ブリティッシュ・インヴェイジョン

ビートルズの登場以降、イギリスでは多数のビート・バンドが登場。ひとつのムーブメントにまで発展した。ここでは毎回☆TAKEが最も好むこの時代のイギリスのアーティスト1組にスポットを当てて、独断と偏見で語っていく。

THE PRETTY THINGS

ーロンドンR&Bシーンのカルト・ヒーローー

ストーンズ以上にダーティなキャラクターで、リアル・タイムでは完全に無視された不遇なバンド。しかし、その存在はあまりにも強烈で、ロック界に多くの影響をもたらし続けた。
      
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(1)ブリティッシュR&Bの異端児
 プリティ・シングスというバンドは、結成から解散までいつも無視され続けた存在であった。「ガレージR&Bパンク」と呼んでもよいようなラウドな演奏を聞かせた初期。ストーンズを「不良」と呼ぶなら、彼らは「不道徳」で「不気味」な存在でしかなく、その存在は 知られていながらファンにも、マスコミにも無視された。60年代半ば、奇才・トゥインクが加入、サイケポップに転身、「元祖ロック・オペラ」ともいえる壮大なコンセプト・アルバムS.F.SORROWを生み出すも、全く相手にもされず。ロック史においては「元祖ロック・オペラ」の座を 後に発表されたザ・フーのTOMMYに譲る結果に。見事なまでに無視され続けた存在である。

 だからといって、彼らが「どうでもいい」存在であろうはずはない。初期のR&Bバンド時代の彼らは、間違いなく後のパンクに通じるサウンドとキャラクターを持ち合わせており、また、この時期のドラマー、ヴィヴ・プリンスのキャラクターは、ザ・フーのキース・ムーンの先輩といってよいほどの破天荒なものであった。 さらに、全く評価されなかったS.F.SORROWだが、実はザ・フーのピート・タウンゼンドは、このアルバムを聴いて「ロック・オペラ」という手法を思いつき、それがTOMMY制作のきっかけになったという噂すらあるほどだ。さらに、解散後の70年代以降になって再評価され、ファンの手で再結成が実現するなど、 一部で熱狂的なファンを多く持つバンドでもある。そんな彼らだからこそ、きちんとスポット・ライトを当てて、語ってみたいと思った私である。


(2)「ストーンズになり損ねた男」によるガレージR&Bバンド
  プリティ・シングスを結成したのは、1943年1月28日ケント州ダートフォード出身のディック・テイラー(g)である。テイラーは少年時代からブルースやR&Bを聴き、友達にレコードを貸し、解説までしていたほどのマニアであった。その友達の一人がミック・ジャガーであり、テイラーとミックはバンドを結成した。ちょうどその頃、テイラーはシドカップ・アート・スクールに進学、そこで出会った キース・リチャーズと親しくなり、ジャム・セッションを楽しむようになった。そんな時、これは本当に偶然ではあるが、ミックとキースが出会い(実は二人は幼なじみだったので、正しくは「再会」)意気投合したのである。ミックはテイラーとキースが友人であることを知らず、キースはミックとテイラーが一緒にバンドをやっていることを知らず、テイラーはミックとキースが幼なじみだということを知らなかったというのだから、世間とは広いようで狭いものである。キースはテイラーとミックのバンドに加入、 リトル・ボーイ・ブルー&ザ・ブルー・ボーイズと名乗って活動をはじめた。62年ミック、キース、テイラーはブライアン・ジョーンズと知り合い、ローリング・ストーンズの結成に至るのである。しかし、当時のストーンズにはキース、ブライアン、テイラーと、さらにもう一人ギタリストがいたため、テイラーはベースに転向させられることになる。テイラーはそのベーシストという扱いが不満で、 また芸術大学への進学も考えていたこともあり、62年末にはストーンズを脱退している。つまり彼は「ストーンズになり損ねた男」でもあるのだ。

  一度は進学を考えたテイラーだったが、やはり音楽の道を諦めきれず63年、シドカップ・アート・スクールの同級生フィル・メイ(vo,har:1944年11月9日)、建設現場で働いていたジョン・スタックス(b)とともに新たなバンドを結成。そこに、メンバー募集の広告を見てきたブライアン・ペンドルトン(g)が加わり、バンド名をボ・ディドリーの曲のタイトルからとってプリティ・シングスに決め、 63年秋頃、活動を開始した。ただドラマーは固定せず、当初は1ステージ毎に入れ替わっていたほどである。ちょうどその頃、フォンタナ・レコードのジミー・ダンカンにスカウトされ、レコード・デビューが決定した。固定しなかったドラマーの座には、ダンカンの推薦でカーター=ルイス&ザ・サウザナーズ(一時期ジミー・ペイジが在籍。このバンドは後にアイヴィー・リーグ、フラワーポット・メンに発展)の ヴィヴ・プリンスが加入。普通の日常生活すら危うい「奇人」の加入にはメンバーは反対したが、結局ダンカンに押しきられた形となった。

  同年6月シングルRosalynでデビュー。メイの噛みつかんばかりのラウドなボーカルとスカスカな演奏など、ガレージ色の濃いこの曲は全英30位まで上昇。しかし、人気番組「レディ・ステディ・ゴー」に出演すると、彼らは早くも忌み嫌われる存在となった。 肩まで伸びた当時のビートルズやストーンズ以上に長い髪、(当時はほとんどいなかった)あごひげを伸ばしたテイラー、ドラムを壊しそうなほどに激しく叩くプリンス。主にティーン・エイジャーに好まれていたこの番組に登場するには、彼らの存在は当時としては過激すぎたのである。さらに同年10月にはセカンド・シングルDon't Bring Me Downを発表。激しいリズムの変化と、それに伴ってメイがメリハリのあるボーカルを聴かせる 素晴らしいテイクで、私は間違いなくブリティッシュ・ビートの名曲の一つだと断言できる。特にミック・ジャガーや、エリック・バートン(アニマルズ)すら上品に聞こえるメイのラウドなボーカルは素晴らしく、この時期キンクスのレイ・デイヴィスが「ギターに専念したいから、キンクスに入らないか?」とメイを誘ったというエピソードが残っているほどである。しかしこの曲、全英10位まで上昇するヒットを記録しながら、 「彼女を押し倒して・・・」という歌詞が「不道徳だ」と指摘され、アメリカでは放送禁止。相変わらず「無視され続ける存在」であり続けたのは、彼らにとっての悲劇であった。そんな悪評が渦巻く中でも、65年2月発売のシングルHoney I Needが全英13位、さらに65年3月発売のファースト・アルバムTHE PRETTY THINGSは5位と、チャートではまずまずのヒットを放っている。なお、このファースト・アルバムのセッションには、 一部当時売れっ子セッション・マンであったジミー・ペイジが参加しているということである。

  こうして、チャートではまずまずの成績をおさめていたプリティ・シングスではあったが、「不道徳な存在」として忌み嫌われ、メディアへの露出も少なくなったことから、これ以降ヒットは生まれなくなっていった。さらに追い討ちをかけたのが、65年のオーストラリア、ニュージーランド・ツアーであった。ツアー中、ツアーに同行したサンディ・ショウの車に放尿したり、酒を飲み過ぎ飛行機の搭乗を拒否されたり、ステージに火をつけて暴れ、逃げ惑う観客を見て高笑いしたり、ステージ上でまともにドラムが叩けないほど泥酔したりと、 ヴィヴ・プリンスが相変わらずの問題児ぶりを発揮。ツアーは主催者によって開始早々中断されるという散々な結果に終わった。マスコミはここぞとばかりにプリティ・シングスを叩き、彼らのイメージはさらに悪くなった。そして65年11月、ついにプリンスは解雇された。このキース・ムーンと並び称される「奇人ドラマー」のプリンスはその後、68年にジェフ・ベック・グループのリハーサルに参加後、突然失踪。75年以降は消息不明である・・・。プリンス脱退後、後任としてミッチ・ミッチェル(後にジミ・ヘンドリックス・エクスペリエス) が短期間参加。その後、ドラマーの座はスキップ・アランに落ち着いた。


(3)トゥインクの加入と「元祖ロック・オペラ」
  65年12月、セカンド・アルバムGET THE PICTURE!を発表。カバーや、外部のライターの作品が中心だった前作に対し、ここではメイとテイラーによるオリジナルが中心。後のハード・コアにも近い強烈なサウンドで、彼らのR&B時代の頂点といっても過言ではない。しかし、セールス的には全く振るわず、同時期に発表したシングルはいずれもチャート・インせず、以前にも増してヒットとは無縁な存在になってしまった。さらに、プリティ・シングスは深刻な状態に 直面した。まず66年暮れ、ブライアン・ペンドルトンが何も言わずに姿を消し、脱退。さらに67年初頭には、ジョン・スタックスがオーストラリアに移住するために脱退するのである。こうしてテイラー、メイのリーダー格の2人と、ドラマーのスキップ・アランの3人だけになったプリティ・シングスは、新メンバーとして、ジョン・ボヴェイ(key,vo)とウォーリー・アレン(b)を迎えてアルバムEMOTIONSを発表。しかし、このアルバムはフォンタナとの契約履行のために急遽作られたもので、 中途半端な感は否めない。とはいえ、ここでは今までになかったサイケ・ポップ的な面も垣間見え、また新加入のボヴェイがメイのボーカルとのハモリを聞かせるなど、過渡期のアルバムと言えなくもない。また、同時期に発売されたシングルDefecting Greyは、サイケ・ポップの傑作と呼べるもので、一部では「ビートルズのStrawberry Fields Foreverにも匹敵する」とされている。この時期に至って、彼らはR&Bバンドからサイケ・バンドへと劇的に変化を遂げたのである。

  こうして、フォンタナとの契約の切れたプリティ・シングスは、EMIと契約。そして68年、スキップ・アランが脱退。代わってドラマーの座についたのが、フェアリーズ、トゥモロウなどのサイケ・バンドで活躍、ブリティッシュ・サイケの申し子ともいえる トゥインクであった。サイケ・バンドに転身した彼らにとって、このトゥインクの加入は願ってもないものであった。そして68年12月に発表されたのが、アルバムS.F.SORROWであった。アルバム全体に「ストーリー」をもたせ、そのストーリーに沿って 曲が連なっていくというスタイルは斬新で、革命的なものである。サウンドの方は、テープ・ループなどの特殊録音を駆使したビートルズのSGT. PEPPERSの延長線上にあるものであり、言いかえれば「SGT.PEPPARSの手法をさらに発展させたもの」ともいえるわけで、SGTよりもワンランク上だといっても過言ではないだろう。このスタイルは翌年に発表され、「ロック・オペラ」という言葉まで生んだザ・フーのTOMMYに先駆けて発表されたものであり、実際ピート・タウンゼンドは、プリティ・シングスのこのアルバムにヒントを得てTOMMYを制作したとさえ言われている。こうした完成度の高さは、トゥインクの加入があればこそであろう。 彼が加わったことでメイ、テイラーにトゥインクとライターが3人になったということも、成功の理由であろう。しかし、このアルバムも結局、チャート上の成功をおさめることができず、本当の意味で評価されるようになるのはロック・オペラやコンセプト・アルバムが一般的になる70年以降のことであった。結局アルバム発表後、 トゥインクはソロ活動開始のため脱退(ソロ・アルバム発表後、ピンク・フェアリーズを結成)、さらに69年になると、何とバンドを結成した張本人のテイラーまでもが脱退。 この時点でプリティ・シングスは事実上、崩壊していたのかもしれない。


(4)解散と、その後の再結成
   リーダー格のテイラーまで失ったプリティ・シングスは69年、ドラムにスキップ・アランを呼び戻し、また元エドガー・ブロートン・バンドのビクター・ユニット(g)を加え、活動を続行。ハーベストに移籍後、アルバムPARACHUTEを発表。テイラー、トゥインクという2人のソング・ライターを失ったとは思えない、完成度の高いサイケ・ポップ・アルバムで、ローリング・ストーン誌の「アルバム・オブ・ザ・イヤー」に選ばれるなど高い評価を得たものの、相変わらずセールス的には失敗。 結局アルバム発表後ユニットが脱退、ピーター・トルソン(g)が加入し、シングル数枚を発表するも71年7月、遂にプリティ・シングスは解散の時を迎えた

  しかし解散早々、プリティ・シングスは突然S.F.SORROWやPARACHUTEが注目され、各方面で再評価されるようになる。そんな中、マネージャーだったビル・シェパードはプリティ・シングスの再結成を計画。メイ、アラン、ボヴェイ、トルソンという最終期のメンバーにゴードン・エドワーズ(key)、スチュワート・ブルッグス(b)を加えて73年、再結成アルバムFREEWAY MADNESSを発表。しかし「いわれてやってみた」再結成であるせいか、初期のR&B色、後期のサイケ色など多彩な反面、中途半端でバラバラな印象は否めない。 さらに彼らのファンだったというジミー・ペイジに誘われ、レッド・ツェッペリンのスワン・ソングス・レーベルからSILK TORPEDO(74年)、SAVAGE EYE(76年)という2枚のアルバムを発表。しかし、いずれも出来は今一つ。結局76年、メイがソロ活動をはじめることを理由に再び解散している。

  ところがまたも、解散後に再評価の声が上がる。今度はパンク・ムーブメントの中で、初期のR&B時代のサウンドが「元祖パンク」として注目を浴びたのである。実は彼らはもともと本国イギリス以上に、ドイツ、フランス、オランダなどの大陸のヨーロッパ諸国での人気が高かった。というわけで78年、オランダのファンがプリティ・シングスの再々結成を企画。この企画にメイの他、スキップ・アラン、ウォーリー・アレン、ジョン・ボヴェイに、久々にバンドの創始者であるテイラーが集結。再々結成が実現し、ツアーを行った。その後このメンバーで80年、アルバムCROSS TALKを発表。以降、激しいメンバーチェンジを行いながら、ライブを中心に 現在も活動中である。もちろん、メイとテイラーは健在。現在のプリティ・シングスは小さなライブ・ハウスなどで細々と活動しているようだが、きっと一度もスポット・ライトを浴びることなく活動している彼らのことだから、60年代と少しも変らないライブを行っているんだろうなあ。ぜひ見てみたいものだ。なお、90年代に入ってメイとテイラーは、元ヤードバーズのジム・マッカーティとともに、プリティ・シングス・ヤードバード・ブルース・バンド名義で、ライブを行ったり、アルバムも出したりしている。

  このように、プリティ・シングスは初期のR&B時代といい、後期のサイケ時代いい、やることがいつもワンテンポ早すぎてスポット・ライトを浴び損ねてきたような気がする。とはいえ、60年代、70年代、そして現在も、一部に熱狂的なファンを持つ存在であることに変わりない。これだけ素晴らしい作品を発表し続けていれば、やはり見ている人は見ているものだ。でも、もっと多くの人に聴いて欲しい、そんな想いが強い。

(追記):このテキストをアップした直後、またしても何度目かの再結成が実現。新作が登場するなど突然の再評価ブームが巻き起こったことを付け加えておきます。(2000年8月20日)


(5)お勧めアルバム
 今まで述べてきたように、初期は「ガレージR&B」、後期は「サイケ・ポップ」とサウンドが全く異なる。だから、彼らのファンはR&B的な彼らの好きな人と、サイケな彼らの好きな人に真っ二つに分かれるのではないだろうか。ちなみに私は前者である。その前者の方には、ファーストのTHE PRETTY THINGS、セカンドのGET THE PICTURE!、そして、ベスト盤代わりにもなるTHE EP COLLECTION・・・PLUSをお聴き頂きたい。 後者の方はS.F.SORROW、PARACHUTEそして、ベスト盤代わりのTHE SINGLE COLLECTION A's & B'sは必聴だろう。ちなみに再結成以降のアルバムもCD化されているが、手を出さない方がよいだろう。私は買って、かなりがっかりした経験があるので・・・(笑)。で、R&B期の好きな私なので、ここではファーストに シングル曲をプラスした編集盤をご紹介したい。でも、誤解のないように言っておくと、サイケ期の彼らも嫌いじゃないし、S.F.SORROWもちゃんと持ってるので。

●THE PRETTY THINGS

1.Road Ruuner、2.Judgement Day、3.13.Chester Street、 4.Big City、5.Unknown Blues、6.Mama, Keep Your Big Mouth Shut、7.Honey,I Need、 8.Oh Baby Doll、9.She's Fine She's Mine、10.Don't Lie To Me、11.The Moon Is Rising、12.Pretty Thing、 13.Rosalyn、14.Big Boss Man、15.Don't Bring Me Down、16.We'll Be Together、17.I Can Never Say

手持ちのCD:PHCR-1062(マーキュリー)

購入時期       1994年頃

  65年に発売されたファースト・アルバムに、同時期のシングルをプラスした編集盤。かつて日本では「ドント・ブリング・ミー・ダウン/プリティ・シングス・ベスト」のタイトルで発売されていたが、国内盤は現在は廃盤。私は廃盤になった直後に 都内のある店(池袋HMV)に、なぜか回収されずに陳列されていたのを発見、慌ててゲットしたという体験をしたので、このCDに対する思い入れは強い。その店の担当者のチェック・ミスで店頭に並んだままになっていたわけで、その店の担当者には深く感謝したいところだ(笑)。

  まずファースト・アルバムに収録されていたのが1〜12.。メンバーの書いたオリジナルは13.Chester Street、Unknown Blues、Honey,I Need で、2.Judgement Dayはマネージャーのブライアン・モリスン、 4.Big Cityは彼らをスカウトしたジミー・ダンカンとアラン・クライン(!)の作品。この中で印象的なのはボ・ディドリー風のリズムのディープ、かつワイルドな2.Judgement Day、サード・シングルとなった彼らにしては軽快でポップな7.Honey,I Need の2曲。 また、アドリブのような大雑把な演奏の5.Unknown Bluesは、逆に彼ららしいところ。残りはカバーになるがOh Baby Doll、Don't Lie To Meがチャック・ベリー、The Moon Is Risingがジミー・リード。そしてRoad Ruuner、Mama, Keep Your Big Mouth、She's Fine She's Mine、Pretty Thingと 4曲もボ・ディドリーの曲をとりあげているのが目をひく。やはりバンド名が彼の12.Pretty Thingに由来していることもあってか、ボ・ディドリーのカバーがこのバンドのカラーにいちばんよく似合う。特に1.Road Runnerは、当時のブリティッシュ・ビート・バンドの多くがカバーしていた曲だが、このプリティ・シングスのバージョンの出来が 突出している。特にがなりたてるようなメイのボーカルは、後のハード・コア・パンクすらも先取りしているかのようで必聴! ただ、このアルバムのセッションにはジミー・ペイジが一部参加しているらしく、また、この曲のギターの音は他の曲と違っているので、ひょっとするとこの曲がペイジの参加曲なのかも・・・。そう思うとちょっと複雑な心境ではある。

  13〜17.はボーナス・トラックで、Rosalyn、Big Boss Manがファースト・シングルのA、B面、Don't Bring Me Down、We'll Be Togetherがセカンド・シングルのA,B面、17.I Can Never Sayがサード・シングル7.Honey, I NeedのB面。 本文中にもあるようにRosalyn、Don't Bring Me Downともチャートでも好成績を残しており、また完成度も高く、ブリティッシュ・ビートを代表する好テイクである。なお、前者の作者はジミー・ダンカン、後者はともにツアーをしたことのあるブルドッグスのジョニー・ディーである。

  このように、これ一枚あればデビュー当初の彼らの雰囲気をほぼ把握することが可能なので、初期の彼らに興味のある人はぜひ聴いて欲しい。国内盤は廃盤だが、輸入盤は入手可能である。また、プリティ・シングスを知らない、ストーンズやヤードバーズのファンにも、ぜひ聴いて欲しいと願わずにはいられない。

(追記):ちなみに、1998年末以降の再評価の影響か、99年になってこのアルバムのリマスター盤(ヴィヴィッド:VSCD-2781)が登場、他の全アルバムもリマスター盤の再発が実現している。このテキストを作成した直後に突然の再評価。私にとっては全く予期せぬ出来事でした。(2000年8月20日)

   アルバム好感度     80

                                                                     *:1998年10月22日UP


      
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