社会、世相

      
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■2000/07/03 (月) マナー

 「最近はマナーの悪い奴が多くて、やたら腹が立つ」。音楽ネタじゃないボードで、
このような書き込みが目立ちます。確かに、誰がどう考えても「よくない」と思われることを
平然とやっている人が異常に多く、私自身も一日に一回はそうした光景を見て、
腹を立てています。私の場合、特に短気だから、面と向かって言ってしまうことも多々ありますが・・・。

 が、しかし、そういう書き込みが多いということは、世の中の大半の人が、
「マナーの悪い」行動を見て腹を立ててる、ということになるわけですよね。
逆にみれば、「大半の人がマナーの悪い人に腹を立ててる」ということは、
世の中の「マナーの悪い人」って、ごく一握りということになるはずですよね。
でも、「ごく一握り」なんかじゃなく、異常に多いというのが事実。これはどういうことなんだろう。

 つまり、大多数の人は、他人の「マナーの悪い行為」はすぐに目に入るし、腹を立てる。
だけど、「マナーの悪い人」に対して腹を立ててる本人もまた、知らず知らずのうちに
「マナーの悪い行為」を行っている。でも、自分のことは気がつかない。
つまり、「自分のことは棚に上げて」人様の態度に腹を立ててるという人も実は多数いるんじゃないかな、
と思ったりします。

 事実、「マナーの悪い人」に対してかなり厳しい目を向けている私自身も、
いざ自分のことを顧みると、結構やってしまってることもあったりします。
私はタバコは吸わない、携帯も持ってないからこの辺のマナー違反はありませんし、
ゴミの投げ捨ては一切やってません(本当です:笑)。でも、急いでる歩いている時や
電車に乗る時に(割り込みはしないけど)座りたくって、気がついたら周りの人を押しのけていることもある。
当然、後で考えてみたら「やってたなあ」と気がつくというパターンばかりですけど・・・。
何のことはない、私だってやってるもの。というより、誰だって、知らず知らずのうちに
やってるのかもしれないな、と気がつきました。

 誰でもやってしまうこと。だから、怒るのは当然としても、過剰に腹を立てるのもどうなのかな、
そんな時はまず、人様を非難するよりも自分の態度を顧みるべきかな、と思う今日この頃です。
そうすれば社会全体の「マナー向上」にも繋がるわけだし・・・。
といっても短気な私のこと。明日はどうなってるか・・・(笑)

(後記):確かにマナーの悪い人は多いけど、それを見て気にし過ぎる人、過度に腹を立てる人も多い。
それが多発するトラブルの元。なんだかみんな、ピリピリし過ぎてるんですよね。でも、私も冷静に振り返って
はじめてそのことに気がつく。つい腹を立てる、そんな瞬間が多くて自分でも嫌になります

■2000/07/25 (火) 沖縄茶ミット?(沖縄サミット)

 昔、私が好きだった「おれたちひょうきん族」の「タケちゃんマン」のコーナーで、
「茶ミット」という話が流れたことがありました。「世界の首脳が集まって、形だけの会議を開いて、
世間話をしてお茶を濁す」ところから、「茶ミット」と名付けられた、などというちょっと風刺の利いた内容でした。
でも、今回の沖縄サミット、はっきりいって「茶ミット」化してたよなあ。

 せっかく沖縄という、開催に値する、開催することに意義の見出せる場所で開かれたのに、
結果的には「沖縄で開催する意義」の全く感じられない内容に終始してしまったのは実に残念なことです。
もともと東西冷戦の時代が終わり、サミット自体の意義が薄れつつある近年、
それなだけに、この地で開催することで新たな意義が見出せる可能性もあったし、
あの地を各国の首脳(特にクリントン大統領)に見てもらうことで、問題提起することも可能だったのに・・・。
結局、単なるイベントと化してしまって、海外のメディアも、馬鹿騒ぎぶりを冷笑気味に報道したという噂。
「日本って、不況だって言ってるわりには金使いまくって、能天気な国だな」と思われても仕方なさそう。
森首相は「成功」を強調してるけど、そうか? 「茶ミット」に終わってるような気がするけど・・・。

 というよりも、時代は変わったんだし、このままサミットを続けても
今後も毎回「茶ミット」にしかならないのかな、という気もします。もはや「先進国」の首脳だけが
集まるということ自体がナンセンスだから、もっと違う形の、発展途上国も含めた多くの国の首脳が一同に会する、
大規模な首脳会談の開催を真剣に考えた方がよいんじゃないかと思います。
「茶ミット」にしかならないんなら、税金の無駄遣いでしかないし。

 
 以下は余談。某国の「失言首相」、クリントンに向かってHow are you?と言おうとして間違って
Who are you?と言ってしまったそうな(笑)。コメントのしようがないところです。
(後記:この話には続きがあって、Who are you?と聞かれたクリントンは
「ヒラリーの夫です」とアメリカン・ジョークで返した。ところが善朗君はme tooと返し、
これにはクリントンも呆れ顔・・・(笑)。だけど、どうもこの話の出所は、ネット上のあるサイトらしい。
なので、あくまでの噂の域の話かも・・・。)

小室&安室に関してはもはや何といおうか・・・。「サミットの歌」なんだから、
もっと老若男女が口づさめるような分かりやすく、親しみやすい曲を書けなかったのかなあ。
私がTM時代以来の「小室アレルギー」だから、そう感じるだけならいいんだけど・・・。
 

■2000/08/09 (水) 「長崎原爆の日」に思う

 今日は55回目の長崎の原爆祈念日。10年くらい前までは、この日と6日の広島の日には、
新聞もテレビもこの話題一色だったのに、この数年は以前ほど話題に上らない。
既に当時を知る人が減ってしまったためなのか、それとも、この日が何の日かすら
知らない人が増えているのか、それともまさか、「昔のことだから関係ない」と
思ってる人が増えているのか・・・。ちょっと嘆かわしく思われる。

 私は福岡県北九州市出身。実は昭和20年8月9日、本来原爆が投下されるはずだったのは
長崎ではなく、小倉市(「おぐら」じゃなく、「こくら」、現・北九州市小倉北区)だったことは
意外と知られていないようだ。昭和20年8月9日、原爆投下のため小倉上空に現れた米軍機。
いざ投下しようとして下を見ると、一面の雲に覆われていて投下できない。
雲が晴れるまでしばらく待機していたが、結局雲が晴れることはなく、投下地は急遽長崎へと変更された。
だが、長崎上空もやはり雲に覆われている。諦めて帰ろうとしたその時、一瞬雲が切れて・・・。
こうして長崎が2番目の被爆地になったのである・・・。

 このような理由からか、小中学校の登校日は、普通は「広島の日」である8月6日なんだけど、
長崎と、そして北九州市だけは8月9日だったのである。ちなみに、私の母は小倉出身、昭和20年当時3歳。
あの日、もしも小倉上空の雲が一瞬でも切れていたならば、私は生まれてきたのだろうか? 
この日を迎えるたびに、私はそうした気持ちに強く駆られる。人ごとではない。昔話ではない。
私にとってはとてもリアルな話なのである。また、中学生の時、父に連れられ、広島の原爆資料館に行った。
あの場所で見た、現実とは思えない、地獄絵のような写真は、今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。
数日食事が喉を通らず、夜も寝付けなくなったほどだ。やはり私にとっては、
「昔話じゃないか」では済まされない。私だけじゃない、このことは絶対に忘れてはいけない、
風化させてはいけないんじゃないか、私はそう思うし、全人類が資料館を訪れるべきだと思う。
1991年に来日公演を行ったジョージ・ハリスンも、広島を訪れた際、資料館を見た後、
急に言葉に少なになって、ひとりで考え込んでいた、なんて話もある。
新聞、テレビももっと取り上げるべきなんじゃないだろうか。

■2000/08/14 (月) 何とかしてくれ!! 「疑問形」しゃべり(笑)(正しくは「語尾上げ」というらしい)

 ここ数年、「この前話に出てた例のアルバム? やっと買ったんだけどー、それで聴いてみたら? 
結構よかったよ。特に1曲目? ・・・」などという、なぜか語尾が上がる、「疑問形」のしゃべりを
連発する人が多いようです。あれを聞いていてイライラするのって、私だけなんでしょうか?

 私がこの手のしゃべりに身近に接したのは、7年前、当時の上司がよく使っていたものでした。
「おかしなしゃべり方だなあ」。当時の感想はそうでした。ただ、その頃は、この手のしゃべりはマイナーで、
使う人は稀にしかいなかったように思います。ところが、この数年は異様に多く、
50歳以上の年配の方や、テレビ局のアナウンサーまでが連発。例えば、JRAの「夏競馬」のCMでも
松嶋菜々子が「騎手が先に行かせない? みたいな」なんて言ってるし・・・。これでいいのかなあ。

 私は「流行語」「若者言葉」のすべてが嫌いではありません。「美しい日本語」などを主張して、
「最近の若者は言葉が乱れてる」なんて言ってる人とは全く人種が違います。言葉は日々変化するものだから、
それを頭ごなしに止めるのは違うと。ただ、この「疑問形」のしゃべりって、語尾が上がるところで一旦
話が止まるわけですよね。その分、会話がスムーズに進まないんですよ。会話って「リズム」があるわけでしょう。
せっかちな私なんかは、会話が止まるたびにイライラしてしまいます。
「お前のことじゃないか、俺に聞くなよ。早く先に進め!」。
そう思いながらも思わず頷いている自分が悔しい(笑)。それに、この「疑問形」を使ってる人って、
無意識のうちに相手に「同意」を求めてるんじゃないかな、と思うんです。
つまり、自分の言ってることに自信がないとか、相手が「聞いてないんじゃないか」といった感じで
不安なんじゃないかと。つまり、「不安の現われ」があの疑問形じゃないのかと思えます。
こういう言葉が流行るということは、日本人全体に「自分への自信のなさや不安」が蔓延していることの
現われなのかも・・・。「疑問形しゃべりは、現代日本の政治的、経済的混迷の現われかも」というのは
大袈裟じゃないと私は思います。そんなこと抜きに、自分とは波長が合わないし、
思わず頷いてしまうのが悔しいから、早く廃れて欲しい言葉だと思ってるんだけど・・・(笑)。

■2000/12/03 (日) 流行語大賞メッタ斬り

ご存知の通り、先日2000年の「流行語大賞」の発表が行われました。ということで、
受賞した言葉を☆TAKEがメッタ斬り

>おっはー
 おいおい、この言葉の元祖はテレ東の「おはスタ」の山寺宏一ではないか!
彼にも何かあげるべきじゃないのかな? おいしいとこだけ持っていったな>香取慎吾 

>IT革命
 表彰されたのが善朗君じゃなかったというあたりが笑える。
もっと笑えるのが審査員のコメント。「間違って『イット革命』なんて言いそうな人じゃなく、
前向きに広めた人にあげることにした」。うん、「イット革命」って、善朗君なら言いそう(笑)
「IC革命」と間違って言ってしまったことはあった、という噂は聞いてるけど・・・。
しかし、ここまで不人気で、見てて恥ずかしくなるような人が首相を務めるこの国って一体・・・。

>パラパラ
 私の記憶が正しければジュリアナが衰退した頃、「次はパラパラの時代」といわれてたはず。
でも、その時は全然流行らず、今年になって突然流行。「なぜ今?」と思ってしまう。
仕掛人がいそうだよな。じゃあ、来年は「ランバダ」に続いて流行るといわれながら
肩透かしだったキューバのダンス、「カンダラメラ」(だったっけ?)が流行って、
仕掛人だったフィル・マンザネラが大ブレイクするのか?

>Qちゃん
 軽々しく呼ぶなよ。2年来のファンの私だって、気軽にこうは呼べないのに・・・。
このニック・ネームってオリンピック前は「知る人ぞ知る」だったんだけど、突然広まってしまったな。
でも、その由来を知る人は少ないらしい。決して「大食いだから」ではないのです。
新入部員の歓迎会で、「オバケのQ太郎」を熱唱したため、というのが真相。
ただし、歌った時の格好が「Q太郎の被り物で」という説、
「裸の上からアルミ・ホイールを巻いて」という説など
諸説があり、私もそこまでは分からないけど・・・。
(後記:私は後者だと信じてきたが。あと本人によると、曲は「オバQ音頭」とのこと)

>めっちゃ悔しい〜
しかし田島って、確実にタレント道を進んでるよなあ。
まあ、「夢はハリウッド女優」らしいから、それはそれでいいのかな。

>ジコチュー
 でも自慢げに「私ってジコチューだから〜」などと開き直って使ってる奴を見ると、
「少しは反省しろ」と言いたくなってしまうので、決していい言葉とは思えんなあ。

>私的には
 これって「変な言葉」と思ってたのに、気がついたら使ってるんだよね。

■2001/01/31 (水) 人を比較することの愚かさ

 「スポーツ紙斜め読み」の中で述べた渋井陽子登場以降、以前にも増して
「高橋尚子バッシング」が激化しているようです。私もタレント化には批判的だけど、
「面白半分のバッシング」とか、「手のひら返しのバッシング」には呆れてものも言えません。
五輪以降の彼女のことしか知らない奴等に一体、何が分かるというんだろう。
ちょうど表では「聴かず嫌い」で「ビートルズvsストーンズ」という図式の
馬鹿らしさについて触れてますが、似たような「空気」を感じます。

 「新たなスターの登場→大絶賛→従来のスターは比較対象にされた上、手のひらを返してバッシング」
という図式は歴史的に繰り返されてきたこと。また、「誰かを絶賛する時に対抗馬と比較した上、
比較対象をバッシング」ということも、繰り返されてきた図式。ジョンvsポール、
野球vsサッカー、猪木vs馬場、カズvsヒデ・・・。なぜこうも「不毛な比較」をして、
「対抗馬のバッシング」を繰り返すのでしょう? 私はこういうの、幼い頃から大嫌いだったのです。
「両方好き」なんて言うと、「ポリシーがない」とか、「どっちつかず」などと非難される。
何でこうなんだろうなあ。両者それぞれにいいところがあるんだから、それぞれを認め、
両者を受け入れることが「悪」なのか? 人を誉めるために誰かを傷つけ、罵り合うことが楽しいのか?

 幼い頃、私は一歳年上の従兄弟と比較されてきました。
「バッシング」のターゲットにされたのは私の方。ちょっと荒っぽいけど活発で、
「親分肌」の従兄弟に対し、私はひねくれていて、理屈ばっかりこねる
「可愛くない」ガキ。いつも比較されてあれこれ言われてきた。
今だってそのわだかまりは残ってるし、傷ついた気持ちでいるということ、
誰も分かっちゃいないだろうけどね。

 私が「比較」することや、「誰かを誉める時、比較対象をバッシング」することを心の底から嫌っているのは、
意外とその辺の体験のせいなのかもしれません。いい加減にやめようよ。
人を絶賛することは素晴らしいことだけど、そのために誰かを傷つけてどうしようってんだ!
でも、恋愛で「2人を同時に好きになって、どうして悪いんだ?」なんてことは言いませんよ(笑)
そっちに関しては「一筋」になりやすい性格ですから。

■2001/02/15 (木) まともな神経を持った人はいるのか?(アメリカ原潜の事故)

 この約1週間、ほとんど働き詰めだったせいで書く話題がほとんどないんですが、
テレビを見ていると米軍の原子力潜水艦と日本の高校生の乗った実習船の衝突事故一色のようで。
しかしねえ、これについてコメントしようにも、なんとも馬鹿な話ばかり。
潜水艦の操縦ミスだったということはいうまでもないけど、その後にも次々に出てくる
潜水艦の乗組員が救助活動をしなかった話、自己発生時、森首相がゴルフをしていた話と、
その後の弁解での相変わらずの呆れ返るコメント、潜水艦の舵を握っていたのが民間人だった
可能性が大きいこと・・・。どれもこれも、呆れ返るような話ばかり。私が一点ずつ触れて
批判を書き連ねていったとしたら、何日かに分けて書かなければ言い尽くせないほど。
とにかく、泣かされるのは最も弱い立場にある実習船の乗員だけ、
そして、潜水艦に乗っていた米軍関係者、森首相とそれを庇う自民党議員はとてもまともな
人たちとは思えないということ。何もかもがおかしいとしか言いようがありませんねえ。

 一番呆れるのはゴルフをやっていた森首相。「その場にとどまるようにいわれた」。
うん、それはいいでしょう。しかし、なぜゴルフを続ける? 普通の神経の持ち主なら、
「不安でゴルフどころじゃない」気分になり、プレイをやめてクラブ・ハウスで
張り詰めた気持ちで連絡を待つ、そうなるんじゃないのか。この人には何度となく呆れさせられてきたけど、
ここまで呆れたのははじめて。だけど、「この人が首相をやっているということ、
そしてこの人の言動は、この国の現状を物語っている」と私はいつも思ってきた。
「人の不幸を他人事としか思えない」現代の日本人の姿を映す鏡、
それが今回の「人でなし」とも思えそうなあの人の行動だったんじゃないかとも思えるわけで。
ああ、本当にこの国はどうなってるんだろう。

■2001/04/22 (日) 親と外出するということ

 4月は入学式のシーズンということで、1年生と母親が一緒に歩いているという光景を多く目にしました。
でも、私には不思議に思えることがあります。小学校なら当然でしょうけど、
中学、高校、果ては大学の新入生までもが親と一緒に歩いている。
私の場合、小学校以外は親と一緒には出掛けなかったけどなあ。
大学の入学式には、親は出席すらしてない。「もうあんたは大人なんだから関係ない」と言われたし、
私も当然その通りだと思った。私だけじゃなく、同級生たちだって同じだった。
中学や高校では親が来てなかった奴も結構いたけどなあ。

 中高生になって親と一緒に外出するのを嫌うようになる。誰もが経験してきた気持ちじゃないのかな。
別に「親のことをカッコ悪いオヤジ&ババアと思ってるから」とかってのではないはず。
確かに思ってたけど(笑)、でも、そうじゃなく、照れくさいものでした。
一緒に外出しても「あまり近づくな」とか、「大きな声で話しかけるな」とか言ってたもんです。
でも、近年言われるような「断絶」状態の関係だった訳でもなかった。
まあ、父の方は年中出張で飛び回ってたから、まともに話をする機会はほとんどなかったけど。
それなのに「断絶」とか言われている近年の子供の方が、
「親と外出する恥ずかしさ」を感じていないというのも面白いものです。

 いや、むしろ普段は会話が少なく、接点がないからこそ、「たまに一緒に出掛ける」ことが新鮮に思えて、
それで「恥ずかしい」という気持ちにならないのかな。
私の場合、普段それなりに接点を持っていたからこそ、親は身近な存在であり、
身近だからこそ、「一緒に歩くのが恥ずかしかった」とも考えられます。
会話とかを聞いてると、意外と対等にものを言い合っている。
だとすると、「接点がない」分、今の中高生の方が自立してるのかもしれません。
まあ、そのせいで「家庭崩壊」などもある訳だから、いいことなのか、悪いことなのか一概には言えないけど、
私にはうらやましく映ります。

 で、今や30代に突入した私、今はもちろん親と外出しても「恥ずかしい」気持ちはありません。
まあ、私は実家を離れてはいるんだけど。といっても、気がつけば父の方は既に亡く・・・。
今思うと、もっと外出とかしたかった、いや、この年になった今こそ一緒に外出したかったと、
悔やむ気持ちも若干ありです。

■2001/05/25 (金) 「なんてったって小泉」はいいけれど・・・

 小泉内閣支持率が80%とか、国会中継が異例の好視聴率だとか、
最近の小泉人気はもの凄いものがあるようです。私がほとんど新聞も、
テレビも見れないうちに、とんでもないことになってきました。
確かに、ホンネでものを言う質疑応答、オーバー・アクション、
公約通り派閥に囚われない組閣など、まさに型破り。
というか、「永田町の常識=世間の非常識」という図式がまかり通ってた政治の世界に、
「世間の常識=永田町の非常識」を採り入れていること、これは画期的だし、
私もその点では大いに支持しますし、注目しています。
小泉氏のタカ派的な部分には感心しないしけど、とりあえずは期待してもよいかなと。
だけど、「これでいいのか?」と思う部分も若干ありです。

 田中長野県知事に触れた時にも書きましたが、
「支持率が高すぎる」というのは怖い部分もあります。
例えば、小泉氏や他の閣僚が何らかの間違いを犯してしまったとする。
でも、国民の感覚が麻痺して、「人気のある人がやることだから間違いないだろう」って
鵜呑みにしてしまいはしないだろうか。また、「人気者に反論すると自分が叩かれる」ってんで、
誰も反対できなくはならないだろうか。それが進み過ぎたのがファシズムなわけでで
ちょっと怖いかなと。

 事実、小泉内閣を叩いた野党に、「いじめるな」という抗議が殺到してるとか。
確かに、「与党のやることは全部悪い」って姿勢やあら探しみたいなのは、あまりにも情けない。
でも、国会は議論の場なわけで、その議論すらできないような環境になるのは、
やっぱり怖いです。それから、「塩爺」こと塩川氏のあの二転、三転する答弁ぶりは、
あのキャラ、及び小泉内閣の閣僚じゃなかったら、大バッシングものではないでしょうか。
よって、確かに人気のある内閣、何かやってくれそうな内閣だけど、
「これは本当に正しいのか?」を冷静に判断する目だけは失いたくないものです。
とにかく、浮かれるのもいいけど「冷めた目」も必要、といったところ。
それから、報道に踊らされないこと。マスコミの報道ぶりも、前内閣の時とは「手のひら返し」だし。
「塩爺」の発言も、某前首相だったら大見出しでバッシングだったんじゃないかなと思うんだけど。
その辺も冷静に、自分で考えて判断したいものです。

■2001/06/10 (日) 「開かれた学校」は遠い昔になるのか

 何度も書いてきましたが、私は小学校6年に上がる時に転校してるんですが、
これは1〜5年の時に通ってた小学校の話。その小学校は小高い丘の上に立っていて、
その丘全部を占領するほどの敷地面積を誇っていました。とにかく、学校の中に森があり、
道路が通っている、その道路には普通の車も走ってる、近所の人も通り抜ける、
爺さんや婆さんが散歩に来る、犬の散歩をする人もいる。
いわば学校の校庭が近所の人の通り道になっていたのみならず、
「憩いの場」にもなっていたんです。今考えても「都会の中にポツンと自然が残ってる」
ちょっと面白いスペースだったですしね。

 当時の私は学校から歩いて5分ほどのところに住んでいたから、休みの日や放課後も
よく学校に来ていました。遊ぶ時も小学校、自転車に乗る練習をしたのも小学校、
校庭にテントを張ってキャンプ・ファイヤーをするという行事にも出た、
森の中でセミ獲りもした、中庭で水浴びもした、夜中に天体観測もした(怖かったけど)、
崖を登ったりして「冒険」もした。小学校は私の遊び場そのものだったし、近所の人の憩いの場でもありで、
まさに「開かれた場所」だったのです。
決して「本当は関係者以外は入ってはいけないのに、みんなが勝手に入ってくる」のではなく、
本当に「開かれて」いたんです。

 だけど、今考えるとちょっと開かれ過ぎていたのかなという想いもありです。
あの頃はそれを危険に感じることなんて全くなかった。あの学校だってきっと、
今はあそこまで開かれてはいないでしょうけど。とはいえ一方で、「学校の本来あるべき姿」って、
実はああいう、地域の人に対して開かれた場所、地域の人とふれあえる場所なんだろうと
いつも思っていました。

 しかし、今回のあの語るのも腹立たしい大阪の小学校での無差別殺人事件を見ると、
「本当に開かれてるのが理想の学校なのかな」という疑念が生まれてしまいました。
ここまで来ると「関係者以外立ち入り禁止」とか「入場者全員をチェック」とかする体制を作らないと怖いですね。
もはや私が通っていたあの学校のような姿は、昔話になってしまうのかなと思うと、
ちょっと寂しくもありますが、やむを得ないんだろうなとも思えるわけで、
複雑な気分です。今の子供にこそ、ああいう学校を体験して欲しいと私は思うんだけど
そんなのは理想論でしかないんでしょうねえ。

■2001/08/12 (日) 選挙って何だ?

 もう参議院選挙が終わって2週間経ってしまったから「何を今さら」でしょうけど、
実は選挙後、すぐに書きたかった話題です。私は選挙があるたびに、ある疑問が芽生えます。
果たして投票者は「政党」に投票してるんでしょうか、「人」に投票してるんでしょうか?
もちろん、人によりけりでしょうね。「俺は●●党は嫌いだから、●●党の候補者には絶対投票しない」人もいる、
「●●党は嫌いだけど、この候補者は好きだから投票する」という人もいる。
みなさんはどっちでしょう。おそらく、前者の方が多いのかなあ。
でも、私は断然後者なんです。

 立候補してるのは「政党」じゃなく、あくまでも「人」なわけだから、
「人」で選ぶのが正しい投票、私はそう考えています。なので、嫌いな政党の候補者に
投票したことは何度もあります。政党なんていわば肩書き。その肩書きに惑わされて
「人物」を見ることをしないのは、ある意味、冷静さ、公正さを欠いた投票といえるんじゃないかと。

 とはいえ、これは理想論でしかないんでしょうねえ。結局、当選してしまえば
その人の思想、信条、つまり個性よりも、政党の党利、党略が優先されてしまう。
その人が「これは間違ってる」と思っても、それが政党の決定事項であれば、従わざるを得ない。
「政党政治」というものはそういうもの。だから、やっぱり投票する時には
「人」ではなく、「政党」で選んだ方がよいということなのかなあ。

 こう考えると、「政党って一体なんだ?」という疑問も芽生えてしまう。
そんなわけで、私は「政党政治」は嫌いだし、「政党」ってのも好きじゃないし、
いつものその存在に疑問を持っているんです。今回も「自民大勝=小泉改革は受け入れられた」って
報道されてるけど、本当なのかなあ。単に「その候補が好きだから」って理由で
自民党候補者に投票した人だっているわけでしょう。そういう票までをも
「小泉容認票」と判断されてしまうってのは、やっぱりおかしいなと。
いつも「選挙速報」の番組を見るたびに、私はそんな気持ちになるんです。

■2001/08/26 (日) 逆効果でやかましい駅員のマイク・パフォーマンス

 数日前の朝、自宅の最寄り駅のホームで見た光景。「ドア閉りま〜〜〜す、
駆け込み乗車はおやめ下さ〜〜い」とマイクで大絶叫する駅員の声が響き渡る。
大急ぎで階段を駆け降りて電車に飛び乗る人々。と、その時、やはり駆け込もうとした女性が
閉りかけたドアにモロに体当たり、そのままその女性は電車とホームの間にズルズル・・・。
電車の中にいた中年男性がとっさに手を差し伸べたので転落等の大事には至らず、
その女性は中年男性に引き上げられて電車に乗り込み、そのまま電車は発車しました。
しかしなあ、5分待てば次の電車が来るのに、何で命を落としかねないような危険を冒してまで、
電車に飛び乗る必要があるのかねえ。馬鹿じゃないの。
もしも大事故になっていたら、電車が止まって遅刻するところだったじゃないか。
多くの人に迷惑がかかるし、彼女がもしも命を落としていたら、
「電車を遅らせた」として、遺族はJRに多額の賠償金を支払わされる羽目になっていたかもしれないんだから。

 でも、私は首都圏の駅を見ていて奇妙に思うことがあるんですが、
何故駅員はあんなにマイクで絶叫する必要があるのかということ。
「駆け込み乗車が多くて危ないから」。駅員はそう弁解するでしょう。
でも、あれって逆効果なんじゃないでしょうか。あんな大声で、
しかも荒っぽい口調で叫びまくられると、駅に流れる空気はどんどん殺伐としたものになる。
それに、「急ぐ必要はない」時でも、ああいう口調で怒鳴られると、
思わず走りたくなる、急ぎたくなる、そんなもんなんじゃないでしょうか。
事実、私自身も基本的には「首都圏の電車は本数が多いから急ぐ必要はない」と思ってるはずなのに、
「ドア閉りま〜〜す」という声を聞くと、自然に足早になってる。
つまり、あのマイク・パフォーマンスは逆効果なんじゃないでしょうか。
もっと考えて欲しいもんです。結局、駅員もマイク持って絶叫してる自分に酔ってるだけじゃないのか、
言葉は悪いけど、そう思うことにするよ、特に日●里駅の人!!
時々小指が立ってるよ(笑)

■2001/09/13 (木) テロ事件で分かった、この国の腐敗

 こんなシリアスな話題には触れたくなかったのだが、この数日のテレビ、
街で聞こえる雑談、ネット上の書き込みなどを見て唖然としたので、どうしても語りたくなった。

 この数日、アメリカで起こったテロ事件の話題で持ちきり。
だけど、「おかしいだろう!」と思うことだらけで唖然としている。
まず「恐ろしい事件が起こった」というニュアンスではなく、
「興味本位」、「高見の見物」的報道を繰り返しているテレビ。
あの映像を繰り返し流す。「これを流しとけば数字が取れるだろう」といわんばかり。
そんな報道を見せられるせいか、映画を見ているような気分になる。
それ故に、巷でこの事件を話題にしている人たちの会話も、
まるで「昨日のテレビ」「この前見た映画」の話をしているかのよう。ほとんど他人事。

 でも、それならまだマシ。「戦争だぞ」と不謹慎に盛り上がる者、
「今度はこの建物に突っ込んできたりして(笑)」と笑い話をする者、
「一国だけが超大国という現状は一度壊れた方が」などと冷たく分析する者。
どうしてこういうことが言える? なぜ笑っていられる?
あれはCGでも、映画でもない。実際に何千人ともいわれる罪のない人が亡くなってる。
そのことをどう思う? 人のことだから関係ない? 
こんな時に「不謹慎ネタ」を連発したり、笑ったりできるというのは恐ろしいことだ。
実は今回、「テロ以上に恐ろしい」と思ったのは、その時だった。

 だが、「自分はどうだろう」と顧みる。確かに私もあの映像が現実とは思えず、
その分、実感が薄いというのも正直なところ。若い頃は、こういう事件にはもっと本気で怒ってたはずだが。
私自身も感覚が麻痺してるのかもしれない。自己嫌悪に陥る。
ただ、あの事件を「恐ろしくて仕方ない」と思うからこそ、
わざと笑い飛ばしたり、不謹慎なことを言ったり、冷静なふりをして分析したりして強がってる、
そんな人もいるんじゃないかとも思える。
一方で、本気で笑っている者、分析している者もいるようで、それはやはり恐ろしいこと。
そういう輩は、まさに「平和ボケ」。「一度死ぬような想いをすればいい」。
暴言かもしれないが、そう言いたくなる。やはりこの国は病んでいる、私も含めて。
この事件でそのことがよりはっきりと分かったというのは、何とも悲しいことである。

■2001/12/29 (土) 蕎麦vsうどん

 さて、みなさんはどっちが好きでしょう? この話題はネット上でよく登場します。
その場合、住んでいる場所によって真っ二つに割れます。西日本在住者はうどん、
東日本在住者は蕎麦を支持。それがごく一般的な結果でしょう。
まあ、当然。九州出身、今は九州在住、だけど9月までの9年間、ずっと東日本に住んでいた私には
その理由がよく分かります。

 先日、駅の立ち食いうどん屋(「蕎麦屋」ではない)で蕎麦を食べましたが、
いやはや不味いこと。九州の蕎麦は、本来うどんに使うはずの色の薄い、白っぽいだしで作られる。
そんな蕎麦は美味くないに決まってる。蕎麦というのは、東日本仕立ての真っ黒いだしで食べてこそ
その美味さが引き立つものなんだから。

 一方で、9月まで住んでいた関東でうどんを注文すると、なんと、東日本仕立ての
真っ黒な蕎麦つゆで作られてる。正直、そんなうどんは不味くて食べられたもんじゃない。
だから私は、関東に住んでいる間はうどんはほとんど食べなかった。一方で初めて関東に出て来た9年前、
そのどす黒い真っ黒なつゆに漬かった蕎麦を初めて食べた。その時の感想、
「ああ、蕎麦ってこんなに美味いものだったんだ」。そう、九州には薄味のうどんつゆに漬かった蕎麦しかなく、
蕎麦ってのはそういうもんだと思い込んでいたから。だから「蕎麦はうどんより不味い」という固定観念があった。
ところが、どす黒いつゆで作られた蕎麦は今まで食べたことがないほど美味かった。

 そう、早い話が西日本の蕎麦はうどんつゆで作られているから美味くないし、
東日本のうどんは蕎麦つゆで作られてるから美味くない。もっといえば、西日本には
本当に美味い蕎麦は存在しない、東日本には本当に美味いうどんは存在しない。
だからこそ、「西はうどん、東は蕎麦」に分かれる。だから私は「うどんと蕎麦、
どっちが好き?」と聞かれれば「分からない。でも西で食べるならうどん、東で食べるなら蕎麦、
その逆は食べたくない」。そう答えるでしょう。でも、関東でもホンモノのうどんを
食べられる店があります。上野駅や品川駅にある「あじさい」という食券制の店、
蕎麦は東日本仕立て、うどんは西日本仕立てで出してくれます。「本当のうどんを食べてみたい」
という関東人のみなさんはぜひお試し下さい。私も3ヶ月前まではよく利用してました。

■2002/01/14 (月) 成人式って一体

 さて、今日は成人式。この数年は訳の分からん「お子様野郎」どものせいで、
混乱ばかりが報道されていて、全く情けないという想いも強いところです。
でも、成人式をやる意義、意味って本当にあるのでしょうか。

 私が成人式に出たのは、もう13年も前になります。一応出席しましたが、
正直、あんまりよい印象がなかった。というのも、式典自体が面白くなかったから
というのもあるけど、もっと大きかったのは・・・。
当時の私は一浪して大学に入ったばかりの一回生。「ようやく大学生活が始まった」状態で、
心はガキ、実態も「スネっかじり」。ところが、周りには既に社会人の人もいる、
子供のいる人もいる。私はまだ事実上その「子供」なのに。そこで思った。
俺は本当に「大人」なのだろうか? 逆に働いている人、子供のいる人は、
この式以前、つまり就職した時なり、結婚した時なり、子供ができた時なりに
とっくに「大人」になってるのではないか。自分が「大人」であることを実感し、
自覚したのではないか。だとすれば「20歳になったからもう大人」「成人式に出たから大人」
ということは全くないはずだ。人が「大人になる」時、それは「自分はもう大人だ」と
自覚した時なんじゃなかろうか・・・。つまり今の私は大人ではない、式に出席しつつ、
そんなことを考えたものです。私が「今日から大人」と自覚したのは、初出勤の日でした。

 逆に言えば、式で騒ぎを起こして喜んでいる輩は、「俺は大人じゃない」と宣言しているようなもの。
そんな「大人であることを拒否した」連中のために、市や県、区などが公費を使って、
式を開くことに果たして意味があるのでしょうか。昔と違って進路によって
「大人である」ことを自覚する時期にバラつきが出る現代において、
こういう古典的な風習は、既に意味を失いつつあるのではないか、
私はそんな風に思うんです。それと、あの式は「希望者は出席して下さい」という趣旨のものだから、
「出たくない」けど、「みんなが出ろというから」「出るのが常識だから」仕方なく出るくらいなら、
「出たくないから出ない」という道を選択するのも一考でしょう。今の私ならきっと、
出席しないと思います。というか、私も「会場まで歩いて5分だから」出たに過ぎないもん。
遠かったら100%行かなかった。

■2002/12/13 (金) 歩きタバコへの規制

 まず最初に、私は生まれて一度も喫煙経験がない「タバコ嫌い」ですが、
「喫煙=悪」とは思っておらず、マナーを守って喫煙してる方までも否定する、
いわゆる「嫌煙者」ではない、ということをあらかじめご了承ください。

 東京都千代田区で「歩きタバコに罰金」という条例が施行されたと聞きました。
それに影響されてか、福岡市の都心・天神でも同様の条例が施行されるとのニュースが。

 「歩きタバコ」はとても危険。にもかかわらず、この数年「歩きタバコ」する人は急増中。
特に東京都心はひどい。まさに無法地帯。舗道に隙間がないほどの人ごみ、
そんな中で平気で「歩きタバコ」できる人の神経を疑う。そんな人ごみの中で
火のついたものを持ち歩く、それがどれほど危険か。特にこの数年、火のついた部分を
外側に向けて歩くのが「カッコイイ」とされてるらしく、そういう人が多い。
これだとさらに、その危険度は増す。関東に住んでいた頃、火傷させられそうになって
見知らぬ人に食ってかかったことも何度かあった。だから、そんな無法地帯の千代田区で
この条例が施行されたことは大変歓迎すべきことだ。

 だけど、福岡市・天神で同様の条例を施行することには疑問。というのも、「極端にマナーの悪い無法地帯」
と化しているのは、日本広しといえども、東京都心だけだと思う。
実際、こっちに帰ってきて感じるんだけど、「禁煙スペース」では吸わない、とか、
「人ごみの中での喫煙は避ける」とか、そういうマナーの点でいえば、都心と比べれば全然クリーン。
そう、東京都心だけが極端にマナーが悪いのである。だから「著しくマナーの乱れていない福岡で
同じ条例を施行する必要はない」と私には思える。都内は喫煙マナーに関しては「異常」な場所だから、
あの条例もやむを得ないと思えるけど、それ以外の場所で施行することは、
逆に「過剰な規制」となり、人々に窮屈な想いを強いるだけだ。
なんでもかんでも「規制、規制」で、世の中を窮屈にするのはよくない。
あの「無法地帯」の東京都心での規制は仕方ないだろうけど、それ以外の地区で
規制する必要はないはず。なんでもかんでも、東京に対して「右へ習え」してしまうのもまた、
地方大都市の悪い癖ではないのか。私はこの条例、福岡で施行されることには反対です。
といっても、私は福岡市民ではないんだけど。


      
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