理論どおりに言えば1974年から1982年の間にポップスに全く興味が無かった人たちはアバとい
うスウェーデンのポップグループが世界的に旋風を巻き起こしたという事実を見逃してしまったこ
とになります。そうでなければ当時はまだ子供だったかまだ生まれていなかった人たちでしょう。
あり得ない事ではないのですが、1990年代のものすごい勢いのアバブームの再来さえ見逃して
しまったと考えるのも到底不可能でしょう。そうでなければアバが解散した後の約20年というもの
いまだにアグネタ、ビヨルン、ベニーやフリーダの曲を追い求める人たちが何百万人もいる、とい
う事実をどうやって説明できるでしょう。
このコレクションに収録された37曲はアバというグループや彼らの音楽について納得いくものに
なるはずです。これは1972年から1982年の間にアバの手で作られ所属するレコード会社である
ポーラーミュージックから発売されたシングル曲をひとつのパッケージにまとめた始めての試みで
す。さらにはこの期間内にスカンジナビア以外の国のレコード会社にライセンス供与されてシング
ル発売されたものも何曲か収録されています。
注:実際のところ70年代のスウェーデンではラジオでポップスが流れることがあまりなかった為、ポ
ーラーミュージックから出されたシングル曲のうちの何曲かはアバの母国で発売されていません。
売り出しても放送されないならばそこで真っ先に売るのはおかしいだろう、とポーラーミュージック
は考えたわけです。それにスウェーデンではアルバムが爆発的にヒットしていたので、販促の意味
合いでシングルカットする必要もなかったと言えるでしょう。
とは言ってもポーラーミュージックから発売されたシングル曲は少なくとも北欧のどこかの国で売ら
れてはいました。売り上げ面ではこれらのシングル曲のほとんどは大成功を収めたと言えます。
他の多くのヒット曲メーカー(アバのメンバーはそう呼ばれることを嫌っていたようですがここでは
正直な気持ちを込めて)60年代のフィルスペクターやモータウンがそうであり、80年代のストック
やアイトケン、ウオーターマンたち、さらにはスウェーデンの転換期の作曲家であるマックスマー
チンのように、アバもまた彼らの全盛期にはシングルヒットチャートでは押しも押されもせぬ存在で
あったわけです。過去の記録を紐解いてみるとわかることですが、イギリスで発売された19曲の
シングルのうち9曲が第一位に輝いており、オーストラリアでも15曲のうちの6曲が第一位をゲット
し、スウェーデンでは15曲のうち12曲が3位以内に食い込んでいます。日本でも11曲が連続して
10位以内を獲得し、そのうちの4曲は第一位でした。オランダでも23曲が5位以内となり、そのうち
の8曲は第一位となりました。西ドイツでは21曲がトップテン入りを果たし、そのうち9曲が第一位
でした。
これらの驚くべき大成功と相対的に比較して良く言われるのがアメリカでの不調でした。1970年
代のアメリカで英語圏以外のアーティストにとっては如何ともしがたいことでしたが、言い訳をす
るならばスウェーデンのグループが当時のアメリカ市場で20位以内に10曲も送り出し、そのうち
の1曲は第一位に輝く快挙を成し遂げたのはやはり大した偉業だったと言わねばならないでしょ
う。ポーラーミュージックは当時他のレコード会社の信頼おける仲間達とどの曲をシングルカットし
たらよいかを一緒に考えていました。方法は簡単で最も多くの票を獲得した曲を選んだようです。
事情通のアーティストの一部の人たちから情け容赦なく叩かれ、時間という試練に激しくさらされ
たこともありました。ヒットチャートの統計やヒットの可能性は別にしても、アバが長い間愛され続け
重要な意味をもってきたことは、このCDに入っている多くの曲が時を超えて勝ち取った地位を見
れば明らかなことです。これらの曲はその曲名を言えばすぐにメロディーが浮かび、映画監督が
ムードを醸しだしたり記憶を呼び起こすために用いるような曲なのです。
自称上手なアバのカバーバンドから流行に敏感なヒットメーカー、さらにはメロドラマの製作者に
至るまでこれらの曲はある意味では真のアバストーリーと言うことができ、これらはすべて1970
年代に始まったのです。
PEOPLE NEED LOVE
1970年代の前半には巷の流行歌の多くに繰り返し現れてくるテーマがありました。イギリスの
ニューシーカーズというグループの"I'd Like To Teach The World To Sing(世界に歌を教えたい)"
という曲に代表される1960年代後半のヒッピーたちの平和、愛、相互理解といったメッセージを
より口ずさみやすい歌にのせた形のものでした。
ビヨルン、ベニー、アグネタ、フリーダといった当時のスウェーデンではおとなし目な路線の4人
がこの曲を最初のシングルカットに選んだのは不思議ではありませんでした。この曲はまたベ
ニーとビヨルンのコンビが最初に英語で書いた現代的なポップスでした。曲の中で男性と女性
が交互に歌うやり方はイギリスで活動していたブルーミンクというグループにヒントを得たもので、
彼らの主なレパートリーもやはり世界の平和を願うものでした。
実際、ビヨルンとベニーがこの前年に発表しているスウェーデン語での曲の多くも同様のテーマ
を打ち出していました。そのうちの数曲は、ビヨルンの婚約者であったアグネタやベニーの婚約
者のフリーダがバックボーカルとして歌ったことがありました。(アグネタは1971年にビヨルンと
結婚)。4人の声をミックスすることでとても魅力的な音楽ができたので、1972年の3月には4人
全員の名前を前面に出してレコードを発売することになったのでした。
けれどもこの時点では永久にこのグループで行くと決めていた訳ではありませんでした。という
のもアグネタもフリーダもそれぞれ自分たちの活動をしていて、別のレコード会社と契約していた
からです。少々おさまりの悪い「ビヨルンとベニー、アグネタとフリーダ」というグループ名が表す
とおり、事実上は、ビョルン&ベニーの次のアルバムに収められる予定のニューシングルに二人
の女性陣がゲスト参加している、という形でした。1972年の6月にこの曲がリリースされた時には、
当時のスウェーデンでシングルとアルバムが一緒になったチャートで17位を記録しています。
このヒットチャートからアルバムを取り払うと、チャートのピーク時にはシングルで第7位のヒット
となり、華々しいデビューを飾り4人でのグループで行くというコンセプトがいけるかも、と思わせ
る出だしでした。(1972年)
HE IS YOUR BROTHER
歌詞的には同胞たちに手を差しのべよう、というテーマを引き継いだこの曲は彼らの2曲目のシン
グルとなり1972年の11月に発売されました。この頃にはグループとしてアルバムを出そうと決めて
いたようです。この曲はスウェーデンの売上チャートには入らなかったものの、ラジオでは良くかか
りました。1977年にアバがヨーロッパやオーストラリアでツアーを行った時に最初のアルバムから
は唯一この曲のみがコンサートで演奏されました。(1972年)
RING RING
1972年の秋、ビヨルン、ベニーそして作詞家兼マネージャーであったスティッグアンダーソンは
1973年に開かれるユーロビジョンコンテストに曲をノミネートするように誘いを受けたのでした。
この曲を書き終えた時には彼らにはスウェーデン予選を勝ち抜けるだろうと確信を持ってました。
先行の2曲のシングルを出した際に、4人がグループとして活動すればきっとすごい魔法を生み
出せるに違いない、という大きな手ごたえが得られていました。1973年の1月にレコディングさ
れたこの曲は後に分厚い音のアレンジやスタジオ録音、そしてアバサウンドとして定評を得た
アグネタとフリーダの歌声が織りなす味わいなどのミックスへの道への第一歩であったわけです。
ちょうどそのころアバにとってかけがいのないエンジニアであったマイケル・B・トレトウがアメリ
カの伝説的存在であったフィルスペクターのすばらしいレコードの多重録音テクニックを伝え
聞きました。トレトウはこの曲の録音に彼の手法を取り入れてみようじゃあないか、と提案した
のでした。その結果は関係者一同目を見張るものとなりました。
しかし、いよいよコンテストのスウェーデン予選では、審査員には‘リング・リング’がいかに優れて
いるかが十分理解してもらえなかったようで、アバは3位に終わりました。アバ関係者ががっかり
していたのもつかの間のこと、この曲のスウェーデン語版と英語版、そして同名のアルバムが、
シングルとアルバムのミックスしたヒットチャートで上位3位を争うヒットとなりました。この成功を糧
にしてアバはその後の活動の活路を見いだしたのでした。しかし、実際にはビヨルンとベニーが
他のアーティスト達に曲を提供するのを止め、アグネタやフリーダも従来からのソロ活動を止める
までに約3年の月日を要しました。(1973年)
LOVE ISN'T EASY(But it sure is hard enough)
フリーダが彼女のクリスチャンネームであるアンニフリッドという名前を歌手名として使うのを
止め、ポーラーミュージックで「ビヨルンとベニー、アグネタとフリーダ」という名前でグループ名が
刻まれた最初で最後の曲です。リングリングの時も似たようなグループ名を使っていましたが、
その時はフリーダではなくアンニフリッドと言われていました。
外国で使われた他のグループ名の一例としては「ビヨルンとベニーそしてスウェーデン娘」とか
「ビヨルンとベニー、アンナとフリーダ(時にFridaはFriedaとつづられた)」などというのもありました。
事実、アバ活動において外国ではアグネタはアンナとして紹介されることも多々ありました。メキ
シコにではもっと過激な名前が使われ"ロススウェコス(スウェーデン人)"として紹介されたのです。
6月にリリースされたこの曲はリングリングのアルバム収録曲の中では最後に録音されたものの
一つでした。男性と女性が交互に歌う形式のちょっと時代遅れのスタイルをとったのですが、そ
の後この形式ではほとんど出されることはありませんでした。(1973年)
WATERLOO
リングリングの1年後、ビヨルン、ベニー、スティッグは再度ユーロビジョンコンテストの予選に出場
する招待を受けました。まず最初にビヨルンとベニーがキャッチーなメロディーを作曲し、次にステ
ィッグがそれに見合う詩を考える番でした。スティッグはまず適切な曲のタイトルを考えることにし
ました。「ハニーパイ」というのが最初に思いついたのですが、その頃良く引用されていた慣用引
用句の本でWaterlooというのを見つけたのでした。後にウオータールーというアルバムタイトルに
なった曲を73年の12月にレコーディングしましたが、候補曲としてもう一曲ライバルが現れました。
それはアグネタが歌うゆっくり目のバラードである「アスタマニャーナ」でした。結局ウォータールー
が選ばれました。それは従来のユーロビジョンコンテストの習わしを打ち破ることができる型破りな
曲だったし、アバというグループを世界に売り出すにあたって、フリーダとアグネタ両方でリード・
ヴォーカルを歌う曲のほうが好都合だろうと判断したからです。
1974年の2月、この曲はスウェーデン予選を勝ち抜き、4月6日にはブライトンで行われた本選で
優勝を勝ち取ったのでした。スウェーデンが優勝したのは始めてのことですし、おそらくアバの人
生の中でそのイメージを確立した最も重要な瞬間でもあったと言えるでしょう。4人はビートの効
いた、ハミングしたくなる曲調で歌い、とてつもなくきらきら派手な衣装で登場しました。この曲は
すぐにイギリス、アイルランド、西ドイツ、ノルウエー、ベルギーでチャートの第一位に上りつめ、
他の国でもほとんど5位以内を確保する勢いでした。(アメリカでも第6位) その後の18ヶ月ほど
はまだアップ・ダウンがあったものの、アバが世界レベルで成功への道を一歩踏みだしたことには
間違いありません。
1974年の3月にはこの曲のシングルをリリースし、アバの3つ目の名前が使われることになりま
した。「ビヨルンとベニー、アグネタとフリーダ」という名ではあまりに呼びづらいということで、ステ
ィッグがABBA(アバ)という名前にしよう、と言い出したのでした。それは各メンバーのクリスチャ
ンネームのイニシャルをそれぞれとって作ったものです。実際1973年の初春には新聞でこのアバ
という名前が使われ始めていました。けれどもスムーズに移行するためにウオータールーのアル
バムやシングルをスウェーデン版や英語版で売り出す際にはグループ名を「アバ(ビヨルンと
ベニー、アグネタとフリーダ)」として明記したのでした。単純にABBAという名前だけになったのは
ポーラーミュージックからリリースされた次のシングル曲からでした。(1974年)
HONEY HONEY
ユーロビジョンソングコンテストで優勝した後にどの曲を出すのかはアバと契約した各国のレコー
ド会社によってまちまちだったので、聞く相手によってその戦略も違ったものとなりました。(スティ
ッグの考え方は各国ごとに適したレコード会社と契約するようにしたのでした。そうすることでマー
ケティング活動やプロモーション活動を一所懸命やってくれるレコード会社を見つけることができた
のです。)ポーラーミュージックはウォータールーの中のハニーハニーを次のシングルとして選び4
月にリリースしました。その例にならった各レコード会社もそこそこのヒットを得ました。(1974年)
SO LONG
1974年の春と夏にはウォータールーをひきさげてアバはヨーロッパ各国でプロモーションツアーを
(次に来る曲の構想も練りながら)行いました。8月の終わりにはスタジオに戻り次のアルバムに
向けた曲のレコーディングにとりかかりました。次のアルバムのタイトルはシンプルに「ABBA」と
つけられました。
真っ先にレコーディングされたこの曲が次にリリースされるシングル曲ともなりました。この曲は
1974年の11月にリリースされました。自信作という訳にはいきませんでしたが、ウォータールー
ばりのアップテンポでビートの効いたこの曲はヒットしそうな予感がありました。
スウェーデンと西ドイツのファンには受け入れられたのですが、他の国ではぱっとしませんでした。
イギリスではチャートに顔を見せる域にも達しなかったのです。このことから教訓が得られました。
―シングルは、どんなスタイルであれ、いつでも最善のものでなければならない―ということ
です。(1974年)
I DO, I DO, I DO, I DO, I DO
アルバム「ABBA」の中では後の方に録音されたのがこのロマンティックでかつヨーロッパの1950
年代のヒットソングに強く影響を受けた曲です。オーケストラのリーダーであるビリーヴォーンが演
奏するサクソフォン楽曲への賛辞もある意味込められた曲です。アルバム「ABBA」がリリースされ
る直前の1975年4月にいくつかの国で大ヒットしましたが、これまたイギリスではぱっとしませんで
した。(1975年)
SOS
SOSはアバにとってクラシックなポップス曲の始まりと言えるでしょうか? 確かにそういう人たちも
います。この曲は明らかにイギリスやアメリカでのポップスの伝統を引き継いではいますが、一方
では巧みに配された副旋律、重層的なスウェーデンの物悲しい調べ、そしてアグネタの切々と訴
えるようなヴォーカルが、比類なく際立たった特徴を形作っています。従来よりユーロビジョンソン
グコンテストの優勝者は一発屋で終わるというジンクスがあったのですが、この曲のヒットでアバ
はそれを見事にぶち破ることになります。1975年の夏の終わりから秋にかけて、いくつかの国で
トップ3に輝きました。アメリカでも15位、イギリスでも6位になり、同国でその後連続して18曲をト
ップ10圏内に送り出す快挙に最初の1曲となります。(1975年)
MAMMA MIA
アルバム「ABBA」の一番最後に収録されたのがこの曲で1975年の5月にレコディングされました。
この曲は、このアルバムから世界的にリリースされたシングルとしては4枚目の最後のシングル
曲で、オーストラリアでは1975年にアバブームの大爆発となった象徴とされました。
アルバム「ABBA」からはプロモーション用の映像が4本収録され、"I Do,
I Do, I Do, I Do, I Do"と
"Mamma Mia"がオーストラリアのテレビショーで放映されて以来、国中みんながアバ信奉者になっ
てしまったのでした。この熱狂的な現象は1977年3月にアバがオーストラリアでツアーを行う時にピ
ークを迎えます。アバの曲の中でも最もキャッチーであるこの曲はオーストラリアのヒットチャート
で第一位を獲得し10週間連続その座をキープしました。その快挙はイギリスやアイルランド、西ド
イツでも成し遂げられました。(1975年)
FERNANDO
1975年の8月の始めにスウェーデンで短期間のツアー活動を終えたあと、アバはスタジオに戻り
2曲を作りました。これらは後にビッグヒットすることになります。でも曲が完成するにはその後数
ヶ月の歳月を要することになります。これらのひとつがこの曲で、もともとはフリーダのソロアルバ
ムである"Frida ensam (Frida Alone)"に納められるスウェーデン語版用に作られたものでした。
ビヨルン、ベニー、スティッグはこの曲が世界的にヒットする可能性に気づいたので、英語版を作
成して1976年の3月にアバのシングルとしてリリースしました。この曲は発売されたどこの国でも
第一位か二位に輝くヒット曲となりました。オーストラリアではビートルズのヘイジュードと並んで
14週間連続第一位になった記録を持っています。(1976年)
DANCING QUEEN
もしもウォータールーがアバの歴史の中で最も名をはせた瞬間だったと表現するならば、ダンシン
グ・クイーンは最も名が知れた曲であり、さらにもっともヒットした曲でもあります。そのリズムは19
74年のディスコブームでジョージマックレーが築いた画期的なヒット曲に少なからず影響を受けて
おり、レコーディングはフェルナンドとほぼ同時期に行われています。この曲はアルバム「Arrival」
から最初にリリースされたシングル曲でアメリカで唯一第一位に輝いた曲という意味でも意味の
ある曲です。事実、リリースされたほとんどすべての国で1位をとるといった感じでした。(1976年)
MONEY MONEY MONEY
1975年から1976年始めにかけてヒットしたSOS、ママミア、フェルナンドの販売促進に躍起になっ
ている期間は次のアルバムに必要な曲のレコーディング活動は停止状態となっていました。
でも3月にはレコーディング活動に割ける時間ができ、その結果がArrivalというアルバムとして実
を結ぶことになります。
キャバレーショーの色を帯びたこの曲は5月にレコーディングされ、制作中のコードネームはジプ
シーガールなどと呼ばれていたこともありました。1976年の11月にリリースされ、その後フリーダ
がリードボーカルを勤めるショーケースとして、以前のヒットと並んで世界的に売り出すことになり
ます。(1976年)
KNOWING ME, KNOWING YOU
アルバム「Arrival」からシングルカットされた最後の曲です。ちょうどアバがヨーロッパ各国をツアー
で回っていた1977年の2月にはレコード屋さんの店頭に並び、翌3月にはオーストラリアでライヴコ
ンサートが行われました。
この曲はアバのメンバーが4人の成熟した大人である、という事実を真に反映させた最初の曲で
あると言えるかもしれません。本物の憂愁をたたえつつも、同時に親しみやすいポップ・ソングに
もなっている――このこともまたアバが当時の他のほとんどのポップ・アーティストたちとは違って
いる点でした。ついでに言えば、この曲の制作途中のコードネームは"Number One, Number One"
でした。シングルチャートでの成功を予感させるものであったするならば、イギリス、アイルランド、
西ドイツ、メキシコ、南アフリカでの成功で実現されたと見なすことができるでしょう。(1976年)
THE NAME OF THE GAME
3月31日にはヨーロッパやオーストラリアのツアーも終わり、1977年には5枚目のアルバムとなる
「The Album」の作成に取り掛かりました。最初に録音されたこの曲は、当時の彼らとしては珍し
く低音(バス)とシンセザイザーのリフ(反復)で始まる入り組んだ曲で、年末にアルバムのファー
ストシングルとしてリリースされることになります。この曲はスティッグが作詞を手伝った最後の
曲としても知られています。スティッグはアバのマネージャーやポーラー社の社長としての仕事が
忙しくなるにつれて作詞家としての存在は薄くなっていきました。1977年の頃にはスティッグは
曲のタイトルとしてどんな名前をつけるかといったアイデアを提供するぐらいとなっていました。
それでもビヨルンやベニーが認めているとおり、スティッグにはいい曲を考え出す才能がありま
した。SOS, Dancing Queen, Knowing Me, Knowing Youといったヒット曲には皆スティッグのアイ
デアが盛り込まれています。(1977年)
TAKE A CHANCE ON ME
優れたポップスの作曲家にみられるように、ビヨルンも歌詞の響きというものがその意味と同じく
らい重要であると考えていました。しばしば響きの方がもっと重要なこともありました。この曲はそ
ういう意味での代表曲です。この曲のタイトルはビヨルンの頭の中にひらめいた"t-k-ch"という
音の組み合わせから"take a chance"というフレーズに変化させた中から生まれたものでした。
アバの元気の良いはじけるような曲の中のひとつであるこの曲は1978年の1月にリリースされ
ました。アメリカでは2番目にヒットした曲で第三位に輝きました。(1977年)
EAGLE
アルバム「the Album」からシングルカットされた3番目でかつ公式には最後の曲ですが、曲自体は
アルバム制作中の初期段階に作られ、コードネームは"High High"と呼ばれていました。1978年
の5月にシングル用に短く編曲されてリリースされました。この曲はすべての国でシングルカットさ
れたわけではなく、イギリスやアメリカなどではリリースされませんでした。それでも西ドイツ、オラ
ンダ、ベルギー、スペイン、スイス、ジンバブエなどの国でトップ10を達成しています。(1977年)
SUMMER NIGHT CITY
1978年の春にアルバム「the Album」のプロモーション活動をやっていたさなかのこと、後にヴー
レ・ヴーというアルバムになる曲のレコーディングを始めています。5月にはポーラーミュージック
スタジオが正式に完成し、そこで最初に完成したのがこのビージーズに影響されたサマーナイト
シティーです。アルバムセションから最初にシングルカットされたことでも知られていますが、ヴ
ーレ・ヴーのLPの作成にはほぼ1年もかかっており、結局この曲はそのアルバムには収録さ
れませんでした。1978年の9月にリリースされたこの曲は母国スウェーデンのポップスチャート
のトップに輝くことのできた最後の曲となってしまいました。ちなみに、1位になった10月6日は、
偶然にもフリーダとベニーが9年半越しの交際を経てついに結婚した日でもありました。(1978年)
CHIQUITITA
この曲は「ロザリータに抱かれて」いるかつての恋人のことを詩にした?というのがオリジナル
バージョンのテーマでした。それは1978年の12月にテープに録音されました。サイモンとガー
ファンクルの「コンドルは飛んでいく」に触発されて編曲したバージョンはその後まもなくレコー
ディングされ、チキチータとして1979年の1月にリリースされました。ニューヨークで開催された
ユニセフの"Agift of song"チャリティコンサートで主演を演じたことでも知られており、各国で
上位5位以内のヒットとなりました。1979年の国連の国際児童年への協賛として、今日に至
るまでこの曲から発生するすべての利益はユニセフに寄付されています。(1979年)
DOES YOUR MOTHER KNOW
1979年の4月にアルバム「Voulez-Vous」が発売されたのと時を同じくしてこの曲もリリースされまし
た。この曲はビヨルンがリードボーカルに専念した最初で最後のシングル曲です。いくつかの国で
トップ10ヒットにはなったものの、後になってビョルン自身が、女性ヴォーカルで録った方がもっと
ヒットしたに違いない、と振り返っています。(1979年)
VOULES-VOUS
VOULES-VOUSはいわゆるABBAのディスコ時代のピークであり、そしてビージーズとの密接な
共同作業による曲です。興味深いことに、この曲は(ライブレコーディングを除いて)唯一スウェ
ーデン国外、つまり ビージーズのアンディ・ギブが彼らのディスコ時代におけるほとんどのレコ
ードを作った、マイアミにあるクリテリア スタジオで録音された曲です。この曲は1979年2月1日
のレコーディングセッションの、ほんの数日前にバハマで作曲され、アルバム「VOULES-VOUS」
製作期間の終わりごろに録音が終了しました。(1979年)
ANGELEYES
この曲は、もともとはシングル「VOULES-VOUS」のB面でしたが、イギリスでは両方A面として
発売されました。その結果、ANGELEYEが人気を博し、ついにチャートの3位まで登りました。
他のほとんどの国では、VOULES-VOUSがA面として発売されましたが、ANGELEYESはベル
ギーで1位、スペインとオランダでトップ5になりました。(1979年)
GIMME! GIMME! GIMME! (A Man After Midnight)
アルバム「VOULES-VOUS」は1979年の春に完成し発売され、ABBAは9月から始まる予定の秋の
北米・ヨーロッパツアーの準備を始めようとしました。アルバム作成のため長期に渡ってのハード
ワークで疲れてはいましたが、ABBAはツアーのために新曲が欲しかったのです。最終的に、ビヨ
ルンとベニーが、10月に発売されたGIMME! GIMME! GIMME! (A Man After Midnight)を完成させる
までのひと夏の間、たくさんの努力が払われました。この曲は世界的には、Chiquititaを除いて、
アルバム「VOULES-VOUS」から発売されたどのシングルよりもヒットしました。(1979年)
I HAVE A DREM
ツアーが1979年の11月中旬に終わるとともに、アルバム「VOULES-VOUS」からの最後のシング
ル、楽天的な賛歌「I HAVE A DREM」が発売されました。子供たちのコーラスを配したこの曲は、
12月の「国際児童年」にタイミング良く合わせて発売されました。(1979年)
THE WINNER TAKES IT ALL
シングルの洪水だった1979年の後では、暫く間を開けた感じになりましたが,1980年にシングルが
発売されました。年の初めから、3月の3週間の中断を除いて新しいアルバムのために曲が作曲さ
れ、レコーディングが続けられました。この中断は前年の北米・ヨーロッパ−ツアーの延長である
日本ツアーのためのものでした。このツアーはABBAの最後のツアーとなってしまいました。
しかしながらABBAは、6月には次のアルバムからのシングルにふさわしいと思える曲を完成させ
ました。他に並ぶものが無いほど最上のアグネタのヴォーカルを配した「THE WINNER TAKES IT
ALL」は、ビヨルンが認めたように、数年前の彼とアグネタの離婚に関する悲しい経験が歌詞に
色濃く表れたものでした。
この曲は1980年に発売されましたが、それはABBAの成熟度合いを反映した、ABBAの最終期の
始まりを意味するように見えました。以前から心の痛みや耐えがたい別れを歌った歌はありまし
たが、この曲においては以前よりも運命の積み重ねや心の陰りといったものがより前面に出さ
れ、そしてより個人的な思いが表現されました。このような観察・分析は別として、The
Winner
Takes It Allはいくつかの国において、ABBAを再びヒットチャートの1位に戻し、アメリカでもトップ
10のヒットになりました。(1980年)
SUPER TROUPER
1980年の9月の末には、新しいアルバムはほとんど完成しており、あと1ヶ月で発売できるほどで
した。しかしビヨルンとベニーはもう1曲真にインパクトのある曲が必要だと考え、ふさわしい曲を
完成させるべく作曲をはじめました。新しいアルバムのタイトルは既に「SUPER TROUPER」に決
まっていましたが、彼らはこのタイトルが新しい曲のコーラスにぴったりであることに気づきました。
努力の結果、ビヨルンはやや珍しい、スーパースターとしてのとてつもない世間からの注目とい
うテーマで歌詞を作り上げました。
この曲は、リードボーカルにフリーダを配し、彼女ならではの抑制と暖かさが特別にブレンドされ、
1980年11月にアルバムのセカンドシングルとして選ばれました。この曲はイギリスにおけるABBA
最後のナンバー1ヒットとなりました。(1980年)
ON AND ON AND ON
ビーチ・ボーイズはいつの時代もベニーのお気に入りのバンドであり、彼らはベニーにとって,
彼がABBAのメンバーであった間、レコード作成はかくあるべきである、という、レコード作り
全てにおける原点でありました。本当の、堅牢なプロジェクトであり、細部まで注意が払われ、
ボーカルのハーモニーにより力強い強調がされている。これはビヨルンとベニーがビーチボー
イズの創造の天才、ブライアン・ウイルソンから学んだものでした。
しかしながら、あちこちの数節は別として、この曲は ABBAが唯一、彼らのアメリカ的な関心への
賞賛をはっきり示した曲でした。ベニーによってナチュラルにファルセットで歌われたバックボーカ
ルを聞いて、ビーチボーイズのDo It Againのコーラスと比べてごらんなさい。ビーチボーイズの
リードシンガーであるマイク・ラブは、1981年の彼のソロアルバム「Looking Back With love」で
それは楽しそうにON AND ON AND ONを歌っています。
アルバム「SUPER TROUPER」のなかではもっともロックに近いON AND ON AND ONは、ポーラー
ミュージックではシングルとして発売されなかった曲のうちの1曲でした。しかし、いくつかの他の国
では彼らの幸運に賭けて発売され、オーストラリアではトップ10のヒットになり、日本では3位まで
のぼりました。(1980年)
LAY ALL YOUR LOVE ON ME
1980年代におけるABBAの曲のほとんどは、たとえば賛美歌風のSUPER TROUPEのように内省
的なものですが、LAY ALL YOUR LOVE ON MEは、このグループが今でも、クラブで躍る人達を
強烈にひきつける作品を送り出すことができるということことを証明しました。アルバム「VOULEZ-
VOUS」を彩っていたのは1970年代のディスコ調の曲ですが、その1年後に発売されたLAY
ALL
YOUR LOVE ON MEは、間違いなく1980年代のエレクトリックビートの原形となりました。ABBAの
メンバーと彼らのレコード会社のポーラーミュージックはこの曲をシングルカットするつもりはなか
ったのですが、1981年の春に、地域を限定して12インチシングルとして発売されました。LAY
ALL
YOUR LOVE ON MEはイギリスで第7位まで上昇し、当時まででは12インチシングルとしては最
高位を記録しました。この曲はアメリカでも、ビルボードのダンス/ディスコチャートで1位になり
ました。(1980年)
ONE OF US
1981年の3月にABBAは彼らにとって8枚目となるアルバム「THE VISITORS」の録音を始めました。
しかし、彼らがシングルとして発売するのにもっともふさわしいと感じたONE OF
USの作曲・録音
を終えるのには10月の終わりまでかかってしまいました。シングルとアルバムの発売予定まで、
あとたった数週間という時で、シングル化の決定が遅すぎたため、スゥエーデンのレコードショップ
にはアルバムが発売されたあとに店頭に並びました。それでも国際的にかなりのヒットとなりま
した。(1981年)
WHEN ALL IS SAID AND DONE
すべての地域でONE OF USがシングル第1弾として発売されたわけではありません。その例外の
なかでもっとも特筆されるべき場所のひとつが、WHEN ALL IS SAID AND DONEが発売され、トッ
プ30のヒットとなったアメリカです。この曲は1981年2月の、ベニーとフリーダの離婚が発表された
直後に作られました。ビヨルンは彼かこの曲の作詞をしたとき、この悲しい出来事が彼の心の底
にあったことを認め、フリーダは真に心に響く歌を歌いました。WHEN ALL IS SAID
AND DONE
はアルバムのなかでも、最も強力な曲の一つでした。(1981年)
HEAD OVER HEELS
再びアルバム「THE VISITORS」からのシングルを選ぶ時期になり、続いてのシングルは地域に
よって異なった選択がされました。その選択はポーラーミュージックによってなされ、ほとんどの国
では、やや軽い感じの、HEAD OVER HEELSが選ばれました。そしてチャート的にはABBAが世界
的に活躍を始めてからのなかではもっとも小規模のヒット・シングルとなりました。
HEAD OVER HEELSは,1,2カ国ではトップ5のヒットとなりましたが、その他の国々ではあまり売
れませんでした。今になって考えてみると、もっと魅力的なWHEN ALL IS SAID
AND DONEが後続
のシングルに選ばれていたら、どれだけうまくいっていただろうかということを考えてみると興味深
いです。(1981年)
THE VISITORS (Crackin’ up)
アメリカではHEAD OVER HEELSはB面に回され、アルバムタイトルのこの曲が2枚目のシングル
A面に選ばれました。歌詞は当時のソヴィエトの反体制について歌ったもので、ビヨルンは慎重に
言葉をあいまいに表現し、いろいろな解釈ができるようにはしましたが、ABBAが政治的な声明に
歩み寄った数少ない機会の一つでもありました。
サイケデリックさとインド風の調べのミックス、そして合唱部分の1980年代のシンセロックは、
ABBAの今までにない、興味深い新境地でした。残念なことにアメリカのチャートでトップ60に上っ
たほかは、他の国々では成功しませんでした。(1981年)
THE DAY BEFORE YOU CAME
1982年の最初の数ヶ月間は、ABBAの4人のメンバーは別々の活動をすることにしました。もはや
ABBAのメンバーは、彼らが数年前そうであったようには、お互いに親しい存在ではなくなってい
たことは明らかでした。しかし、5月には今まで通り新しいアルバムの作成を視野に入れ彼らは再
びスタジオに戻りました。しかしグループがなすべきことを全てし終えてしまったという潜在的な意
識が、もう一枚アルバムを完成するという気持ちをくじいたようでした。同年の終わりにシングルの
B面になった「You Owe Me One」、遅れて1993年に発売された「I Am The City」、いまだに完全
な形では発売されていない「Just Like That」の3曲だけが完成されました。
そのかわり、2枚組みの彼らのシングルを集めたアルバムを発売することとなりました(LP時代の
録音時間の制限から、このアルバムからは重要な曲が多くもれてしまいましたが)。このコレクシ
ョン「The Singles-The First Ten Years」には2曲の新曲が収められることとなり、8月にはメンバー
はスタジオに戻り、彼らの最後となった録音を行いました。彼らの最後の作品は、哀愁的なアグネ
タがリードボーカルのTHE DAY BEFORE YOU CAMEでした。
この曲は、製作途中ではDen lidande fageln(苦しい小鳥)と呼ばれており、ベニーが一人でスネア
ドラムを重ねて録音し、アコースティックギターのアレンジを行いました。この曲はABBAのレコーデ
ィングのなかでも間違いなく最高のものであり、彼らの絶筆としてはふさわしいものでありますが、
1982年の10月にシングルとして発売されたときにはさまざまな反応を呼び起こしました。長らく彼ら
の牙城であったイギリスでは32位になったに過ぎませんでしたが、ヨーロッパの数カ国ではトップ5
のヒットとなりました。
この曲は卓越したものだったにもかかわらず、ABBAのトレードマークであったヒットの感覚が明ら
かに欠けていました。のちにビヨルンが言ったとおり、この曲の朗読的な構成と、アグネタの‘性格
俳優的’な歌い回しは、明らかに彼とベニーがより劇場的な仕事のほうに関心があったことを示し
ています。この年にはベニーとビヨルンの2人にとって、作詞家のTim RiceとのミュージカルChess
の合作の計画−彼らが過去10年に渡って育んでいた夢の実現−が次第に魅力的になってきま
した。1982年の終わりになって、ついにABBAの活動を一時停止することを決定したので、彼らは
ミュージカルの作曲に専念することができました。(1982年)
UNDER ATTACK
ABBAがまだ存在している間に、ABBAの最後のシングルとして作成され発売されたのはUNDER
ATTACKで、この曲は1982年8月の彼らの最後のレコーディングセッションの間に録音されました。
ほとんどの国では1982年の12月にレコードショップに並びましたが、ポーラーミュージックは北欧
の国々では1983年2月まで発売しませんでした。オランダとベルギーでトップ5に入ったこの曲は、
そのほかのチャートをにぎわすことはなく、イギリスでトップ30に入ったのみでした。その理由の
ひとつは、もちろん成功したコレクションアルバム「The Singles-The First Ten
Years」に既に収
録されていたためですが、しかしもうひとつには、ABBAは以前とは変わってしまったということを、
レコードを買う人々に思わせたかもしれない,ABBA自体にも理由がありました。UNDER ATTACK
のビデオでさえも、4人のメンバーがカメラに背をむけて遠くへ歩いていくという終わり方で、潜在
的にかどうかはともかくとして、行く末を示したかのようでした。
ABBAは休暇をとることを決意しましたが、実際には再び一緒になることはありませんでした。ビヨ
ルンとベニーはその後数年間、ミュージカルCHESSの作成に没頭し、アグネタとフリーダはソロア
ルバムを録音しました。1980年代の半ばには、だれもABBAが再びレコーディングをするという幻
想は抱かなくなりました。(1982年)
THANK YOU FOR THE MUSIC
THANK YOU FOR THE MUSICは間違いなく、ABBAのもっとも有名な曲のなかの1曲ですが、
彼らにとってのメジャーなシングルではありませんでした。もともとは1977年のABBAのミニミュ
ージカル、’The Girl With Golden Hair’の1曲であり、限られた国でシングルとして発売されただ
けでした。EagleのB面として発売され、幾つかの国では、両方がA面として発売されました。これ
らの国々では、THANK YOU FOR THE MUSICはトップ5のヒットとなりました。イギリスでは1983
年に初めて、同名のベストアルバムの販売促進のために発売されました。
厳密に言えば、この曲は年代としてはもっと古いのですが、このアルバムにおいては、最後の
‘正式な’シングルとしてこの順番にすることにしました。この曲はある面ではABBA自身の賛歌
でありますが、何年もABBAを支えてくれたファンの人々へ暖かい感謝の気持ちを差し伸べるも
のでもあります。
ABBAのメンバーが次にどんな新しい活動を始めても,私たちはアグネタ,ビヨルン,ベニー、フリ
ーダの4人はまず,そして最終的にもABBAの時代をもって人々の記憶に残ることを知っています。
1992年に発売された ベストアルバム「ABBA GOLD」 は,―今これを書いている時点でも全世界
で2000万枚以上売れていますが―人々がポップスを聞く限りずっと、彼らの曲が何度も何度も再
発見され続けるであろうことの一番明らかな証拠でしょう。そしていかに1970年代の彼らのまばゆ
い時代の思い出や,彼らの個人的な人間関係が人々の興味を引いても,ABBAの真の伝説は彼
らの音楽でありつづけるのです。(1977年)
ボーナストラック
RING RING(1974シングルリミックス)
ABBAが‘Waterloo’で世界的な成功を果たした後、ほとんどの国では‘Honey Honey゜が後続の
シングルに選ばれましたが、イギリスでは、エピックレコードが何か違うものをと考え、Ring
Ring
の手直ししたものがいいだろうということになりました。サックスが少し付け加えられ、柔らかい
音のエレキギターがアレンジされ、全体が少しだけスピードダウンされました。そうして出来上が
ったバージョンは1974年にシングルとしてリリースされました。イギリスでは大ヒットにつながら
なかったものの、オーストラリアでは2年後の‘ABBAマニア’フィーバーのさなかにトップ10の
ヒットとなったのです。
同じRING RINGの再修正バージョンが作成され、アメリカで発売されたアルバムWaterlooに収録さ
れました。RING RING(US Remix 1974)は現在ではアルバム「Waterloo」のCD版のボーナストラッ
クで聞くことができます。(1974年)
VOULES-VOUS(extended remis)
アメリカでVOULES-VOUSが1979年8月に発売されたとき、当時のアメリカでのABBAのレコード
会社であるアトランティックが延長版のディスコ・リミックスを作るよう要請しました。その目的はク
ラブでかけられ、この曲がより知られるようになるためでした。オリジナルの曲が1分ほど延長さ
れ、ドラムとベースがより強調されました。このリミックス版のVOULES-VOUSは12インチのプロモ
シングルとしてアメリカのDJのみにリリースされましたが、今に至るまで、一般に発売されていま
せんでした。(1979年)
2001年8月 Carl Magnus Palm著
翻訳:Friedman様、BAAB様、Maa様(ご協力ありがとうございました。)
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