ザ・ガソリンズ発書評コーナー/
『分析おことわり!  私たちは摂食障害とこんなふうに生きてきた
  (NABA編,東峰書房,2002.3.30)を読んで

 

  この本が意図するところとは、もしかしたら全然ずれているかもしれませんが、 思い出したのは、エマニュエル・レヴィナス(フランスの哲学者)の一節です。ユダヤ人である彼は、第二次世界大戦中の捕虜収容所内で、次のように書きました。
  「もちろん私たちは食べるために生きているわけではないが、生きるために食べるというのも正確ではない。 私たちは、飢えを感じるから食べるのだ。欲望には、思考にあるような底意などない。欲望は、含むところのない強烈な意志である。 この意志以外は、すべて生物学的なものだ。欲望をそそられるもの一切が、欲望の果てるところであり、目的であり終点なのだ。」 (E.LEVINAS, DE L'EXISTENCE A L'EXISTANT,1947, Editions de la Revue Fontain/1990,J.VRIN,・e, p.56 /邦訳『実存から実存者へ』p.56西谷修訳参考。)
  摂食障害とは即座に結びつかないかもしれませんが、しばし、レヴィナスの話しにおつき合い下さい。 すなわち……、20世紀の前半を一ユダヤ人として生きるということは、人として当然の自己愛を激しく傷つけられながら生きていく、 ということを意味していました。幼少期からの相次ぐ迫害の中で、レヴィナスは、食べ物への通常の欲求をはるかに凌ぐ、 強烈な飢えを実感したのでした。ふつうの飢えをはるかに凌ぐ飢え、それが、上の引用にある、「強烈な意志」とも言うべき「欲望」です。 この「欲望」は、生物としてかろうじて生かされるんではなくて、世界を味わい愛し愛されて生きたいという、極めて強い渇望でした。
  今から考えると、レヴィナスが抱いた渇望は、人として当然の権利なんですが、レヴィナスにとっては、 それは「当然の権利」という言葉で保証されるような事柄ではなかったのです。 それに、今考えても……つまり戦争・災害・非常事態という条件を取り払ったとしても、レヴィナスが感じて語ったような渇望は、 普遍的なものであるように思います。少なくとも、そういう渇望は、私の中にもあります。多分、そういう渇望あればこその今の自分です。 『分析おことわり!』の発言者達のメッセージにも、やはり、同じような渇望を感じてしまい、胸がいっぱいになります。
  とはいえ、たしかに、二次大戦中のユダヤ人と平穏無事な?日本人の状況は、比較にならないと言う人もいます。そんなことを言う人に限って、 「いったい何が不満でこの平和な日本で心の病などになるんでしょうかねえ?」と問いかけてきます。 (実際、つい最近も問いかけられました。まったく無礼な質問です。)多分そういう人には、 生物学的な欲求を越えるような欲望が一つもないのだと思います。それか、想像力がないかのどちらかだと思います。 私自身は、摂食障害とはちがうけど、身近に起こった禍災をきっかけに感情障害に陥った病歴があるので、 正確にとはいかないけれど、この本の発言者達の状況を察するに難くありません。
  人にとって本当に切実な渇望というものがあるとして、そのような渇望が、もし万が一、家庭やそれ以外の場所で、 何らかの形で強い圧迫を受け傷つけられたとしたら、多分、人は期せずして、心の病なり障害を身のうちに抱えることによって、 自分と自分の渇望を守るんではないか、と思います。そして一度障害を請け負ったら、症状を止めることが大事なのではなくて、 渇望を満たすことが大事なんだと思います。『分析おことわり!』のすごいところは、発言者(摂食障害と生きる人)が、 聴衆(同じく摂食障害と生きる人たち)に向かって、自分の話しをプレゼントすることによって、渇望を癒している……みたいなところ。
  この本を読んで、自分が、向精神薬なしには心の病は癒せないと本音では思っていたことに気がつき、驚きました。だけど、向精神薬は、 所詮、人の「生物学的」なところにまでしか力が及びません。だから、多分、ありのままの自分と他人でいられるNABAのような仲間達が必ず必要なのです。 NABA様、元気でいて下さい。そしてまた、この本の発言者の一人であり、志半ばで倒れられたまゆさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

                                 陽子 

                                   




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