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1969年 |
大阪府で生まれる。名前は、「健太郎」「潤」の中から外国人にも親しまれやすいということで「潤」に決定。この時点で既に世界進出の戦略が練り上げられていた。しかし、祖父はしばらく「健太郎」と呼んでいたらしい・・・ |
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1970年 |
大阪万博開幕。家から会場が近かったために何度も連れていって貰ったらしいが1歳では覚えているはずもない。それにも関わらず、「暑い中何回もつれていったってんから感謝せんかい」と理不尽な要求をされる。言われる。僕は連れていってくれと頼んだ覚えはない。 |
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1972年 |
飼っていた犬の「ロン」と一緒にソーセージを順番に食べていたときに、自分が2回連続で食べたことに激怒したロンに噛み付かれる。ちなみに、ロンの名前の由来は祖父が麻雀好きだったことによる。 |
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1981年 |
中学の入学式の次の日に急性盲腸炎で入院・手術する。「痛い」と言い続けていたにもかかわらず家族が信じず、腹膜炎を併発して3週間入院する。手術室に入ってしばらくすると、看護婦さんが家族に「患者さん、妊娠されてますか?」と聞く。親は、「お腹は出ていますが、妊娠はしてないと思います」と答える。おまけに、入院した後の検査で肝臓が腫れているので、酒は控えてくれと言われる。退院直前、夜中にベッドから転落して、鼻から激しく出血。看護婦さんに発見されるまで床で熟睡。看護婦さん一言「伝説を作ってくれたね」。中学の頃から伝説を作り始めた。 |
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1982年 |
授業中に友達のカバンから泡が出ているのを目撃。どうも、古い消火器を持って帰って遊ぼうと、カバンに隠したが横に倒したため泡が出たようだった。先生はそれを見て一言、「おい、カバンが泡吹いてるぞ」・・・古き良き時代の会話。 |
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1983年 |
風呂で居眠りをしていて、あわや自宅で溺死とい事故を体験しかける。しかし、鼻が水面下になったときに、鼻から水が入ってて何とか目覚める。日本が貴重な人材を失わず、世界が胸をなで下ろした一瞬。 |
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1984年 |
友人とバンドを結成し、キーボードを担当する。幼稚園から7年間習ったエレクトーンが役に立つ。モテるかと思ったが全く変化なし。 |
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1985年 |
バンドから脱退。表向きの理由は音楽性の違い。本当の理由はキーボードが下手だったので、難しい曲が弾けなかったため。7年間やったエレクトーンも9級の実力では威厳なし。 |
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1986年 |
高3の12月に肩の腱を切って1ヶ月入院。個室に入ったためクリスマスを病室で祝うが、騒ぎすぎて看護婦さんに怒られる。期末テストを受けずにすんでラッキー。入院中レントゲンを撮るときに、壁に「妊娠されている方は予め看護婦にお知らせ下さい」と書いてあったので、看護婦さんを笑わそうと思い「僕、こう見えても3ヶ月なん
です」と言ったが、看護婦さんは一言「はいはい。早く上脱いでね」。この看護婦さんのことが少し嫌いになった。 高校2年生のときの担任の先生がお見舞いに来てくれるが、親は友達と勘違い。タメ口で話をする。蛙の親は蛙だった。
病院の屋上に出てみると20代半ばくらいの兄ちゃんに話しかけられる。最初は何で入院しているのかとかいう話だったが、いつの間にか『好きな人はいるか』とか『愛とはどういうことだと思うか』という話になる。12月のクソ寒い中30分以上も外で愛について語られた僕は予想通り風邪をひいた。俺に優しさを見せて欲しかった。 |
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1987年 |
退院して学校に行く。一番目立つ時間に登場するために、文系と理系の共通の授業だった現代国語の授業中に教室に入る計画を綿密に立てる。少し早く学校に着きすぎたため、20分ほどトイレに隠れておもむろに登場。拍手喝采。
大学入試で答案用紙に受験番号を書き忘れていることを試験終了後に指摘され、半泣きになる。「可哀想だけど・・・」ととんでもないことを言っているオッサンの横から「ほら、早く書いてしまい」と優しく声をかけてくれた人を見て、大人になったらこんな人になろうと決意。そして、その人が高校の同級生の父親だったということが分かった時、「息子がこんなんだったら嫌だな」と思い、食事の時に家族で僕を笑い者にしていたことを聞いて、こんな大人にはならないでおこうと心に誓った。 |
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1988年 |
シンセサイザーとシーケンサーを購入し、名付けられたときからの世界進出計画を実現すべくデモテープの作成を開始。約3年間で9曲作るが、時代を先取りしすぎていたためか誰にも見向きもされない。 |
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1989年 |
通学途中に電車が急ブレーキをかけたときにふらついて、女子高生の膝の上に座ってしまう。周りからクスクス笑われとても恥ずかしかった。僕が「すみません、重かったでしょ」というと、彼女は一言「大丈夫です。バレーボールで鍛えてますから」関西の女のパワーを思い知った。
部屋の電灯を消そうと思い紐を引っぱったら、電灯ごと降ってくる。吉本新喜劇のセットのような家に住んでいることに感動を覚える。 |
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1990年 |
ちまたに氾濫する金太郎飴的ユーロビートやハウスへの抗議行動として、無期限の音楽活動停止を小さな声で宣言するが、ハナから誰も聞いていなかったのか反響なし。ひとまず、世界進出計画を練り直すことにする。 |
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1991年 |
夜中にトイレに入って便座に座ろうとしたが、便座が上がっていたために便器の中に
はまる。これ以来、人生で4回の便器ハマリ経験を持つ。だが、これは珍しいことではなく、周りに3人の便器仲間がいることも分かった。 |
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1992年 |
朝起きて気分が良かったのでスキップしてみたらベルトのバックルの上に着地して、足の裏にバックルが刺さる。小さい頃スキップができずに放課後残された経歴があるのに、なぜこんな時にスキップをしてのかを悔やむ。しかし、この出来事を誰かに言いたかったため痛い足を引きずりながら学校へ向かう。 |
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1993年 |
世界進出の拠点作り第一弾として東京進出に成功。理由は就職のため。 |
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1994年 |
夜間自転車で無灯火で二人乗りをしていたところ、おまわりさんに「ボク、アブナイで」との優しい言葉をかけてもらう。このとき25歳。ちなみに過去に場外馬券場で年齢を聞かれた後、干支まで聞かれ正しく答えて警備員さんに敬礼された経験もあったりする。 |
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1995年 |
阪神大震災を震源地の目と鼻の先で体験。会社の寮の部屋の壁にひびが入る。小型冷蔵庫が倒れる。 |
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1997年 |
全世界待望の音楽活動再開。再開後の始めての活動は、会社の先輩の結婚式でのハンドベルとピアノの演奏。虎視眈々とワールドワイドな展開を視野に入れた活動をアンダーグラウンドで展開中。現在に至る。そのうちでっかいことをやる可能性もなきにしもあらず。 |
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1998年 |
世界進出のための東京の拠点として赤坂ブリッツを視察。赤坂にも近いし、六本木でにも近いし、赤坂見附までの道にはアンナミラーズもあるし最高の立地条件であることが判明。アンナミラーズでライブのミーティング、ブリッツでライブ、六本木で打ち上げとナンチャッテセレブの未来は明るい。 |
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1999年 |
苗場までフジロックへ向かう途中高速のジャンクションを間違える。50キロくらい走ったあとに気づきUターン。ちなみに帰りも道を間違え、日本道路公団の収益に貢献をする。その他にも、阪神高速環状線の出口を間違えて余分に1周したり、車にはとことんついてない人生を過ごす。 |
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2000年 |
淡路島で行われていた花博に行き、帰りのフェリーの中でカイヤ川崎に出会う。伊藤麻衣子、池乃めだか、オーシャンカラーシーンのドラムの兄ちゃんに続く有名人との出会い。イマイチ地味っぽい人達ばかりというのは否めない。 |
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2001年 |
フジロックでNew Orderを見て感激する。その後、疲れ果てた身体で駐車場に辿り着くものの車中で一夜を明かして気温10度の中凍えかける。 |
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2002年 |
忘年会の2次会で体調が悪くなり、午前2時から5時まで無言を通す。今年、寝ている以外で最長の沈黙時間を記録する。さらに、その後年末にかけて高熱で寝込み、33年間で最悪の年越しを経験する。 |
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2003年 |
最悪の年越しから冬休みが終わるまでずっと寝込む。一応、カレンダー通りに出金するも、その次の日の出張でのミーティングで再度風邪がぶり返し、プレゼンをやりに行ったにもかかわらず声が出なくて上司に交代してもらう。午前中のミーティング終了後、見かねた上司が家に帰って休め指令を出してくれる。その後、自主的に冬休みセカンドシーズンを取得。 |
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2004年 |
正月に昼寝をして風邪を引いて寝込む。結局、この年も風邪ひいただけの冬休みを終える。パリへの海外出張の帰りの便で隣の席が可愛い女子大生で、10時間夢のように楽しい時間を過ごす(何の展開もなかったけど・・・)。オーストラリアへ旅行して水上飛行機に乗るも、天気が悪く揺れまくりで半泣きになる。11月頃から仕事が超多忙になるも、その頃やっていたBSデジタルのTwenty
Four Season IIにはまり、タダでさえ少ない睡眠時間がジャック・バウワー並に減る。さらに、年末の忙しいときに、Twenty Four
Season Iの再放送を見ていたために、大掃除が滞り、部屋が汚いまま正月を迎えるハメになる。 |