私小説「湯布院の思ひで」

序章 地獄変

 かうして今思ふと、私は恥の多い人生を送ってきました。私が初めてコンピューターと出会ったのは、我が家に「ファミコン」が来た時であろう。小等部の三年生か四年生のお正月であったと思ふが、記憶が定かではない。しかし、特にコンピューターと意識してそれに接していたわけではなく、「兎に角おもしろい、新しき玩具」であった。「ロード・ランナー」や「ドラクエ」、「スーパー・マリオ・ブラザーズ」などに、うち興じた思ひ出がある。お母さん、軽井沢から碓氷峠への途中で落としてしまった麦藁帽はどこへ行ってしまったのでしょうね。

第一章 海と毒薬

 初めてキーボードに出会ったのは、学友のうちにあった「ファミリー・ベーシック」であった。ギヤマンの輝き、ビロードの手触りになんともモダァンなかほりを感じた。それは「ファミコン」に繋げて用ひる物であり、生年月日による簡単な占ひで遊んだ記憶がある。それから程なくして、私もキーボードを手に入れる事になった。それは「MSX」である。私は当時小等部の高学年であったが、そろばん教室の学友にその存在を知らされた。それ以来コントローラーにて遊ぶ「ファミコン」がなんとも幼稚に思へ、キーボードを用ひる「MSX」に惹かれていった。背伸びしたき年頃であったのであろふ。そして「お勉強に使ふから」という理由で父親にねだって買ってもらった。最初は記憶装置としてカセットテープ付きのサンヨー社製のMSXを買ってもらった。用途は相変わらずゲーム専用であった。「ボコスカウォーズ」、「ハイドライド」、「信長の野望(全国版)」などの、「ファミコン」に比べて幾分大人っぽいゲームと出会った。また、そうしばしばゲームを買ってもらえなかったので、雑誌に載っていたプログラムを打ち込んで遊んでもいた。少しばかりベーシックの勉強にもなったやうであった。しかしこの頃私は肺結核を患ひ、軽井沢のサナトリウムにてしばらく療養することになる。

第二章 金閣寺

 中等部に進む頃には「MSX」よりも能力の高き「MSX2」を持っている学友が周りに現れ始めた。私も例に漏れず再び父親にねだって、ソニー社製の「MSX2」を買ってもらった。たしかRAM64KでVRAM128Kの製品であったと思ふ。後にお年玉を費やして3.5インチの2DDフロッピー・ドライブも購入した。ただの「MSX」に比べれば圧倒的に映像が綺麗になり、ゲーム自体の大容量化で複雑なゲームも出来るやうになった。「三国志 II」、「イース I & II」、「ハイドライド III」などに熱中した。
 だんだん「MSX」のゲームが下火になってきた高等学校の頃、学友のうちにある「PC-8801」や「PC-9801」のゲームに熱中するやうになった。よく学友の邸へ麻雀を打ちに行き、面子が余ると率先してその家の高級パソコンのゲームにうつつを抜かしていたものである。「提督の決断」、「大航海時代」、「エメラルドドラゴン」などが、その頃の好きなゲームであった。
 大学に入学して少した経った頃、部活の先輩よりいらなくなった「X-68000/XVI」を譲ってもらふことになった。高等学校の頃ではあまりにも高級機すぎて誰も持っている友達などいなかった機種である。これもまた例に漏れず私の「ゲーム専用機」となった。「パワー・モンガー」、「太閤立志伝」、「エメラルド・ドラゴン」などのゲームが思ひ出深ひ。そしてその日の朝、弟が自殺した。

第三章 斜陽

 大学の研究室に配属され初めてマッキントッシュ(「IIci」、「7200/90」)と出会ふ。マッキントッシュの存在は少年の頃から知っていたが、どのようなことに使える物なのかは全く知らなかった。また米国のパソコンだから「英語が出来ないと使えないだろふ」という先入観があり、興味もまったくわかなかった。ところが初めて出会う「GUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)」といふ物に驚愕した。ポインタをマウスでもって動かし、クリックやドラッグなどで一通りの操作が出来るのである。なんて便利なシステムなんだろふと感心した。
 さらに同時に複数のアプリケーションを起動することが可能で、かつ数字や文字、画像などのデータをアプリケーション間でやりとりできるということにも、ただただ驚ひた。それまで私が出会ったコンピューターにおいては、別のアプリケーションを使おうとすると一度コンピューターの電源を落として、ROMなりフロッピーなりを挿入して再び電源を入れなければならない物であり、ましてやアプリケーション間で書類のやりとりを行ふことなどは、まったくもって不可能であった。
 極めつけは「インターネット」である。その広大な仮想世界と可能性に驚き、「電子メール」の簡便性にも感心させられた。「マッキントッシュは何でも出来るすばらしき物である」と思った。しかし時代はアップル社の低迷期であり「いずれマッキントッシュは無くなるだろふ」との周囲の噂から、敢えて自分でお金を出して買おうとは思はなかった。

終章 和解

 大学院修士課程の二年生の頃である。研究室の古いマッキントッシュ「LC III」を手に入れた。初めての自分のマッキントッシュであった。その頃研究室にて現役として用ひられていた「7600/120」や「DT/233」に比べると、恐ろしく低能力であった。しかし古いOS(漢字トーク7.5.5)や古いアプリケーションを使う分にはまだしも我慢できた。されどとてもじゃないが「インターネット」の出来る代物ではなく、「パワー・マック」に対して強きあこがれを抱ひていた。やがて「PowerMacintosh 6300/160」を先輩より中古で購入した。しかし私にとってまだ「遅く」感じられた。その後様々な事情で、わずか一年あまりの間に「パフォーマ 6410」、「セントリス 610」、「クアドラ 650」などのマッキントッシュ達が私の元に来たり、そして去っていった。
 あれは私が主にパフォーマを用ひていた、秋のはじめの出来事であった。パフォーマにも「遅さ」を感じていた私は「G3カード」を買おふと決心し、町のマッキントッシュ屋に向かつた。新しきマッキントッシュ「G4」が発売された直後のため、それまでの「G3」は在庫処分のため販売価格が下落しているのを目にした。その店でさんざん逡巡した挙げ句、「G3カード」を買うつもりであつた私は結局「G3」本体を買ってしまふことになった。「SCSIカード」と「450メガヘルツ」を我慢して「DVDドライブ」搭載の「400メガヘルツ」の機種を選んだ。正規価格の半額近い値段であったと思ふ。「1.3ギガのMOドライブ」、「七千二百回転の大容量ハードディスク」を装備し、今現在に至っている。ディスプレイはもちろん同色の「アップル・スタジオ・ディスプレイ」である。こちらは生協の限定販売品だった物を十数人を相手にジャンケンにて勝ち抜き、半額の値段で購入できた。
 私は今のところコンピューター環境には大いに満足している。だが生憎、私のマッキントッシュに名前はまだない。何か考えてやりたいところである。

Me and Macintosh
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