Butterfly

この世界の中であたしが安らげる場所があるとしたら、そこはウサギの腕の中だ。

 耳の近くで、ウサギが囁いた。
その声にスタートボタンを押されたみたいに、身体が緊張していくのがわかった。
コンクリートの地面が頼りなく感じる。
手すりに背中を預けて、そっとミュールに手を掛けた。
この夏のはじめに買ったワインレッドの、ちょっと光沢が入ったもの。
踵が高いからか、子供っぽいあたしに似合っていないからか酷く疲れる。
それを脱ぐと、とても楽になった。
ウサギはスニーカーを脱がなかった。
ビル風が、あたしとウサギの髪を乱す。
空は、夏特有の蒼さであたしたちを包んでいた。
 小さな頃、おじいちゃんに頼んで買ってもらった、百色いろ鉛筆にスカイブルーって色があった。
空の、あお。
あの言葉を知った時から、あたしはあの色が好きになった。
 黒いワンピースを着てきたのは、あたしが落ちていく時、まるで死んでしまった黒アゲハみたいに
見えるんじゃないかと思ったから。片方の羽をもがれた蝶々のように。
このビルの屋上から落ちていくあたしは、きっとそう見えるんじゃないかな。
真っ赤なバラの花の上で息絶えてしまった蝶々のように。
カトリックだった祖父は、沢山の花の中でクロスを抱いて眠りについた。
だからあたしも、小さなクロスのペンダントを今日は付けて来たんだ。
朝、鏡を見ながらそれを付ける時、なんだか神妙な気持ちになった。
聖水を頭からかぶって、洗礼を受ける時ってこんな気持ちなのかもしれない。
おじいちゃんの葬儀の時に着たきりのワンピースは、ちょっと樟脳の匂いがした。
手すりにもたれ掛ったままのあたしに、ウサギが言った。
「クリーニング屋のタグが付いてる。」
あたしが慌てて背中に手をまわすと、ウサギがタグを取ってくれた。
ウサギは、あたしより15センチも背が高いし、手も大きい。
ウサギは、あたしより頭がいい。
ウサギは、あたしよりも顔がきれいだ。
ウサギは、あたしのことを「アリス」と呼ぶ。
あたしは、「アリス」じゃないけど、ウサギの前では「アリス」になる。
アリスは、ウサギのことがとても好きだ。
アリスは、ウサギのことを愛している。
あたしも、ウサギのことを愛している。
ウサギも、あたしのことを、アリスのことを愛している。

 ウサギがあたしを抱きしめて、首筋にキスをする。
ウサギの身体越しに、あたしの好きな色が、あたしの好きな空が見える。
大きな入道雲。
空が近い。
だから、夏は好き。
例え触れ合った身体が汗ばんでも。

あたしの本当の名前はマコという。
ウサギの本当の名前はユウカという。
あたしたちは手をつなぐ。
あたしたちはキスをする。
あたしたちは一緒に眠る。
あたしたちは間違っているのかもしれない。
あたしは、おかしいのかもしれない。
ウサギは、壊れているのかもしれない。

 半年前、放課後の図書館の隅で、ウサギを見つけた。
本棚にもたれ掛ってヘッドホンで音楽を聴きながら歌っているウサギ。
彼女の、肩までの髪が窓からこぼれる光に照らされてとてもきれい。
ウサギが歌った。
If you are not in this world, for what purpose do I live?
あなたがこの世にいないのなら、私は何の為に生きるの?

 あの時から、あたしはウサギの後を追って不思議の国に迷い込んだアリスだ。
アリスが飛び込んだ穴は、とても深くて暗い。
時間も、身体も、なんだかフワフワしている。
そこでは、感覚だけがリアル。
ウサギに触れた髪が、肩が、頬がリアル。

 ウサギは、小さな頃に一緒に住んでいた実父から性的虐待を受けた。
彼女は、それから男の人が愛せない。
あたしは、多分、男の人も愛せる。
だけど、今好きなのはウサギだけ。
あたしたちは、間違ってるから。壊れてるから。
だから二人で幸せになれるところへ行くの。
この世界に無いものなんて、どこを探したって無いけど。
だから。せめて、天国に近いこの場所で。
あたしたちは無になる。
二人で一緒に落ちていったら、きっと次は一つのモノとして生まれてこられる。

 遺書は、あたしのバッグの下に置くことにした。
何を書くか、とても迷ったのだけどたった一言「アリガトウ」とだけ書いた。
誰宛てかは決めてない。きっと、読んだ人が都合のいいように解釈してくれる。
それはまるでガラス細工みたいな、脆い夢かもしれないけれど。

 遺書は、あたしのバッグの下に置くことにした。
何を書くか、とても迷ったのだけどたった一言「アリガトウ」とだけ書いた。
誰宛てかは決めてない。きっと、読んだ人が都合のいいように解釈してくれる。
「学校は大騒ぎになるだろうね。」
「家族も。」
「また少女達の心中。」
「受験ノイローゼとか? 」
「学校側にイジメの事実はなかったのですか!? 」
「「キレる十代」とか特集組まれちゃったりして。」
あたしたちは、くすくすと笑いあった。
まるでいつもの放課後みたいだ。と思った。
「別に不満があるわけじゃないのにね。」
ウサギが言った。
生きることと死ぬことの境界線なんてとても曖昧。
「なんとなくだよね。」
あたしも言った。
「ただ、お互い好きで好きでたまらないだけだよね。」
あたしもそうだ。
あたしたちは、お互いを本当に好きで。
あたしは、ウサギが好きで。
ウサギは、あたしを好きで、たまらないだけだ。

一度、ウサギがあたしになぜ「アリス」という名前を付けたのか訪ねたことがある。
ウサギは、躊躇うように、ゆっくりと言った。
「あんただったら、不思議の国の中から本当のあたしを見つけ出してくれるんじゃないかと思ったから。」
大人が、あたしたちの「死」の本当の意味を知ったら馬鹿だと笑うだろうか。

気持ちが悪いと蔑むだろうか。
 五階建てのビルの屋上は、地上何メートルなんだろう。
ウサギと手を繋いで、眼下を見渡す。
あたしたちが育った、地方都市。
上から見ると、結構、緑が多い所だったんだ。
あたしたちも、もうすぐ自然の一部になる。
公園、学校、大きな川。幼い子供、大人、お年寄り。
あたしは、それら一つひとつを記憶するように見ていた。
ウサギも、柵にもたれ掛りながらそうしていた。
まるで、終わっていく世界を慈しむかのように。

 「行こうか」
ウサギが、今度ははっきりとそう言った。
「うん」
躊躇なんかしない。後悔もしない。
ただ、ウサギと繋いでいる手に、少し力が入った。
大丈夫。怖くない。
あたしは、空に溶けるんだ。
あの、大好きなスカイブルーの中に。
ウサギと一緒に。
ワンピースの裾が、下から吹き上げる風に、ちょっとはためく。
ウサギが、あたしの方を向いた。
夏の太陽がウサギの顔に、影と光のコントラストを作る。
今更だけれど「ウサギ」という名前が、色白の彼女にはぴったりだと思った。
柵の向こう側に出たウサギが、あたしに手を差し出す。
あたしは、その手には捕まらず、柵に手をついてウサギにキスをした。
柔らかいくちびるに触れる。
体温の温もり。
ウサギにも伝わってる。
「ありがとうウサギ。あなたに会えてよかった。」
ウサギが、しっかりとあたしの目を見て言った。
「あたしも。」
短いキス。
キスが神聖なものでよかったと心から思った。
そして、あたしは柵に足を掛けて、向こう側に出た。
思ったよりも幅が狭い。
裸足の足の裏が、少し痛い。
蒼い空を見上げる。
ふいに家族のことを思い出した。
おとうさん、おかあさんごめんね。
おじいちゃん。許して。
だけど、ウサギと一緒に行きたいの。
本当に愛している人とだったらいいでしょう?
「あたし、ウサギとだったら死んでもいいな。」
心からそう思う。
ウサギが、もう何も言わずにあたしを強く抱きしめた。
ゆっくり目を閉じる。
死のカウントダウンだ。
あたしは、心の中であのメロディーを思い出していた。
初めて出会った時にウサギが口ずさんでいたあの曲。
あの歌の続きはこうだ。

In order that it may surely find light.
それはきっと光をみつけるため。

その時ウサギが何か呟いて、あたしの身体から片方の手を離した。
驚いて目を開けると、なぜかウサギは赤い風船を手にしていた。
「思わず取ってしまった。」
ウサギは、そう言うとその風船をあたしによこした。
驚いた。
次の瞬間、足元から沢山の風船が飛んできたからだ。
色とりどりの風船が、足元から空へと上って行く。
赤、青、緑、黄色、ピンク、白。
それらは、まるでキャンディーが空を転がるみたいに昇っていく。
あたしたちは、唖然とそれを見送る。
眼下を見ると、さっき河原に集まっていた子供たちが沢山の風船を次々に飛ばして行くのが見えた。
あたしは、なんだかたまらなく嬉しいのか、心の底から悲しいのか。
感情が自分でもよくわからなくなって少し笑った。
ウサギも、あたしにつられて笑った。
ウサギにもらった風船は、紐の先に小さな紙袋に入った花の種が付いていた。
マリーゴールド。
春の花の種。
あたしたちは、お互いを助け合いながら、もう一度柵をのぼった。
あたしの大好きなスカイブルーの空の下で、ウサギが言う。
「なんかお腹減らない? 」
脱いだままのミュールを履きなおす。
足の裏がざらざらしたままだ。
どちらともなく手を握る。
あたしたちは。
手をつないで帰った。
来週、ウサギと一緒に河原の土手に種を蒔こうと思った。