷蔵庫を指した。犬養が開けると、中にはペットボトルのウーロン茶が入っていた。ペットボトルを流し台に置くと、勝手知ったるといった感じで、食器棚からコップを取り出した。
「コップをお借りしますよ。」
「どうぞ・・・。」
なんとなくぼんやりした喜一を見ながら犬養は言った。
「喜一も飲む?」
ウーロン茶を注ぎながら、それとなく様子を見た。
 いつもの喜一なら、ここですかさず「俺にも。」と言うはずなのに、今日は犬養の声が聞こえていないみたいだ。そう言えば先ほどから、ずっとぼんやりしているようにも感じられる。
「喜一。喜一!」
「え・・・?」
「ウーロン茶飲む?」
「あ、ああ。飲む。注いでくれ。ついでに。はは。」
「うーわー。」
 喜一は相変わらずぼんやりとしている。上手く誤魔化されたような気もするけれど、いまさら訊きづらい。釈然としない気持ちを抱えながらも、とりあえずコップに並々と注がれたウーロン茶を手渡した。
 喜一はうちわをパタパタと煽ぎながら,一気に飲み干した。犬養はペットボトルを冷蔵庫にしまっている。台所からパタンと扉が閉まった音がした。そして、すぐに犬養も喜一の居る部屋に顔を出した。
 座ってウーロン茶を一口飲んだが、先ほどの誤魔化されたような気分が抜けなくて、自然と沈黙が部屋を支配する。
 チリーン…。
 風鈴が鳴った。遠くでカブのエンジン音。蝉の声はいつも絶えることなく聞こえてきて、風がその間をすり抜けるように部屋に入ってくる。喜一は未だ、うちわで煽ぐのを止めないでいた。犬養は飲み終わったコップをちゃぶ台の端に置く。
「あのさぁ、・・・どうしたん?」
犬養は努めて明るく言った。なんか今日は元気ないじゃん。
「そう? 確かに今日は暑いしなぁ。朝から頭がボーっとするんだ。」
「風邪? 何とかはひかないって言うんに。あ、夏風邪は何とかがひくんだった。」
「そしたらうちの学校のやつら、ほとんどがひくじゃねえか。学級閉鎖どころか学園閉鎖だ。・・・別に風邪じゃなくてさ、なんかだるいんだよ。さっきもずっと本読んでたんだけど、昔のことばかり思い出して集中できないんだよな。」
「昔?」 犬養は訊いた。喜一はどこか余裕のあるリラックスした表情で続ける。
「そうだな…。小学校とか、中学時代?」
「なにを思い出すんよ? 夏休みのこと? 部活のこと?」
そう訊いた犬養に、喜一はやはり余裕の表情を崩さず、こう言った。
「初めて好きになった子のこと。」

 ちりんと控えめに鳴った風鈴の音が、部屋に波紋を広げながら拡散していくような気がした。音の波が、ゆっくりと広がってくる圧力で、軽く彼らを押す。そう、余韻が何度も二人を押した。空気が体に当たってくるような重圧感をうけた。
 犬養は喜一を見た。喜一はその視線に気がつかない振りをして、いまだ余裕の笑み。犬養は面白くなくて、顔をしかめて目をそらした。
「ばっかみてー。」
それを聞いた喜一は、やはり余裕の表情だったが、あきらかに嬉しそうな顔をしてみせた。面白そうににやりと笑った後、もう一度話しかけた。
「初めて好きになった子のこと、思い出さない?」
「じじくさーい。」
犬養は大げさに呆れた顔をしたが、喜一はかまわずに続けた。
「なんていうか、夏の匂いがするとさ、あの子のことを不意に思い出すんだ。」
犬養があからさまに嫌味を言った。「気色悪い!」
「プールのクロルカルキの匂い。確か初めてのデートは町営のプールだった。」
犬養は無視した。台所に立って、もう一杯ウーロン茶を注ぐ。
「俺、泳げなくてさ。でもなんていうか、すごく嬉しかった。」
「水着だしネー。」
「なにそれ?」
喜一の苦笑に犬養は眉毛を思いきりつり上げて、そっぽを向いて言った。
「訳わかんねー。なんだオメー。すんげぇ元気じゃん。」
「心配してくれるの?」
「オメーの場合、周りの女が誰も心配してくれないからな。」
「うっわー。感謝していますー。」
「態度で表わしてもらいたいな。」
犬養は手のひらを表に向けて、親指と人差し指で円を作った。お金をせびるジェスチャーを喜一は笑いながらかわした。しかし、笑うのを止めて、首を傾げるとなんだかうつろな表情で呟いた。
「でも,思い出すんだよなぁ・・・。」
 犬養は理解に苦しんだ。喜一が何を言いたいのだか,全く分からなかった。
 昨日までは普通の喜一だったのに。
 どうしたのか。
 何が起こった,彼の身に。
 相変わらずぼんやりしている喜一に、犬養は妙に不安になった。話の内容も自分を不愉快にさせるようなもので、そう言えば、インターフォンで呼んだ時もわざと無視していたのかもしれない。一人でいたかったのかもしれない。
「……どうかした?」
喜一が言った。随分長いこと黙っていたようだった。犬養は慌てて目をそらす。その様子に、喜一は逆に少し驚いた。そのとき不思議と犬養の心情が手に取るように分かった。いや、分かったような気がした。
 そして、気がつくと犬養の手首を掴んでいた。
 二人の息が止まる。
 チリンとまた、風鈴の音。
 喜一は瞬きをしないで犬養を見てくる。目をそらしたかったが、その目はなんだか縋るようで。乾いた彼の口が、声にもならない悲鳴を囁いた。
「怖いんだ……。」

 喜一は、自分がどうしてこんなに感情的になっているのか分からなかった。ただ、今まで気がつかないでいたものが、たがが外れたように溢れ出してくる感覚を抑えられなかった。
 それはまるで鉄砲水。
 喜一をとうに飲みこんで、犬養にまでも迫ってきている。
 そして―――…。

 そしてまた風鈴の音がゆっくり波紋を広げて。


 

 午後の西日が夏の地面をじりじりと焦がす。
 土の中にあるお情け程度の水分が、空気中に蒸発して、吸いこむ空気がいつもよりも重い。
 喜一は無言で手を離す。蜻蛉(トンボ)が窓の手前でこちらの様子をうかがうように一旦止まって、また音もなく飛んでいった。
 犬養は喜一の隣に黙って腰を下ろした。壁にもたれて、向かいのちゃぶ台の上においたコップに光る水滴ばかり見ていた。
「中学の頃はさ、それこそ自分が世界で一番強くなれるって思ってた。」
勉強だってそこそこ出来た、と喜一はつぶやくように話し始めた。犬養は視線を水滴から離さなかったが、小さく相槌を打った。「…うん。」
「でも、今は何だ。肩を脱臼してインターハイにも出られないでいる。中学の頃、俺は別格だった。県で一番強かったし、もっともっと強くなれると思っていた。」
強い風が吹いて、風鈴が叩きつけられるように鳴っている。喜一は思った。ああ,あれではまるで自分みたいだと。
「空手をはじめたのは小学校二年。漫画に影響されて随分没頭したよ。」
不意に目頭が熱くなって、目を大きく開いて天井を見た。相変わらず犬養はコップを睨んでいる。口を一文字にしっかりと結んで。
「中学二年の頃、初めて好きになった子とプールに行った。今でもプールに行くとその時のことを思い出すんだ。笑っちゃうだろ?
そう、あの子、とびきりカワイイ声で言うんだよ。
喜一君が世界で一番強くなってねって。
当たり前のように誇らしく思った。あの時はそうなると信じて疑わなかった。
 中学を卒業して、こっちで寮生活になって、あの子とは自然に連絡が途絶えた。だけど、それでも夏の匂いは、プールの消毒薬の匂いは、昔を思い出して。だから、クロルカルキの匂いを嗅ぐと、…なんか上手く言えないけれど、惨めに思えて。」
喜一の目には涙が溜まっていた。見えていなくても、犬養にはそれがなんとなくわかった。
「もっと強くなれると思っていた。俺の到達地点はこんな所じゃないのに…!」
がっくりとうな垂れた喜一の頬を涙がつたう。
「……人の言葉に惑わされて、囚われてるんよ、喜一は。」
犬養がやっと口をきいた。
「世界で一番強いのは誰だって? そんなん自分に決まってんよ。つまんない女の一言にいつまでもうだうだ言ってさ。」
「……。」
「何がクロルカルキの匂いだ…。
自分のことは自分が動かなきゃ始まらないさ。
いつだって自分が動かなくちゃ始まんないじゃん。
強い誰かが守ってくれてたん? 違うでしょ。
いつだって自分を守れるのは、自分の強さだよ。
自分を動かすことが出来るのが自分だけなら、世界で一番強いのはやっぱ、自分しかいないでしょ。」
過去なんて今いる自分になるためのきっかけだ。
自分がどうしたいかだろ。
「自分はさ、どうなんよ? 喜一。」
 犬養の目は水滴を見つめながらも、どこか真剣で力強かった。
 怒りと、悲しみと、そしてもどかしさが入り混じったようなそんな感情が、犬養の頭の中を渦巻いている。なんだか、悔しくって仕方がなかったのだ。暫くすると悔しさは消え去り、代わりに怒りが沸いてきた。腹立たしくて、犬養は感情を吐き出した。
「大体その女も女だ。世界で一番強くなってね〜だって!
じゃあ、お前がなれ。今すぐ修行しろ。
どうせ自分の得点挙げるためのもんだろが。
あたし、世界一強い男と付き合っているの〜って。
そういう女はプールの底に沈んでろ!」
 怒涛の如く吐き出された犬養の言葉に、喜一は呆気にとられた。すごい、とだけ感じた。いつの間にか涙は止まっていた。憑き物が落ちたように、喜一の心は静かに和(な)いでいた。
 一方、犬養もいまさら自分の吐いた暴言に背筋が凍る思いをしていた。間違ってもあの女はかつての喜一の彼女だ。ゆっくりとした動作で喜一の方へ首をまわす。
 茫然とした表情の喜一。
 肩の力が抜けきった犬養。
 そして沈黙…。



 途端に喜一が笑い出した。
「あははははは! は、か、肩がいてぇ…、くくくく…!」
脱臼した方の肩をもう一方の手で押さえながら、喜一は気が済むまで笑った。
 外は夕焼けで真っ赤だ。その色が反射してかどうか、犬養の顔も真っ赤だった。
「くくく、はは…! そうか、それでいいんだ…ふふふ、あははははは…!」
「……ああ、もうだめだ…。」
犬養は隣りで笑っている喜一を尻目に、真っ赤になりながら顔を手で覆って“またやってしまった”と呟いた。喜一の笑いはおさまらない。
 喜一は笑いながらも思った。
 もし、また今度夏の匂いがしても、今度は犬養を思い出すだろう。いや、思い出したいと思う。
 自分が成長すればするほどに、想い出は変わっていく。
 過去の言葉は喜一を縛っていたのではない。
 ただ、あの頃の自分が気持ちが良いほど前しか見ていなかったから。
 だから今、立ち止まっている自分が鈍って見えた。
 それだけだ。
 もっともっと強くなれる。もっともっと、前に進める。
 笑いつかれて息を整えていた喜一は、犬養の肩に無事なほうの手を回すようにして、抱きしめた。そして一言。
「お前は世界最強だ、ユリ。」
犬養が苦笑いで付け加えた。
「ファイナルウェポンマイハニーって?」

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犬養ユリ(いぬかいゆり)は女の子ですよ。
ちょっと騙されてくれたら嬉しいなあなんて。
で,湯元喜一(ゆもときいち)の彼女なのです。
引っかかってくれたでしょうか??
ここからちょっと謝罪。
「全然“pool”じゃなくてごめんなさい、ひ〜〜〜〜!!」
元歌、知っている人なら絶対思うことですね。
僕にはまだその良さがホントに良く分かるほどの経験もないし、 年も生きてないんですよね。
だから頑張って書いた結果がこれです。
堪忍、堪忍、石は投げないで!(投石禁止)
イマイチ喜一の性格も分かりにくいし、まあ几帳面な感じで。
強いのか弱いのかわかんないや、こいつ。
犬養もね、人物像が頭の中で描けないし。
最悪…かもしれませんね。
ただ個人的に、夏の雰囲気は出たかなと思うので載せてしまいます。
切捨て御免!!

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by Aohito ●●●