めるとたうん  バックナンバー


日々の思い

 

十二月三十一日

何かが起こったときには、大抵のことは、すでに手遅れである。

気づいたときには、もう取り返しのつかない事態になっている。

三十一日の早朝、僕は一人トイレにいた。

吐き気と下痢。

気分は最悪に近い。トイレから出ると、まともに歩くことすらできなかった。

なんとか部屋に戻り、布団の中にもぐりこむ。体が震えている。多分熱のせいだろう。

震えはなかなか収まらず、僕はますます不安をつのらせる。

すこし、まどろむことができただろうか、ようやく外が明るくなっていく。

しきりに喉がかわくので、無理やり体をひきずるように台所へ行った。

しかし、下半身に全く力が入らない。すぐにへたりこんでしまった。

「風邪みたいだ・・・」

僕が言うと、母は

「今年の風邪は上と下にくるんだってね」

「その通りです」

と僕は言い、その日は結局布団からほとんど出ることはできなかった。

どうやら僕の風邪は、家に遊びにきた妹からうつったらしい。

前兆はほとんどなく、夜にちょっと疲れてるかなあと思うくらいだった。

その風邪はあまりに唐突に訪れ、僕は全く何も抵抗できなかった。

浅い眠りを何度か繰り返すうちに、次第に日は暮れて一日は過ぎて行った。

熱が下がり、ふと目を覚ました時には、すでに二千年になっていて、

僕はぼんやりとした頭で、TVに映る光景を眺めた。

おめでとうも何も言わず、言う気力もなく、僕はまた布団にもぐりこんだ。

こうして、一九九九年十二月三十一日という記念すべき日は終わった。

ただ、それだけの話。

 

 

 

十二月二十九日

自転車を取りにいくために、いつもと違う道を歩いたら、当たり前だけど景色は違った。

家から、ほど遠くない所に銀行があった。正確には信用金庫。

ここにあったとは思わなかった。しかし、近くにあることだけは知っていた。

数ヶ月前、この信用金庫に強盗が押し入り、副店長を射殺して犯人は逃亡した。そういう事件があった。

その日、僕の家の上あたりを何機ものヘリコプターが飛びまわっていた。

ヘリコプターの騒音に、僕は少し苛立ちながら窓から空を見あげた。

事件のことを知ったのは、その日の夜。TVのニュースだった。

家の近くということは、その時知った。何故ヘリコプターが飛びまわっていたかもわかった。

でも、現場には行かなかった。別に見たいとも思わなかった。

TVに映ろうとむらがる野次馬の一人になるなんて、まっぴらごめんだ。

確か、今でも犯人は捕まっていない。

 

今年、すぐ近くにある高校でも殺人事件があった。

あれは、老人に叱られた少年が、逆上して老人をナイフで刺したのだ。

あれから、その少年はどうなったのだろう。

 

駅前のマンションでも殺人事件があった。

中国人が何人か殺されたのだ。この事件の犯人は、すでに捕まっている。

その時は、ちょうど現場近くを通りかかった。

山ほどの野次馬が、マンションを見上げては勝手なことを言っていた。

全てのTV局がカメラを持って集まっていた。

レポーターの周りには、やっぱりTVに映ろうとする野次馬が群れをなしていた。

 

隣町では、麻雀店で放火殺人事件があった。

店長とお客が逆恨みした経営者に襲われたのだ。

事件の後、店は青い大きなビニールシートで覆われてしまった。

僕は麻雀店になる前のレンタルビデオ店だった時に一度その店に入ったことがある。

だから、その事件のことを覚えているのだ。

銀行や高校での事件は単に家の近所だったから覚えているのだろう。

駅前のマンションの事件はたまたま通りかかったから。

これが僕が覚えている限りの今年身近で起こった事件だ。

他にもいろいろあったろうが、これだけしか僕は覚えていない。

ああ、火事もあったっけ。これだけは現場に見に行ったんだった。

この火事では人は亡くなっていない。

それは幸運なことで、それ故にすぐに忘れ去られる。

人は、忘れながら生きている。それは遅いか早いかの違いだけなのだ。

 

空を飛ぶ魚 海を泳ぐ鳥

さわやかな感覚です。

 

 

十二月二十八日

買ったばかりの自転車は、わずか二日で壊れた。

今日、ようやく修理から帰ってきた。

さあ、どこへ行こうか。

新しいモノは、何故か心がわくわくする。何でもできそうな気がしてくるから不思議だ。

古いモノを大事にすることは、もちろん大事だけれど、新しいモノをこうして手にした喜びもまた格別だと思う。

気分を切り替えて前に進む力を新しいモノは与えてくれる。

 

蛍・星くず

インディーズで話題の少女・蛍のHP。詩人でありアーティスト。要注目♪

 

 

十二月二十七日

「石けんシャンプー」を買ってきました。

髪にとって優しいシャンプーは石けんシャンプーしかないそうですね。

今ある普通のシャンプーは、髪にとってはダメージを与えるだけのものだそうです。

確かに裏の原材料のところを見ればわかるような気がします。

得たいのしれない科学物質に、香料、着色料、保存料、防腐剤。これでもかっていうくらいに書かれてます。

化粧品会社も実はわかっているとか。髪にいいのは石けんシャンプーだと。

でも利益がでないんですね。石けんシャンプーは。だから作らない。

大量生産できて安価な合成シャンプーを作ったほうが安上がりだし、その方が儲かる。

企業も利益をださなくてはいけないから、それはある意味仕方ないことかもしれません。

でも、重要な問題が一つあります。それは、そういう情報が消費者に伝わっていないということです。

企業は当然、自分達に都合の悪い情報は隠そうとする。

マスコミは企業から広告料をもらっているから何もいえない。

無知であることは、ある意味では幸せなことなのかもしれない。

今日、僕は石けんシャンプーを買ってきました。

しばらく探して、ようやく見つけました。棚の大部分はCMでおなじみの商品が溢れています。

石けんシャンプーは棚の隅にひっそりとありました。埃をかぶっている商品もありました。

誰も目もくれません。買われるのは、ほとんど普通の、普通と思わされている商品ばかり。

 

知らないってことは幸せなのだろうか。

知ってしまったことはもしかして不幸だっただろうか。

それとも、これも間違った情報なのかもしれない。

そもそも、今やほとんどのシャンプーは合成洗剤から作られているのに、

その全てが危ないとは容易には信じ難いことではある。

つまり世界中の人達が企業に騙されているのですか?

僕らは何にも知らされていないのでしょうか?

企業だって、いかに利益をあげるためとはいえ、わざわざ毒性が強い成分を使っているとは思えない。

むしろ安全性を十分に確かめることくらい当然やっているだろう。

消費者だって、そんなに愚かなはずはないし。

どちらが正しいのか判断する術を、今の僕らは持ち得ない。

結局は選ぶのは自分なのだ。自分を信じるしかない。

それだけしかできないのなら。

 

@ A B C D E ←石けんシャンプーに関する情報。

 

 

十二月二十五日

今日見た映画。

「ミュリエルの結婚」

ほとんど早送りで飛ばしながら見ていました。最初はつまんない映画だなあと思っていた。

しかし、この映画はラストが良い。ラスト2、30分がとても印象に残った。

主人公の顔つきが映画のはじまりとラストシーンでは明らかに違う。

自分を否定するのではなく、あるがままの自分を素直に認めたからだと思う。

そしてこれからの人生が決して楽しいことばかりではないことを認めることができたからなのだ。

前向きっていう言葉は、こういう人達のためにあるのかもしれない。

 

ミュリエルの結婚

94年オーストラリア・アカデミー最優秀作品賞だそうです・・・。

@ A ←作品評価など

トニ・コレット

主演女優について。この映画はアバの「ダンシング・クィーン」がいいですね。

 

十二月二十二日

自転車を買いました。

今の自転車があまりにもぼろぼろになったものですから。

籠はガタガタで、後輪はパンクしていて(多分四回目くらい)、三段ギアは、全て壊れました。ギアなしです。

さすがに、買いかえるしかないかなあと思いました。

近くのディスカウントショップまで歩いて行きました。

買った自転車はブルー。薄い青です。空の色に似ているかな。

 

いつもは自転車で通っている道。

初めて自分の足で歩いていく。

そうすると、いつもは見逃しているいろいろなものが見えてくるような気がしてくる。

移動する速度が速くなるにつれ、人は何も見なくなる。

見えなくなるといったほうが正しいだろうか。

利便性を高める限り、何かを少しずつ失っていく。

こうして自分の足で歩いて見ることもたまには必要なことかもしれない。

忘れていた感覚を取り戻すために。

車よりバイクの方がバイクより自転車の方が自転車より歩くほうが、よく見える。

自分の足元を。周りにある平凡な光景を。変わらない日常を。

点と点を結ぶ線は、少しずつ確かな線になっていく。

線が何本も連なり、やがては面になる。その時、街は今までとは全く違う様相を現すだろう。

それは嬉しいことだと僕は思う。

 

 

それにしても最近、歩くのがヘタになったなあと思う。

すぐに疲れてしまう。

昔の人が今の現代人の歩き方を見たらなんて言うだろうか。

「なんで、こんなに歩くのがヘタなんだ」って嘆くだろうな。

ついでに正しい歩き方ってやつを教えてほしいものだけど。

 

ウォーキング研究所

CHARINET 〜自転車でゆこう〜

 

 

十二月十一日

夜の橋の上で絵を描いている人を見かけた。

油絵のようだった。

その人は静かに川を眺めながら、絵を描いているのだ。

それはとても不思議な光景だった。

きっと、その人にしか理由はわからない。もしかしたら、その人もわかってないかもしれない。

人は誰もが、その人だけの世界を持っているのだから。

 

TOWN ART GALLERY

インターネット上のアートギャラリー

 

 

十二月十日

ふと通りかかった道端で、男の二人組が路上ライブをやっていた。

名前は「インフィール」

先月、インストアライブで聴いたバンド。

自転車を降りて、一時間ほど耳をかたむけていた。

寒さが足元から忍び寄ってくるような夜だった。

それでも彼らの歌声は静かに響き、僕はただ聴いているだけで、何故か満ち足りた気分になっていた。

 

インフィール

インフィール関係のリンク集♪

 

十二月九日

最近、いろんな国の「メール」を使った映画を見た。

いわゆるメール恋愛というやつ。

韓国、日本、アメリカ。どの国の映画を見てもストーリーがほとんど同じ。

主人公の二人の男女は直接的にしろ間接的にしろ会ったことやすれ違ったことがある。

もしくは知り合いだったりする。または自分の身の回りに知り合いがいる。

映画の最後は決まっている。お互いがきちんと初めて会う時である。

そして映画は終わる。スバラシイ未来を暗示させる形にして。

二人は笑顔で微笑みながらこう言うのだ。

「はじめまして」

人が考えることは、いつだってそうは変わらない。

「メール恋愛」というものに対して抱く多くの人のイメージは、こういうものなのだろう。

 それはそれで面白いと思うけれど。

 

(ハル)

〜映画パンフレットより〜 主演の内野さんのインタビューです。

(ハル)

森田芳光監督のインタビューです。

@ A B C D ←(ハル)の映画評価とか。

 

 

十二月四日

友達が出ている演奏会を見に行く。

グリークラブというサークルの演奏会。

演奏会といっても、楽器はない。男女の混成合唱である。

歌うのは、主に黒人霊歌やビバルディの曲。

外国語での合唱がメインなのがグリークラブっていうのだろうか。

前にも何回か聴きにきたことはあったのだが、いつも眠たくなってしまうので、

今回はちゃんと歌詞の対訳を見ながら聴いていた。

意味がわかれば、眠くはならない。いつも意味がわからないから眠たくなるのだ。

例えばドイツ語で歌う歌は、ドイツ人しか完全には理解できないのではないのか。

現に僕は理解できないことで、つまらなさを覚えているわけだが。

日本で歌うのなら日本語に訳した方が理解できるだろうに、なんて思うのはやっぱりおかしいのだろうか。

そんなことを考えていたら演奏会は終わり、友達に顔を見せて帰る。

帰りに一緒に演奏を聴いていた友達と、ラーメンを食べに行く。

寒い夜空の下、30分近く並ぶはめになった。

僕は結構おいしいと思ったが友達はいまいちだったとのこと。

人気の店だったんだけど。人の好みもそれぞれ。

その後、近くに住んでいる友達がいることを思いだし、さっそく訪ねてみる。

「とうとう来やがったか」

という、あまり歓迎されていない友達の言葉を聞きながら、さっそく上がりこむ。

そして絶句。

その部屋は僕の想像を遥かに超えた場所であった。

あらゆるモノで溢れかえった部屋は、足の踏み場も無く、積もった埃は何年分あろうか。

人の部屋を見れば、その人の性格や生き方が見えてくるのは正しいのかもしれないとその時思った。

少なくともその人自身を見ているよりは理解できるだろう。

結局のところ、その日一番印象に残ったのは、その友達の部屋だったということは言っておこう。

 

東洋大学白山グリークラブ

らぁめん通信

 

 

十二月二日

夕暮れが一日のはじまりになっている日々。

こんな毎日は、終わりしか見えやしない。

夜はあまりにも長すぎ、昼は一瞬の幻のように。

 

神経質自由人

無気力製造HPだそうです・・・。意外と参考になりますけどね。

 

 

十二月一日

駅前の街路樹が一斉にライトアップされました。何百メートルもの光の放列。

おなじみの光景だけど、やっぱり綺麗です。

でも、毎年のことなので見慣れてしまったという気持ちもあります。

しかし、この街ほどライトアップが似合わないところもないだろうなあとも思います。

表参道とか青山とかだったら、言うことないでしょうね。

そもそも、なんで川アでライトアップをすることになったかというと、

やっぱりイメージアップをしたかったからだそうです。

でも、やっぱり似合わない。

なんで似合わないのだろうと考えると、生活臭が強く感じられるからでしょう。

雑多で騒がしくて、まとまりがないこの街には、そんな光景が似合わない。

ライトアップが似合う場所というのは、綺麗で人が住んでいなくて、機能的な場所でなくてはいけない。

過剰な人の匂いがしていては駄目。

眩しすぎる光は確かに綺麗で、それ故に空虚な空間になってしまう。

優しく暖かく見えるのは、見る人の心がそれを求めているからなのだろうか。

 

スペシャライズド

平凡な日々。でもその事実をきちんと認めることは意外に難しい。

 

 


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