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のびび・クロス
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『極めて個人的なBGM考』
 音楽を聴きながら何かをする、ということができない。
 BGM…というか、みんな器用に"音楽を聴きながら"あんなことしたりこんなことしたりそんなことまでしちゃったりするが、私にはそれができない。いきなり結論で恐縮だが、よって私の辞書にはBGMという言葉がないに等しい。 何かをしている最中、ふと不用意に音楽をかけてしまったりなんかするともうそこで手どころか思考・身体の動きが止まり、全神経が「聴く」ことに傾いてしまう。何度トライしても、これだけは無理だ。そこで鳴っている音楽を無視できない。音楽は聴くためにだけ聴く。(仕事ネタとして聴くのは別)
あ、音楽を聴きながら酒を飲む、というのはかろうじてできるな。正確に言えば音楽を聴くために酒を飲む、もしくは美味しく酒を飲むために音楽を聴く。この場合、酒はあくまで"音楽"の合間に存在している。聴くための音楽をガンガン鳴らされるのは一向に構わないが、連れの話が聞けないほど音楽のやかましくかかってる店とかは大変苦手だ。けどまあ、そうも言ってられないので、不可抗力的に聴かされるものをノーミソ以前でシャットダウンするトレーニングは一応できているつもりである。(ややこしいやつ。)
書き物をしたり考え事なんかするときは全くの無音。こういうときに聞こえてくる音には、何より"規則性"があってはならない。時計の秒針の音、なんかの電子音、継続的なモーターの音…なんてのは問題外。しかし、さすがに耳淋しい時だってあるので、なんかほしい。聞こえるか聞こえないかぐらいの音量で流しておける音。強いていえば、うーん、"聞こえててもいい音"。これだっ。
こんなときはどうするかというと私の場合、必殺"虫の声シリーズ"とかが登場する。
あ、けどわざとらしい"川のせせらぎ"みたいなのはあまりに環境とのギャップがありすぎて不向きだ。サワヤカすぎちゃって。"クジラの鳴き声"とかも勿論ダメ。波の音とか、もっとマニアックに言うと"湖のほとりの波うちの音"とかがベストである。この場合、"窓の外に普通にありそうな音"ってのがポイントだ。
夕日の美しい湖のほとりで育った私はこんな「CD虫」に頼らずとも、かつては自然界の美しい音に囲まれていたわけだが、今はビルの谷間に住んでいるのでこうせざるを得ない。当初はこの「CD虫」を購入することさえ屈辱的に思えていた行為も、最近は割り切れるほど私もオトナになった。だってこうするしかない。大阪でうまい魚を食べようとはハナから思わない、ってのと感覚が似てる。にせもんはにせもんだと割り切らないとにせもんにだって失礼だ。
しかし、ミュージシャンの悲しい性(※言い過ぎ。)というか、この「CD虫」もすぐに私の耳?ノーミソを通じて"暗譜"されてしまう。こう鳴いた次はこう鳴くとか、このタメの後にはマツムシに切り替わるぞ、とか、恐ろしく正確に、CDの流れが全てインプットされてしまうことになる。数十分間に渡って鳴き続けるCD虫の内容を全部覚えしまっている。これに気が付いたときは愕然としたね。覚えるなよ。
調音とかは苦手な方じゃなかったけど、ここまでくると逆に辛い。"反・規則性"の法則に反するじゃないかー。おかげで何種類かの「CD虫」を飼うに至った。こんなことに金出してる場合じゃないってのに。
しかし、ここでふと思い出した。その昔、"自分で聴くための音"もっというと"なんかしながらでも流しておける音"を作ることに熱中した時期があった。(From@Sound-Bath PROJECT)自然の中から音を録ってきて音楽と合体させたりなんかを随分やった。たき火の燃える音、水の流れる音、広い森の中の葉ずれの音。…言葉尻だけつかむとメルヘンな世界だが、作ってた音楽はこと"メルヘン"からほど遠い位置にあったように思う。
火の燃える音というのは、たき火を焚いて、何とその中にマイクをつり下げて録音する。マイクが燃えつきるまで録る。水の流れる音というのは、(もうお気づきかと思うが)川の中にマイクをどぼんとつける。水でマイクがだめになったら終了。
そうやって録った音を加工して、ほとんど聴き取れないぐらいの音でバックに流しつつ(これを音楽界のサブリミナル効果ともいう)、延々とベースを鳴らし続けてる上に、Soprano−SAXの音にスペースエコーかなんかをかけて魔法のよーな(=おかしくなりそーな)メロをかぶせる。これにハマると大変だ。あまりにも気持ちよくなるので今じゃ封印してある。
閑話休題。BGMの話からエラい話に飛んでしまったけど、みなさんにとっての"BGM"というのはどんなもんなのだろうか。
聴くために聴く音楽、と別なのかしら。睡眠学習みたいに鳴ってるだけで気持ちいいもの?きっとそれぞれに色んな世界がおありなんだろうと思う。

あ、究極のBGMがひとつあった。
眠りながら聴く、誰かさんの子守歌。こればっかりは死んだってもうかなわない。
<2002.5.16 Nob>

『思えばムボー日記・1』〜Bossa編〜
 
今だって結構無茶なことしてんだろうけど、若い時の無茶って計り知れない。
若気の至り、と言ってしまえばそれまでだけど、ふと思い出すとあまりのことについ、“いくつのときだろう”って指折って数えたりなんかして。せっかく飲んだ酒っ気も引くってもんよ。
私はその昔R・H氏(※以下R氏)という、今じゃすっかり有名になってしまったBossaシンガーとDuoを組んでたことがあった。スタンダード・オリジナルなぞをとりまぜてライブなんかもしつつ。でもって、ここでは私も歌ったりなんかして。R氏の歌詞はポル語、私は英語なので、スタイルだけは“エセ”和製ジルベルト(※注:言い過ぎ。)ってとこで。
余談だけど、Bossaって改めてフメンだけ眺めるとほんとに思いやりのないコード進行(眺め直して、たまに驚く)でできてるよね。そうは聴こえないってのがまた罪深いとこで。ただ、今やカラダで覚えてしまってるので、改めてガケの下を眺め直すよーなマネもトンと少なくなったけど。R氏曰く、Bossa曲自体そもそもがギター抱えて歌う人にだけ都合よく気持ちいいコードを並べて作ってたモンだから、フメンにするとたまたまああいうことになってしまうのだ、ってことらしい。閑話休題。
でもって一体この話の何がムボーなのかというと、賢明な方はお気づきの通り、私はそこで吹いて歌っての2役、要は実質『吹き語り』ってのをやってたわけで。吹き語りよ、吹き語り。芸じゃないんだから、全く。(いや、芸か?)
つまり、ジルベルトなDuo気取った上、そこへ無理矢理ゲッツ(※注:言い過ぎ。vol.2)を合体。音楽界の透明ランナー(あ、分かるかしらこれ)ともいうべき、画期的システム。自分で歌って、すかさずSoloとか入れたりして、オマケにR氏が歌ってるスキにオブリとか入れたりなんかして。でもってたまに歌でハモったりなんかもして。せわしい〜。
“こんなヤツおらんやろ”という(非常に消極的な意味で)ことにライブやってる頃にも薄々気づいてはいたけど、それをお客様に感づかれるわけにはいかん。いっくらセワしくても、しかもしっとりしたアコースティックなライブでならなおさら余裕でやらねばならん。…!ただ、やってる当時は必死、しかも大真面目。演らしてくれてたハコも相当えらい。
今にして思えば、よくぞそんなことをやってたもんだと逆に感心してしまう。でもってそれは貴重な経験でもあったわけで。
けどね、そんな中でもヤハリ、相も変わらず、美しい曲を美しいと感じ続けることができてたってトコは、やっぱし有難くて、我ながら幸せなことだなと思うわけさ。心臓に何本毛が生えようが、そこんとこはママのおなかにいた頃から全く変わりようがない。
2002.4.13 Nob(UP DATE04/26/2002)
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