ソーマ  僕はそんな理由で産まれてきたんじゃない。  無意識のうちにその呪詛のような言葉が僕の頭の中を浮き沈みする。そんな理由に一切 の心当たりがあるわけはなく、ただなんとなく、ただ漠然とした憤りとともに、現れる言 葉。何の為に産まれたのか、そんなことを僕は考えたことなんてないし、この先も考える ことはないだろう。考えたって答えが出るわけはないし、目の前に僕に課せられた色々な ことが転がっている。そんなヒマなんてない。  「それでは、ごゆっくりどうぞ」  今、ひとつだけ僕は嘘をついた。そんなヒマなんてないってのは、ウソだ。もしもそう だったらこんなドーナツショップで、ひとりカウンター席に座ってドーナツをかじるなん てことは有り得ないだろう。もっともそんなヒマがなくなったとしても僕にこの退屈で無 益な時間を無くすことなんて有り得ないのだが。  今日の店員は見たことのない店員だった。その割に仕事は落ち着いていて、笑顔のとて も可愛い店員だった。彼女はその細い腕をぐいっと動かして、氷を小さなスコップですく い、グラスへ転がして、アイスコーヒーを注ぎ込む。その動きひとつひとつがどうしてだ か、僕を捕らえて離さない。  「コーヒーのおかわり、ください」  僕は彼女が近くにいるのを見計らって言うと、はい、と彼女は優しい微笑を浮かべなが ら、僕のカップへコーヒーを注いでくれる。フレッシュはいらないと僕が言うと彼女はま た、それでは、ごゆっくりどうぞ、と言って、カウンターの方へ歩いていった。  ドーナツショップの制服の胸にあるバッジのおかげで、彼女の名前は「いのうえ」さん だということだけは分かった。だからってどうということではない。「いのうえさん」と話 しかけることができるとでもいうのだろうか、そんなバカなことがあるわけがない。  コーヒーをすすった。注いでもらったばかりのコーヒーはまだ暖かくて僕の身体をすこ しだけ暖かくしてくれた。まどろむような景色と空間のなかでカフェインが微かな覚醒感 のラインを描く。見事なまでに苦しい。それはカウンター越しに見る彼女の微笑みと同じ だ。その微笑みよりも、複雑な注文をレジに打ち込む姿の方が断然、自然な彼女の姿を映 し出していて苦しい。少しだけ、彼女のそのままの姿を見てみたいと思った。裸になって も彼女はあの微笑みをするのだろうか。そんなはずは無いだろうと思う。こんなのはばか げた妄想で、そんな状況はあり得ないし、あり得た時にはきっと彼女は僕にそのままの微 笑みを見せてくれるに決まっている。  気がつくと「いのうえさん」の姿は見えなくなっていた。きっとカウンターの奥へと行 ってしまったのだろう。彼女は戻ってくるのだろうか? わからない。もしかしたら彼女 は奥で休憩のドリンクをとりながら恋人に電話しているのかもしれない。それとも不似合 いなほど重いタバコをふかしているのかもしれない。どちらにしても僕には関係のないこ とであり、僕を酷く興奮させる光景であることには違いなかった。ガラス窓の向こうは、 すでに灯りが街をゆっくりと照らし出していた。太陽は消え、月はビルの陰で窮屈そうに している。そろそろ、帰る時間だ。  席を立って、扉をあけて、汚れた空気を、彼女の吐息の混ざらない空を少しだけ吸って 駅へと歩き出した。風は生暖かく、居心地の悪い気分にさせたけれども、すぐに慣れた。 電車に乗ってしまえば、またいつものこと。  彼女はそれいらい見かけなくなった。理由はわからない。僕はまだ、あのドーナツショ ップのカウンター席に座って、あまり自信を持って人には言えないような小さな恋心を産 んだりしている。それに理由はない。きっとしょうがないことだから。