〈夫婦〉の神話と恐怖
〜『パン屋再襲撃』論〜



kame kame kame kame kame kame kame

 誰しもがみな、〈自分らしく〉生きたいと思っている.。近年教育の分野では、〈個性を伸ばす〉ための指導内容を考えるようになったし、会社は新卒社員を学歴ではなく〈各人の能力・個性〉をみるようになったという。故に日本人としてもっとも不得手とする〈自己アピール〉を強いられるようになり、それまで美徳とされてきた〈タテマエ〉や〈他人に合わせる〉という考えは淘汰されるようになった.。
 しかし各人が各々の思うままに振る舞い、生きていくことが出来るようになったかというと、当然そうではない.。なぜなら生活の中には常に〈集団〉というものがつきまとっているからである。会社、学校、家庭……それはさまざまな形となって人間の前にたちあらわれる。そして〈集団〉の中で生きている限り、人々は完全に個として存在し得ないものであると言ってもいいだろう.。その中で〈自分らしく〉生きることは、常に他者に気兼ねする、限界のある行為なのである。
 しかしそうした〈集団〉に生きていても、決して個々の間の心を全て見せ合うことはかなわない。そしてその距離は縮めようと思えば思うほど遠ざかると言っても過言ではない。人間はそうした〈集団〉に生きなければならないことと〈集団〉の中に生きていても常に〈孤独〉と隣り合わせであるというジレンマを抱えているのである.。
 『パン屋再襲撃』はそういう〈集団〉の中でも〈夫婦〉を描いたものである。「二週間ほど前に結婚したばかり」の「僕」と「妻」は「堪えがたいほどの空腹感」に襲われた。そして「僕」は終夜営業のレストランで「便宜的に」空腹を満たすことを提案するが、「古風な」「妻」はあっさりと拒否する。そして僕も自分達が抱えている「飢餓」をそのように解決されるべきではない「特殊な飢餓」だと言っている。この「特殊な飢餓」とは一体何を意味するのか。
 「僕」は「特殊な飢餓」について映像イメージを提示している。
@ 僕は小さなボートに乗って静かな洋上に浮かんでいる.。
A 下を見下ろすと、水の中に海底火山の頂上が見える.。
B 海面とその頂上のあいだにはそれほどの距離はないように見えるが、しかし正確なところはわからない。
C 何故なら水が透明すぎて距離感がつかめないからだ。
 村上春樹の作品にしばし登場してくる「飢餓」「空腹感」が、希薄になった人間関係、近づいても近づいても歩み寄れない「僕」と他人……つまり心の餓え.、孤独を表わす暗喩であるという説がある.。これに従って本作の「特殊な飢餓」を解釈すると、「海底火山」はふとしたことですべてだめになる可能性を秘めているもの、つまり形式で繋がる関係である〈結婚〉という制度で結びついている「僕」と「妻」の〈夫婦〉で、「僕」はその成り行きを静かに見守っているということになる。今は「静か」な暮らしを営み、「透明(=一見したときの幸福、平穏)すぎ」ているためにそのいつ噴火するか分からない危なげな存在である〈夫婦〉間の心の「距離感がつかめない」のである。
 そしてこのきわめて危うい可能性を秘めている〈夫婦〉の関係には、「僕」だけでなく「妻」もちゃんと気付いているのである.。だからこそ、「僕」が一回目の「パン屋襲撃」の話をしたとき、自分と「僕」との関係にはない事件を起こした「相棒」に嫉妬し、また自分が「僕」と「相棒」が成し得なかったことを達成することで一体感と安定した幸福感を得ることができると確信したのである。あまり乗り気ではなかった「僕」を差し置いて周到に手はずを整えるのである。「妻」にとって「今では私があなたの相棒なんだ」から。
 しかしここですでに「僕」と「妻」はすれ違いが生じている.。「妻」は「僕」が感じている孤独感、精神的な餓えを「呪い」だとし、「相棒」と達成できなかった「パン屋襲撃」を完全に成し得る(なぞらえる)ことによって「呪い」は解けると信じている.典型的な少女漫画のストーリーの構図〈もともとそんなにお互いをよく知らなかった二人も、ある事件があって初めてお互いを分かり合い、力を合わせて頑張るうちに、恋に落ちました.。そして二人はいつまでも幸せに暮らしました。めでたしめでたし〉となることを願った。しかし「僕」は「それは呪いじゃなくて僕自身なのかもしれない」と言っているように、孤独感を抱いているのを、少女漫画やおとぎ話をなぞらえただけで埋められないこと、孤独にさいなまれているのは「妻」との関係に落ち度があるわけではなくて、「僕自身」が孤独を背負うべくして背負っているのだと思っている。つまり「僕」は「妻」との関係において期待をしていないのである。ただ、「結婚生活というのは何かしら奇妙なものだという気がしただけだった」。
 何はともあれ、「妻」の圧倒的執着に押されて、〈第二次パン屋襲撃〉は実行される。ただし「パン屋」ではなくハンバーガーショップの最王手(マニュアルで動く飲食業の代名詞)の「マクドナルド」を選んでいる.。「カウンターの女の子」は「妻」のただならぬ様子にいささか驚きはしたものの、別段騒いだり叫んだりはしなかった。「店長」は「妻」の要求する「ビックマックを三十個、テイクアウトで」出すよりも金をあげると言って、会話が全く成立しないような状態だった.。この不自然なやりとりは全て、二人(マクドナルドの店員すべて)〈マニュアル〉でしか動けない従業員だからだ(実際はこのように強盗に入られたときなどの〈安全のためのマニュアル〉もあると思うのだが……)。
 そして「妻」がそんな〈マニュアル〉で動く「パン屋」である「マクドナルド」を選んだのは確信犯だという説がある。「マクドナルド」の従業員二人は大騒ぎするわけでもなく、かといって〈第一次パン屋襲撃〉のときのように「ワグナーを聴くこと」を強要したわけでもない。確かに問題なくストーリーの達成を目指すにあたってやりやすい相手であっただろう。しかし「ビックマック三十個」は実際には「パン」というにははばかられる〈妥協〉が見えるように思う。この〈妥協〉は「ワグナーを聴くこと」が「労働ではない」が、襲撃の達成ではなかったように、「ビックマック三十個」を得たとしても「パン屋襲撃」ではなく「ハンバーガーショップ襲撃」と形を変えてしまうことになる。そしてこれは、下手をすると「僕」とのコンビ解消に至るかもしれない危険な賭けである。「僕」との関係の破綻を誰より恐れている「妻」があえて「マクドナルド」を選ぶとは考えにくい.。ただ、〈妥協〉で「マクドナルド」を選ぶほどに「妻」は「僕」との関係に危機感を感じていたのは確かである。
 ここで私が着目したいのは客席に眠っていた「学生風のカップル」である。表のシャッターが大きな音を立てたり、「僕」と「妻」が従業員を柱に縛り付けているときにも「まだ深海魚のようにぐっすりとねむりつづけていた」二人.。そしてラストシーンで眠る「妻」。この物語において「眠る」という行為がどのような役割を果たしているか、深くは追究されていない。しかし襲撃途中で見たカップルの眠りが「僕」にとって「それほどまで深い眠りをもう長いあいだ目にしたことがなかった」ということをこの「学生風のカップルふたりの(若さゆえの)平穏だとすると、「妻」が眠るころには「海底火山」は姿を消しており、いつ噴火するかわからない〈夫婦〉の関係が、平穏へと導かれているのではないかと予測できる.。このように〈眠り〉は.一見すると平和を象徴するものとして描かれている。
 では本当に「僕」と「妻」は幸せな〈夫婦〉の形を手に入れたのだろうか。確かに「海底火山」の姿は見えなくなった。しかし「僕」は「一人きり」になってしまったと言っている.。本当に幸せで平穏な生活を手に入れた二人だったら、一人ではなく二人で「ボート」に乗っても良いのではなかろうか。しかし物語はここで終わってしまい、その後については深く言及されていない.。
 この『パン屋再襲撃』で描かれている夫婦は一般的に『ねじまき鳥と火曜日の女たち』『ねじまき鳥クロニクル』に描かれている「僕」の「オカダ・トオル」と「妻」の「オカダ・クミコ」ではないかと言われている.。特に明記してあるわけではないが二人の職業を見れば共通性は明らかである.。そしてこの「オカダ・トオル」と「オカダ・クミコ」二人の関係が少しずつ崩壊し、そのひずみに対してどこまでも深く追究していく物語が展開している。
 そのことを踏まえても、「海底火山」である〈夫婦〉の抱える危うさは、けして姿を消したわけではなく、見失ってしまっただけで、「妻」は「眠る」ことによって現実に目をつぶり、逃避しているのではなかろうか。
 〈夫婦〉という〈集団〉について、村上春樹はどこまでも深く切りこんでいこうとしている。普段その存在についてあまり考えることのない空気のような、下手すると希薄になりかねない〈夫婦〉という関係は、非常に曖昧で、簡単に崩壊しうるものだということを提示し、揺るがすことによって私達に一種の警告を与えているように思う.。そして村上春樹特有の暗喩法によってその警告すらもじっと見つめなければ分からないものとなっている。このことは私達がいかにものをよく見ないでぼんやり生きているか、つまり〈集団〉の中に埋もれて、〈個人〉として考えることが欠如しているのかをも示しているのである。
 このように〈誰もその存在を問い直したりしないもの〉を改めて見つめなおし、その存在に対して〈疑問視〉すること……それは私達の、一見すると幸せな生活のすみずみに忍び寄る恐怖を明るみにすることであって、〈文学〉における〈ミステリー〉性だといえよう。村上春樹は絶えず〈現実性〉と〈物語性〉を織り交ぜながら、〈文学〉と〈現実〉の境界線をぼかし、私達の前に問題をつきつけるだろう。私達はそのときに、問題にうまく立ち向かうことができるだろうか。〈現実〉に起きた問題が、〈物語〉世界に起きた問題をも超える問題となったとき……そのときこそが本当の恐怖である。だからこそ、私達はつねに村上春樹の発信するアンチ・テーゼに耳を澄まさねばならないのである。
                (4160字・原稿用紙換算10枚強)