夏の魔物



またひとつ、彼の心に黒い石が増えていく。


恋に破れるたびに私はずる賢くなる。
学ぶ、というより次に痛い目に合わないようにするにはどうすればいいかを習得する。
羊の皮をかぶることを覚えてしまったのだ。
自分でも知らないうちに。

デアイなんてみんな欲しがるわりには、案外近くに転がっている。ただ、目を留めて磨こうとしないだけ。もしくは選り好みをする。育てようともせずに最初から切り捨てる。


それは、流れていく日々に晴れ間が増え、梅雨の影が薄くなってきた頃だった。
見上げると悔しいくらいすっきりした青空。
気の早いせみの鳴き声が遠くで聞こえる。
「ハル」
帰り、バスを待っている時に名前を呼ばれ、振り返ると懐かしい顔があった。
「あぁ、川島」
久しぶりに見る彼の顔は陽に焼けていた。褐色の肌に白い歯が映える。
「珍しいね、この時間にいるの」
「うん。今日でテストが終わったんだ。部活は2時で終わり」
「へぇ」
中学時代同じクラスだった川島は、私の数少ない男友達の1人だ。
「いいね。うちの学校はあさってからテストだよ」
「ずいぶん変な時期にテストあるね」
「遊べないようにわざと日程ずらしてるらしいよ」
通り過ぎていく車のガラスから反射する光に目を細めながら、私は肩を落とした。
「遊ぶ相手もいないのに」
「ハル彼氏いないの?」
「いるわけないじゃん」
本気で驚いている川島を横目に私は溜め息をついた。
本当は3月までいたのだけど、そんなことまで言えるわけがない。言う気もしない。あの人の顔を思い出そうとすると、胸の奥がキリキリと痛み出す。私の恋は、冬と同時に終わった。
「おかしいなぁ、田原が見たって言ってたんだけど。ハルの彼氏」
「えっ!!? 何それ」
そういえば一度、会っているところを見られた気がする。不覚。
何ともいえない渋い顔で黙りこんだ私を見て、川島は状況を察知したらしい。
「あーごめん、そういうことか」
頬をかきながら苦笑する。
「いいよ、そんなに気にしてないし」
本当はまだ、心の膿は引かずにジュクジュクしているけど。
無理に笑って見せた。
「ハル、目が笑ってない」
その時、どこからともなく軽快に渚のシンドバッドが流れてきた。
「あ、俺だ」
川島が慌ててポケットからケータイを取り出す。大きな手。
それにしても、バス遅いな…
「ハル」
ぼんやりとしていた。川島の声で我に帰る。
「確かK女子だったよね?」
「…? うん」
「メル友作る気ない?」
「は?何をいきなり…」
「いや、なんか友達が紹介しろって言ってんだけど。お前も一回見たことあるやつだよ。去年の文化祭で焼きそば作ってた」
「あぁ、…うん」
ぼやけた像が脳裏に浮かんだが、ピントが合っていない。あの日の焼きそばのソースの匂いだけが思い出される。花より団子という言葉を思い出した。
わかったふりをして、適当にあいづちを打つ。
川島の学校は全国的にも有名な私立の男子校だった。
去年友達に無理矢理文化祭に誘われ、しぶしぶついて行ったことがある。
別学の学生は普通以上に異性に対して貪欲だ。それを思い知る。
「彼氏いないんだったら、メールしてやってくんないかな?」


それが、彼との出会いだった。


今考えてみればらしくない決断だった。何も考えずに私はうなずいていた。

画面に映るアドレスを見て、私は溜め息をつく。
なんでこんなことにー…
彼の名前はモリと言った。
取り留めのない話をして、はずみで思い出すかな、と淡い期待を抱いてみたがやはり顔は浮かばない。
今度は焼きそばの焼ける音がした。
重症だ。


私は今でも昔の恋から抜け出せていない。
早く忘れたいのに、忘れさせまいとする何かが、私を押さえつけている。
あの日と同じ気持ちで私はあの人からのメールを待ち続けている。
もしかしたら――… 
中途半端な希望にしがみついてアドレスを変えられない。
なんて自分に甘いんだろう。
過去に執着してもしょうがないのはわかっているのに。
あの人との日々は私に重くのしかかり、腕に絡みつき、私の心を刺す。何度も、何度も。


  ハルはけっこう身長小さかったよね

モリはいつの間にか私のことを「ハル」と呼ぶようになった。
私は依然「モリくん」のままだ。

  うん 156cmしかない

今日もなんの意味も持たないメールをする。

  俺も結構小さいよ 170ないし

そうだったっけかなぁ、と私は思いをめぐらせる。
カウンター越しだったので、具体的な記憶がない。返事に困り溜め息をつく。
その時、私の中に黒い影がよぎった。

  でも私、背の低い人嫌いじゃないよ

なんでこんな安っぽい言葉を思いついてしまったのか自分でもよく分からない。
消去して別の返事を書こうとしたが、なぜかそのまま送信のボタンを押していた。
封筒の絵が画面を飛んで行く―… 私はぼんやりその画面を眺めていた。

モリは、あのメールを見て何を思うだろう。

返事が来るまで少し時間がかかった。少なからず不安を感じていた私は、着信音が鳴った途端に、勉強を放り出してケータイに飛びつく。

  嬉しいな

それだけだった。
待っていたあの時間は、何のために費やされたものなのだろう。
果たして、彼の心に占める私の位置は変わったのか。
減っていないといいけれど。


目を閉じると、ふわふわ揺れる茶髪と、あの日着ていた青いシャツがぼんやりと浮かび上がる。
旅行先によくある顔を入れて写真を撮るパネルのように、顔の部分だけきれいに切り取られている。
イメージの中の彼はそんな感じだ。
もちろん、焼きそばの匂いも相変わらずする。


夏休みも中盤にさしかかった頃、モリと連絡がとれなくなった。
数日前に出したメールの返信がいくら待っても来ないのだ。
何かが欠けた日々が続く。でも、私はそれに気がつかない。
翌日、友達に宿題の答えを聞くためにケータイを開いたら、モリからメールが届いていた。
すっかり忘れていた。 件名は「花火」

  ごめん ばーちゃんち来てる
  今川の上で花火やってるんだけどすごいきれいだよ


画像がついていた。
私は川の上で咲き乱れる大輪の花を期待する。
今年はまだ花火を見ていない。
近所の花火大会は雨で流れてしまった。
カーソルを動かす。


闇の中で手を振っている男がぽつんと映っていた。
その背後に光らしきものがちらちらと見える。花火が開いて散り、光が消えようとしてるところだった。
それ以外は闇に包まれている。

なんだこれ

花火が主役みたいな内容なのに。
この人、正真正銘のバカだ。あんなに偏差値高い学校に行ってるのに。
思わず吹き出してしまった。

私の深いところで、何かが息づいていた。

  花火、きれいだね

本当はこれっぽちもきれいだとは思えなかったけど。
なんとかして彼の心に作用したかったのだ。
どういう気持ちで彼はあの写真を撮ったのだろう?
覗いてみたくなった。

夏には何かが潜んでいる。
それは私の内側を騒がせる。
同じ顔をして、不敵に微笑む。

いつの間にか手に汗をかいていた。


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中学の時から川島は背も高く、成績も良かったので、もてていた。
そんな彼と楽しげに話す私は、一部の女子には良く思われていなかったらしい。
名前も知らない別のクラスの子にすれ違いざまに「男好きのくせに」と言われたこともあった。
「誰が?」
心の中で私は思う。
川島とはただの友達でしかないのに。
別にかわいく見られようとか、そんな邪なものを持って接していないのに。
そんな剥き出しの言葉をぶつけてくる人間のほうがよっぽど汚いと思う。
私は世界で1番、媚を売ることがキライだ。


それなのに


まさか、私がすることになるなんて思わなかった。
心とは裏腹に甘い言葉を紡ぎだす指先。
みんな、私の中にいる魔物のせいだ。
これは女の本能というものなのだろうか?


無機質なはずの文字には、いろんな思いが幾重にも重なっている。
もう1人の私は何を企んでいるんだろう。
密かな含み笑いが聞こえる。

恋に一喜一憂するのなんて、かっこ悪いよ。



夢を見た。
目の前にはずっと道が続いている。
他には何もない。
見たことがある、と私は思った。否、私はこの風景を”感じた”ことがある。
誰かが私の手を強く握った。
視線を上げていくと、その先には―――…
名前を呼ぼうとしたが、唇が震えて声が出せない。


「俺、昼寝してたらハルの夢見たよ」
「なにそれ どんなことしてた?私」
「広い道が遠くまで伸びてて、俺はハルと一緒に歩いてるんだよ。手つないで。
そしたらハル、泣きそうな顔で俺を見るんだもん」


くしゃりと笑った顔が私の胸をほじくり返した。息が苦しい。
これは、あの人の夢の中なのだろうか。おかしい。時制が狂っている。
乾いた手のひらの感触が懐かしかった。焦がれても、もう触ることもできない手。
夢は残酷だ、と肌で感じたら、涙がこぼれた。
そんな私を彼は静かな眼差しで見下ろす。
目が合った。私はすぐに目を閉じた。耐えられない。
思い出は痛いだけだ。


彼は夢に出てきた私の瞳の意味に気づいていたのだろうか。
何も映さない悲しみに溢れた眼を見て、何を思ったのだろう?


何の前触れもなく目が覚める。汗で額が濡れていた。
「また、さよならが言えなかった」
どんなに願っても会えないんだったら、もう少し眠っていたかった。
過去の彼と今の私をつないでいた夢。
痛みのぶり返しと、甘く、懐かしい感覚を私に残していった。
枕もとに置いてあったケータイを見ると、まだ朝の4:30だった。
昨日の夜モリが送ってきたメールが届いていた。
なぜか、ほっとする。
そして、そんな自分に焦る。


顔も、声も知らない人。
どうやって笑うのかさえわからない。
わからない、のに。


その夜、非常に珍しく川島から電話がかかってきた。
「何、どうしたの」
足の爪を切りながら私はだるそうに言った。
「ハル冷たい」
すねたような呟きに私は苦笑する。
「で、何か用?」
「別に用ってほどのことじゃないけど、モリとはどうなの?」
爪やすりを動かす手が一瞬止まった。この人はこんなくだらない質問をするためにわざわざ電話をかけてきたのか。
「うーん まぁ ぼちぼち」
「なら良かった」
「?」
「モリ、お前のこと気に入ったみたいだよ」
私の返事を聞かずに川島は唐突に電話を切った。
受話器から聞こえるツーツーと言う音が鼓膜を震わせる。
爪やすりを持ったまま私は呆然としていた。
耳に残る川島の声。
もう1人の私は寝返りをうって微笑む。
「本当はもう気づいてるんでしょ?」
挑戦的な眼で、私を見上げていた。



どきどきが止まらない。
横になっても、なぜか目が冴えてしまう。
目を閉じる。
青いシャツ。

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 あさってあいてる?


それは、バス停で会った川島のように、私の見たあの人の夢のように唐突だった。
緊張もしていないのに手が震える。

 なんで?


 ハルに会ってみたいなぁって思って


正直に私の心臓は高鳴る。
私が置いた黒い石が、彼の心に溢れていた。
冬で止まっていた恋の歴史は、夏の色に塗り替えられる。
少し深呼吸をしてみた。口が何かに引っ張られるかのように緩んだ。
ずっとそのままだったアドレスも、これで変えられる。
今すぐ、窓の向こうに立ち昇っている入道雲に飛びこみたい気分だった。


私の中の魔物は、ただ密かに笑っているだけだった。

  

                              END                 2004.8.26