随想 1    (5/1)
 書き始めたばかりなのに、どうにもノドが乾いて仕方がない。よってペプシコーラを買ってくることと

する。(買ってきた)ペプシコーラはいつ飲んでもうまい。全日本ビール党に入党するまでは部屋に

ペプシの空き缶がゴロゴロしていたものだ。

 今回は初回と言うことで、ちょっとかわった私の友人、Mとのことについて少し語ってみたい。

彼とは高校からの友人で、仲良く二浪し、まぁ予備校は私が大阪で、彼が首都圏と2年間別々に浪人

していたわけなのだが大学から同じ首都圏と言うこともあり、またつるむようになった。

 私は叔父の家がたまたま空家になっていたので、そこに入れてもらい夜露をしのぐことになったの

だが、彼は大学が国分寺であったので、国分寺に部屋を借りることになった。入学式の日に大学生協

で部屋を探したのだが、その日丁度私は彼にくっついて遊びに来ていた。式の間は暇であったので

キャンパスの中庭でのんびりと昼寝を決め込んでいた。式が終わって部屋探しに付き合ったわけだが、

なんとここで月3万3千円という激安の部屋を見つけることとなる。これが我々の不幸の始まりだったの

か幸運の始まりであったのかは定かではないが、いずれにせよ、不動産屋のチンピラみたいなニイサン

についてそこを見に行った。

 そこはチトぼろいことをのぞけばじつにまぁまぁ。貧乏学生の住みかとしてはかえって理想的とも言える

築30年くらいのなかなかに風情のあるアパートであった。”〜荘”というおあつらえ向きの名までついて

いたがこれは私の記憶にはない。後に、”M家”というりっぱなニックネームがついたからだ。少し話が

それたが、出てすぐのところにスーパーとレンタルビデオ屋とコンビニ二軒が軒を連ねるそのアパートは

風呂なしという条件ナド問題にならない良い物件であった。その場で即決した。

 入居の日、その日の記憶を頼りに私は彼よりも早くそこに着いてしまった。ドアはなんと鍵がかかって

おらず、私は彼よりも先に入居するという大きな足跡をその、後に”M家”と呼ばれることになる部屋に

残すこととなった。
 
 彼もはじめてのひとり暮しであったので、(浪人時代は寮で暮らした)引越しする荷物もなく、家財道具

は新規に購入していった。のんびりと二人でその家でくつろぐことが多く、良く彼の部屋に泊まって

語り明かした。そして、どうにかこうにか形がととのってまもなく、私はS、ならびにY、K、などどいうMの

同級の連中と出会うことになった。

 その日、私は学校がひけるとM家に直行した。すでに大学ではWFSというバンドサークルに入って

おり、ギターの練習に余念がなかった。奴の帰りを待ちつつ練習していると、奴は仲間を連れてどやどや

とドアを空けて帰ってきた。あっけにとられて見ていると、連中は私に挨拶をしてきた。Sという男は私に

良く似た知り合いがいたらしく、はじめ

”!!!???” 
 
 というような顔をして私の顔を見、そして

”あれ、お前なんでここにおんねん”

 などとぬかした。

私もそんな存在理由を問われるような覚えもなかったので、わらって

 ”!??” 

といった。声は似ていなかったらしく、それで奇妙な出会いの儀式は終わって、他の連中とも挨拶を

交わした。その日は奴らがマアジャン、私はそばで時々メタリカを聴きながらギターの練習という感じで

夜を迎えた。
 
 その日から我々は常につるむようになった。とくに、M、S、私、という3ショットが極めて多く、近所の

行き付けの飯屋で飯を食い、帰ってきてなにかしら面白そうなことを見つけては3人で寝るまで遊んで

いた。まぁまったくなにやっていたか覚えていないことを考えると、煙草でも吸ってペプシ飲みつつボーッ

としていたに違いないが、良く鍋を囲んでいたのを覚えている。我々にとって”M家”鍋はなによりの

ご馳走であった。Sと私に料理の才覚があり、大概はパイタンスープであったが、うまい鍋を作ったもの

であった。なにせ、スーパーは目の前、コンビニも目の前、ビデオ屋も目の前であり、裏手には風呂屋も

あった。つるむ仲間もいて、こんな生活がつまらないはずはない。

 しかし、Mにはひとりの時間がなさ過ぎた。一年ちょっとして、近場ながら引越しを決意したようで

あった。レンタカーを借りて私が手伝ったのだが、これがクセモノであった。引越し先は少々狭い道が続く

ところで、免許とりたての私には少々きつかったのか、こすってしまい、余計に金がかかることになって

非常に落ち込んだのを覚えている。しかし、ドライブがてらの引越しはなかなかに楽しいものであった。

のんびりやっていたし、私も引越しのバイトをする前であったので、少々時間がかかったのを良く覚えて

いる。次の日に持ち越してしまったのだ。たしか晩飯は奴のおごりで焼肉であった。

 しかし、この家も似たような溜まり場になった。前ほど入り浸りではなくなったが、皆バイクや原付など

足を確保したので遠くても意味がなくなったんである。

 その部屋は家賃5万5千円、キッチンが四畳くらいあり、しかも風呂とトイレがセパレート、という

これまたなかなかの物件であったが、これが駅から遠かった。これがMの狙いだったのである。

私は足があるとはいえ、家からではなく、駅から来る事が多かったので、これにはずっと閉口した。

なにせ、道半ばほどまで来ると、奴の家の前の電柱の明かりが数百メートル先から見えるのである。

なぜなら道が途中から一直線になるからなんであるが、これが徒歩の私には少々うんざりモノであった。

 記憶は定かではないが、これが確か1998年の春くらいだったかと思う。このころ、Mが、

”ちょっとパソコン作ってくれんか”

というので、秋葉原にいってパーツを買い集め、作ってやった記憶がある。

 また、パソコンの販売促進のバイトをはじめたのもこのころである。学科の友人が

”パソコン詳しいんならいいバイトがあるぞ”

といって紹介してくれたのだが、これが私のこれからの生活に思わぬ影響を及ぼすことに

なっていくのである。

 話は飛ぶが、この前年私は、バンドのドラム君に

”おまえはクビ”

といって、はじめに組んだバンドをクビになった。そして、98年の春も、サークルへの復帰を

かけて新しくバンドを作ったのだが、これもうまくいかず、ついに私の

”空白の2回生” の一年が始まることになったのである。

 M家にはイリビタリ、学校はほとんど足を運ばず、週末は二日ともパソコンの販売促進

のばいとで、

”いらっしゃいませー”

とかいいながら、かわいい女の子のバイトさんがきたら

”おお”

とか言う生活が続いた。現在メインギターとして使用している ”レスポール” というギターを

二年のローンで購入したのもこのころであった。ちなみにこの年の取得単位数は4単位であった。

 そうこうしつつその年も年度末を迎えて、私のところに新たな仕事が舞い込んできた。

秋葉原の某有名パソコン専門店でF社のノートPCの販促をする仕事であった。春休み中で

あったのでなんと、

”週五の仕事なんだけど、どう?”

と言う内容であった。それほど貯金する理由もなかったのだが、暇であったのでOKした。

                  (随想2へ続く)

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