古事記の神話を読んで発見したこと

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 私は、今こうして文学部国文学科なんぞに籍を置いているが、もともと国語の授業が好きだったわけではない。まして、中学・高校のときなど、文学について熱く語っちゃうようなお偉いオジサン先生をついつい冷めた目で見てしまう、かなり生意気なコドモだった。それでいて成績だけは良かったのだから、最も性質が悪い生徒だっただろう。ついでにいえば、そんなとんでもない生徒はは今、教職課程なんてものを履修している。
 本を読むことが好きだった私にとって、なぜ学校の国語の授業はつまらなく思えたか。それは現在の国語の教科書では、文学、とりわけ古典文学の面白さが伝わってこないからである。たとえば、古今東西不朽の名作、源氏物語。私たちはみな、学校では「光源氏はたいそう美しく才にあふれ、次々に男性を魅了する素晴らしい男性」であり、この作品は「人間の情感を華やかな宮廷生活を背景に描き出した超大作」であると教え込まれてきた。しかしなんのこっちゃ、私から言わせてもらうと、光源氏はマザコンにロリコン、挙げ句の果てには自分が父親に対してしたことを愛する女性に仕返しされるどうにもこうにも情けない奴に過ぎないのである。けれども私は「源氏物語」を支持する読者の一人である。いやむしろ、光源氏がどうしようもない男だからこそ支持しているのであろう。なぜなら、今現在もなおこの日本中にはびこっている情けない男の情けない恋愛のパターンが、何と平安の世にはすべて書き尽くされているという事実に驚かされるからである。
 そして今回、初めて古事記の神話を通して読んで更に驚いた。なんと日本最古の物語には、もっとありとあらゆる男女の関係……それも、もっと肉欲的な……が描かれているからである。そして何より女性が強い。これは現代女性が支持している女流作家やアーティスト(危険を恐れずに言うならば、山田詠美や椎名林檎など……?)の類と共鳴しうるところであり、私たちが読んでも十分共感、面白いと感じうるものである。
 実は、高校のときにも少しだけ古事記の授業があった。かの有名なイザナキの命とイザナミの命が国作りをするという、ストーリーの冒頭部分である。しかしながら、私は今ほど面白いと思えなかった。当時の私にとって「まぐわひを交わす」と言われても「何のこっちゃ」という感じだった。そりゃそうだろう、普段生活指導にあたっている教師が、そのものズバリを言ってのけるわけがない。
 しかし古事記は性的イメージ抜きに語ることはできないし、むしろそこから天地が生まれ、天孫が降臨したところに、神話、昔話的な面白さがあるのではないだろうか。アメノウズメノミコトがストリッパーのように裸で踊りまくっている姿を、アマテラスがつい気になって見てしまうあたり、なんていうか、男のサガというか、女の肉体に勝るものはないのかあ、だから世間で高い地位にいる人も痴漢で捕まったりしちゃうわけなのか、なんて、妙に納得してしまう。スセリビメは惹かれた男に対して手加減はなく、生太刀と生弓矢をもって根の国から出ようとするし、コノハナノサクヤビメはヒコホノニニギとの間に出来た子供を高天原の神の子と認めさせるために産屋に火を放ってしまうパワーがある。おいおいこれって今でもあるよね、「あなたの子よ」なんつって。
 まあ、私は人に比べて極論、詭弁ばっかり言うみたいだから、こんな風に解釈して面白がっている不届きな奴は他にはいないだろう。しかしながらこんな風だからこそ古典文学に親しめる人は、きっと私だけじゃないはずだ!!!(力説)ましてや中・高生は思春期の真っ只中なわけだし。だからもう少し国語の授業はどうにかならないものだろうかと思うのである。そもそも普段から「フジュンイセーコーユー」などという今時化石のような死語を言ってのける連中が、「まぐわひ」を「神聖な行為」といくら説いてものれんに腕押しというものではないか。
 他の人がなんていうかは分からない。もしかしたら間違いだらけの解釈で、こっぴどく怒られてしまうかもしれない。けれども色々な楽しみがあるのが文学で、だからこそ今もなお読み継がれる古典があるのではないか。そして、私にとってそれを気付かせてくれたのが他ならぬこの「古事記」なのである。