フィル・イン・ザ・スノウ  彼は凍えていた。  彼の愛車の中、運転席のシートの上で身体を小さくして。  彼女は凍えていた。  その助手席、身をかがめて、身体を震わせる。  寒さを凌ぐための出来る限りの手を尽くし、口数も減った。ガソリンが無くなり、暖房 が効かなくなってからもうどれくらいの時間が経ったのかわからない。もしかしたら、ま ったく時間は経ってないかもしれない。フロントガラスの前にいつのまにか出来上がった 厚い雪の壁が全てを遮る。  「ねぇ・・・ もういいよ。野村先輩・・・」  彼女が弱々しい声をどうにか絞り出して彼に告げる。  「裕予ちゃん、なんとか、なるって。な」  彼の声は掠れ、いつものような張りはない。  次の瞬間、助手席にある彼女の身体がゆっくりと彼の方に倒れてくる。とさぁっ、とい う服が擦れる音がして、彼の膝の上、彼の視線のまえに、安らかな彼女の顔。よく整えら れた髪が彼女の顔にまとわりつくが、払う様子も無く、ただ倒れている。  「裕予・・・ちゃん・・・? 」  呼びかけようとしたつもりだった。こんな情けない声なのか、自分は。嫌悪する、自分 の無力さを、そして同じように自分もなるのだろうという現実を。  ずさっ、という音がして少し車が後ろに傾く。  野村尚紀、24歳。羽田裕予、23歳。  付き合いだして、もう2年になる。そんな二人が、冬の休みを利用して羽田の実家があ る宮城の方へ一緒に出かけることは、ごく自然な事だった。  「やっぱり、こっちとは、格段に寒さが違う? 」  「もうこっちにきて5年になるし・・・ よく分からないよ。冬なんて何処だって寒い よ」  そんな会話をしながら尚紀の車は北上する。途中東京で一泊し、さらに北へ。  「しっかし、裕予ちゃんの実家って、結構な田舎だよね」  「あはは。まぁね」  インターを降りて、小さな道を進む。地図と裕予の土地カンだけを頼りに、くねくねと した道を進む。  「雪が・・・ 強いな・・・ 」  「吹雪いてくるかも」  「恐いな」  「うん」  雪のせいで視界は随分厳しい。曲がり角なのかどうかも分かりづらい田舎道の上、ゆっ くりと車を進める。  「迷った・・・ ウソだろ・・・ 」  地図と風景が一致しない。尚紀は焦る。  「大丈夫だよ。まだなんとか出来るよ」  たしなめるように裕予が言う。しかし、その言葉のなかにも不安がこもる。時間を追う に連れて不安は大きさを増す。そして、嫌な予感は当たる。  「野村先輩っ! ここは直進できない! 」  彼の視界と彼女の視界は少しだけ違った。それが大きな違いを作った。一瞬バランスを 失った車体は尚紀が必死にハンドルを切ったにも関わらず、そのまま転げ落ちる。二人を 大きな浮遊感が襲う。景色はもの凄い勢いでスライドし、裕予が恐怖に耐えきれず叫び声 をあげる。カーステレオは奇天烈なピッチシフトのかかった音をスピーカーから出しつづ け、木が車体を打つ音がサラウンドし、雪と地面を擦る音が弾ける。  すさぁっ・・・  恐怖と喧騒はあっけない音で収束した。大きな衝撃が二人を襲って、軽く嗚咽させたが それでも耐えられる範囲のものだった。  「はぁ・・・ はぁ・・・ はぁ・・・ 」  裕予の涙の混ざった深く荒い呼吸を必死で抑えようとしている。  尚紀は少しの間の後に現実を理解し、遅れてやってきた恐怖感のせいで嘔吐感をおぼえ た。なんとかしてそれを鎮めると、状況を把握しようと、裕予と窓の外の様子に眼を向け る。  「エアバッグ、出なかった、な・・・ 」  意味の無いことを口にした。  「そうだ、ね。折角だから、ちょっと見たかったかも、ね。あははは・・・ 」  くだらない会話で少し冷静さを取り戻した二人は、同時に、窓の外にもう訪れた吹雪と、 残り少ないガソリンに気付く。  「ちょっと、外見てみる・・・ ん? くっ!」  落ちたショックで雪のマットの中、ドアの半分くらいの高さまで車がめりこんでいるら しく、思うようにドアが動かない。  「横転とかしなかっただけでも奇跡みたいなもんだな・・・ よし、少し開きそう」  尚紀の精一杯の力で、ドアが少し開いて、外気が入り込んでくる。しかしそれと同時に 小さく冷たい雪の粒と、刺すような強風が車内に侵入する。尚紀は思わず飛び退くように して少しだけ開いたドアを閉める。  「うそ・・・・ 」  そうとだけ呟いて裕予はうなだれる。  陽はもう見えない。ブルーに近い闇がゆっくりと降りかかる。雪に埋まった車の中、時 間の流れは遅い。  「・・・はぁ」  ため息ばかりが二人の口をつつく。しかし、やがてそれも止まり、エアコンのファンノ イズだけが車内を支配する。  「わたしたち・・・ ここから出られないのかな・・・? 」  「・・・わからん」  本当は力強い言葉をかけたかった。でもそんな言葉しか出なかった。そんな気休めを言 えるような状況じゃないことを分かりすぎていた。そしてまた沈黙。  「こんなこと、ここで言うことじゃないかもしれないけど」  沈黙を破ったのは裕予。  「えっと・・・ えっとね、赤ちゃんがいるって言われた」  尚紀のなかにまた大きな衝撃がくる。  「このあいだ、体調崩して病院いったら、やけにさ、長く検査をするもんだから、どう したんだろって。そうしたら産婦人科に行ってくれって言われて。で、行ってみたら」  「ちょっと待てよっ! 」  大きな声が狭い車内で反響して裕予の耳を衝く。  「おい、俺たちが最後に会ったのって3ヶ月くらい前だろ!? 俺の出張があったり仕 事の都合だか何だかがあったりで、ずぅっと会えなくて、それでだろ! どういうこと!?  言えよ! 」  随分と落ち着いた眼を下に向けたまま、彼女はゆっくりと口を開く。  「・・・浮気、した」  ハンドルに両手を預け、眼を合わせないまま彼は身体を震わせる。時折、片方の手でハ ンドルを叩いて必死で自分を落ち着かせようとする。暗い影が彼のなかに落ちていく。  「なんで・・・ どうして・・・ 」  それだけを言うことが精一杯だった。  「少しだけ、似てたの・・・ 思い出しても全然そんなことないのに、その時はそう思 ったの。 ・・・伊那瀬先輩に似てるって」  二人の出会いは学生時代に所属していたサークルだった。  野村尚紀と伊那瀬湧司。彼らは同学年で学科も同じ。出身地も近く、気もよく合った。  伊那瀬湧司と羽田裕予。伊那瀬には恋人がいた。それでも裕予は伊那瀬に惹かれた。  野村尚紀と羽田裕予。尚紀は羽田の気持ちを知った上で、裕予に惹かれた。 それだけの、ことだった。  その関係が少しだけ、動いた。冬の日、尚紀と伊那瀬が同じ日に卒論を提出した日。と ても空気が冷たくて北風が強く、そこにしては珍しく重い雪雲が空を支配していた日の夜。  「それじゃ、野村先輩。いつもありがと」  裕予のアパートの前で、彼女はいつものようにそうやって尚紀の車の助手席を降りる。  「うん。ああ、今日は悪いな。うちらに付きあわせちゃって」  「いいよ。楽しかったよ。卒論、おつかれさま」  二人とも赤い顔をしている。卒論提出記念、ということでサークルの飲み会好きの人間 が集まって騒いでいた名残。  「それより、先輩、運転だいじょうぶ? 」  「お? おうおう。まかせとけって」  「お水、出そうか? 」  尚紀はいくらかの疑念と期待を持って、素直に彼女の申し出に応じた。マンションの階 段を上がって、部屋の扉の前、裕予はハンドバックから鍵を取り出して扉を開ける。  「そんなに綺麗じゃないけど・・・ あがって」  「いや。いい。ここで待ってるよ。すぐのことだろ? 」  「寒くない」  「ぜんぜん! 」  そんなはずがないのに。北風はマンションの通路の隙間を縫いながら大きな音をたて、 酔いと熱を奪っていく。  「はい、お水」  ほどなくしてガラスのコップに水を入れて裕予が戻ってくる。尚紀はそれを受け取ると、 一気に飲み干す。  「くわぁぁっ! 」  大げさにアクションする。小さく笑う彼女。  「なぁっ! 結局どうだったんだよ」  コップを右手に持ったまま尚紀はそう彼女に問う。  「なにって・・・? 」  「なにって、なにだよ。湧司のことに決まってるだろ」  少し、彼女の表情が暗くなる。  「湧司先輩に? うん。言ったよ。恋人になれなくても構わないから、最後に思い出を くださいって」  「で、で、どうなんだったんだよ」  勢いを保とうとしてはいるが、うろたえを隠しきれない。  「そういうことは、できないって。君は大事な後輩だし、彼女にも申し訳が立たないか らって。あはは。先輩がそんなこというから、他の人に気持ちが入らないのにね。気付い てないんだよね、ある種の天然」  「だったら! 」  一際大きな声を出す。アルコールと不安定な感情のせいで自分の声のヴォリュームのコ ントロールが効かない。  「・・・ごめん。やっぱり何でもない」  何が言いたかったのかは覚えている。自分の所に来ればいい、と。でも言えなかった。 なぜかは分からない。でも言えなかった。  「・・・えっとね。野村先輩が好きだって言ってくれたの嬉しかったよ。こんな自分で も好きになってくれるんだなぁって」  北風が一瞬、強く吹く。  「・・・さんざん、言っておいて、ズルイなっていうのは分かってる」  北風に乗って彼女の身体がふわっと動いて髪が舞い上がる。軽い衝撃のあと、やさしい 香りとともに尚紀の胸に彼女の顔がおさまった。初めて抱く彼女の身体は細くて、手折っ てしまえそうなほどだった。心地よい重さを感じながら頬を重ね、守るようにして抱きし める。白い雪の粒が、二人の髪に少しずつ絡まる。  「・・・雪、だね」  「・・・ああ、久しぶりだな、雪なんて・・・」    吹きすさむ風は、雪をのせ、木々にぶつかって不協和音を奏でる。彼を取り巻くもの全 てが悲壮なアルペジオを刻んでいるように感じる。雪はフロントガラスに積もり、ワイパ ーを押し込める。その押し込められたワイパーのように尚紀はおもてを伏せたまま、ただ ただ重苦しい空気に潰されていく。  「・・・何もこんな時に言わなくてもいい、よね。ただ、罪悪感がずっと広がって、野 村先輩に会う前もずっと憂鬱で、会わずに別れてって言おうって、そうすればきっと先輩 に迷惑はかけないって。でも、でもね、先輩が楽しそうにいつもみたいにやってくるのを 見たらね、全部現実消せるかもって、忘れられるかもって、無かったことに出来るかもっ て」  早口でそこまでまくしたてると、また沈黙が包む。  「・・・記憶、引きずって、ばかり」  雪の積もる音が重くなる。FUELランプが赤く光りだす。タイムリミットが近付いて いるという感覚は不思議とない。  「とりあえず、な」  尚紀は運転席の座席を倒すと、動かなくなった軽自動車の収納スペースに置いてあるス ポーツバッグからスノーボード用のウェアを二人分とりだして、ひとつを裕予に渡す。  「もうそろそろ暖房が止まる、と思う。寒くなる前に着こんでおいた方がいい」  涙を目じりに溜めたまま、裕予は無言でそれを受け取って袖を通す。  「とにかく、生き延び、たい。全部それから、考えよう」  視界はもう無かった。暗い闇の足音が残酷に響く。不安で裕予が見た尚紀の目の周りは いつもより赤くなっていた。吹雪は収まる気配はない。長い長い、沈黙、恐怖、後悔、重 い重い、空気、苦痛、崩れそうな意識、繋ぎ止めようと切り出した会話、続かない。  「・・・やっぱり、こっちは寒いね」  エンジンの音の消えた車内は不思議なくらい静かだった。冷たい身を切るような波動が 容赦なく二人に襲い掛かる。雪に包まれた車内はゆっくりと冷やされていく。  「・・・寒い、ね。こんなとこで18年過ごしたんだよね。エライよ」  「・・・毎日、こんな寒いわけじゃ、ないよ。たまには晴れたりするの」  震える。震えが疲労を作るなんて思ってもみなかった。疲れた。震えすぎた。間抜けな 話だ。ガタン、という音がして、裕予の身体が視界から消える。  「リクライニングするなって。寝たらヤバイ」  「・・・疲れただけだよ。ちょっとだけ・・・ 」  尚紀も座席を倒した。一瞬の浮遊感が束の間の開放を与えてくれる。  「野村先輩もじゃない・・ 」  「ちょっとキツくなってきた。さすがに」  「もうっ・・・ 」  光は何処からも差し込まない。星の無い夜空よりも暗いフロントガラスの向こうを眺め る。風の吹きすさむ音は消えないが、身体は寒さに慣れたのか、それとも感覚が痺れて駄 目になったのか、以前ほど強い冷気を感じる事は無い。  時間切れ、か。尚紀はそう感じた。  膝の上の裕予はもう力を失っている。その頬を撫でても、唇にキスをしても反応は返っ てこない。ただ規則正しい吐息だけが彼女を確かめさせてくれる。  そのまぶたの上に温かい滴が落ちる。  今、僕は何を感じ、何を思えば良いんだろう。  言いたいことは山のようにあるはずなのに、感じたことは心から溢れそうなのに、君と 出会った頃みたいじゃないか、ちくしょう! 何も言えない、何も伝えられない、ひとつ ひとつの気持ちがただ、どこかからこぼれていく。  今、こんな気持ちになるなんて思ってもみなかった。  意識が不思議なほど覚醒していく。思ったように身体は動かない。その小さな胸を抱き しめようとしても、身体が言うことを聞かない。  「誰がどう言おうと、裕予ちゃんの子どもは、僕の子どもだ」  そんな簡単なわかりきったことをどうして言ってあげられなかったんだろう。彼女が聞 いてくれるうちに、僕が伝える事が出来るうちに。また彼女のまぶたの上に滴が落ちる。  雪はきっとまだ降り続いている。  明日もきっと降り続いているだろう。  僕らの後悔はきっと雪に流されていく。  その隙間に見えた僕らの純粋と一緒に。  だから綺麗なんだ、けがれのない白。  そして、僕らの純粋が誰かのそれと違うように、結晶の形も違うのだろう。  雪の中に身体を投げ出したくなった。無理だったけれど。  その感覚を最後に尚紀のすべてがゆっくりと閉じていった。暗い世界に向かう。不意に フロントガラスに目を向ける。雪の壁の向こうからひとすじの光が訪れて、フロントガラ ス一面に乱反射して小さな光が輝きのスポットライトを作ったかと思うと、それはガラス の向こう全てに広がって光のカーテンを作り出した。一瞬のあとカーテン全体がひときわ、 大きく、強い、光に、なって。  暗転。