自分の話

      
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■2003/03/16(日) はじめての救急車

  実は私、昨日、救急車に乗りました。もともと病気や怪我とも無縁、病院にも
めったにかからないだけにショッキングな体験でした。

 あんまり「プライベートに突っ込んで書きたくない」というポリシーがあるので詳しくは書けないけど、
昨日の夜、出勤途中に怪我。私自身は怪我をした瞬間、別に痛みなどを感じることもなく、
淡々としてたんですが、「足元が熱いよ」と思って自分の足元に目をやると、なんと足から大流血。
松田優作ではありませんが「なんじゃこりゃ」状態。驚いて自分で電話して救急車を呼び、
怪我をした状況などを説明、病院に運んでもらいました。いや、本当に「痛いとすら感じない」状態だったし、
当然意識もしっかりしてるし、普通に歩くことだってできるしで、私自身の命には
全く別状なく、しっかりした状態なのに、救急車で運ばれている。正直、「怪我をして動転」とか「ショック」よりも、
「恥ずかしい」が先に立ちました。

 無事に病院に到着、怪我をした状況などを克明に医師に説明、自分で担架からベッドに乗り換えるなど、
気丈に振る舞ってたんですが、そこで大きな不安が。地元に帰った当初「一歩間違えれば路頭に迷いかねない」
激貧状態だった私、やっとのことで「人並みに遊びに金が使える」ところまでこぎつけた矢先のアクシデント。
一体、治療にいくら払えばよいのか? これから先、費用がいくらかかるのか?
私の頭の中は「怪我をしてしまったショック」以上に、これから予想される出費の方がよっぽどショッキングであり、
「せっかくここまできたのに!」というやりきれない気持ちに襲われました。

 ちなみに、怪我の方は何針も縫うほどの深い傷を負ってるものの、決して痛みはそれほどでもなく、
自分で歩いて帰って来たほど。むしろ「せっかく稼いだ金をこれから失ってしまう」ことの方に
強いショックと不安を受けている状態。ここから私はもう一度、這い上がることができるのだろうか?
いや、這い上がってみせる。「金がすべてじゃない」「金なんて重要じゃない」、そんなのは奇麗事、
そういうセリフは「ある程度の生活水準を常に保てる人」が吐く言葉だ。
俺には「金がすべてじゃない」なんて言えないんだよ。金で天国も、地獄も見てきたんだからね、俺は。
「金は『すべて』ではないが、『必要不可欠なもの』である」、これが俺の金に関して思う正直な気持ちだ。
ちなみに、こんなことをここに書いた以上、「怪我は大丈夫ですか?」といったメールも来そうですが、
心配には及びません。この通り、相変わらず斜に構えた言葉を吐き散らしてるほどなんだから(笑) 

■2003/03/26(水) 入院生活をフィーバーしようぜ!

 といっても、今の私は「自宅静養中」であって、入院はしていませんが。

 前も書いた通り、私は異常なほどの健康体でして、今回が久々の病院通い。
前に病院にかかったのは、中学生の頃、風邪をひいて近所の内科医に行った時。
よって、もう20年近くも病院に行ってなかった、ということになります。
本当に虫歯1本ないんですよ。そんな私ですが、小学生の頃は体が弱く、
すぐに病気をしていました。特に肥満体を持て余し、大きな怪我をすることもしばしば。
1年に2回も骨折した経験もあったほど。で、小学校5年の頃、私は体育の授業中に右腕を複雑骨折、
入院→手術→数ヶ月後に再手術を伴うという大きな怪我をしています。
その時、入院したのが市内の大病院。その病院ではかかりつけが
内科であろうと、外科であろうと、泌尿器科であろうと関係なく、15歳以下の子供はすべて、
子供専用病棟に入れられていたんです。で、その病棟の壁にかかっていたのが、
病棟の看護婦の書いた標題の言葉なんです。「フィーバーしようぜ」ってとこに時代を感じますよね(笑)
それを手がけた看護婦は水谷豊のファン、つまり「熱中時代」のテーマ曲「僕の先生はフィーバー」に
触発されてこの言葉を思いついたんだと言ってました。決してジョン・トラボルタや
ビージーズのファンではなかった模様。

 とはいえ、この時の2週間の入院生活は、決して苦痛ではありませんでした。
もちろん、途中で手術があったから、その辺では苦しみと恐怖を味わいましたけど。
なぜ苦痛じゃなかったかといえば、この「子供専用病棟」、とにかく楽しい。
入院してるのは全員子供。しかも、同じ部屋にいるのは同世代の男の子ばっかり。
確か小4〜中3までだったと思う。いわば「悪い盛り」の男の子ばっかりだから、
想像はつくことでしょう。若い看護婦を下ネタでからかって遊んだり、隣の隣にあった、
同世代の女の子ばかりの部屋を覗きに行ったり、マンガの本の回し読みをしたり、
みんなでトランプやゲームで盛り上がったり、「病棟以外はへ出歩かないように」という規則を破って脱走、
地下の死体置き場で夜中に肝試しをやったり。「ヒット曲をエアチェック」する趣味が
当時から既にあった私、その私の愛用のラジカセに、みんなのしゃべりを録音して遊んだりもしてた。
私がエアチェックしたオフコースの曲を聞き入っていた看護婦もいたよな。
勉強の分からないところは教え合ったりもしてたしね。
「入院」という言葉から連想される辛さ、重苦しさとは全く無縁。とにかく楽しいだけの毎日。
あっという間に2週間の入院生活は終わりました。退院する時は、みんなで別れを惜しんだりもしたしね。
まさに「入院生活をフィーバー」したというわけ。

 あんな入院生活ならもう一回送ってもいいかな。でも、この年では無理。
やっぱり入院は嫌だな。今回は入院せずにすんでよかったなと。
ああ、彼氏募集中のカワイイ独身の看護婦でもいたら考えるけどね(笑)
でも、そうなると違った意味で「フィーバーした」入院生活ということになるのか。

■2003/03/29(土) 私はこんな物件に住んできた

もうすぐ4月、新生活に入る方も多いでしょう。引越し、はじめての独り暮らし、独立・・・。 ちなみに私は1992年4月〜2001年9月という長い独り暮らし生活を、しかも地元から遠く離れた土地で送ってきました。 というわけで、私が独り暮らし時代を過ごした物件、ようするに部屋のことをあれこれと述べてみたいと思います。 きっと、これから新生活をはじめるというみなさんの参考になるものと思います(なるわけないって:笑)

●1992年4月〜9月に住んでいた物件
 (場所)東京都足立区
 (広さ)6畳ワンルーム
 (家賃)5万4千円

 狭い、日当たりが悪い、隣の建物との隙間がなく、窓を開けると目の前は隣の工場。 最寄り駅までバスで20分、最寄りコンビニまで歩いて20分。スーパーもない、周りは畑と工場。 「これが東京23区?」とショックを受けた。でも、だからこそ、まだバブルの余韻が残っていて、 家賃が馬鹿高かった時代としては破格の安い家賃だったんだろうけど。 すぐに引っ越さなければいけなくなったけど、正直ホッとした。

●1992年9月〜1994年4月に住んでいた物件
 (場所)千葉県木更津市
 (広さ)8畳ワンルーム
 (家賃)5万4千円

都心からJRで1時間半、「関東」ではあるけど「首都圏」とはいえない街。 おかげで家賃は全く一緒だけど、ずっと奇麗で広い部屋へ。キッチンは部屋と別になってるし、 玄関のドアの前に短い廊下もある。「この辺で家賃5万4千円は贅沢」と地元の人に言われた。 駅からも歩いて10分、一番近いコンビニまで歩いて3分、駅前には商店街もある。 快適だった。ただ、CDとかを買いに行けるような大型店はなし。 1、2ヶ月に1回、都心に買い物に行ってた。

●1994年5月〜1995年9月に住んでいた物件
 (場所)長野県松本市
 (広さ)8畳ワンルーム
 (家賃)5万7千円

 

 長野県って物価は安かろう・・・。という推測は見事に外れ。 関東のような「独り暮らしの用の物件」などほとんどない。 よって、「ワンルーム」とはあるけど、普通に2、3人の家族が住むような部屋。 正直、こんなチャンとした部屋に住む必要はないのに。しかも、駅から歩いて20分、 そんな街外れにもかかわらず、家賃5万7千円はどう考えても高すぎる。 意外と家賃の相場は高い街だった。しかも、冷暖房なし。盆地で「夏は暑く、冬は寒い」土地だから、 冷房も暖房もなければとても住めない気候。辛かった。よって、暑くてたまらない日、 寒くてたまらない日は徒歩5分のファミレスによく通ってくつろいでた。 松本から東京へは特急「あずさ」を使えば遠くないから、2、3ヶ月に1回、東京に出て猟盤してた。

●1995年9月〜1996年5月に住んでいた物件
 (場所)北海道函館市
 (広さ)2DK(6畳、4畳半)
 (家賃)4万8千円

この街は松本以上に「独り暮らし用物件」のない街。観光が売りな一方で、実態は過疎化の進む街。 仕方なく「普通のアパート」に住まざるを得なかった。まあ、家賃が一転して馬鹿安かったのはせめてもの救いか。 実はこれでも「高い」と、周囲の人に言われた。市街から大きく外れた住宅地、交通手段がない。 JRも街の中にはほとんど通ってない、路面電車も観光地しか走ってない。 普通に生活をする人が利用できるのはバスだけ。しかも1時間に1本とか、そんなレベル。 「自分の車を持ってないと生活できませんよ」と地元の人に言われた。 確かに最寄りコンビニまで徒歩40分、郵便局まで30分、銀行までも30分、理髪店まで15分。 実は私が今のような「長い距離を歩いても苦にならない」奴になったのは、ここでの生活を体験したから。 あと、函館は下水普及率が日本一低い街(地元の人談)なんだとかで、物件探しした時、 不動産屋に「汲み取り便所は嫌なんですか?、なぜですか?」と不思議そうに聞かれたりもしてショックを受けた(笑)

●1996年5月〜9月に住んでいた物件

 (場所)札幌市厚別区
 (広さ)2LDK(6畳、4畳半)
 (家賃)5万円

私が今まで住んだ中で最も豪華な部屋。オート・ロック付きのマンションで、 なんと、ダイニング・キッチン付き、トイレとバスは別、BSアンテナ付き、有線放送のBGM付き。 本当に快適だった、一番私がバブリーだった頃、それだけじゃなく、札幌って大都市のわりに、 異常なほど物価が安くて、家賃もこの安さ。場所も札幌の副都心、厚別区新札幌の繁華街から徒歩3分。 徒歩10分以内に何でもあるから、遠出する必要なんて全くなかった。 もっと長くここに住みたかったんだけど、市内の逆の端に異動になってしまったので、 泣く泣く引越し。

●1996年9月〜1997年9月に住んでいた物件
 (場所)札幌市豊平区
 (広さ)2DK(6畳、4畳半)
 (家賃)5万2千円

 前の部屋への「幻想」も冷めあらぬ中で物件探ししたけど挫折。あんなよい物件は見つからず。 この部屋は広いけど汚い。BSはあったけど、当然有線なんてあるはずもなく。 しかも、最寄りの地下鉄の駅までバスで20分。しかも、その駅の辺りまで行かなければ、 コンビニ以外の店はない。「天国から地獄へ」な気分だった。結局、CDとかの買い物の際は、 大通公園とか、すすきのなどの、市の中心部まで出る羽目に。

●1997年10月〜2001年9月に住んでいた物件
 (場所)千葉県柏市
 (広さ)ワンルーム
 (家賃)5万4千円

 関東へ舞い戻る。結局、また汚いワンルーム生活に逆戻り。ここに引っ越して間もなく 私はネットをはじめ、翌年にはサイト開設。「汚い」「BSもない」とネット上でぼやいてた通り、 今まででいちばんショボい部屋だった。駅までは歩いて5分と便利で、それだけがメリットだった。

 ・・・こうやって書き出してみると、ますます札幌時代の部屋にもう一度住みたくなるなあ。 有線があって、いつも音楽が流れてくる部屋。今考えれば贅沢すぎたよな

■2003/04/03(木) 素晴らしい校長先生との別れ

 4月1日の新聞といえば、福岡県では「教職員の異動」が掲載される日です。
いまでこそ、この欄を見ることは全くありませんが、やはり小中高の頃は、
毎年ドキドキしながら見ていたものでした。「あの先生がいなくなる、校長が代わる」とかって。
そんな中でも、私にとって一番思い出深い「教職員の異動」といえば、小5の始業式の日、
校長先生が異動になった時のことです。以下はまるでドラマのような話ですが、すべてノンフィクションです・・・。
一切の「作り」はないんですよ、本当に。

 前から述べている通り、私は小6に上がる時に転校していますが、そんな私が1年〜5年までを過ごした小学校は、
公立であるにもかかわらず、とてもユニークな教育方針をとっていました。
校庭は開放状態、近所のお年寄りや幼児が散歩に来たり、遊びに来たり。
これは「地域の人との触れ合いもまた教育」という、当時の校長先生の方針。
また、この校長先生、「教科書に書いてあることを鵜呑みにして覚えさせるのではなく、
『なぜだろう?』と自分で考えさせ、実践して確かめさせ、覚えさせていくことこそが教育」
という確固たるポリシーを貫いていた。例えば、理科の授業では必ず実験を行う。
そして、実験の結果が出るまでは、先生はひとことも「こうなるんだよ」と、答えを絶対に言わない。
私たち生徒に実際にやらせて、結果を見せて、「ああ、こうなんだ」と納得させることで覚え込ませる。
現在の教育現場のように、教科書に書いていることを押し付け、丸暗記させるのではなく、
自分で考え、結果を導き出すことによって、ひとつひとつ覚え込ませる。
実に素晴らしい教育方針をとっていた。私が今でも、「与えられた情報を鵜呑みにしない」のは、
この小学校で受けた教育のおかげではないかと、実は密かに思っている。

 しかもこの校長先生、人格も素晴らしい。礼儀正しく、上品な紳士。PTAや教職員はもちろん、
地域の人たちからも一目置かれていた。私たちガキに対しても、絶対に偉ぶらず、常に丁寧語。
しかも、「お話」が凄く面白い。全校朝礼の「校長先生のお話」といえばみなさん、
「退屈」「眠い」というイメージだろうけど、この人のはとにかく面白い。
「勉強しろ」「風邪に気をつけろ」とストレートに言われると説教臭くてとても聞いてられないんだけど、
この人の場合、必ず中国の昔話、イソップ童話などを引用、まずは最初に「物語」を聞かせる。
もう、この時点で、当然ガキの心をしっかり掴んでしまう。私たちはその話に引き込まれていく。
で、そうやって引き付けておいて、「だからみなさんも、勉強しましょうね」「風邪に気をつけましょうね」と結ぶ。
これだと素直に聞けるし、「説教臭い」「退屈」という印象を受けることは全くない。
また、戦時中に教え子を目の前で亡くすという、これ以上ない辛い経験をしていることもあり、平和教育にも熱心だった。
昼休みの校長室、「校長先生、なにかお話聞かせて」と、お話を聞きにくる生徒でいつも溢れていたものだ。

 ところが、私が小5に上がる時、突然その校長先生との別れの時がきた。
これだけの人格者だから当然だろうけど、現場から教育委員会の幹部へと「栄転」になったのである。
始業式の朝、全校生徒を集めての「転出する先生のお別れの式」が開かれた。
その席上、挨拶代わりに「最後のお話」をする校長先生。泣いている生徒も多くいる。
ところが、「最後のお話」が終わったところで、低学年の生徒の1人がこう叫んだ。
「校長先生、もう1回お話して!」。すると、続けてあちこちから声が上がる。
「もう1回聞かせて」、アンコールの拍手が生徒の間はもちろん、教職員からも巻き起こる。
結局、校長先生は声を詰まらせ、涙声で、「じゃあ、最後にもうひとつ、お話をしましょう」と話をはじめる。
そして話が終わると、ステージを降りて外へと向かう。「行かないで」「さようなら」という
涙声の生徒の声に送られ、目をはらして校長先生は出ていった。
さすがに小5の私は、低学年の連中のように声をあげはしなかったけど、心の中では別れを惜しんでいた。

 以降、多くの校長先生に出会ってきたけど、あんなに「立派な人だなあ」と、
心の底から尊敬の念を抱ける校長先生には、結局出会うことはなかったし、
以降に出会った校長先生のお話は、「退屈」で「説教臭い」ものでしかなかった。
中には「こいつ、最低だな」と思えるような人もいた。
それを考慮すれば、本当に素晴らしい人だったと思う。それにあの「転出」のシーン、
ノンフィクションとは思えない、まるでドラマのような光景だったけど、あれもまた、
この人の人徳があればこそだったんだろう。あのシーンと、あの校長先生のことは、
今でも鮮明に私の記憶に残っている。また、私は大きな影響を受けたし、
その影響は今現在の私の中にも間違いなく生きていると思う。

2003/04/04(金) 東京への憧れと「馬鹿野郎感」

 テレビ番組で「山手線に1日中乗りっぱなしで過ごした」などという笑い話が登場したり、
「お前、この前六本木のアマンドの前で」などと平気で、何の説明もなく固有名詞、地名が登場したり。
かとおもえば、「メガネドラッグ」だの「ハトヤ旅館」だのの、「関東ローカルCM」のパロディが
何の説明もなく、特に断りもなく、悪びれた様子もなく平気で展開されたりもする。
また、ニュース番組で「ゴミの再処理問題」を取り上げるニュースの中で、
なぜか「昨年1年間の東京都から出たゴミは・・・」などと、特に理由もなく、
「東京都のデータ」が引用されたりもする。

  きっと東京生まれで東京育ちの人、もしくは、東京近郊の関東で生まれ育った人には、
どう転んでも絶対に分かってもらえないと思うけど、こういうものを目の当たりにすると、
私たちは大変な違和感を覚えると共に、「俺たちは蔑ろかよ」「俺たちは置いてけぼりか」と、
とても屈折した感情が湧き起こります。せっかく盛り上がってるコントの中で、
「ハトヤのCMのパロディ」なんか出てきた日には、気持ちも一気に冷めてしまうというもの。
じゃあここで「にわかせんぺい」だの、「ベスト電器」だの、「別府杉の井ホテル」だののパロディ、
つまり「九州人にしか分からないネタ」も登場しないと、単なる差別でしかないだろう? と私には思えるのである。
というわけで、山口県に生まれ、物心つかないうちに福岡県へ、以降福岡県しか知らずに育ってきた私には、
今述べたような「東京への馬鹿野郎感」がいつもあった。だけど一方で、こんなことで
「馬鹿野郎」と思ってしまうという事実は、実は東京への憧れと、東京に対するコンプレックスの裏返しでもある、
そのことは自分でも薄々気がついていた。

 そんな私がはじめて上京したのは1987年2月、高3の3学期、受験のためだった。
新幹線を降り、山手線に乗り換えて池袋に向かったんだけど、電車内の会話が全員標準語なのに驚いた。
標準語といえば、私にとって「テレビに出ている人が使ってる言葉」に過ぎなかったので、
「みんな、テレビ・ドラマのセリフみたいなしゃべり方だなあ」という変な気分になり、気持ち悪かった。
しかも池袋駅で迷う。どこまで行っても出口がない。そう、あの駅って東京近郊の方はご存知の通り、
コンコースは全部地下ですからねえ。人ごみに押しつぶされ、電車の中で潰され。
この年はそんなこんなで、ただ圧倒されたのみ。
当然こんな気持ちでは受験もままならずで・・・。まあ、長年の「馬鹿野郎感」と、
「屈折した想い」が入り交じって、「東京だ」ってんで、意識し過ぎただけなんだよね、今思えば。


 結局浪人した私はその翌年、またも受験のため上京。ただし、2回目というだけで、
全然気分が違ってくるから不思議。もう違和感もなく、圧倒されるような思いもなく、
「別に、同じ日本だから大差はないよ」って気分でいた。きっと、「1回行ったことがある」からこそ、
ただそれだけで特別な感情が私の中にはなかったんだろう。


 その後は1990年2月のポールの来日公演、1990年8月には北海道旅行の乗り継ぎのついでに寄り、
1991年には年3回も就職活動で上京。もう、この辺になれば全く特別な感情もなく、
あちこちで遊びまわって、買い物もいっぱいしたし、修学旅行生に道案内までするなど、
すっかり慣れてしまっていた。まあ、結局福岡市内の大学に通ったおかげで、
「都会=福岡」に慣れていたのもあったんだろうけど。いや、だからこそ逆に、
「馬鹿野郎感」は消え失せ、逆に「こんなところで生活したい」という、
「憧れ」の方が先に立つようになっていたのかもしれない。学生時代の私は、
「こんな田舎では買い物も出来ない」と言って、買い物はすべて地元の北九州ではなく、
福岡市内でするようになってたし。まあ、はっきりいえば「東京への憧れ」というより、
「都会への憧れ」だろうな。1992年4月の就職時、いきなり関東に配属、
一応「不安」を口にした私だったけど、心の中で密かに「やった」と喜んでいたもうひとりの私がいた。


 その後、2年間関東で生活、松本に異動になった後も、特急を使って日帰りでよく東京に出て来ていた。
1997年からは再び関東で生活をした。「日本中、住んでしまえばどこでも一緒」、
あちこち転勤して私が導き出した答えがこれだ。本当に大差はないよ、所詮は日本だもん。
日本語は通じるし、通貨は「円」だよ、ペソじゃないもん(笑)
ただし、「だけど、どこでも一緒だからこそ、どうせ住むなら刺激があって便利なとこじゃなきゃ」ってのが、
私が今も抱えている想い。東京や首都圏で何年か生活した地方出身者の大半は、
「もう、あんなところには二度と住みたくない」っていうけど、私は逆だ。
地元に帰って1年半が経っても、私には「東京への憧れ」が消えないようだ。
とはいえ、戻れないからこそこのところ再び、「馬鹿野郎感」も復活しつつある。
先日もあるボードで何の説明もなく「ディスク・ユニオン」と書いてる人がいたので、
「関東以外の人には分からないですよ」とちょっとキツめに突っ込み、「中古盤屋ですよ」と注釈を入れた。
私の中の東京への「憧れ」と「馬鹿野郎感」は、何度あちらに住もうとも、私が死ぬまで消えることはなさそうだ。

・・・ということで、新生活を馴染みのない土地で迎えるみなさん、
上で私の書いてる「日本中、住んでしまえばどこでも一緒」って言葉、嘘ではありませんよ。
九州出身なのに、関東はおろか、北海道でまで生活したこの私が言ってるんだから。
不安に思うことなんて何にもないんだよ。

■2003/04/22(火) 読書、映画、マンガの本

 音楽ネタ・サイトの管理人の方には、「音楽鑑賞以外の趣味」が、
上記の3つのうちのどれかだという人が圧倒的に多いような気がします。
実際、ボードがコアな映画ネタ、マンガ・ネタ、小説ネタで溢れかえってる、
という光景は多く目にするし、「音楽ネタ+小説ネタ・サイト」、「音楽ネタ+映画ネタ・サイト」、
「音楽ネタ+マンガ・ネタ・サイト」ってのも、本当に無数にあります。
自分の「日記」に、映画、本、マンガの感想を、何の説明もなく書いてる方も多い。
ところが、「プロフィール」をご覧いただければお分かりの通り、私はこの3つに、
ほとんど全くといってよいほど関心がないのです。

 まず読書。全くしません。でも、決して「活字嫌い」というわけでもないんです。
THE DIGなど音楽雑誌で長文を読むのは苦にならないし、むしろ「読み出すと止まらなくなる」性分だから。
では、なぜ読まないかといえば、「自分で読みたい本を選ぶことが出来ない」から。
子供の頃からそうでした。幼稚園の頃、教室にある絵本を、みんな奪い合って読んだりしていたものでしたが、
私は、「自分はどれを読みたいのか、どれを読めばいいのか」分からなかったんです。
先生から「これを読んでみて」と渡されると、比較的夢中になって読んでたものですが。
いや、周りの連中がすぐに飽きて投げ出してしまう中、私1人は最後まできっちり読まなきゃ気が済まなかったんですが。
小学校の「図書の時間」などでも、「今日読む本」を探しているうちに、1時間経過してしまう、
ということも多かったものです。つまり、「本を選ぶ能力がない」、「読みたいという意欲は湧きにくい」
それが私の「読書嫌い」の理由なんです。

 マンガを読まないのも、似たような理由かも。ただ、「小学1年生」などの
小学館の学習雑誌、「コロコロコミック」などの漫画雑誌はよく買ったし、
買ったら隅から隅まで読んでいたもの。だけど、単行本は買わない。
つまり、多くのマンガの「寄せ集め」である雑誌なら読めても、その中から何か1つの作品を
自分で選んで買わなきゃならない、となると選ぶことが出来なかったというわけ。
でも、よく考えれば「ジャンプ」や「サンデー」は一度も買ったことがないけれど。

 映画の場合は、「わざわざ映画館に行き、金を出してまで見る」気にはなりにくい、
というのも見ない理由。中でも洋画に関しては、前も書いたけど「出てるのが全員外国人=身近じゃない」
気がして親しみが湧きにくいこと、風習や価値観が違い過ぎて馴染めないことが最大の理由かな、と思ってる。
でも「映画嫌い」って、世の中で生きていく上では、とっても不自由。
「最近何か映画見た?」って、結構挨拶代わりに交わされる、ありがちな会話ですもんねえ。

 だけど、もっともっと大きな、この3つを見ない理由は・・・。やはり私が子供の頃から
バリバリの「テレビっ子」だったことではないかな、と思っている。「本で小説を読むくらいなら、
同じ話のドラマを見た方がいい」と思うし、「マンガ本を読むくらいなら、同じ作品のアニメを見た方がよい」と思うし、
「映画館に行くくらいなら、テレビを見た方がよい」と思う。結局、私の中でこの3つは、
テレビと比べるとはるかに優先順位が低い、テレビと比べれば魅力的ではないメディア、
その程度の存在でしかないんじゃないだろうか。実際、読書、映画、マンガ本の好きな人って、
テレビはあんまり好きじゃないって人が圧倒的に多いような気がする。
「最近のテレビはつまらない」とぼやいて、あまり見なくなった私だけど、
それでも「読書したい」「映画を見たい」「マンガを読みたい」とは、どう転んでも思わない。
でも、「音楽を聴く」って行為は、実は「文化的」な行為ともいえるわけで、
だとするとテレビよりは、読書、映画、マンガの方により近い世界のはずなんだけどねえ。
私って相当変わったロック・ファンなのかもしれない。

■2003/09/09 (火) 「けーたい」とかいう代物

 ずっと書いてきた通り、私は生まれてこの方、携帯電話なるものを持ったことが一度もなかった。
ところが、仕事上の必要に迫られて、遂に持ってしまった。とはいえ、携帯なんて持つのはおろか、
使うのすらはじめてなわけで、本当に悪戦苦闘の連続です。

 まず、「よし、俺も携帯を持つぞ」と思い立ったのはよいけど、どうすれば自分の携帯が作れるのかすら知らない(笑)。
とりあえず、自宅から一番近いところに代理店のある某社の店に駆け込んで
「新規申し込みをしたいのですが」とだけ告げて、あとは店の人の案内に従って、
何とか自分の携帯を持つことだけは出来たというわけ。とはいえ、「通話以外には使わない」
「最新の機能なんていらないから、無料の電話機がいい」と頑ななまでに主張し続けたけど(笑)。
なので、メールも使えなければ、i-modeすらない。ま、どうせ持った理由が「連絡用」に過ぎないし、
「電話ごときに金をかけたくない」という想いもあるから、とりあえずはこれでよいかなと。
どうせ金をかけるなら、もっとCDを買いたいし、スカパーとかに入った方がいいもんね、俺は。

 というわけで、ようやく持った。持ったはいいけど使いこなせない。取り方、切り方は説明書を見て
何とか理解できたものの、いきなり電話が鳴り出すと、やっぱりビックリする。
そして「早く出なければ」と焦るもんだから、やっとのことで覚えた「電話の出方」を忘れてしまい、
「えっと、出る時はどのボタンを押すんだっけ」となってしまう(笑)。この前なんて間違って、
出るつもりがいきなり切ってしまったし。そんなこんなで、本当に持ったはいいけど、
全く使いこなせていない。まるで俺って10年くらい前からタイム・スリップしてきた人みたいだよね。
ちょっと自分でも情けなく思う。

 でもねえ、基本的に俺って電話で長話できないんだよね。だから使用頻度はきっと低いだろうね。
それに「こんなとこに金を使うくらいなら、もっと別のところに金をかけたかった」って想いも強いんだよね。

■2003/10/01 気がつけば2周年、気がつけば・・・
    

慌ただしかった9月が終わったわけですが、気がつけば私が千葉の柏から地元・北九州に帰ってきて 早くも2周年を迎えたことになります。ここで何度も書いてきた通り、「都会暮らし大好き」 「田舎はいやだ」「帰ってきても、全然地元に馴染めない」「関東に帰りたい思いだけが募る」、 そんな状態でこれまで過ごしてきた。去年の今頃もそんなことを書いたのが、ちゃんと「過去ログ傑作集」の中に残ってるし。 ところが、今年の5月から「ネット休止」して、プライベートな生活を今まで以上重視して過ごしていたら、若干の心境の変化が起こってきたようです。

  去年の今頃は「帰ってきたのは地元、それなのに地元の人と価値観がズレてしまっている、 こっちの生活に馴染めない、未だに標準語が抜けない、さすがに地元を10年近くも離れていると このギャップは容易には埋められない」、そんなことを書いていた。ところが、気がつけば私は何時の間にか 「北九州の人」になっていた、いや、戻っていた。今の私の物事を見る目、価値観などは 関東の人よりも断然地元の人の方に近いし、言葉もまだ不完全ながら地元の訛りが戻りつつある。 「吉野屋もない、マツキヨもない街なんて信じられない」なんて嘆いていたはずなのに、 気がつけば「なくって当たり前な生活」に違和感がなくなってしまっている。たまに福岡市に行くと 以前は「人が多い、車が多い、でもそれが当たり前、これくらい便利なとこじゃなくっちゃ生活できないよ」と 思ってたはずなのに、今では「人が多すぎ、車が多すぎ、疲れるよ」ってなってしまう。 うーん、俺は気がつかないうちに「北九州の人」に戻ってるのかもね。

  とはいえ、まだ不完全なのも確か。言葉も思いっきり「標準語寄り」だから、 初対面の人に「地元出身じゃないんですね?」とか言われるし、「関東へ戻りたい」気持ちも強いし、 「俺は都会暮らしの方が向いている」という気持ちにも変わりはない。

 それと、どうしてもダイエー・ファンにはなれないしね。優勝が決まって昨日から街中あちこちで大騒ぎだけど、 俺には関係ないって感じで冷めてる。きっとシリーズでは阪神を応援して、周囲から袋叩きに遭いそうな予感もするしね(笑) そう、この昨日からの馬鹿騒ぎを見ていると、「やっぱり俺と地元の人とのギャップは、まだ埋ってないな」 という想いの方が強くなってる次第。とはいえ、もう2年かあ・・・。

■2004/5/11 いつの間にやら逆戻り?(また太りはじめる)

 プロフィールやあちこちに書いている通り、私はかつては90キロ近くある「デブ」でした。それがこの7、8年で急激に痩せ、このサイトを開設した1998年7月時点では70キロ、それから1年後には60キロ、そして地元に帰ってきた2001年9月の時点ではなんと、55キロと「激痩せ」してきた、そのこともまた、たびたびあちこちに書いてきました。その後、一度も体重計には乗っていませんでしたが、おそらく去年の今頃には、それよりももっと痩せていたはずです。実際、周りから「痩せ過ぎなほど痩せている」と指摘されたくらいですから。

 ところが先日、プライベートの知り合いの方に不意にこんなことを言われてしまいました。「Sさん(私の本名)、最近ものすごく太りましたね?」。?????。いや、自分では全く、本当にひとかけらも、実感がなかったんだけど・・・。その後、数名のプライベートの知り合いに聞いてみた。「俺、最近太った?」。大多数の人は「まあ、そうでしょう」と、「当たり前」「どう見てもそうだろう」といわんばかりの口振り。ある人には「本当に気がつかなかったの?」といわれる始末。しかも年明け以降に知り合った人からまでも「もの凄く太った」と言われたことはまさに追い討ち。つまり年明け以降、わずか5ヶ月ちょっとの間に「激太り」しているということ。おいおい、ヤバイよ。「もともとは痩せてたけど、ここへきて太り出した」人はまだいい。俺の場合「元デブ」なわけだから、「リバウンド」がくると、あっという間に90キロに逆戻り、という可能性もあるわけだから。本当に目の前が真っ暗になる想いだった。恐る恐る体重計に乗る。65キロ・・・。ヤバイやん(笑)。最後に体重計に乗って、既に10キロも増えてるんだから。このサイトの開設1周年の頃、つまりまだ自分で自分を「デブ」だと思い込んでた頃よりも太ってるんだから・・・。

 考えてみれば、最近はCD買いまくったり、ライブに行きまくったりしてることからお分かりの通り、経済的にほんの少しゆとりが出てきた。といっても相変わらずの極貧で、決して「金は持ってる」なんていえる状態ではないけど、一時期のように「半年以上も中古盤すら買ってない、買えない」なんて事態は脱してる。つまり、食べ物にかける金の方にも、若干のゆとりができつつあるわけで。だから、例えばコンビニに行って「本当は4つは食えるけど、今日はパン2つで我慢」とかってこともしてたんだけど、今じゃあ欲求に忠実に4つ買ってる。明らかに食べる量が増えた。ついでにいうと、「忙しい」わりには、意外とキツくなかったりもしてる。それと、関東で独り暮らしをしていた頃は、「電車代節約のため、新宿から池袋まで歩く」「新宿から御茶ノ水まで歩く」なんて無謀なことをしてたんだけど、最近はめっきり歩かなくなった。こりゃ太るに決まってるよなあ・・・。

 というわけでここに、「夏までには60キロに減らす」ことを宣言します(笑)。とりあえず「馬鹿な食生活」は改めました。あと「なるべく歩く」生活に改めました。正直、ただですら身長は高くないので、55キロまで減ると「小柄」に見られることが多くていやだったので、そこまで減らす気はなく、「60キロでOK」と思ってる次第。さて、どうなることやら。この件に関しては随時、ここで報告入れます。しかしねえ、「食べる量を減らす」ことを宣言しているわりには、昨日は焼き肉を食いに行き、同席した誰よりも大量に食う、という無茶をやってしまった。まあ、いいや、明日から頑張れば(笑)

■2004/08/30 「ザ・フー、夢の後」燃えつき症候群

  実は先月末、「ロック・オデッセイ」で初ザ・フーを体験して、それ以降「ザ・フー以外は全く受け付けない」時期が続いていることは、ここに書いたけど、ライブ・レポをアップした後、私に信じられない症状が。アップした時点で「一仕事終えた」ような気分になって、ようやくザ・フー気分も一段落。と思ったら、なぜか音楽に夢中になれなくなった。CDはその後も買ったし、いろいろ聴いているんだけど、ほとんどBGM状態。今の私は「音楽を聴くことに夢中になる」ことができないんですよ、なぜか。「じゃあザ・フーならいけるか?」というと、そうでもない。すべての音楽に、以前ほど夢中になれない。もちろん、「ロックが好き」「音楽が好き」なことには変わりはないんだけど、心にポッカリと穴が空いていて・・・。どう説明したらいいんだろう、上手くいえないけど、「すべての音楽が今の俺の『気分』じゃない」って感じですか。この「落書き帳」も随分ご無沙汰だし、よそのボードにもライブ・レポをアップした頃を最後に書き込みしてないけど、実はそれは、私がそんな症状に襲われているせい。まあ、いずれ何かのきっかけで、また音楽に夢中になれる「気分」に戻るはずだけど、当分は元には戻りそうもないし、そうなるまでは当サイトの更新もないかも・・・。

 音楽だけではない、実は今、何をやっても夢中になれないんです。私って「熱しやすい」「すぐに夢中になる」性格のはずなのに・・・。「実はオリンピック・モードだったんだろう?」って思う人もいるだろうけど、今回のオリンピック、なぜか熱くなれなかったんだよなあ、日本人大活躍なのに。これもすべて「ザ・フー来日、夢の後」燃えつき症候群のせいのような気がする。

■2005/1/5 見ず嫌い?

 ある人が自分の日記で、「まだ20代、30代なのに、今のものをすべて面白くないと決め付けて、昔のものばかりを美化する人がいるけど、あれってどうなんだろう。面白くないものの中にも、ひょっとすると面白いと思えるものも少しくらいあるかもしれないのに、頭っからすべて拒絶してしまうと、それを発見するチャンスすら自ら摘み取っているようなものだし、それってつまらないと思う」っていうようなことを書いていた。これって決して、特定の誰かに向けて書かれたものではない。だけど、これを読んで勝手に「俺にも当てはまるなあ」なんてちょっと考えてしまった。うん、確かにこの方の言いたいこと、よく分かる。こと音楽に関しては、「どうせこのジャンルは守備範囲外だから」って、聴く前から拒絶するのはもったいないよ、って趣旨で「聴かず嫌い克服ノススメ」なんてコンテンツをやっている私。だから、この方の言うことは「全くその通り」と思う。

 でも、なぜか、テレビやプロ野球に対しては、こういう柔軟な気持ちになれない。確かに「ひょっとすると、面白いもの、面白い要素もあるのかもしれない」ってことは分かる。だけど、ことテレビとプロ野球に関しては、この10年くらいずっと、「かつてより面白くなくなったのは確かだけど、きっと、面白いものもあるはず。きっといつかは、かつてのように面白くなるに違いない」、その希望や夢を捨てずに付き合ってきたんだよね。でも、一向によくはならないし、どんどん悪くなっていき、かつての「よい要素」の方が、どんどん退化していく。正直いえば、「信じて、付き合っていくことに疲れた」ってのがホンネ。だから今では「どうせ、見てもガッカリするだけ」っていう気持ちの方が強いから、「それだったら、もういいよ」になってしまうというわけ。10年以上だよ、普通の人ならとっくに見限ってる。たまに悪態をついたり、「昔はよかった」的発言を繰り返すのは、私の愛情の裏返し。愛情が深いからこその行為。・・・だと自分では思ってるんだけど、それなら完全に見るのを止めるんじゃなく、もっと前向きに、「いいところ」「面白いところ」を探しながら見ることができる、そんな柔軟な気持ちが持てればいいんだけど。音楽に対しては、柔軟に付き合えるのに。いや、ちょっと考えさせられた。

■2005/1/5 ファッションの話

 ずっとデブだったこともあって、私はファッションに疎い。普通の人は20歳前後になると、ファッションに目覚め、自分の好きなタイプの服やブランドはこれだ、って感じでポリシーを持って服を買うもの。まして私はバブル期に「青春時代」を送ったので、回りはみんな、ブランド志向で、すごく拘ってたもの。でも、その肝心な時代を「デブ」として過ごした私、「自分の好きなデザインや型、ブランドに拘る」よりも、「自分に合うサイズの服を売っている店を探す」ことが最優先。若者向けのお洒落な店には、私に合う服など置いていない。もっぱらスーパーやデパートの、オヤジ向けのキング・サイズ・コーナー専門だった。ある時、オシャレっぽい店に入ったことがあったんだけど、ただ入っただけで、「いらっしゃいませ」のひとこともなく、いきなり「いかにも」な格好をした店員に嘲笑されてしまったことがあった。さらに別の店で「この服のLLを下さい」って言ったら、大笑いされて「スーパーにでも行けば」との捨て台詞を吐かれたこともあった。そのことは「人並みの体型」になった今でさえトラウマ。「オシャレっぽい店」に入ろうとすると、思わず足がすくんで顔が引きつる。

 だから「オシャレっぽい人」が今でも苦手。先日「さらば青春の光」のところに書いた、「モッズに距離を感じる」ってのは、そんな私の性質のためである。でも、「見た目がカッコ悪い」というコンプレックスがあるからこそ、実は逆に「カッコ悪い格好はしたくない」想いは強い。「カッコ悪い」とは違うけど、Tシャツやジーンズは着ない。まあ、ファッション面でも「鰤派」だからってのもあるけど。で、最近は痩せたから、前と違って型やデザインに拘って、いろいろ選ぶことができるようになった。でも、やっぱり「オシャレな雰囲気」の店がどうも苦手。入ろうとすると、足がすくむ。特に店員がオシャレっぽい人だったりすると、もう駄目。思わず後ずさりして、脂汗すら流れてしまう。本当にあの時、「笑われた」トラウマは拭い去ることができない。今では痩せたとはいえ、「俺はカッコ悪いから」って想いもあるし、今度は「俺はオヤジだから」って気持ちも邪魔する。もっと若いうちに、こういう店に入る習慣がついていればよかったんだけど。本当に「痩せるのが遅すぎた」、そのことが悔しい。

 で、なんで今、こんなことを書いたかというと、この長期休暇の間、「新しいコートが欲しい」と思って、あちこちの店を物色しにいったから。でも、今も書いた通り、ちゃんと店に入ることすらほとんどできなかった。「彼女と服を買いに行き、選んでもらう」なんて行為にも憧れるが、私にはそんなものはいないし。というか、いずれにしても近いうちに買わないと、冬物の季節は終わってしまうぞ。


      
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