***サンクチュアリ***

フローリングの床が、あたしの背中に、直にその温度を伝える。
一月の窓の外は、どんよりと曇って、そのグレイがかった空からは、
今にも雪が落ちてきそうだ。
ケイゴの細い首筋を引き寄せて、耳にキスをする。
彼の目を覗き込み、そのブラウンの瞳を見るたびに、あたしは、自
分が女の子で良かったと思う。
この部屋のドアを開けるたびに、あたしは、ここが天国だったらい
いのにと願う。

ママが付けてくれた名前は、キライじゃないけど、やっぱりどこか引
け目があった。
それは、あたしの地味な顔立ちや、まっすぐな黒い髪が、名前負け
しているからだろう。
だけど、ケイゴが呼んでくれるだけで、あたしの名前は特別になった。
もっと呼んで。
そのかすれた低い声で。
愛の言葉なんて囁いてくれなくていいよ。
名前を呼んでくれるだけで、あたしは幸せだ。
ケイゴは、あたしの全て。
あたしたちに、未来なんていらなかった。
たとえ、それがどこであっても。
埃まみれの部屋や、真っ暗な路地。誰もいない孤島だって。
どこだってよかった。
ケイゴと触れ合っていられるなら。
彼の体温を感じる事ができるなら。
何でも願いが叶うユートピアなんていらない。
あたしの願いを叶えられるのは、ケイゴだけ。
ケイゴしかいない。
1DKの、その部屋は、打ちっぱなしのコンクリートの壁に囲まれ
た、冷たい印象を受ける建物の中にあった。
バブルの頃に建てられた、よくあるタイプのマンション。
地下への階段を下りながら、あたしは学校指定のコートを脱いだ。
ポケットから、部屋のカギを取りだす。
キーホルダーに付いている鈴が小さく鳴った。
その音は、夕方の空気の中に、響いて溶けた。
ドアノブに手をかけると、その冷たさが、一気に頭まで駆け上った。
寒さで冷たくなった指先よりも冷えたそれは、しんとした空気の中
で、乾いた音を立てた。
夜に染まった部屋の中で、彼は一人で水槽を覗いていた。
空気ポンプの音が闇に静かに響く。
青く発色している蛍光灯が、水槽を照らし、泳いでいる魚を浮かび
上がらせる。
コバルトスズメ。
あの大きな水槽で、ひらひらと泳いでいる魚はそういう名前らしい。
とても小さな、群青色の魚。
本来なら、群れで暮らしているはずの、その魚を、彼はたった一匹だ
け飼っている。
「電気付けるよ」
暗い部屋の中での、強い光に目をやられたあたしは、返事を聞かずに
スイッチを入れた。
無機質な明かりがあたしたちを照らし出す。
グレイのセーターの下に、膝上のチェックのスカート。
半分ずり落ちたソックス。
学校が終わると、すぐにここにやってきた、17歳のあたし。
シャツの上に、パーカを羽織った、同い年のケイゴ。
そのパーカは、クリスマスにあたしがあげた物だった。
「ありす」
あたしを呼ぶ、彼の声が、やけに大きく響く。
そっちを振り返ろうとした瞬間、いつのまにか後ろに来ていたケイゴ
に、きつく抱きしめられた。
強引なキスで口を塞がれる。
手に持っていたカギが音を立てて床に落ちる。その、意外な程大きな
音に驚いた。
窓の外には、スミレ色から紺に変わっていく空のグラデーション。
あたしは、目を開いたままでいた。
ケイゴのことを見ていた。
その、色素の薄い髪とか、血色の悪い頬とか、薄い唇とか。
キレイに線の入った瞼とか。
ブラウンの瞳とか。
ケイゴも目を開いたままだった。
ケイゴの瞳から溢れ出す涙が、触れ合った二人の頬を濡らした。
乱暴にあたしの身体を引き離し、涙を両手の甲で拭う。
その、いじらしい姿に、あたしはいつも、もらい泣きしそうになって
しまう。
コートのポケットから、ハンカチを出して、拭いてあげる。
さっき、口の中を切ったのか、血の味が広がる。
フローリングの床にひざまずいた彼を、そっと抱きしめて、何度もキ
スを繰り返す。
男の子にしては、華奢な背中。
あたしには、こんなことしかできないけど。
だけど、せめて近くにいたいと思う。
あたしは、ここにいるよ。
あたしの温度に、あなたが溶けるくらい、近くに。


トオノアカリが死んだ時、あたしは、ココロのどこかでほっとした。
アカリのあの、肩までのフワフワの髪とか。
丁寧に塗られたマスカラとか。
そういうものを、もう見なくていいかと思うと、安堵しているあたしが
いた。
あたしは、アカリのことが大好きだったけれど、いつもどこかで、彼女
のことを軽蔑していた。
彼女の、てかてかと光る、ピンクのリップグロスが大嫌いだった。
それは、甘いストロベリーの匂いがしていた。


あの夏は


クロルカルキの匂いが、あたしたちの感覚を麻痺させた。

ケイゴと、たった一回だけセックスをしたことがある。
誰もいないプールの、用具倉庫。
授業の始まりを告げるベルが、遠くに聞こえていた。
ケイゴのひんやりした手が、首筋に触れる。
もう片方の手は、あたしのくちびるをなぞった。
そして、ゆっくりとくちづける。
むせ返るような塩素の匂い。
激しいキス。
あたしは、もう立っているのがやっとだった。
薄目を開けると、小さな窓からは、青の絵の具をたくさんの水で溶い
たような、真青な空が見えた。
ケイゴのシャツの胸に縫い付けてある校章に、解れがあるのに気付いた。
彼の手がスカートの中に入ってきた時、その冷たさで、一瞬、身体が強
張った。
それを勘違いしたケイゴが、あたしを、強く抱きしめる。
ケイゴは、優しかった。
何度も何度もキスをして、髪をなでる。
タイルの床は冷たかったけれど、ケイゴに抱かれた身体は熱を持った。
携帯電話が何回か鳴った。
ケイゴは、それを一度も取らなかった。
クロルカルキの匂いが充満した部屋。
場所。
あたしたちは、まだ、あの塩素の匂いに支配されている。

その夜、アカリが手首を切って自殺した。
アカリは、ケイゴの恋人だった。

>>ネクスト??