スピカ


空に浮かんでいるおぼろ月はあんなに生ぬるそうにぼやけているのに、私たちを包む空気は冬の気配をかすかに残していた。
まだ冷える夜に身体を震わせながら、私はコンクリートブロックの上に座り直した。
車が前を通るたびに強い光が闇を裂く。
私の横で樹が溜め息をつきながら大きく伸びをした。
「何?そんなに疲れたの、部活」
「ん… まぁね」
言葉を濁して彼は上を見上げたまま黙ってしまった。
久しぶりに会ったのにつれない奴。私は内心唇を尖らせた。 
毎日多忙で、学校も違って、お互いまともに顔も会わせることもできない日々が続き、やれやれと思っていたときに唐突に鳴った着信音。
死ぬほど嬉しかったのに。
ひとりで有頂天になっていた昨日の夜はどこへ行ってしまったのだろうか。
「あのさ」
暗い空を仰いだまま樹は呟く。
「お前おとめ座だったよな」
「は?」
何の脈絡もないことを聞かれ、つい素で返してしまった。 かわいくない返事をしたことに言葉が口から出たあとで後悔する。
「あそこに青白い星見えるだろ? 強い光の」
そんなことは全く気にする様子もなく、樹は空を指差した。 星よりも先に彼の指先に視線が止まって、不覚にもきれいな指をしてるなぁ、なんて考えてしまった。
月が出ているというのに、彼が示した方角には目を引く星が輝いていた。
「だいたいあそこらへんがおとめ座って呼ばれてるところ」
「ふーん」
「俺の豆知識」
そう言って樹は鼻を得意そうに膨らませて私を見た。普段の少し大人びた雰囲気からたまに垣間見せる彼の幼い表情にいつもやられる。 さっきまでの沈んだ気まずさを、許してしまいそうだ。
「ちなみに、あの星は太陽の150倍の明るさで光ってるんだよ」
実は私、かに座なんだけどなぁ…という言葉を口の中でもてあまし、私は「へぇ、そうなんだぁ。」と大げさにうなずいてみせた。
「あ、お前馬鹿にしてるだろ」
少しむっとした顔をして、樹は私をこづいた。
「物知りな男っていいと思わない?」
「樹のは雑学な気がするけど」
「星の話がいけなかったのか…」
真顔で、あまりにも生真面目に言うので、私は思わず吹き出してしまった。
ひとしきり笑ったあと、樹を見るとおもしろくなさそうに遠い目で私を見ていた。
「変だな」
「何が?」
「これでもっと好きになるはずなんだけど」
「誰を?」
「俺を」
それを聞いた瞬間、私はどうしようもなく照れくさくなり、ずっと我慢していた1ヶ月分の想いが胸に広がるのを感じて、慌てて樹から目を反らした。
何となくばつが悪くなって、ごまかしながら時計を見たらもう少しで9時になりそうだった。 人通りもまばらだ。
伸び始めた新緑が頭上の高いところでさわさわと揺れる。遠くで、車の走るくぐもった音が聞こえた。
静まり返った闇の中でふいに目が合った。
時間が、止まる。


初めてキスをしたとき、その柔らかさに戸惑い、驚いた。
それまではちょっと進んだ友達の話や、雑誌の特集から吸い出した情報でいろいろ淡い夢を見ていた。 よくいうレモン味の話とか。
一瞬のことで、実際味のことなんかよくわからなかった。期待で膨らみに膨らんだ風船があっけなくパチン、と割れてしぼんでしまったような感じ。
こんなものなのか… どこがレモンの味なんだろう?


樹は澄んだ、いつも見ているようでどこか違う瞳で私を見つめていた。 それはくすぐったくて、切ない眼差しだった。こらえきれずに私は微笑んだ。樹もつられてはにかみながら笑う。
「もう1回、する?」
ぎこちなく抱き寄せられ、ふとあの星が視界に入る。太陽よりも強い光が、あの1点に凝縮されている。私は彼以上にぎこちなく、彼の肩に頭をもたせ目を閉じた。
またあの感触が私を支配する。
体の中にじわじわと暖かいものが広がっていくのを感じた。
いつの間にか生まれたその感覚は、ゆっくりと私の中を上昇し、胸を埋め尽くす。
こっそり、彼の唇が触れた部分をなめてみる。
甘いような気がした。
レモン味も、バニラの味もしない。 けれど、私はキスを甘いなぁ、と思った。
もしかしたら恋の味なのかもしれない、とさっき樹が教えてくれたスピカを見ながら考える。青白い、鋭くも柔らかい光を放つ星。樹の目みたいだった。
その時の雰囲気とか、気持ちとか、そんな「恋」全てが反映されてキスの味は決まるのかもしれない。
人の気持ちによって違うから、レモンの味もするだろうし、もしかしたらアメリカのジャンク菓子みたいに死ぬほど甘いキスもあるだろう。 逆に、無機質なキスに味はない。
私の胸は小さく、きゅんと鳴った。
無性に樹の存在が愛しくなった。無意識のうちに学生服をつかむ手に力が入る。 それに気づいた樹はあのきれいな手でやさしく私の頭をなでた。
数ヶ月後も、私は色褪せることなく彼の隣でスピカのように輝いているのだろうか?

私はまだ微かに感覚の残っている唇をそっと指で撫で、噛みしめた。

                                                               2004.6.28

 

 

 

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