自分の話

      
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■2005/12/02 人生観を揺るがす闘病生活(1、10/16〜10/31)

  実は私、10月半ばから11月末まで、長く入院していました。病名に関しては敢えて詳しくは述べないけど、「ある大事な臓器の大病」で大手術を受けたということだけ触れておきます。とにかく入院自体が何の兆候もなく、唐突なものだったこと、そして以前からここで触れてきた通り、幼少の頃は怪我こそ多かったものの、風邪すらめったにひかないほど病気とは無縁でここまで生きてきた身であることから、今回のことは「まさか自分が」という驚きもあったし、未だに自分のこととは思えません。ということで、病気自体は無事に治って退院はしたものの、体力が戻ってないので、しばらくは静かに過ごします。まあ、このコンテンツは「プライベートなことは深くは語らない」ことをポリシーにしてきたわけですが、さすがに今回のことは述べないわけにはいかないわけで。ということで、敢えて病名だけはボカしながら、今回の闘病生活のことなど、何回かに分けて述べていきたいと思います。

・・・・ことの起こりは10月10日を過ぎた頃のこと、頭が痛く寒気がする、まあでも軽い風邪だろう、ってんで我慢しながら毎日出勤していた。ところが10月15日、それがひどくなってしまい、夜も寝付けない。これはいかん、というわけで16日、たまたま休みだったこともあって、一応病院に行ってみた。「今日中に治しておけば、明日からの仕事にも差し支えまい」くらいの本当に軽い気持ちで。ところが、いざ診察してもらうと、「なぜずっとほったらかしにしていたんですか! 即入院して下さい」と。「この医者、寝ぼけてるんじゃないか」と思ったが、病院内が騒然としている。おいおい、嘘だろう。翌日、さらに詳しい検査が行われたが、検査後、こう言われた。「うちの病院では手におえないので、近所の●●病院(市内では大きな病院にして、医学界では全国的にも有名な病院)にこれから搬送します」。おいおい、嘘だろう、ただの風邪だぞ俺は、そうか、悪い夢を見てるのか、俺は、いや、ひょっとすると健康な臓器が必要だから、俺を病気だということにして、俺から臓器を摘出するつもりなんだろう、この悪徳医者め、などといろんなことが頭を渦巻く。だが、こうなれば言われるままに従うしかない。気がつけばそのより大きな病院に搬送されていた。

 いきなり集中治療室へ連れ込まれる。多くの医者や技師、看護師に囲まれる、周りは騒然としている。緊急手術が必要かもしれないともいわれた。しかし検査が始まってしばらくすると、その人の波は収まった。そして担当医になるという医者から、「今は体が弱っているので(実際に風邪をこじらせていて、体力は衰えていたらしい)、とりあえずこれから数日間、検査をしながら体を治していきましょう。手術はそれからです」。うーん、「緊急手術」というほど危険な状態ではなかったものの、やはり手術が必要なほど悪いらしい。しかも大事な臓器の。やはり自分に降りかかった事実として受け留めることができず、悪い夢を見ているのか、または他人ごとのようにしか思えずにいた。

 翌日から一般病棟に移され、こじらせた風邪(高熱が出ていた)を治しながら検査の毎日。とにかく、まだ他人事のよう。現実として受け留めることができなかった。一方で「大事な臓器の手術」が待っているということもあって、「生と死」について考える機会も多くなった。私の移された病棟は、同じ病気で苦しむ人たちばかりの病棟。はっきりいって大病である。だけどそこにいる人たちの表情は明るく、病院にありがちな陰気な空気とは全く異質な雰囲気。60代、70代の人が多いにもかかわらず、みんな元気で明るく、前向きだ。まあ、この病院が全国的にも有名な優秀な病院だから間違いなく治るから、ってのもあるだろうけど。むしろ「孫のため、家族のため、稼業のため」とか、みんな、それぞれに「誰かのために、自分の楽しみや仕事のためにも頑張ってよくならなければ」という想いを抱いているからこそ、前向きなんだろうと感じた。だが、私は一体、誰のために、何のために頑張ればいいんだろう。私は未だ独身、カミさんのためにとか、子供のためにとかいう世界とは全く無縁。カノジョくらいいれば全然違うんだが。仕事? そんなもののためにそこまで必死にはなれない。趣味=音楽、ネット? 確かに大事だ、でも最近は以前ほど必死になれずに悩んでいる。うーん、これ以上生きていて、果たして楽しいことなんてあるのかなあ。ここで頑張って闘病して治ったところで、喜んでくれる人もいないんじゃないか、これ以上生きていて楽しいこと、いいことがあるかどうかわかりゃしない。じゃあ、果たしてここで頑張って、なんか意味があるのかなあ。でもこのまま死んだら、俺の人生って一体何なんだろう。・・・高熱にうなされ、同時に毎日いろんな検査を受けながら、そんなことばかり考えながら時間を過ごした。自分の「死」とか、「人生」とか、そんなことを深く考えたのは、はじめてだったかもしれない。

 入院2週目に入った10月23日、熱が下がった。途端に体調は急激によくなった。はっきりいえば、「俺、一体どこが悪くて入院してるんだ?」って思えるほど、健康な状態と変わらない。この病気、自覚症状はないらしい。というより、自覚症状が出た時はもう手遅れらしい。自覚症状が出る前に治す必要があると。ということで、2週目以降は急激に体調はよくなり、「何で俺、病院にいるんだろう?」って思える状態になった。その分、この頃から「生と死」なんてことを考えることもなくなり、冷静に自分の病気と向き合うことができるようになった。とはいえ、こうなると「暇でしょうがない」という想いが強くなる。緊急入院だったから、暇を潰せそうな本とか、CDとか、そういった類のものは何も持って来ていなかったし、まして、「さあ、入院するぞ」っていう心の準備もなかったから、やり残したことなどがあれこれ気になりはじめた。だが、検査は続く。毎日薬と点滴。一方で手術の日程も決まらず。ただただ待ち長い日々が続く。

■2005/12/03 人生観を揺るがす闘病生活(2、11/1〜11/12)

 11月に入った頃、不意に医者に告げられた。「検査はすべて終わり、結果は同じ病気でも最も軽い症状、よって手術自体は全然難しくないし、後遺症も残らない。もう検査もない、あとは手術を待つだけ」と。さらにこう続ける。「ただし、この病院は患者数が多いので、11月半ばまで手術待ちの患者でいっぱい。だから手術日は15日以降になる。それまでやることがないから、本来なら一旦帰ってもらってもいいんだけど、毎日点滴が必要だから、それは不可能。外出は許可するけど、しばらくこのまま病院にいてもらう」。昨日も書いた通り、熱が下がって以降の私は、「俺、一体どこが悪いん?」って言うほど体調はよくなってたから、このまま検査も何もないのに、ただ点滴だけのために半月も病院でボーッと過ごすのは苦痛以外の何ものでもない。これは困った。

 同じ病室のメンバーは激しく入れ替わる。大抵、手術が必要な人は入院して来て、4日ほどで検査が終わる。で、検査が終わったら一旦退院して、手術日が迫った頃に再入院、で、手術終了後、早い人で大体2週間で退院、というのが普通の人の入院から退院までの流れ。私のようにただただ待っている人というのは少ない。だから周りの人の入れ替わりはとても激しいというわけ。そんな中、私だけがいつまでも病室に居続ける。そのことは苦痛で仕方なかった。

 ただし、よいこともあった。その分、看護師、看護婦(今では「看護師」で統一されてるはずだが、医療の現場ではまだ女性のことは「看護婦」と呼んでた)が私にとても気を遣ってくれた。患者数が多いわりには、ありがちな「患者をベルトコンベアー式に裁く」ような機械的なところのない、良心的な病院だったのは幸いだった。それに仕事に穴を空けているにもかかわらず、上司には「こっちは気にしなくていいから、ゆっくり治せ、居場所は開けとくから」と言われたこともあり難かった。さらに、そうやって入院してくる人、手術に備えて再入院してくる人、手術を終えて日に日に回復してくる人、そんな様子を目にして来たおかげで、「手術前にどんなことをされるのか」「どんなことに気をつければいいのか」「手術後はどうすれば回復が早いのか」といった、闘病に関する知識が自然に身についていった。それに、大きな手術にもかかわらず、60、70代の年配の人たちが、手術を終えた後、特に苦しむでもなく、ほんの2週間くらいで元気になって退院していく様を見ていると、「命にかかわる」とか、「大手術だし不安だ」といったような気持ちは全く起きなかった。長く待たされたのは確かに苦痛だったが、今思えばそのあたりはプラスだったなという気もする。

 そんなある日、唐突に担当医が私のところへやってきた。「今日の昼、手術をする予定だった患者が体調を壊して手術がキャンセルになった。なので、もしよければこれから手術、どうです?」と言う。さすがにこれには驚いた。確かに、待たされるのは苦痛、早くして欲しいのは事実。でも、「これから」って言われても、さすがに「分かりました、お願いします」なんて言えない。普通、心の準備が必要でしょう? ってんで当然、断ったけど、これには正直驚いた。

 その後、11月5日には外出。昨日も書いたけど、入院自体が唐突だったから何の準備もなしの入院、暇を潰せそうなものを何も持っていなかった。やり残していたこともあった。なのでこの機会にやり残した用事を済ませ、暇を潰せそうな本を持ち込み&購入、CDとポータブルCDプレイヤーも用意した。それらを持って病院へと帰った。これでようやく、「暇でしょうがない」状態からは解放される。それまでは暇つぶしの方法といえば、テレビくらい。でもご存知の通り、私は今のテレビに絶望しているクチで、この2年ほどはスポーツ中継など以外は全く見てない。久々に仕方なしに見てみたけど、やっぱり、どうしようもないほど、本当に、情けないほどにつまらなかった。こんなつまらない番組ばかり見るくらいなら、消しておいた方が気が紛れると思えるほどつまらなかった。なので、これでようやく暇が潰せる。体調も依然としてよすぎるほどによかったので、この時期は意外と病院で過ごしていて最も快適に過ごしていた時期だったのかもしれない。でも、やっぱり俺、病気なんだよねえ・・・。

■2005/12/04 人生観を揺るがす闘病生活(3、11/13〜11/17)

 ただただ病院で毎日を過ごしているうちに、手術は16日に決定した。普通、「手術日が決定」すると、「急に怖くなる」とか、「急に不安になる」というのが一般的なんだろうけど、待ってる時間が長かった上、他の患者の様子を見ると、大手術のわりにはケロッとして戻ってきてあっという間に退院していくから、そんなに重大に考えることもなく、むしろ「よし」という感じだった。看護師、看護婦も「よかったね」と声をかけた。

 というわけで、13日あたりから急に慌ただしくなる。再び毎日のように検査、担当医、麻酔担当医、病棟の看護師、手術後に必ず入る集中治療室の看護師などが入れ替わり立ち代わり私のところを訪れては、あれこれいろんな話、説明などをする。「ああ、本当にもうすぐなんだなあ」という気分になる。しかし、本当に不思議と不安はなかった。前も述べた通り、年配の人たちが何事もないように元気になってる、この病院自体も全国的に有名な優秀な病院だから失敗はないだろうという想いもあった。何より、全身麻酔っていうのは、単に「眠らせる」ものではなく、「呼吸を止めて仮死状態にして、意識を失わせる」もの。つまり、「眠っている」のではなく、「意識不明」のうちに手術は終わるわけだから、受けてる本人は何も感じないもの。だから恐怖心すらなかった。しかし同室の、手術を終えた人たちが私を脅す。「手術中は何でもない。問題は意識が戻った後。なかなか呼吸が戻らずに苦しいし、その間はずっと人工呼吸器の管をくわえたまま。全く動けないし、飲めない、食べられない。しかも段々傷が痛くなる。痛くて咳もくしゃみもできない。タンも溜まる。意識が戻って丸2日は苦しいよ」と。確かに、医師や看護師の話を聞いても、苦しいのはむしろ終了後のようだ。

 そして当日の16日を迎える。朝からやれ薬だ、注射だ、服を着替えろなどと、看護師から様々な指示が飛ぶ。そして時間になると、ストレッチャーで手術室へ運ばれる。私は異様に落ち着いていた。それを見て私を運んだ看護師は「やけに落ち着いてるねえ」と声をかける。「別にあとはお任せするだけだから、何とも思いませんよ」と私。むしろ終了後の苦しさに対する不安の方が大きかったというのがホンネだった。そして手術室へ。なぜかリラクゼーション系の音楽がかかっていたのが印象に残った。やがて手術台へ。そしてマスクがかけられる。実はこのマスクから出ている気体が麻酔。ということで、2、3回深呼吸した後、急に意識が遠のく。後のことは全く覚えていない。そう、この間は「眠っている」のではなく、「意識がない」状態。よって、途中で夢を見ることもない、時間の経過の意識も全然ない。昔の全身麻酔なら、この間は「眠っている」状態だから、夢を見たりということもあったんだろうけど、今の麻酔ではあり得ないということ。技術は進歩したもんだ。

 マスクをかけられて意識がなくなった次の瞬間、麻酔担当医の私の名前を呼ぶ声で気がつく。そう、もう手術は終わっていた。この間は意識を失っていたわけだから、私にとっては「次の瞬間」に感じた。ここから先の記憶はすべておぼろげ。口には管が入っていて苦しい。そのまま集中治療室へ。以降は何度も目が覚めたり、眠ったりしていたし、時々息苦しくなったり、傷が痛んだりといった状態。確かに苦しい。やがて集中治療室の看護婦の「あと少しですよ、頑張って下さい」の声。もうすぐこの管が外れるのか。

 と思ったんだけど、それからしばらくすると突然苦しくなる。そして気がつくとあたりが騒然としていた。「あ、俺、様態が悪くなってヤバイんだ」ってことが、もうろうとした意識の中でも自覚できた。次に気がついた時には、なぜかもう一度、手術台の上にいた。ああ、俺、死ぬんかな。本気で思った。マスク式の全身麻酔を再びかけられる。本当にもう駄目だと思った。だけど、次の瞬間、集中治療室の看護婦の、「もう大丈夫ですよ」の声で気がつく。ああ、一応助かったらしい。ちょっとしたイレギュラーのために、2回目に簡単な手術が行われたらしいが、別に大事ではなかったと後で知った。

 翌17日は1日中集中治療室で、半分意識がはっきりしないまま過ごす。どうも呼吸が安定しないらしい。確かに時々、苦しくなる。要するに「いつまでも人工呼吸器に頼っていて、自分で呼吸していない」らしい。「特に眠ってる時は自分で呼吸していませんよ」と看護婦に指摘される。よし、じゃあ寝ずに、頑張って自分で呼吸してやろうじゃないか、と思った。1日目のところに書いた通り、「生きる」ことへの執着心を今一つ持てなかった私だから、思わず楽な方=人工呼吸器に頼る方を選びそうな、そんな想いにも駆られたけど,看護婦の言葉を聞いて私の負けず嫌いな性格の方がその気持ちに勝った。「早く回復してやる」とか、「生きよう」とかっていうより、「負けられん」という想い。その想いのおかげか、呼吸が整いはじめ、その日のうちに口にくわえさせられていた人工呼吸器は外された。これで急激に楽になった。峠は超したようだ。

■2005/12/05 人生観を揺るがす闘病生活(4、11/18〜11/30)

18日朝までには、体中のあちこちにつけられていた管の大半が外れた。食事、水を飲むことも許された。トイレまでの歩行も許された。ということで、ようやく集中治療室を出て、一般病棟の特別室(看護婦が1名、随時マンツーマンで面倒を見てくれる他、何時間かに一回、検査される)に移された。「歩行を許された」といっても、まだ立ってるのがやっと。普段は傷の痛みはないけど、動こうとすると痛むから、自分の体をずらしたり、枕の位置を変えたりすらできない状態。負けず嫌いの私だから、頑張って自分で何でもやろうとするけどうまくいかず、そのことが悔しくて仕方なかった。そんな時も、この特別室の看護婦は「何でも私に言って下さいね、無理しないで」と優しい笑顔で言う。ここの看護婦、信じられないほど優しく、本当になんでもやってくれる。ついでに、私を担当した看護婦が2名(昼勤、夜勤)とも、飛び抜けて美人で優しい。こんなシチュエーションではないところで出会いたかった(笑)。思わずその優しさに甘えそうになってしまうが、「こんなことをしてたらいつまで経っても自分でできないから」ってんで、何とか自分で頑張ろうとした。結局、この部屋で3日間過ごす。20日にはテレビで「東京国際女子マラソン」における高橋尚子の復活を見る。「この選手はもう終わっている」と思ってきたのに、まさかの復活。「いつまで経っても自力で動けそうで動けない」ことに苛立っていた時期だったこともあり、かなり勇気づけられた。普段の私なら、もう少し冷めた目で見てただろうけど。

 21日には一般の病室に戻される。もう、マンツーマンで面倒を見てくれる看護婦はいない。すると、なぜか急に歩行もスムーズにできるようになった。体の向きを変えたり、ズラしたりも、時間はかかるし、痛みはあるものの、昨日までが嘘のように自力でできるようになった。確かにあの部屋にいれば、何でもやってくれる上、優しい看護婦がいるしで、とても居心地はよかった。でも、やはり心のどこかで、その環境に甘えていたのかもしれない。一般の病室に戻り、「すべて自分でやらなければいけない」状態になったことで、急激に動けるようになったあたりに、そのことを実感した。

 以降は1日経過するごとに、嘘のようにスムーズに動けるようになった。本当にたった1日しか経っていないのに、数週間経過したかのように急激に回復しているように感じられた。医師の診察の結果も、ほぼ完璧に回復、傷の直りなども他の患者以上に順調だという。医師も看護婦も「信じられないくらい元気ですよね」という。一般の病室に戻って以降の回復ぶりは、確かに自分でも驚くくらい早かった。そして一般の病室に戻ってわずか1週間少ししか経っていない30日には、あっけなく退院となった。入院から手術までは1ヶ月、なのに手術後は2週間、待ってる時間ばかり長く、最後はあっけなかった、という印象だった。

 ということで、退院はした。治ってはいる。しかし1ヶ月以上もほとんど歩かない生活をしていたせいか、体力がなく、長い距離を歩くとすぐに疲れる。今でも動く時、咳やくしゃみをする時に痛みが残る。ということで決して万全ではない。そのあたりも含めて完全に回復するまでには3ヶ月はかかるという。ということで、まだまだ不自由な生活が続いている。

 それにしても、今回のことは本当に人生観が変わる大事件だった。入院したばかりの頃に、自分自身の「生と死」について深く考えたこともそうだし、はじめての大きな病気ということで、自分自身の健康についてもあれこれ考えた。今までは体に悪いことだとは分かっていても、無理をしたり、自分のやりたいようにやってきたりしてきたわけだけど、これからは自分の体をいたわってあげながら、無理をせずに生活をしていこうと思った。そのあたり、大きく人生観が変わる出来事となった。

■2006/02/21 呆気にとられた再入院、再手術

 先月、何気なく

>年明け以降本格社会復帰したら、またネット時間が減少、しかも慣れないせいか、毎日疲れが全然とれない。
>ということで、帰宅後あっという間に落ちてしまう日が多いので、

 なんてことを書いた私。ところが、これが大変なことに繋がるとは、当時の私は知る由もなかった。で、あまりにも体調が悪いので、「一度診てもらおう」という軽い気持ちで病院に行ったのが先月末。その後、「再入院→再手術」となって、無事に退院したのが実は今日。

 ということで、「☆TAKE、また最近サボってるな」とか、「またやる気がなくなったのか」なんて思った人もいたかもしれないけど、更新ストップ、この「落書き帳」も放置、メールの返事もできない、ネット上にも登場できない状態になっていたのは実はそのためなんです。

 本当に、本当に軽い気持ちで診察に行ったら、いきなり「今すぐ入院して下さい」と言われ、2週間ほど検査が続いた後、まさかの再手術。私の中では「嘘のような2ヶ月間」でした。まして「再手術」っていっても、前の手術からたった3ヶ月後だし・・・。病院のスタッフも全員「なんでまた戻って来てるの?」と言わんばかりにビックリされっぱなしで。で、私自身も、前回の手術の余韻も冷めやらぬ中での再手術、気力、体力もなかなかついていけず、今回は結構大変でした。「ああ、またあんな苦痛な体験をしなければいけないのか」とか、「結局、再手術しても、また調子が悪くなって同じことの繰り返しになるんじゃないか」とか、前以上に気持ちもネガティヴになりがちだったし。

 そんな私が「再手術」という現実を受け入れ、「克服してやろう」という気になれたのは、同じ部屋で闘病していたみなさんとの交流と、前の入院の時も、気分が沈みがちな時に声をかけてくれた病棟のある看護婦の方の心遣いのおかげ。特に前回の入院の時は「同じ部屋の人との交流」って全然なかったんだけど、今度は個性的で明るい人が揃ってたから、人見知りの激しい私でも自然とその空気に馴染んでしまった。当然、メンバーに入れ替わりはあったし、全員、50歳以上の年配の人ばかりだったんだけど、「同じ病気に立ち向かう同士」って感じで。それと過剰に励ましたり、慰めたりせず、忙しい中時間を割いてまで淡々と話を聞いてくれた看護婦の方(20代後半、病棟の中では中堅どころといった感じの人)の対応も絶妙で・・・。まあ、おかげで気分も晴れて、「よし、じゃあ、ちょっと行ってくるか」って感じで、随分お気軽に再手術を受けてしまった私だった。

 で、再手術=2回目ってことはつまり、「術後、どうすれば治りが早いのか」とか、「どう痛みや苦しみと付き合えばより楽にやり過ごせるのか」というあたりは一度経験してる分、知り尽くしてるということ。術後の経過は前回以上に早い上に良好。おかげで前回とは比べ物にならないほど早い退院となったわけです。前回の倍以上、10時間以上もかかる大手術だったにもかかわらず・・・。

 というわけで、「2回目の生還」を果たした私。でも、今度はいくら「体調がよい」からといっても、いきなり社会復帰したりはせず、数ヶ月かけてもいいからゆっくり静養して、体調が戻るまではおとなしくしていたいと思う。そうやって同じことを繰り返さないこと、それが私を支えてくれたすべての人への恩返しだと思っているから。退院時に私は病棟のスタッフに告げた。「もう2度と戻らないから」と。その言葉を現実のものにしたい。

■2006/03/19 学校でこっそり見たテレビ

 今日の朝刊にこんな記事が載っていました。「大阪の小学校の教師が、授業中に教室のテレビをつけてWBCを見ていたことが、児童の保護者の指摘で明らかになり、その教師が処分されることになった」というもの。まあ、普通に考えれば、児童を前にした授業中に、教師がテレビをつけて、しかも教育テレビの学習番組以外を見るとはもっての他、とんでもない教師だ、ということになるのでしょうねえ。決して「よいこと」とは言えない、それは分かる。でも、個人的には一方で「たかがこれくらいのこと、何だよ!」っていう想いもなきにしもあらずです。

 私が小学校4年の時のことでした。大阪で銀行に男が人質をとって数日間立て篭もるという、世間を騒がせた事件が起こりました。確か最終的に犯人は警官に射殺されたはずだと思います。で、この立て篭もり事件が起こって数日が経った頃(まだ未解決なある日)のこと、授業中に当時の担任(50代初頭の女性、普段は規律に厳しくて気難しい人)が、「そういえばあの事件、どうなったかねえ」と言い出す。すると生徒のひとりが「今12時過ぎやねえ、ちょうどニュース、はじまるんやない?」と。他の生徒が言い出す「先生、テレビ見よう」。教室のほぼ全員の生徒からも同様の声が上がる。私も大声で「見よう、見よう」と言った覚えがある。普段は厳しい先生だから、ちょっと渋い顔をしてたけど「よし、今日は特別、今後はもうこんなことはないよ」と釘を刺しつつ、テレビをつけた。みんなで固唾を飲んで事件の動向を見ていたこと、この事件、今でも「昭和の大事件」のひとつとしてよくテレビや新聞、雑誌でも取り上げられていますけど、そのたびに思い出してしまいます。

 さらに中学3年の時のこと。1983年、この年の日本シリーズは広岡・西武と藤田・巨人の大熱戦、ほぼ全試合逆転。今でも球史に残るシリーズとして語り草になっています。当時は日本シリーズといえば、平日だろうと何だろうとデーゲーム。ということで平日の試合は授業中。みんな、携帯ラジオを持ちこんだりとか、結構「危ないこと」をして試合に熱中。何人かラジオを没収された奴もいたものでした。で、第何戦だったかまでは記憶が定かじゃないんですが、私はクラスの数名で授業を抜け出して、窓をこじ開けて視聴覚教室に潜入。テレビで日本シリーズを見ていました。すると外で足音が。「ヤバイ、もう逃げられん」。入ってきたのは、うちのクラスの担任。40代の男性体育教師、生活態度や規律には学校で一番うるさく、声がやたらでかい、平気で手を出す、足を出す、反面熱血漢でおせっかい。そんな人でした。「ヤバイ、怒鳴られる、叩かれる」、みんなが覚悟したし、怯えた目をしていました。ところがその教師の第一声は「日本シリーズか、どっちが勝っとるん?」。一瞬、固まる私たち。続けて「俺も野球、昔は好きやったなあ、長嶋の現役の時とか、お前ら、知らんやろう」「ライオンズといえばやっぱり西鉄やな、稲尾、大下、中西、豊田・・・」。ということで、いつの間にやら野球談議に。咎めることも、怒鳴ることもなく。ただ、その時既に9回裏、試合はすぐに終了。その時点ではじめて、「お前ら、見たいのは分かるけど、もう教室戻れや」とだけ。普段はうるさい人なだけに、意外な反応にみんなビックリしたものです。

 ・・・などと書くと、「ようするにお前は、学校で勝手にテレビを見るような、規律を無視した行動を奨励してるのか?」と思う人もいるかもしれません。でも、そういうことじゃない。確かに「よいこと」ではない、それはよく分かる。でも、それを笑って許し合える関係が、あの頃の教師と生徒の間にはあった。新聞記事になった大阪の学校には、それがなかったということなんじゃないか、と思える。「先生、俺らに勉強押し付けといて、何で自分だけこんなの見てるの?」って、笑って突っ込む生徒がいてもいいはずだけど、その場は黙ってて、後で親に密告する。きっと、その先生、寂しい気分になったんじゃないかなあ、と思う。とはいえ、そうやって生徒との間に「笑って許し合える」関係を築くことができなかった、その先生もまた、「懐の狭い人」という気がしないでもない。私が先に挙げた事例の中に登場する先生はふたりとも「普段は厳しい」人だった。でも一方で「生徒想い」の先生でもあった、まあ、当時はただただ「厳しい、うるさい人」としか思えず、今こうして自分が大人になって振り返ってみて、はじめて分かることではあるけど。今の世の中、あんな教師はもういないんだろうし、あんな教師と生徒の関係も、何処にも存在しないんだろうなあ、だからこの程度の、私に言わせれば「些細なこと」が新聞沙汰になってしまうんだろうなあ、と思えるわけで、ちょっと寂しい気持ちになってしまいました。

 一方で、「わあ、先生、WBC見てるの? どっちが勝ってる?」みたいに、関心を示す生徒もいなかったのかと思うと、「この大会の意義は?」という想いも(これはいずれ日を改めて)。一方で、現代はやはり、価値観の多様化のせいで「すべての世代が等しく関心を持てる事項」というのが、少なくなってしまったんだなあ、とも思えるわけで、やはり寂しく思われる。さらには「なんでもかんでもマニュアル通りにガチガチ」な今の学校って、きっと面白くないだろうなあ、という想いもありで、小さな記事だけど、いろんなことが頭を渦巻いてしまいました。

■2006/04/11 私はこんなものを集めてきた

というわけで、前回の続き、になるのかな、一応。

 前回書いた通り、私は物心ついた頃から、「モノを集める」ということに、人並み以上に執着しがちな性格でした。では、具体的にどんなモノを集めてきたのか、ちょっと振り返ってみたいと思います。

グリコのオマケ

 2、3歳の頃。モナカだか、饅頭だか、なんか和菓子の箱一杯に集めていた記憶あり。「グリコ」(ようするにオマケ付きのキャラメル)とか、同じグリコのオマケ付きのガム「スポロガム」をしょっちゅう買ってもらってて、目当ては当然オマケ。これが記憶にある中では最初になる。

コカ・コーラの王冠の裏の「世界の国旗」

 これは幼稚園児(5,6歳)の頃。同世代の人はご存知の通り、この時代のジュースの主流は、缶ではなくって瓶。自販機の中身も全部瓶でした。で、ちょうどこの時期、駄菓子屋に行くとよくジュースを買ってたんですが、当時コカ・コーラが何かのキャンペーンをやってて、瓶の栓として使われていた王冠の裏に、世界の国旗をプリントしていました。その「国旗のついた王冠」を集めていたというわけ。あれを集めるとなんか特典があったのかどうか、全然記憶にないけど、純粋に国旗のついた王冠に興味があって。というわけで私、当時幼稚園児であるにもかかわらず、国旗を見るとどの国の国旗か、スラスラ判別できるようになっていました。今思えば、「天才ちびっ子大集合」とかのテレビに出場できていたかも(笑)

ライダー・カード、プロ野球カード

 ライダーの方は幼稚園児〜小1(5歳〜7歳)頃、後者は小学校低学年(7,8歳)の頃。ともにいうまでもなく、「ライダー・スナック」や「プロ野球スナック」についていたもの。ちなみにライダーの方は、アルバムも当たりました。きっと同世代の人はみんな、夢中になったはず。ただし私はちゃんとスナックも食べてましたよ(笑)。でもおかげでこの頃から太りはじめたわけですが・・・。

スーパーカー消しゴム、ウルトラマン消しゴム

 前者は小2〜小3の頃、一世を風靡したスーパーカー・ブームの頃、後者は小4〜小5の頃、ウルトラマンの新作映画が作られて「第2次ウルトラマン・ブーム」(昭和54年)がきた頃に。共にクラスのみんなが集めていたわけだけど、これは「オモチャなのか、文具なのか?」ってんで、学校も「持ってきちゃいけない」って指導が出来なかったようで、先生たちは黙認してたけど、あれは今思えばオモチャでしょう(笑)。私は今のガキにもお馴染みの「ガチャガチャ」(今では「ガチャポン」というらしいが)で買ってたけど、当時小遣い500円の私には1回20円は結構痛かった。ちなみに、ガンダムの消しゴムが流行った時は既に中学生。私自身がガンダムが嫌いだったこともあり、これは集めなかった。中学生にもなって、集めてた奴は周囲にいたけど(笑)。

国鉄の乗車券

 意外と触れる機会が少ないけど、実は小4〜小6まで鉄道マニアだった、しかもかなりディープな。というわけで、最初は電車に乗る時に、1枚多く切符を買って、その切符を持ち帰って収集してた。でも、それだけでは飽き足らなくなって、普段は行かない路線に乗って、普段は絶対に降りない駅で降りて切符を買う、なんてことをするようになった。ようするに、「切符を買い集める」、ただそれだけの目的で、用事のない駅まで電車に乗るということ。正直、小学生には出費が大きすぎるし、なおかつ当時の小学校には「子供だけで校区外に行っては駄目」という校則があったから、何時も親について来てもらわなければならないしで、当時の年齢を考えれば「早すぎる趣味」だったのかもしれない。といいつつ、当時の同級生にもやはり鉄道ファンがいたので、校則を破って2人で切符を買いに遠出したこともあった。ちなみに今も私の手元に、当時買った切符、まだあります。今の私にとっては「紙切れ」でしかないんだけど、今見ると既に廃線になった路線の駅の切符もあるし、JRではなく、国鉄時代の切符だしということもあって、きっとマニアの人から見ればビンテージもののコレクションなんじゃないかなあ。誰か、買い取ってくれる人がいるといいんだけど。

鉄道模型

 これが私が「集めたもの」の中でいちばん金のかかるものかも。これも同時期、小学校高学年の頃にはまった趣味。しかし機関車1台買うと、当時のお金で2万円以上。どう考えても小学生の趣味じゃない。今だってそんな金、気楽に使えないのに。

 ・・・まあ、大体こんなところ。中学生以降は、特に何かを集めたという記憶はない。とはいえ、「エアチェックで音楽を聴く」(小4〜22歳)とか、「プロ野球の結果を毎日ノートに記録する」(中2〜高2)とか、「好きなテレビ番組をビデオに録画して保存する」(中3〜22歳)とか、こういう行為も「自分のものにして、モノとして所持したい=集めたい」という欲求から来る行為。今はなくなってしまった当サイトのボードの過去ログを、ほぼ全部所持してるのも、やはりそうだろうし。「とりあえず持ってると安心する」「どうせ持っておくんなら、どんどん集めたい」とこもある。やはり私には、人並み以上のコレクター気質があるようだ。

■2006/12/03 今更ながら、ポール・モーリアの訃報(&亡き父の思い出)

 書くタイミングを逸してしまったので。まあ、私は彼に思い入れはない。ただ、亡き父が彼のLPを所持していてよく聴いていたので、ちょっと寂しいニュースだった。

 といっても、父はがさつで、文化的なところがひとかけらもない人だった。だから「音楽を聴く」ことに対しても全く興味がなかった。私が音楽に夢中になることにも理解を示さなかった。ただ、「高いステレオを購入して部屋に飾って、会社の後輩に見せびらかして自慢する」ことをステイタスにしていた人だった。つまり「音楽に興味はない」けど、「置いておく」「見せて自慢する」ことを目的にステレオを買う、そんな人だった。つまり父にとって、ステレオはただの「家具の一種」だったのだろう。最初のステレオ購入は、私が幼稚園児の時だった。

 ところが、「ステレオは買ったけど、好きな音楽なんてない」人だから、「何のレコードを買えばよいのか?」随分悩んでいた様子だった。石原裕次郎や小林旭の曲は酔っ払ってよく歌ってたけど、「レコードを買って聴く」まで好きではなかったようだし。そこで父が買ったのが、なぜかポール・モーリアとニニ・ロッソのベスト盤。周囲の人は「????」状態だったらしい。ようするに「高級家具を見せびらかす」ような感覚でステレオを購入した父、そのステレオで聞く音楽も、彼から見て「高級感があってオシャレな音楽でなければいけない」という意識が働いたのかもしれない。

 ということで、それから約10年近くの間、来客があるたびにターンテーブルに乗っていたのが、ニニ・ロッソ、そしてポール・モーリア。もちろん、普段はそんなもの聴きはしなかった。もともと「好きで聴いている」わけではないのだから。来客もないのに、ポール・モーリアのレコードをかけていたことも何度かあったけど、はじまって数分後には落ちていた(笑)。

 というわけで、「好きではないけど、幼少の頃から来客があるたびに聴かされてきた音楽」、ポール・モーリアとは、私にとってそんな存在だった。「泣きのトランペット」でエモーショナルな演奏を聴かせてくれるニニ・ロッソの音楽は、幼少の私にはそれなりにインパクトを感じる音楽ではあったけど、ポール・モーリアの音は、「右の耳から入って、左の耳から抜けていく」そんな音楽だった。特に印象には残らないんだけど、気がつけば耳に馴染んでいた、みたいな。だから、ニニ・ロッソは父が亡くなった時、思わず聴き直してしまったけど、ポール・モーリアは「よし、聴こう」という感じで、ちゃんと向き合って聴き返したい気分になったことは一度もない。これからも同じだと思う。

 だけど、彼の訃報を聞いて、私は思わず父のことを思い出して感傷的になってしまった。レコードをかけっぱなしにして、「分かったフリ」をしながら居眠りしていた、そんな父のことを。

■2006/12/31 振り返るのは本意じゃないが

 前々から書いてる通り、「年が変わる」だのなんだのということを考えると、「時の流れ→死への一歩」みたいなことを連想するので、正月前後の「騒ぎ」や「かしこまった挨拶」が嫌いな私。だから「1年を振り返る」なんて習慣はずっとなかったんだけど・・・。昨年末、今年初めと、2回も「自分自身の生死」について考え、向き合わざるを得ない状態に追い込まれたこともあってか、この年末は人生観が全然変わったし、思わず振り返ってしまう機会が実に多かったりします。

 もともと私は、ひねくれてるというか、社会、周囲の人に対して斜に構えて接してしまう傾向がある。一方で、自分自身を必要以上に卑下してしまう、自虐的な面もある。だから昔から、例えば「勉強もスポーツもできて、クラスのリーダー的な存在の人気者」とか、「同世代なのにスポーツや芸能界で華々しく生活をしている人たち」とか、「美人なお姉ちゃんと結婚した昔の同級生」とか、「自分より偉くなっていく後輩」などを見たり、そうした話を聞くにつけ、「それに引き換え俺は・・・→俺は駄目な奴→あいつらが憎たらしい」といった感じで、「自分自身を卑下して、劣等感を持つ」一方で、「自分と比較して人をうらやみ、同時にその人への反発心を持つ」という、なんともひねくれまくったものの考え方をする性格でした。それと同時に、「いつか見返してやる」「いつか俺だって」という対抗意識を燃やす、そんな傾向にありました。いや、「いやな奴」というよりは、「危ない奴」という気もしないでもないですけど(笑)、まあ、私も30代後半に差し掛かって来たから、最近はその感情をコントロールして、飲み込んで、表向きは平静を装う術も覚えてはきたけど、でもやっぱり、潜在的にそうした感情をもちがちでした。

 今回の2回にも渡る入院、手術で「ひょっとすると、死ぬ?」という体験をし、そこから無事に生還、でも今後も果たしてずっと無事でいられるかどうか分からないのが今の私の置かれた現状。この状況に至って、「生きてる、しかも一応平穏な生活を送れている、それだけで十分じゃないか」と思えるようになってきました。とりあえず生きてるし、好きな音楽もちゃんと聴けてる、仕事が忙しくて休む間もない時期が長く続いたりすることもあるけど、比較的上手く進んでるし、不満もない。収入も多くはないけど、食べるのに困ることもない。「裕福な生活」とは言い難いし、同世代の他の人のように、結婚もしていなければ、家庭もない、彼女もいない、社会的地位があるわけでもない。だけど、特に大きな問題を抱えているわけでもないし、特別楽しい毎日ということもないけど、平穏無事で、それなりに「楽しい」と思えることもある。で、なにより、今、確かに生きていて、普通に生活を送れている。今の私には「それだけで十分」と思える。周囲には以前と同じく、「美人な彼女のできた奴」「仕事で成功を収めた奴」「高収入な奴」は確かにいるんだけど、特に羨ましいとも思わないし、まして以前のように、そいつらと自分を比較して「俺は劣ってる」なんて思わないし、「あいつらが憎たらしい」とも思わない。「何時か見返してやる」なんてことも全く考えない。すべて人ごと、自分とは一切関係ないと思える。「またいつ体を壊すかもしれない」上、40に手が届きそうになった私に、最早そんなチャンスなんてないことも自覚しているから。

 「平穏無事に生きている、そこそこ楽しんでいる」、それだけで今の私は十分満足。というか、今、この瞬間に楽しく、平穏無事ならそれでいい、先のことなんて考えない。私が「1年を振り返る」のが嫌いなのは、実は「過剰に自分を卑下する」性格ゆえに、「今年はいい年だった」と思える年なんて全然なくって、さらにそこから将来のことを考えると「このまま楽しいこともないまま、年月が過ぎ去って、気がつけば死ぬのかなあ」と不安になり、鬱になってしまうことが多かったから。でも今の私は、「普通に生活できて大きな不満はない、それだけで幸せなんだ」と思えるようになった。だから、確かに2006年は特別いいことがあった1年というわけでもないのに、無事に生きてる、生還した、音楽も楽しんでる、食べていくのに困らない程度の生活を送っている、仕事も無難にこなしてる、だから不満もなく、いい年だったと思えてしまう。こんな気持ちで大晦日を迎えたのははじめてだ。そんな自分を客観的に見ると、「随分変わったなあ」と、驚いてしまう、今はそんな気分でいっぱいです。

■2007/9/30 痩せて悪かった、太ってよかった?

 当サイトやこの「落書き帳」をずっと以前から見ている方ならご存知の通り、私は小学生の頃からずっと「デブ」で、一番太っていた時期は90キロ近くまでいったことがありました。で、当サイトを立ち上げた頃、「この数年で急速に痩せた」こともたびたび述べてきました。一番痩せていた頃で55キロ、関東から地元・北九州に帰ってきたのは2001年の秋のことですが、家族や親族の人でも、あまりにも痩せていたので一目見て私だとは気がつかれなかった、なんて話も、ここに書いた覚えがあります。ところが、最近1年半でまたも「激太り」中。去年まで着ていた服が着られなくなる、なんてことも多くなってきました。

 考えてみれば、私が「激痩せ」したのは1998年頃、ちょうどネットをはじめた頃のことでした。確かに当時は関東での一人暮らしで、結構貧乏していたし、食べるのにも困った時期はあった。とはいえ、「ほんの数ヶ月で10キロ以上、1年と経たないうちに20キロ以上も痩せた」ってのは、今思えばかなり異常なこと。いくら「貧乏していた」「食べるのにも困った」とはいえ、食事を抜いたことはなかったし、食べる量が極端に減ったこともなかったし、何か運動をしていたわけでもない。その状態でここまで体重が減ったというのは、実は「体を壊していた」のではないか? 私が「命に関わるかも」という大病を患ったのは、一昨年、2005年の秋のことだったけど、医者に言わせれば「よく今まで無事に生活をしてきましたね」「急に病気になったんじゃなく、数年前から徐々に進行してたんじゃないか」ということだった。ということは、実はこの1998年頃には、自分が気がつかなかっただけで、既に発症してたんじゃないか。そして近年「急激にまた太り始めた」のも、2回の入院→手術後のこと。つまり「治った」からこそ、また太りだした→元に戻り始めたんじゃないかと。

 「痩せ始めた」頃によくこの「落書き帳」に書いてきたとおり、私はずっと「デブだから」ってことに、コンプレックスを抱いて生きてきた。だから30歳を過ぎた頃から急に痩せ始め、「ようやく春が来た」様な気分になり、コンプレックスを払拭することができていた。だから、この数年「また太り始めた」ことは、私にとっては、大袈裟ではなく「欝な気分になる」要素でもあった。だけど、別の見方をすれば「健康に戻った証」ともとれるわけで、気分は複雑。「太り始めたことは健康な証拠」である反面、「元には戻りたくない」気持ちもあるわけで・・・。正直、「また太り始めた」ことを、喜んでいいのか、悲しんでいいのか分からない、複雑な心境だったりする。

■2008/4/8 6年半ぶりの「一人暮らし」

 古くから当サイトをご覧になっている方ならご存知の通り、私は大学卒業後就職と同時に実家を離れて全国を転々としてきました。そして当サイトを立ち上げた1998年の時点では千葉県の柏市在住でした。当然その間は一人暮らし。約10年ほど一人暮らしを続けてきたわけですが、2001年の秋に実家に帰ってきました。一人暮らしの頃は当然、洗濯だの掃除だのの家事は自分でやっていたし、食事に関してもコンビニや外食に頼ることもあったとはいえ、基本的には自炊してたわけですが、実家に帰ってきて以降は、そうした家事に携わる機会は全くなくなっていたわけです。今では御飯の炊き方すら忘れていたりする・・・。

 ところが、先日より訳あって私以外の家族が全員しばらく家を離れることになり、実家で「一人暮らし」することになりました。この「一人暮らし」は約2,3週間続くと思われるわけですが、当初は「かつて俺は長く一人暮らししてきたんだし、別に困ることはない」と思っていました。ところが、いざ久々に家事をやろうとすると、忘れてしまっていることがあったり、いざやるとなると煩わしく思えることもあったり、何より住んでいる部屋が過去の一人暮らしの時のように借家ではなく、あくまでも他の家族と共有している実家なわけで、勝手が違う。なので戸惑うことも多い。と同時に、実家に帰って以降、自分がいかに楽をしてきたか、周囲に頼っていたかも痛感させられ、ちょっと反省していたりもします。「家に帰れば御飯ができていて、風呂が沸いていることがどれほど有難いことなのか」ということを実感するし、「洗濯や掃除がいかに煩わしいものなのか、大変なものなのか」も実感しました。

 久々に味わう「一人暮らし」。ちょっと開放されたような気分になる反面、むしろ「大変」と思うことの方が多いです。この生活はあと2週間くらいは続くことになるけど、終わった時にはおそらく「ホッとする」んだろうなあ・・・

■2008/12/4 もう戻らないであろう「音楽気分」

 先日書いた通り、ザ・フーの来日公演を経ても「音楽気分」は完全復活しませんでした。ライブ前日〜終了後1週間程度で、また減退・・・。そのことによって、実はもう、元通りにはならないんじゃないかと悟りはじめています。

 考えてみれば、私の「音楽気分=ロック気分」のはじまりは、1987年6月頃、ビートルズに目覚めて、しばらく「ビートルズ一筋」な状態が続いた、あの頃に遡ります。もちろん、以前書いた「シリーズ、私はこんな曲が好きだった」にある通り、物心ついたころから「流行りものの歌」自体は好きだったけど、別に「生活の中心」「自分の楽しみの中で最も大きなウエートを占める」というほどではありませんでした。それがこの1987年6月を境に「生活の大部分を占めるもの」「自分の楽しみ、趣味の中の9割以上を占める」ものと化しました。いつも音楽=ロックのことが頭の中にある、アーティストの生き様に憧れる、音楽さえ聴いていれば何もいらないとすら思える、ほかのことをしている時でも、思わず音楽やアーティストのことを意識する・・・。もちろん社会人になった1992年以降は仕事のことを考えざるを得ない瞬間も多かったから、仕事のことを考える時間もあったけど、ことプライベート、趣味的な時間の中にあっては、「音楽=ロックのことが9割以上、それ以外のことは1割にも満たない」ほど音楽=ロック一色、そんな感じでした。ネット上や世の中に「ロック・ファン」「音楽好き」を自認する人は多いでしょう。そんな人の中には「他にも音楽と同じくらいのめり込める趣味や楽しみを持っている」人も多いでしょう。だけど私は、本当に「いつも音楽ばっかり」。「俺にはテレビやスポーツの趣味もあるんだ」とはしてましたけど、それらが占める割合は「残りの1割にも満たない」部分だったし。仕事で音楽に携わっている人や趣味程度とはいえ、音楽をやっているという人ならともかく、そうでない人でここまで「四六時中音楽=ロックばっかり」だったら、普通は数年、数ヶ月で飽きたり冷めたりするんでしょうけど、何しろ自称「熱しやすく冷めにくい」性格なので、そんな生活を20年近くも続けていたわけです。

 でもまあ、そんな生活が20年近く続いてきて、「少しマンネリ」を感じていたことや、40歳近くになってしまって過去を懐かしむ気持ちが強くなったり、地上波のテレビを全く見なくなって、時代についていけなくなりつつあったこと、そんなことが重なったまさにその時、ネット上で懐かしい映像を見たり、ケーブルテレビで懐かしい番組を見たりしているうちに、音楽=ロックそっちのけで、そちらの方にのめりこんでしまった。そこでこの20年、親しんできたというより、すっかり生活の中の重要な部分を占めてきた音楽=ロックに夢中になれなくなってしまった、というのも、考えてみれば致し方ないのかな、という気もします。こんなに長い間、「一筋」でやってこれたこと自体が、むしろ「奇跡的」だったのかなと。いくら熱しやすく冷めにくいといえど、20年以上も同じ「気分」が続くなんて、ありえないでしょう。それを思えば、「冷めてきた」のは仕方ないだろうと。

 だからもう「音楽=ロック気分が戻らない」ことを、これ以上気にしないことにしました。むしろ「生活の9割方以上が音楽=ロック一色」って、視野が狭すぎるわけで、「以前よりもいろんなものに興味が持てる、多少柔軟な性格になれたのかな」と受け止めています。とはいえ、今最も興味のあるのが「懐かしい番組や動画」なんて、いくらなんでも後ろ向きだし、今現在の流行りものなどには、前以上に無関心になってるし、スポーツ観戦に関しても逆に興味のある競技が極端に少なくなってるしで、あんまり前向きとも思えませんが。ただこの「気分」ってやつは、自分でコントロールするのは不可能だから、流されるしかないだろうと。

 というわけで、以前は「自分の趣味的生活の中で9割以上のウエートを占める関心事」として接してきた音楽=ロックだったわけだけど、今後は「いくつかある楽しみの中のひとつ」として、音楽=ロックに接していきたいと思います。とはいえ、ROCK'N ROLL PEOPLEってサイトは、当然「音楽一筋」のサイト。そんな今現在の自分のスタンスを考えれば、果たしてこのまま続けてよいものかどうか、という気もしないでもありません。もちろん「音楽を語るときはサイト本体、それ以外のことはここで」ってスタンスでやっていけばよいんでしょうけど、「自分の生活の中でとても大きなウエートを占める関心事」でなくなった事柄を、わざわざテキスト化してまで語ってよいものなのかどうか・・・。そのあたりは迷ってしまうところです。だからといって今更TELEVISION PEOPLEやSPORTS PEOPLEを開設したいとも思わないし・・・。まあ、当分は今のスタンスでやっていきます。

■2009/5/6 「音楽気分」減退に伴って「普通の人」に(携帯を新しく)

 1年以上も「音楽気分」から遠ざかってしまい、気がつけば1年3ヶ月も1枚もCDを買っていません。1998年〜2001年頃に「極貧」な生活をしていた頃を除いて、こんなに「CDを買わない」ままで生活をしてきたのは、おそらく私がビートルズ・ファン=ロック・ファンになった1987年以来はじめて。とにかく、学生時代であれば小遣い、社会人になって以降であれば給料の大半をCDの購入に使ってきた私。独り暮らししていた頃は光熱費や家賃を支払って、残りの大半はCD購入に使ってきた。さすがに食費や生活必需品を我慢することはなかったけど、洋服、服飾雑貨等には極力金をかけないようにして、その分をCDの購入にあててきたわけで・・・。その分「いつも同じ服を着ている」とか、「同じカバンばかり持っている」とか、「持ち物が古くて汚い」とか、そういうイメージを周囲に持たれていたようだし、私自身もそう周囲に思われることを、あまり苦痛に感じたりもしてこなかった。いや、今思えばそれは「大いに問題」だったと思うし、一歩間違えれば「キモオタ」って奴だったのかな、という気もしないでもない。いや、「キモオタ」レベルまではいってなかったと自分では思っているけど(笑)

 ただ、CDを買わなくなって随分経つので、その分、金銭的に余裕が出来始めた。そんなこんなで、今年1月あたりから「もっと持ち物を充実させたい」とか、「だらしない印象を持たれないようにしたい」とか、そういう想いが強くなって「今まで金をかけなかった部分にお金を使う」ことを考えはじめています。

 手始めとして、もう3〜5年くらい同じカジュアルのシャツ(私は前開きのシャツが好き)を着続けていて、いちばん新しいものでも2年、古いものでは6年くらい(柏在住時に買ったからもっとか!)経っていたから、思いきって全部処分して、新しいものに買い換えた。それだけでももう「生まれ変わった」かのよう。

 あと、もう5年半も使っていた古い携帯電話を処分、新しいものに買い換えた。5年前にはじめて携帯を買った時に書いた「けーたいとかいう代物」の中でも触れている通り、私は2003年になってはじめて「仕事での必要性」に迫られて仕方なく携帯を作ったのはよかったけど、もともと「電話が苦手」だからプライベートではほとんど使わず、メールやi-modeも契約せずで、しかも「新しい機能が欲しい」ということも一切なくって無頓着だったので、その2003年に購入した機種をそのまま使い続けていたというわけ。ただ、最近は寿命らしくって、充電がすぐに切れてしまうようになったし、見た目もボロボロで情けなくなってきたし、ある知り合いの人に笑われてしまったことで買い替えを決意、実に約6年ぶりに新機種に買い替えたといわけ。想像以上に金はかかったけど、そこは「仕方のない出費かな」と。それに「どうせ使わないから」ということで、今までは契約していなかったメールも出来るようにした。今の時代、いろんな席でメールアドレスを聞かれることって多いんだけど、そんなときに「メールができない」というと、周囲の人に「変な人」といわんばかりの目で見られてきたわけだけど、そんな生活からもこれで脱却した。

 というわけで「音楽気分」が減退して、CDを使う出費がなくなった分、違うところにお金が使えるようになった、目が向くようになったのは、よい傾向かもしれない。

■2009/12/28 音楽に「向き合う」

 あっという間に1年が終わろうとしているわけだけど、結局今年もまた「音楽気分」が戻ってくることはありませんでした。いや、それどころか、ますます遠ざかっていくかのよう。去年はザ・フーの来日公演を見たり、年末に映画Amazing Journeyを見たりと、「気分が戻る」まではいかなくとも、「ほんの一瞬、かつてロック・ファンだったことを思い出す」瞬間はあったけど、今年はそれすらなし。「ビートルズのリマスター盤発売で、買わないまでも気分が復活気味」とここに書いたけど、あれも1週間も続かなかったし。あ、そういえばとうとう、かつてロック・ファン「だった」なんて、無意識に思わずサラッと書いてしまった。自分でももう、今の自分がロック・ファン=ROCK'N ROLL PEOPLEの☆TAKEという自覚すらないのかもしれません。

 相変わらず忙しく働いて、暇な時間はネットを見て、ケーブルテレビで懐かしい番組を見て、連休があれば「放浪」して、という生活パターンがもう2,3年続いている。その分、最初は「こんな番組も、あんな番組も見れる」って、新鮮な驚きの連続で、夢中で見ていたはずのケーブルテレビの視聴も、なんとなく最近はマンネリを感じ始めていたりもする。そこで、ふと考える。ケーブルテレビに夢中になったせいで、「音楽気分」が減退したのはもちろん、ケーブルテレビで懐かしい番組を見ることが出来るようになった驚きと感動のせいだったのは事実だけど、以前も書いた通り、あまりにも長く「音楽=ロック一筋」な生活を送り続けたせいで、音楽を聴くことにマンネリを感じ始めていたせいでもあったのではないか。ところが今は逆に、「ケーブルテレビを見る」ことの方にマンネリを感じ始めつつある。ということは、その「マンネリ感」を払拭するためにも、敢えて「構えて、音楽に向き合う」のもテではないかと。

 私がビートルズ=ロックに目覚め、夢中になってCDを聴きあさり始めたのは、1987年、19歳、予備校時代だったことは何度も何度も、繰り返し述べてきた。ただ、さすがに当時は浪人だから、いくら「音楽に夢中」といっても、毎日毎日、暇さえあれば音楽を聴きまくるなんてことは出来なかった。勉強しながらラジオを聴いたり、エアチェックテープを聴いたりはしていたけど。そこで私は、日曜日の昼の2時〜4時を「音楽鑑賞の時間」と決めて、CDコンポの前に寝そべって、ライナーや歌詞カードを見ながらCDをかけて、音楽鑑賞のみに没頭する時間を作った。当時は「週に1回しか音楽が聴けない」不自由さ、寂しさを感じていた。でも、今思えば、その約2時間って、私にとって「1週間に1回だけの、ささやかな楽しみ」だった。ちょっと大袈裟かもしれないけど、まさに「至福のひと時」だったもの。一応、大学合格後も、大学2年の1990年頃まで、同様の生活を続けてきた。ただ、その後、時間に余裕が出来たので、「いつでも音楽が聴ける」環境になった。同時に、日曜日の昼の2時になっても、「音楽気分」にならないことだってあった。そんなこんなで、私の「日曜日の昼の音楽の時間」は自然消滅してしまった。

 「音楽は向き合って聴くもんじゃない、聴きたいときに、聴きたいものを聴けばいい。『気分』に委ねるのがいちばん」、数年前、そんなことを何度も書いてきた。でも、ここ2,3年、同じような生活を送ってきたせいで、本来は楽しみだったはずのものがマンネリで、変化もなく、時々退屈で面倒に思えるようになってきた。明らかに私は、別のパターンの生活、楽しみ、時間を欲しているらしい。だったら敢えて、あの頃のように、「週に1回だけ、音楽に向き合う時間」ってのをつくってみようかな、と思う。「その時間に音楽が聴きたかろうが、聴きたくなかろうが、毎週1回、その時間になったら音楽を聴く」と決めてしまおう。そうすることによって、この2,3年の生活パターンで感じているマンネリ感も払拭できるだろうし、「音楽気分」復活のきっかけになるかもしれない。「無理に音楽に向き合う」っていうのはやっぱり、「音楽ファン」のとる行動ではないかもしれない。でも、来年はちょっと試してみようと思う。

■2010/5/23 私の中の「☆TAKE=音楽気分」は終わったのか?

 まずはちょっとした例え話。ーーー「どうしても見たいアダルトビデオがあるので、レンタル店に借りに行こう」と思った男がいました。でも、いざ店に行って借りるとなると「周りの目が気になるし、アダルト・コーナーに足を踏み入れるのも、カウンターに持っていくのも気恥ずかしい」ので躊躇してしまいました。何度も店の前を行ったり来たりして、周囲の目を気にして緊張しつつも、遂にビデオを借りてることが出来た・・・。ーーーーこの場合、この男の「ビデオを見たい」という欲求が「恥ずかしい、目が気になる」という気持ちよりも強かったということになる。逆にこの人が「結局恥ずかしかったので、店の前を何度も行ったり来たりはしたけど借りることが出来なかった」としたら、その人の「ビデオを借りて見たい」という欲求は「恥ずかしい」という気持ちにも負ける程度のものだった、ということになる。うーん、これでは女性の方にはピンとこないか(笑)。では、女性の為にもうひとつの例え話。「女子大生の間で大人気の、最新流行の洋服を売っているブティックが話題になっているので、たまに若返ってみたいと思って、その店に行って洋服を買おう」と思った30代の女性がいました。店の中をのぞくと若い人ばかりで入るのに躊躇してしまい、いざ店に入ったらイケメンの店員に見られて思わず緊張して・・・。それでもその恥ずかしさ、緊張に耐えて、念願の洋服を購入したとする。その場合、この人の「洋服を買いたい」という欲求は「恥ずかしい」「緊張する」という気持ちより強かったということになる。逆にこの人が「雰囲気に負けて店に入れなかった」とか、「イケメンの店員に話しかけられて緊張のあまり逃げてしまった」としたら、この人の「洋服を買いたい」という欲求は「恥ずかしい」「緊張する」という気持ちに負ける程度のものだった、ということになる。

 ちょっと前置きが長くなったけど先日、あるアーティストのライブのチケットを予約購入していたにもかかわらず、会場に行きませんでした。チケットを獲れなかった人もいるかもしれないので、申し訳ないからアーティスト名は伏せておきます。「行かなかった」というより、「行けなかった」といった方が正確。つまり「急な用事のせい」ではあるけど、この「用事」ってのは仕事とか、「絶対外せない」用事でもない。つまり「用事が入った」ことを自分自身に言い聞かせるための「口実」にして「行かなかった」といった方がよいのかもしれない。理由はいろいろある。「もの凄くよく知ってるアーティストでもないので、いざとなると躊躇した」「ネットなどで情報を見て、ファンの気質や会場の雰囲気に敷居の高さを感じた」「ひとりでライブに行くこと、オヤジのくせにライブに行くことに気恥ずかしさを感じた」「プライベートで最近は気持ちが沈みがちで疲れており、賑やかなところに足が向かなかった」・・・・。それに加えて「相変わらず音楽気分が戻ってこない」こと・・・・。

 というよりも、「音楽気分が盛り上がっていない」からこそ「知識があまりない」ことや「恥ずかしさ」が余計に気になってしまったのかもしれない。過去にも「ファン暦が浅い」ことを気にし、未体験の小さな会場に戸惑いつつ、ロックン・ロール・ジプシーズや大江慎也のUNのライブに参戦したことはあったけど、あの時は「音楽気分」は最高に盛り上がっていたし、「ファン暦は浅いけど夢中」だった。だからロックン・ロール・ジプシーズのライブレポにも書いている通り、会場に着いたのはよいけど、入り辛くて近くのコンビニで時間を潰したりと、思わず迷ったり、躊躇したりはしたけど、最後は「聴きたい」「見たい」気持ちが勝って、緊張しつつも会場に入ることが出来た。でも、今回は最初から「別に大事でもない用事」を理由に、会場に向かうことすらせずに、最初から断念してしまった。つまり私は「音楽が聴きたい」「ライブを見たい」という欲求が、「躊躇する」気持ちに負けてしまったというわけ。こんな奴、最早「音楽ファン」とはいえないのではないか?

 今までも「チケットを獲得しながら行かなかったライブ」はいくつかあった。でもそれは、転勤、急な仕事、家庭事情等、「絶対に外せないやむを得ない理由」があって断念したものばかりだった。だけど、今回は「いくらでも調整できる用事」なわけで、今までの私ならライブを最優先したはず。それが、躊躇する気持ちに負けて、そちらの用事を優先してしまった。この数年「音楽気分が減退してしまった」としてきたけど、「躊躇する気持ち」に「音楽を聴きたい」「ライブを見たい」気持ちが負けてしまった。私にとっては、あまりにもショッキングな出来事だった。「いずれ音楽気分が戻ってきた時の為に」として残してきたこのサイトだけど、維持していくことに疑問すら感じ始めた。私の中には「音楽ファンとしての自分=☆TAKE」が常にいたはずだけど、もはや☆TAKEは死んでいるんじゃないか、とすら思える。「ライブを見損ねてしまった」ショックよりも、「最初から会場に足が向かなかった」ことの方のショックが大きいです。もやもやした気持ちを晴らすため、思わずブックオフで中古CDを約3年ぶりに購入してきた。果たして「音楽気分」は戻ってくるんだろうか・・・。

■2010/5/24 私の中の「☆TAKE=音楽気分」は終わったのか?(2)

 昨日のログを書いた後も「ライブ会場に足が向かなかった」ことに関して、あれこれ考えていました。私って、どこかに出かける際は単独行動をとることが多い。皆さんも「ひとりでは行くのに躊躇する場所」ってのがあるんじゃないでしょうか。例えば「ひとりで飲食店に入れない」って人もいるでしょう、「ひとりでオシャレな店に入れない」って人もいるでしょう、「ひとりで映画館に入れない」って人もいるでしょう、「ひとりで旅が出来ない」って人もいるでしょう。単独行動をとることの多い私の場合、「ひとりで行けない場所」って、他の人と比べると少ない方かもしれません。私にとっては「オシャレな雰囲気の店」全般が昔から苦手で、絶対に一人で入ることができませんでした。特に洋服屋がその際たるもの。以前も書いたと思うけど、かなり太っていた10代の頃にオシャレな洋服屋に行った際に「LLサイズなんてないよ」「スーパーにでも行けば」と店員に嘲笑されて以来、未だに入ることが出来ません。

 ただ20代の頃と比べると「ひとりで行けない場所、入れない場所」が増えつつあります。例えば飲み屋、20代の頃まではひとりで飲みに行くこともあったけど、今では絶対無理。あとファーストフード店を除く飲食店も、なんとなく入るのに躊躇する。すべての店が駄目ってわけじゃないけど、外から雰囲気を見て、オシャレっぽかったり、若い人だらけだったり、ひとりで食べている人がいなさそうだったら入れない。年をとって弱気になってきているのか、「周りからどんな風に見られているのか?」を過剰に気にするようになったからなのか定かじゃないけど。

 さらに最近ではタワーやHMVのような大きな店はともかく、小さなCD店に入るのに躊躇するようになってきました。以前だったら、ブートだらけのちょっと怪しそうな店であろうが、怖そうな雰囲気の店だろうが、全く気にせずに入っていたもの。「俺はロック・ファンだから店に入って当たり前だ。なんか文句あるのか?」くらいの気持ちを持っていたからだと思うし、昨日も書いたように「躊躇する気持ち」よりも、「CDを買って聴きたい」気持ちが勝っていたからだと思う。昨日述べた「ライブ会場に足が向かなかった」のも、それに近い感覚。「よく知らないアーティストだから」躊躇することは以前もあったけど、「でも俺は見たいんだ」という気持ちが勝っていた。「会場の雰囲気やファンの気質に敷居の高さを感じたから」躊躇する、そういう機会も今回が初めてではないんだけど、以前なら「周りのことなんて知らん、俺は俺だし、聴きたい、見たいんだ」って思えたはず。「嫌なタイプのファン」ってのは、硬派過ぎるストーンズ・ファンとか、神格化しすぎるビートルズ・ファンとか、どのアーティストにも付き物だし。「ひとりでは会場に入りにくい」と思ったことも今回が初めてではないけど、「いつも俺は単独行動をしてるんだし」って開き直れていたはず。「オヤジだから」云々は最近意識し始めたことだけど、「でも好きなんだからいいじゃないか」って開き直れていたはずだし、自分よりオヤジな観客はいつもどの会場にもいたはず。「気分が沈みがちで・・・」云々は、以前だったら「だからこそ、この機会に気分転換、憂さ晴らし」と思えていたはず。なのに今回は足が向かなかったのはやはり「音楽気分が減退していた」から「見たい」「聴きたい」気持ちが、「躊躇する」気持ちに負けてしまったせい。少なくとも5年前の私なら、いろんなことを考えて躊躇しつつも、間違いなく参戦していたはずだ。

 そんなことを考えながら昨日書いたログを読んでいたら、急に「行かなかった」ことに対して、大変な後悔の念が沸いてきた。なぜ俺は行かなかったんだろう? もの凄く損をしてしまったのではないか? ライブに行かなかったことは一生後悔するかもしれない。それに、このアーティストのアルバムは当分聴きたくないとすら思っている。同時に、これを機会にますます私の気持ちは音楽から離れてしまうのではないか? 昨年末「音楽気分」が減退している中でも敢えてルースターズの再結成ライブに参加して、「一瞬、自分が音楽ファンであることを思い出した」私、かろうじて「音楽気分」を繋ぎとめてきた。それが今回のことで完全に離れていくのでは? もちろん、このサイトを立ち上げた頃のように「ロックが聴きたい、聴かないと死んでしまう」「ロックを聴くことこそが俺のプライベート生活のすべて」な状態に戻ることはもう無理だろうけど、「多くある趣味、関心事のひとつ」として音楽=ロックと関わっていくことは出来ると思っていた。でも今回のことで、それすらなくなってしまうんじゃないか。この数日「憂さ晴らしに久々に買った」CDを聴いて過ごしているけど、ほとんどBGM状態で以前のように「心を動かされる」まではいかない。もう少し様子を見たいけど、このままでは私の中の音楽気分=☆TAKEは完全に消えてしまうんじゃないだろうか。20年以上もロック・ファンをやってきたので、そのことに恐怖心すら覚えてしまう。

 人から見れば「深刻に考えすぎなんじゃないか?」と思うかもしれない。でも「ライブに行きたいのに躊躇して行けなかった」ことは、私にとって「欲しい洋服があるけど、店の雰囲気に呑まれて入ることが出来ない」「旅先で居酒屋に入りたいけど、ひとりでは入ることができない」状態に等しい。「ひとりで行けない場所」を、またひとつ増やしてしまう出来事になりはしないかとすら思ってしまう。

■2010/10/30 タバコと亡き父への複雑な想い

 私はタバコを吸いません、生まれて一度も吸ったことがありません。一生吸うこともないでしょう。そこまで頑なに吸わないのは「健康のため」でも「煙が嫌だから」でもない、実は亡き父に対する複雑な感情のせいです。

 今は亡き父は1日で1箱以上空けてしまうほどのヘビー・スモーカーでした。段々本数が増えて、晩年は1日2箱は確実に開けていましたが。2,3歳の頃の私はタバコの臭いというより、「タバコを吸う父の姿」が嫌いで仕方ありませんでした。休みの日はいつも寝そべって、タバコを吸いながらテレビを見ているだけ。話しかけたり、甘えようとしたりすると「うるさい」「あっち行け」「火がついてるから危ない」で全く構ってくれませんでした。つまり私の中で「タバコを吸う父の姿=構ってくれない父」。子供心に「タバコさえなければ構ってくれるかも」と思ったりもしたものです。

 そんなある日、「いっそタバコを隠してしまおう」と、父が席を外している間にタバコの箱を隠してしまいました。同時に、買い置きしている分もすべて。すると怒り狂ったように私に対して怒鳴り始めました。「タバコ出せ! どこやったんか?」。何度も何度も。そのたびに「知らん」と答える私。「出さんと飯抜くぞ」「外に追い出すぞ」と言われても一歩も引かず。遂には「出せ、出さんか」と怒鳴りながら私を何度も、何度もブッ叩きました。しかもものすごい形相で。あれは「厳しくしつけている親の顔」ではなく、「単なる逆上して狂ったオッサンの顔」でしかありませんでした。子供心に「殺される」と本気で思ったし、怖くなったので、仕方なく差し出しました。

 この出来事以降、私は「タバコ=恐ろしいもの」という想いを強くしました。「恐ろしい」といっても「健康を害すから」といった意味での恐怖心ではなく、「人を狂わせてしまうもの」という意味での恐怖心。だから私は「あんなもの、絶対吸わない」と2,3歳の時に決意してしまったというわけです。その後、成長してもその気持ちは変わらず。刑事ドラマなど大人の男の人たちがタバコを吸うシーンを見て「カッコいい」と思う人も多いのかもしれないけど、私は「カッコいい」と思ったことはほとんどなかった。別にそういうシーンを見て嫌になるとか、タバコを吸っている人を見ると嫌な気分になるとかってことは全然なかったけど、自分自身が吸いたいという気持ちは全く持てなかった。中高生になると「喫煙への憧れ」「ちょっとカッコつけたい」といった理由で喫煙をはじめる人は多いでしょう。「親や教師への反発心」から喫煙をはじめる人も多いと思います。だけど私にとっては「タバコを吸わない」ことが、ヘビー・スモーカーの父に対する「反抗」でもあったわけで。高校生の時、友人に「吸ってみろ」と勧められたこともあったけど拒絶した。いわゆる「ツッパリ」な連中に「吸え」と強要されたこともあったけど、「吸うくらいなら死んでやる」と激しい剣幕で啖呵をきって逆に連中を退散させたこともあった。私にとって「喫煙」という行為は、それほど「絶対に避けたい」行為だったということです。

 おかげで今日まで一本のタバコを吸うことなく、42年間生きています。つまり私は、世間一般によくいるタイプの嫌煙家とはちょっと違う「非喫煙者」であるということ。「周りの人が吸うのは勝手、吸ってる人がいても不快にも思わないし、止めろという気もない」「煙の臭いが嫌とか、煙を撒き散らされると不快ということもない」、だけど一方で「俺は一生吸わない、吸うくらいなら死んだ方がマシ」・・・、それが私のスタンスです。でもそれってよく考えたら、私にとって「タバコ=亡き父」なのかな、という気もします。物心ついたときから、「父のようになりたくない」と思って生きてきた。その源にあるのは「タバコを吸う父への反発心」なんじゃないかなと。

 世間では「10月からタバコが大幅に値上がり」と話題になっている様子。なんでも一箱400円もするんだとか。まあ、他人事ではあるけど、1日に2箱近く空けていた亡き父が今、生きていたら一大事だったなと思います。400円×1日2箱=800円。800円×30日=24000円。いや、1ヶ月に24000円もかかるなんて、もはやタバコって高級品なんじゃないか。今後はもっと値段が上がっていくだろうし、そうなるとタバコって、一部の金持ちだけしか楽しめない、上流社会向けの嗜好品になっていくのかな。だとすると生まれてこの方、タバコや、タバコを吸う人を「カッコいい」と思ったことなど一度もない私だけど、今後は「カッコいい」もの、行為になるんだろうか。しかし亡き父をカッコいいなんてことは今後もないだろうとは思う。とにかく、あの2,3歳の時以来、常に父に反発し、父のやることなすことすべてを忌み嫌ってきた私、その原点は「喫煙する姿」だったわけだし。

■2010/11/3 反発心、だけど受けている影響

 前回の続きのような内容。

 前回書いた、2,3歳の時の「タバコを隠したらひどく叩かれて罵られた」件以降、私は父に何かを期待することは一切なくなってしまいました。「甘えたい」「頼りたい」「何かあったら相談したい」という気持ちは、小中学生になっても全くなかったし、何かを期待することも全くなくなった。「夏休みなどに何処かに連れて行って欲しい」「こんなものを買って欲しい」、そう思っても父には一切言わなかった。一方で「家で寝そべってテレビを見ている」姿も、「タバコを吸っている」姿も嫌いで仕方がなったし、いつも寝癖で無精ヒゲ、ラフな服装で平気で出かける、外を歩いている時や乗り物の中でも平気で大声を出す、歌う、馬鹿笑いする・・・。そんな父のすべてが嫌いで、「こんな人には絶対なりたくない」と思っていきました。特に中高生の頃の私にとっては「絶対になりたくないかっこ悪くて情けない大人の見本、代名詞」と化しました。

 よって「父が好きなもの」は、なぜか嫌いになることが多かったもの。例えば私は食べ物に関しては好き嫌いがなく、何でも残さず食べるんですけど、唯一食べられないのが漬物。実は父は「ご飯と漬物さえあれば満足」なほどの漬物好き。なんでも幼少の頃から漬物が好きだったとかで、母と結婚した際に、祖母が「先祖代々使っている糠床」の一部を持たせたとか。物心ついた頃からうちの台所には「年代もの=もの凄く臭う糠床」があり、私はその臭いが嫌で嫌で仕方なかった。そのため、幼少の頃から「漬物=トイレの臭いの食べ物」という先入観があって、未だに食べることが出来ない。これも「父の影響で逆に嫌いになった」といえなくもない。あと、何度も書いてきたとおり、NHKの大河ドラマが大好きで「この番組を見るために生きている」とまで言い切るほど入れ込んでいたもの。だから日曜日の夜8時は、他のものは一切見せてくれず、他のものを見ようとすると怒られたし、退屈だからとテレビに背を向けて他のことをして遊んでいたら「うるさい」と怒られるしで・・・。そんなこんなで大河ドラマも大嫌いになった。なので、父が異常なほど好きだったものを嫌ってしまう傾向が私にはある。これも父に対する反発心なのかもしれません。

 だけど一方で「やはり影響を受けているな」と思うこともある。ケーブルテレビが導入されて、昔の懐かしい番組を色々見ていると、実は私が好きだった番組って、父が好きで見ていたものが実に多い。刑事ドラマが好きなのも父の影響、その中でもいちばん好きだったのは「太陽にほえろ」だった。「必殺」も父の影響で見はじめたし・・・。「テレビは一家に一台」の時代だったので、当然同じ番組を見ていたことにはなるけど、私がケーブルテレビを見ていて、「この番組、昔はよく見ていたなあ」「この番組、好きだったなあ」と思う番組の大半が父が好きで見ていた番組ばかり。まあ、子供向け番組に関しては、父の好き嫌いに関係なく、私自身が好きなものを見ていたから影響はないだろう。お笑い番組に関しても、ドリフや漫才ブームに夢中になった私に対して、父は欽ちゃん、やすし・きよし、桂三枝のような、私があまり好まない人が好きだったし、逆に私が好きで見ていた人たちのことは嫌っていた。あと、歌番組も嫌いだったし、私が「沢田研二がカッコいい」と言ったら、「気持ち悪い」と言われたしで趣味は合わなかった。でも、意外とドラマとか普通のバラエティ番組の趣味は見事なほど一致している。実は「横でテレビを見ているうちに、自然に好きになった」番組ばかりなんだと痛感させられた。

 あと、テレビでスポーツ観戦するのが好きなのも父の影響。アウトドア派で、スポーツをするのが大好きな人を父に持つ人は、「見る」より「やってみる」ことに興味が向くはず。だけど父は、インドア派で運動音痴のくせに「見るのは大好き」だったから、いつもスポーツ中継ばかりがついていた。だから、まだ「好き、嫌い」の判断もつかないような頃から見ていたわけだから、私が嫌いになるはずもないわけで・・・。そういえばアンチ巨人なのも、以前から書いている通り、「何で12球団もあるのに、このチームだけが特別なのか?」という違和感を7歳にして持ってしまったことがきっかけではあった。だけどその頃、私が雑誌で巨人の記事を読んでいるのを見た父が「けっ、巨人か。お前巨人なんか好きなんか?」と聞かれた時に、思わず「何でこのチームだけ特別なん、好きなわけないやろう」と答えた時が、私のアンチ巨人が「決まった」瞬間だったのかも、という気もしてしまう。あと越境入学で強くなる高校野球のチームを嫌っていたし、大相撲では初代若乃花のファンだったとかで、その影響でその弟の初代貴ノ花のことも応援していたもの。元日は天皇杯サッカーのテレビ観戦、マラソン中継大好き。でもバスケットボールやテニスは興味ない。・・・って、これは私と全く一致してる。どうやらスポーツ観戦に関しては、完全に父の影響を受けているらしい。

 ということで、「反発心を持っていたので、父のようにはなりたくないと思っていた」「父の好きなものは嫌いになった」と思ってきたわりには、意外なほど影響を受けているよう。もう亡くなって15年になる。しかも私は社会人になって以降、一度も顔を合わせることもなかった。今、もしも顔を合わせたら、どんなことを話すんだろうか?と思うことがふとある。ケーブルテレビで昔の番組を見ているとき、「この番組も父が好きだったな」と思うことも多い。スポーツ中継を見ている時、「この選手、このシーンを見たら父はどう思うだろうか?」と思うこともある。今でも反発心はあるものの、やっぱり影響は受けているようです。

■2011/3/21 広く浅く

 私は子供の頃から、人付き合いに関しては「広く浅く」な傾向が強かったものです。例えば小学校〜高校時代、クラスに「親友」と呼べるほど仲の良かった人なんてほとんどいない。「仲の良い人」はいたけど、クラス替えがあったり、転校(小5〜小6)したり、進学したりすると同時に疎遠になってしまう。中にはクラスが変わっても付き合いのあった人もいたけど、関わりがどんどん薄くなってしまったし。普通の人なら「小学校から高校までずっと仲の良かった人」とか、「今でも連絡をとり合ってる」とか、最低でも1人か2人はいるものなんじゃないでしょうか。だけど、私の場合は続いても1,2年。なので「浅い付き合い」しか出来ない、そんな性分なのかもしれません。

 だけど一方で、交友範囲は普通の人よりも広かった。普通の人は、例えば小学校〜高校生の頃、同じクラスであっても、一部の仲の良かった人たち以外で、ほとんど口もきいたことない人とか、名前も知らない人とかもいたんじゃないでしょうか。でも私は「特別仲の良い人」がいない分、「この人は仲の良い相手」「この人は良く知らない人」とかっていう分け隔てをせずに、すべての人と同じように接していました。いや、「同じように接していた」というと嘘になるかも。もちろん「嫌いであまりしゃべりたくない相手」とか、「波長の合わない相手」がいたのは事実だけど、それでも普通に接していたもの。事実、今思い出しても、小中高を通じて、「クラスが同じだったけど、一度も口をきいたことがなかった」相手は、ほんの数名しかいません。まあ、高校の3年間、なぜか「みんなが仲がよくってまとまっているクラス」で過ごしたことも大きかったかもしれないけど。だから確かに「親友」と呼べるほど何でも話せるほど仲の良かった人は数えるほどしかいないけど、「多くの人と付き合ってきた」んじゃないかとは思っています。事実、学級委員のようなものもやっていた時期もあったし、行事やイベントの際は「盛り上げ役」を買って出ていたしで、決して「親友がいない=暗くて孤独」だったわけでもなかったし、むしろ目立つ方だったと自負しています。

 私がインターネットを始めた1998年頃ってネット人口が少なくって、ネット上で人と交流する場といえば掲示板かチャットくらいでした。でも、「居ながらにして不特定多数の人と交流を持てる」という世界は、「広く浅い人付き合い」を得意とする私の性分にはピッタリだったといえるかもしれません。事実、音楽ネタ・サイトや、不特定多数の人の集まるソネットの談話室で多くの人と知り合い、交流を持つことが出来たし。それが21世紀に入った頃から、ネット人口が膨大に膨れ上がり始めて、「不特定多数の人と交流を持つ」ことが難しくなりはじめました。

 その結果、個人のサイトや掲示板が廃れはじめて、自分の意見を述べる時はブログで、他人と交流する際はMixiなるものが現れて・・・。そのMixiが登場した際、私は「仲の良い仲間内だけで交流するのは性に合わない」とここに書いたわけですが、その時も多くの方から「誘い」を受けました。でも私は丁重にお断りした。お断りした理由は「狭い、深い人付き合い」が苦手で性に合わないと感じたからでした。だけど今ではすっかりこのMixiが「ネット上の交流の場」の主流になっているようで。気がつけば個人のサイトどころか、ブログの更新もストップしている人も多数。「あの人たちはどこに行ったんだろう?」と思っていたら、大抵は「最近はMixiで活動中」らしいし。さらに最近では「フェイスブック」なる、さらに「狭い世界」も登場したり、ブログ以上に簡単に、リアル・タイムで情報を発信できるツイッターなんてものも登場、どんどん1人とり残されて、気がついた時には「周りに誰も居なくなっていた」、今はそんな気分です。まあ、音楽サイトの管理人を名乗りながら、音楽に関心がなくなって、音楽を語ることも出来なくなったのも、「誰も居なくなった」理由でしょうけど、やっぱり「広く浅く」な性分のせいなのかな、という気もします。

 思えば中学や高校の頃、「みんなと適度に仲は良いが、親友と呼べるほど付き合いの深い人がいない」私。「クラスの中を班分けする」「修学旅行や遠足の班分け、部屋分けをする」という時、大抵は仲の良いグループでまとまっていくことで、簡単にキレイに班が分かれていたものでした。でも私は「みんなと仲が良かった」おかげで「どこに入っても不自然ではない」から、どこに入っても拒絶はされなかった。反面「大親友と呼べるほど仲の良い人がいない」せいで、「どこに入るのか、自分で決めることが出来ない」「誰のところに行けばよいか迷い、躊躇する」その結果気がつけば「なぜか1人だけとり残されてしまう」ということも多かったもの。だから私は、「班分け」が大嫌いだったし、「班を決める」「グループを分ける」といわれると憂鬱になっていたものでした。誰もそんな私の気持ちには気がついていなかったらしいけど、本当に辛くて、寂しかった・・・。

 今の私もそんな感じ。ネットを始めた頃、あんなに交友範囲が広かったはずだけど、「特別親しい人」もいなかった分、気がつけばあの頃と同じように「1人とり残されてしまった」ような気分。「どこに入るのか決められない=じゃあ、誰と交流すれば良いのか分からない」状態。だからといって、Mixiに誰かに「招待」を受けたとしても、その「お誘い」に乗る「勇気」がない。というより、私は「狭くて深い交流」が苦手なので、Mixiとかフェイスブックをやりたいとは思わないし。ネットを始めた頃、「広く浅い人間関係を保てる世界=自分の性分にピッタリの世界」と思ってきたけれど、時代と共に変化して、私の性分に最も合わない「狭くて深い世界」に変わってしまったらしい。もはやネット上であの頃のように「広く浅い人付き合い」なんて実現不可能なんだろうか? 困った性分だ。まあ、それって「人付き合いが下手」っていうことになるんだろうな・・・

■2011/5/1 10年目にして・・・(自分の部屋を持つ)

 私が1人暮らしをしていた柏市から地元の北九州に戻ったのは2001年の9月のこと。気がつけば地元に戻ってもうすぐ10年。まあ、プライベートな面でもいろいろ思うところはある今日この頃だけど、「ネット上ではプライベート面での話はあまり掘り下げて語らない」私のポリシーに反するので、特に触れません。

 10年前に北九州に引き上げてきた時は「いずれはまた関東に戻る」「一時的な帰郷に過ぎない」と思っていました。だけど、あの「大病」を境に大きく意識が変わりました。「一生、ここを離れることは出来ない、離れる必然性もない」と。かかりつけの病院が地元にあるということ、それが最も大きいです。万が一の時に、他の病院にかかるということは考えられないわけだし。そして私は長男なので、既に若いとはいえない母を置き去りにすることも出来ないし。だから「地元を離れられない」と。ただ「離れたいけど、離れられない」のではなく、「離れたい」という気持ちも今ではすっかり消えてしまいました。あれほど「田舎過ぎて不便で生活が出来ない」「情報量が少なすぎて面白くない」と思っていたはずなのに、今ではそれも感じられなくなったし。

 とはいえ、今述べたとおり「いずれはここを出て関東に戻る」という想いがあったこともあり、実は私は柏の家から引っ越してきた際のダンボール、半分以上は未だに開けていません。戻ってきた際、自分が大学生まで過ごした部屋は「物置」と化していたので、「自分の部屋」もない状態。つまり、「寝るのは居間、テレビを見る時は居間、ネットや音楽鑑賞の時は物置同様の部屋、家財道具や衣類はダンボールの中から出し入れして必要なものを使っている」、そんな生活をこの10年、送っていたんです。まあ、仕事が忙しすぎて、家でゆっくりする時間もあまりなかったので、それでも不自由を感じることもなかったんですけど。

 といっても、もう10年。さすがにきちんと荷物を全部出して、落ち着いた状態で生活したいなと思っていた矢先、4DKの部屋のうち、ひとつがようやく開いたので、ようやく「自分の部屋」を持てることになりました。手始めに、今は居間にあるケーブルテレビを「自分の部屋」に移したいな、と思っています。いや、ケーブルテレビは私が希望して加入したものだし、料金も私が払っているし、私以外は誰も見ていないし・・・。ただ、テレビまで持っていくわけにはいかないので、自分専用のテレビを購入しました。いや、1人暮らしをしていた時に使っていたテレビはあるけど、1996年製(購入時は最新機種だった)のブラウン管テレビだから、当然地デジには対応していない。以前だったら「テレビなんて映ればいい」くらいに思っていたけど、今ではケーブルテレビ視聴がプライベートな生活の大半を占めているから、奮発して大画面、最新のプラズマ・テレビを購入しました。想像以上の大きな出費で痛かったけど、まあいいかと。しかし購入したのはよいけど、届くのは2週間後とのこと。しかもその後、ケーブルテレビの業者に、設置場所変更の工事も依頼しないといけないので、「自分の部屋でゆったり過ごす」ことが出来るようになるのは、今月末になりそう。とはいえ、帰郷10年目にしてやっと、「地元に落ち着いた」ような心境です。同時に、まだまだ工事費等、お金もかかりそうだし、工事や手続きで落ち着かない生活になりそうです。

■2011/12/9 「少年時代の好奇心の源」が休刊(小学館の学習雑誌)

 ネット上で拾ったニュースだけど小学館の学習雑誌「小学3年生」と「小学4年生」が休刊になるとか。その記事を見て「ああ、一時代の終わりだなあ」と寂しく思っていたところ、よく読むと既に「小学5年生」と「小学6年生」は数年前に休刊になっており、残るは「小学1年生」と「小学2年生」だけなんだとか。私は1年生〜6年生まで、ほぼ毎号購入したほどのヘビーユーザーでした。確か2年か3年の時、2回だけ購入できなかった。にもかかわらず、毎回応募し続けていた懸賞に一度も当たらなかったこと、ちょっと恨みに思っていたりもしますが・・・(笑)。

 なので、寂しいとは思うけど、時代が時代だからなあ・・・。今は大人も子供もそうだけど「趣味や価値観の多様化」の時代。以前のように「国民の大半が同じことに興味を持ち、同じことに夢中になる」時代じゃない。音楽を聴くのは音楽が特別好きな人=音楽ファンだけ、お笑い番組を見るのはお笑い好きな人だけ、野球を見るのは野球ファンだけ、日本代表戦以外のサッカーを見るのはサッカー・ファンだけ・・・。実際、20代くらいの人で、自分が興味のない話題には一切関心を示さない人が結構いる。私が20代の頃は、自分が知らないことを話している人がいたら、興味のない話、嫌いなものの話でも「何? それ」「へえ、そうなんだ」って感じで好奇心を持って聞いていたものだけど。小学生もそうなんだろうなあ。そうやって趣味が分散してしまえば、売れなくなるのも当然だろうな。

 

 小学館の学習雑誌といえば「学習雑誌」といっても名ばかり、勉強に関する記事はほんの少し、誌面の約半分が漫画。あとは「人気歌手の特集」「プロ野球(極端な巨人ゴリ押しが気味悪かったけど)の最新情報」「ドリフや欽ちゃんなどのバラエティ番組の特集」「恐竜や宇宙、昆虫採集など、子供の好奇心を煽るような教養もの特集」「スーパーカー特集」「今話題の映画の特集」「超常現象特集」「今話題の人の特集(探検家の植村直巳の体験記等)」などなど、まさに「ゴッタ煮」「玉手箱」のように多種多様な記事が載っていたもの。同級生の大半は漫画だけを目的に買っていたようだけど、私は以前から述べている通り、漫画は好きじゃない。むしろ好きだったのは、そうした目もくらむような多種多様な記事。

 例えば、私がプロ野球に関心を持ったのは、小学館の学習雑誌の影響。最初は素直に読んでいたけど「なぜ巨人だけ?」「他にどんなチームがあるんだろう?」と思い、テレビを見るようになった。沢村栄治や西鉄ライオンズ、ベーブ・ルースなどの伝説を知ったのも「小学4年生」に載っていた「プロ野球の歴史」(今思えば子供向けしては掘り下げすぎだな)の記事がきっかけでした。人気歌手の記事も私にとっては貴重でした。「ザ・ベストテン」を見るようになって、多くの人気歌手に興味を持てば、当時中高生がよく買っていた「月間平凡」「月間明星」のようなアイドル雑誌に走るのが普通。だけど「お前にはまだ早い」と亡き父に止められて買ってもらえなかったので、私にとっては学習雑誌の記事が貴重な情報源でした。ゴダイゴやツイスト、サザンの全メンバーの名前を知ったのも、沢田研二や松田聖子の生年月日や出身地を知ったのも、それらの記事のおかげでした。また恐竜、昆虫などに一時的に興味を持ったけど、もしも小学館の学習雑誌の記事がなければ、興味を持つこともなかったんじゃないかと思います。スーパーカーとか、超常現象などは興味はなかったけど、記事を読んだおかげで知識だけは身について、「一応知っている」レベルに。もしも小学館の学習雑誌がなければ、そうしたものを知る機会すらなかったと思います。

 小学生といえば、やはり好奇心旺盛な年頃。何にでも興味を持ち、自分が今まで知らなかったことをひとつ、またひとつ、発見して知識を得ることで、どんどん世界が広がっていく。私はあの学習雑誌のおかげでいろんなことを知ったし、いろんなものに出会ってきた。「興味がない」話でも、記事を読むことで新しい世界に「出会う」ことが出来た。「役に立たない」「勉強に関係ない」知識であっても、知識を身につけていくことは決して「無駄」ではないでしょう。そうしてどんどん自分の世界が広がっていく・・・。それって今の子供にだって必要なんじゃないか。「ネットやテレビを使えば一緒でしょ」という人もいるかもしれないけど、テレビはチャンネルを合わせなければ一生「新しい世界」に出会うことは出来ないし、ネットはアクセスしないと出会うことは出来ない。当然、「見たいものしか見ない」「興味のあるサイトしか見ない」のが普通だろうし。私だけかもしれないけど、小学校の6年間、いろんな世界に出会い、いろんなことに興味を持ち、自分の「世界」を広げることが出来たのは、小学館の学習雑誌があったおかげ。「漫画しか読まない」人もいたみたいで、そういう人の場合は私と同世代でもそういう体験はしてないのかもしれないけど・・・。

■2012/2/6 寒くて死ぬ

ここ1週間ほど全国的に記録的な寒さだったとか。「東京に雪が積もった」だけで全国のトップ・ニュースになったり(大袈裟すぎて笑える)、福岡市ではマイナス2.7度と観測史上最低気温を記録したというニュースが福岡県のローカルでも伝えられたり。確かに福岡県って、以前から書いている通り「九州=南国」という世間一般のイメージに反して、一冬に最低でも2,3回は雪が積もるし、体感温度も東京よりもはるかに低いけど、今年は私が今まで地元で過ごしてきた冬の中でも、群を抜いて寒く感じられます。事実、私の今住んでいる家は意外と暖かくって、今まではコタツだけあれば部屋の中で快適に過ごせていたはずなのに、今年はエアコンの暖房をつけないととても過ごせないほど・・・。それにかつては仕事の都合で北海道で2冬、長野県の松本で1冬過ごしてきたので、「いくら寒い、寒いといっても、東京や福岡県の寒さなんてたがが知れてる」くらいにしか思ってなかった私にも、今年の寒さは堪える。

 とはいえ「死の恐怖を味わうほどの寒さ」を感じたのは、やはり北海道在住時。東京や福岡の寒さは「辛い」「大変」くらいで済むけど、北海道の寒さは「こんな中にいたら死ぬかも」と思えるほど。私が住んでたのは札幌と函館だから、北海道の中では「過ごしやすい」部類なんだろうけど・・・。何しろ「最高気温:氷点下2度、最低気温:氷点下8度」といった感じで、0度以上に気温が上がらない日が12月末〜3月上旬にかけて続く。「今日は最高気温0度と過ごしやすい一日でした」なんて天気予報で言ってるような状態なんだから・・・(笑)。そんな中「俺、死ぬかも」と本気で思った「寒さに恐怖を感じた」、札幌在住時にそんな体験を一度だけしました。いや、あれは本当に恐ろしかった。

 当時の私は札幌市の南部にある豊平区に住んでいました。12月中旬頃だったと思うけど、仕事の関係で札幌の西の外れにある手稲区を訪ねました。その日は快晴、道路には積雪はあったけど、気温も0度以上だったし、そんなに寒くはない日だったので、比較的軽い服装で出かけました。JRの手稲駅を降りて、徒歩で20分ほどの「訪問先」に向かった私。ちょっと空模様が怪しくなる。でも「ちょっと曇ってきたな」くらいに軽く考えていたんだけど・・・。

 「訪問先」で1時間くらい過ごした後、外に出ると雪が舞っている。ああ雪か、止むといいな、と思いながら駅に向かって歩き始める。すると、雪がだんだん強くなり、あっという間に猛吹雪に。しかも手稲といえば開けた街である反面、スキー場もある高地なので、まるで霧が出たかのように周囲が真っ白になって、何も見えなくなる。まさに視界ゼロの状態。悪天候で競技が中断した時の冬季オリンピックのジャンプやアルペンスキーの会場を思い出してもらえると分かりやすいか。あんな状態に。しかもコートを着ているとはいえ、マフラーも、手袋も、帽子もない軽装。髪の毛が凍っているのが自分でも分かる。歩けない、でも立ち止まったら絶対死ぬ。

 ただ「視界ゼロ」といっても、行きがけに同じ道を歩いたので、どこに何があったのかは何となく覚えている。そうだ、もう少し歩いたところにコンビニがあったはず。あそこまで歩いて、公衆電話(まだ携帯の普及率の低かった時代だから、必ずあった)から近くのタクシー会社に電話してタクシーを呼べば駅までいける。そう思い、必死で歩く。しかし前から吹き付けてくる吹雪のため、息も苦しくなる。それに耐えながら本当に命がけで歩いた。

 ようやくコンビニに着く。しかしなんと、公衆電話がない。正直、こんな街中で店に入って店の人に助けを求めるのは情けない。だけど、恥ずかしいとか情けないとか言ってられない。意を決して店に入る。店の方に「どうしました、大丈夫ですか?」と声をかけられる。「急に天候が変わったせいで身動きがとれなくなってしまいました、どこか近くのタクシー会社に電話してタクシー呼んでもらえませんか? 電話代はお支払いしますから」。・・・・コンビニのオーナーの方が年配の方だったので、嫌な顔もせずに対応して下さったので命拾いしました。「この辺は昔は山の中だったから、今でもこんななんですよ、豊平の人じゃあ分からないでしょうけど」。そんなことを言われた記憶があります。駅まで歩いて10分ちょっとの距離だけど、嫌な顔せずに駅まで乗せてくれたタクシー運転手の方にも感謝。本当に札幌の人って、私が今まで住んでいたどこの人よりも親切。一方で「北海道の冬の寒さの怖さ」を本当に知った瞬間でした。札幌のような都会でも、こんなことになるんだから・・・。「街中で遭難しかかる」なんて、北海道以外ではありえないでしょう。

 そんな体験をしてきた私だから、東京の人や地元・北九州の人が「寒くて死にそう」なんて言うのを聞くと、「本当の死ぬような寒さを知らないくせに」と思ってしまいます。とはいえ、今年の、というか、この1週間ほどの寒さは「死ぬ」まではいかないにしろ、確かに厳しいものがありました。同時に、あの日の恐怖体験を思い出してしまいました。

■2012/8/20 ブルーレイ・レコーダー不調で憂鬱

 1ヶ月くらい前からブルーレイ・レコーダーにディスクを入れた時、ディスクを認識しないという現象が何度かありました。認識しない時は1,2回出し入れし直すと認識していたのが、この数日は数十回出し入れしないと認識しないディスクがあったり、中には全く認識しないディスクもあったり・・・。「音楽気分」だった頃の私なら市販の音楽もののDVD(ブルーレイ)のソフトをいっぱい購入して見たかもしれないけど、今の私はもっぱら「録画」に活用しています。つまりケーブルテレビの番組、大半はリアル・タイムで見ることが出来ないのでHDD予約録画しておいて後から見る。で、その中から「この番組のこの回は気に入った、永久保存したい」と思える回を抜粋して市販のBDにダビングする、と・・・。昔から私は「好きなものは手元において残したい」という性格なので、「見る」よりも「録画して残す」ことの方にむしろ熱心で。というわけで、今の私にとってブルーレイ・レコーダーは必需品。それが不調なわけだから、何となく気分が憂鬱で。

 こうなれば修理依頼するしかないだろう。以前なら即電気屋かメーカーに電話してたものだけど、今はネットの時代。まずはネットで同じような症状に悩んでいる人はいないか検索して下調べ。いや、意外と多い症状らしい。それらの情報によると「クリーニング・キッドでクリーニングする」「それでも駄目ならリセットしてみる」「それでも駄目ならドライブ交換しなければならないので、修理に出す必要がある」とある。というわけでクリーニング・キッドを購入してクリーニングしてみるも、やはり駄目。説明書を見ながらリセットしてみたけど、やっぱり駄目。うーん、どうやら修理が必要らしい。

 ネット上の情報によると、よく使う人なら2年程度でドライブが駄目になるらしい。私は購入から4年。まあ、仕方ないか。費用はどれくらいかかるのか? 2万円とも、3万円ともある。おいおい「すぐに消耗するもの」なのに、そんなにするとは・・・。ただ何人かの体験談を読むと「最初は3万といわれたけど、いざ修理の人が来て見て貰ったら2万円で済んだ」とか「結局5千円で済んだ」とかある。まあ「3万くらいかかる」ことは覚悟しとこう。場合によっては、それより安くなるかもしれないけど・・・・。

 メーカーのサポートセンターに連絡。早く「ドライブ交換修理」「費用」「修理の日時」等、具体的な話を進めたいと思って、話が長くならないよう先に「クリーニングやリセットは既に試した」ことを伝えた。しかし、なかなかサポートから修理の担当に繋がらない。まあ、こういうところでたらい回しにされて何度も同じ説明をさせられる羽目になることも覚悟していたので、別に煩わしいとは思わなかった。電話の応対も思ったほど悪くないし。いや、むしろいい感じ。ところが最後の最後に繋がった修理担当者・・・。私にとっては「驚愕」「衝撃」でした。

私「ちなみに、おいくらくらいかかりますか?」

担当者「出張費等含めて5万6千円になります」

・・・・先も述べたとおり、ネット上で見た体験談などから「2万〜3万の出費は覚悟」の状態で、「場合によってはもう少し安くなるかも」と思っていただけに、耳を疑いました。

私「えっ? 何かの間違いじゃないですか? 同じような症状の人が知り合いにいますけど(「ネット云々」というと嫌がるだろうと思って敢えてこう言いました)2万円くらいだったと聞きましたけど?」

担当者「その情報、確かですか? 機種や時期によっても変わってくるので」

私「でもドライブって、購入して数年で消耗するって分かってる部品ですよね? それだけ壊れやすい部品なのに、なんでこんなに高いんですか?」

担当者「誰が壊れやすいっていってるんですか? そうとも言い切れないんですけど」

私「でも、5万6千円って、新品を買うのと大して変わらない金額ですよね?」

担当者「そうですね、大して変わりませんね」(←これは酷い、とても「修理担当者」の言葉とは思えん。ここで切れそうになるも「切れたらただのクレーマー扱いされてしまう」と思ってこらえる)

私「ああ、そうですか、じゃあ修理するか、買うか考えます。今回の修理依頼はキャンセルしてください、もういいですから」(敢えて冷静に、無感情に)

担当者「分りました(云々、最早私は聞いてない)」

  なんともはや事務的な対応。こっちは「故障したから何とかして欲しい」と切羽詰まって連絡しているのに「なんとしてあげなければ」と親身になって対応してくれる様子もない。あんたのところの製品なんだけど、なんで人事みたいなの? 「新品を買うのと大して変わらないじゃないですか」に対して「そうですね」って、有り得ない。 例えば「すみません、ドライブが以前と比べると品薄になっているもので」とか具体的に(嘘でも)事情を説明して納得してもらおうと努力するとか「申し訳ありません、ご負担をおかけしてしまいますがご容赦ください」とかお詫びするとか、そういう対応をされれば私だって「5万円払ってもいいか」とか「新品を買いなおそうか」とかって諦めもつくものを・・・。「もういいですから」に対する「分りました」もなんかおかしいだろう。俺は「いい」と言ったけど、あんたは本当にそれで「いい」の? とにかく後味が悪いし、不愉快この上ありません。しかも結局まだ直っていないわけだし。

 今後の選択肢は「諦めて5万円の出費を覚悟してもう一度メーカーに連絡する」(二度とかけたくないので、有り得ない)、「新品を買う」、「メーカーではなく、購入した量販店の修理担当窓口に連絡する」、「我慢して今のまま使い続ける」のいずれか。今のところ、3番目の「量販店へ連絡」を考えています。ただその場合、自社では修理できないだろうから結局は修理するのはメーカーになるはず。ということは、あの電話の担当者の言った金額がかかるということになるんだろうな。まさか「安くなる」ということはないだろうし。今の時代「4年も使った=もう古い」と考える人もいるだろうけど戦中生まれ、戦後育ちの両親のもとで育った私なので「簡単に物を捨てない」生活を送ってきた。両親が結婚した際に買った、当時最新だったという真空管家具調カラーテレビは何度も何度も修理を重ねながら、私が中学生になるまで、つまり13,4年も使っていたし・・・。それなだけに「4年で寿命、買い替え」なんて、私には考えられない。金がかかっても、今回は修理に出すことになりそうだけど「5万円」じゃあ痛すぎるし、なかなか踏ん切りもつかない。いっそ、しばらく「ケーブルテレビ離れ」してしまおうか、なんてことも考えてしまいます。いや、見ていても何となく気分が憂鬱になるし。

■2012/12/3 「修理」ではなく「購入」

何度か書いてきたとおりここ数ヶ月、ブルーレイ・レコーダーの不調に悩まされてきたわけですが・・・。11月中旬頃から以前にも増して「全く読み込めない」ディスクが激増。しかも、市販のDVDソフトすら「No Disc」表示が出てくるほど悪化。騙し騙し我慢して使ってきたけど、どうやら今度こそ本当に「寿命」らしい。とはいえ以前書いたとおり「修理に出す」としても5万円かかるらしいし(いや、今でも信じられないけど)・・・・。もう覚悟を決めて新品を買いに行こう。

 まずは行きつけの電気屋に行って下見。私は高額の家電製品を買う際は一度目に「下見」をするのがパターン。前回ブルーレイ・レコーダーを購入した際は「どうせ買うなら多少高くついても、いろんな機能のついたいい製品を買いたい」「ケーブル・テレビからの録画がメインになるので、ケーブル・テレビが録画できる機種を選ばなければ」と思って選んだもの。だけど時代は変わってケーブル・テレビに接続できない機種はない。しかも「よその部屋から操作できる」とか「ネットに繋げる」とか、私が使うこともないような余計な機能のついたものも多数。ということは、無理して高額な製品を選ぶ必要もないらしい。そうした余計な機能のついていない機種なら、ほとんど5万円台で購入できる。おいおい、やっぱり修理に出すのと新品を買うのでは全然金額が変わらないじゃないか。本当に修理に5万円もかかるのか? という疑問も相変わらず消えないところだけど、またメーカーに電話して不快な気分になるのも嫌なので新品を購入してしまおう。

 ということで先日、遂に新品のブルーレイ・レコーダーを購入。前回は公共交通機関を使って持って帰るのが結構大変だったものだけど、4年前の製品と比べると随分小型になっているので、持って帰るのも苦にならなかった。設置も今の故障している機種を取り外して、全く同じ配線を取り付ければ良いだけだったので、説明書を見ながら作業する必要もなかった。ということで、購入したその日から使用可能に。これでようやく「ケーブル・テレビを見ていても憂鬱」な気分から開放される。ということで、久々にモヤモヤした気持ちもない状態で、ケーブルテレビで「懐かしいドラマ」などを見ることが出来るようになりました。

 そしてもちろんお金がかかったけど、量販店の「長期保証」にも加入。「たった4年で故障→新品購入とほとんど変わらない修理代を負担させる」という理不尽なメーカー(今でも怒りは収まっていません!!!)に泣かされることもないし。しかし理不尽を感じながらも、テレビやケーブルテレビのチューナーと同じメーカーの製品を購入した方が使い勝手がよいという理由で結局、同じメーカーの製品を選んでしまいました。ひょっとするとメーカーの思う壺? 悔しいけど、こうするしか私には選択肢はありませんでした。嫌な時代になったなあ・・・。

■2012/12/30 自炊

 何度か書いてきたとおり、今年の夏頃から「自炊」する習慣がすっかりつきました。2001年の秋に実家に戻ってきて以降、炊事も洗濯もすべて母がやっていました。ただ、私が実家に戻ってくる直前くらいに母は腰を痛めてしまって、それまで続けていた仕事も辞めており、ずっと家にいる生活に。私は仕事に行く、妹も仕事に行く、家のことは母がやる。以降、それが当たり目になっていたわけだけど・・・。

 母はもともと40代くらいの頃に足を痛めて以降、実は足も弱っていたし、しかも仕事を辞めたきっかけも腰を痛めたこと。つまり決して丈夫とはいえない母に、家事をすべて任せていることを心苦しく思っていたのも事実。妹も家を出たし。ましてこの数年70歳を過ぎたせいか、以前と比べて何をやるにも時間がかるようになったし、辛そうにしている時も多い。特に苦痛そうなのは炊事。私が帰ってくると、慌しく食事の準備(温めるだけだけど)をはじめる。もちろん、私は帰宅が遅くなる日が多いので、毎日食事を作って貰ってたわけじゃないけど、週の半分は外食、残りの半分は家で済ませていたので、少なくとも週3日は任せていたことになる。自分が自炊できない奴ならともかく、私は一人暮らし暦約10年なので、できないわけじゃない。いや、さすがにこのまま最早若いとはいえない、元気とはいえない、本人に言うと怒られるけど最早「老人」といってもよい、そんな母に頼っているのはおかしいだろう、負担をかけちゃいかんだろうと。

 というわけではじめたのが自炊。意外とプライドが高いので「弱ってるようだから、もう俺がやるよ」なんて言うと機嫌を悪くするので「自分の飯くらい自分で作ろうかな」としか言ってないけど。母は自分の食事だけ準備する。自分のだけなら苦にはならないようだし、昔から「人の作ったものは食べない」偏屈な性格(笑、外食すら嫌がる)なので、私が作ってあげる必要もない。とりあえず「自分の食事だけ」私自身で作っている。仕事先から自宅に向かうバスの通り道に新しいスーパーがオープンしたので、途中下車して買い出しをしています。とはいえ「かつては自炊していた」といっても煮物、焚き物は自分で作ったことはない。もっぱら焼き物、炒め物が中心。それに「一からすべて自分で作る」のは時間もないし、疲れて帰ってきた後にそんな労力もかけられないので、よくスーパーのチルド売り場や食品売り場などにある「キャベツを加えるだけですぐできる●●の素」とか、ああいう商品を利用することが多い。それに、いよいよ疲れていてどうしようもない時は惣菜売り場の惣菜を買い漁ることも多い。なので、自炊をしているといっても「自分で料理している」という感じではないのも事実。でも、一人暮らししてた時も「自炊」といっても私がやっていたのはこの程度。なので「一人暮らししていたときに戻った」に過ぎないんだけど。

 ただ、うちの母はなぜか「自分が若い頃=昭和30年代」にはあまりなかった食べ物(例:中華系、グラタン、ステーキ等の高価な肉料理、ウニやイクラ)を食べたがらないし食べようとしないという、これまた困った性格なので(笑)、「自分ひとりじゃなきゃ食べられない」ものも多い。なので、そうしたものを自分で作って気兼ねなく食べることができるという楽しみもある。だから「お互い自分の食べたいものを自分の分だけ作って食べている」わけなので私が自炊することは、単純に母の負担を減らすだけではなく、私自身にとってもメリットはあるわけで。今後は「●●の素」などに頼らず、一からきちんと料理ができるようになりたいと思っています。そうなれば、ここで「料理ネタ」なんて新しいジャンルの話も登場するようになるかも。ますます音楽から離れていく。というか、ここを開設した頃は「料理」「自炊」を語る自分なんて、想像もできなかったものだけど(笑)。

■2013/3/22 まさかの肉離れ

 つい先日、しゃがんだ体勢から立ち上がった瞬間、太もものあたりで「ピキッ」というような音が聞こえて、同時に激痛が。以降、歩く時はいつも足を引きずったような状態、走ることは一切出来ず、階段も片足ずつでないと上り下り出来ないように。決して激しい運動をしていたわけでもなく、無理な動きをしたわけでもない、ただ「立ち上がった」だけなのに、なんでこんなことに。まあ、単なる筋肉痛か、いや、ちょっと足がつっただけだろうと思って、痛みに耐えながら生活をしてたんだけど、歩く速度が遅すぎるし、重いものも持てないし、階段もまともに上り下りできないとなれば、さすがに日常生活や仕事にも差し支える。

 というわけで意を決して病院に行ったら、なんと肉離れ。「スポーツ選手がよくやる故障」というイメージが強かったんだけど、なんで、たかがこの程度のことで・・・。情けないやら、恥ずかしいやら。とはいえ、ネットでいろいろ調べると「階段を下りていただけ」とか、「ただ歩いていただけ」なのに「肉離れになった」なんて人も意外といるよう。へえ、たまたま筋肉が硬い状態で無理がかかったら、些細なことでもなってしまうものらしい。私は毎日それなりに長い距離を歩いているし、決して「運動不足」ということはないはずなんだけど。とはいえ、今思えばこの1ヶ月ほど、太ももの辺りに「張り」を感じていたような気がする。

 あと20代前半の頃、やはり駅で階段を駆け上っていた時に、同じ症状=「ピキッ」という音とともに太ももの辺りに激痛が走って、以降約1ヶ月間ほど走れない、階段の上り下りが辛い毎日を送った記憶が蘇った。あの頃は今以上の忙しい毎日で、病院になど行くこともできず、我慢して過ごした記憶がある。あの時は1ヶ月程度で痛みは消えたけど、今思えばあれ以降何年かに1回、太ももの同じ位置に違和感を感じることが多かった。ということは、あの時、ちゃんと病院に行って診察を受けなかったために完治していなかったのかもしれない。

 まあ、遅いながらも普通に歩くことは出来るので、仕事を休む必要まではないけど「歩くのが遅い」「階段の上り下りが辛い」「走れない」ことが、こんなに苦痛だとは。なんとなく「自由を奪われた」様な気分。行き帰りにコンビニやATMに寄るのも無理、駅や公共施設でもエレベーターを探し、待たなきゃいけない。こんな生活、いつまで続くのやら。

■2013/7/6 ただの風邪? それとも・・・

 今週の半ばあたり、確か水曜日か木曜日頃から声がかすれて出にくくなっています。実は身近に同じ症状の風邪の人がいたので「風邪をうつされたんだろう」とすぐに推測できました。だけど、普通風邪になると「喉が痛い」「喉が腫れる」「鼻水が出る」「咳が出る」「寒気がする」「熱が出る」「体がだるい」等の症状を伴うのが普通だけど、私にはそれがない。「声が出にくい」のと「痰が出る」程度。ひょっとして、何か他の病気かも・・・。もともと「大病」を患って以降、喉に違和感を感じることが多くなっていたし。

 ということで、とりあえず病院へ。行ったのは内科。「風邪でしょう」と言われたけど、先も述べたような、ありがちな風邪の症状が全く出ないので、なんとなく不安を感じる。まあ薬を貰ったので、これを飲んで様子を見ることにしますが、今のところ治る気配はなく・・・。もう少し待っても治らないようなら、内科ではなく耳鼻咽喉科にでも行ってみようと思います。

 しかし声が出にくいって、こんなに辛いとは。「咳が出る」「鼻水が出る」「熱が出る」方がはるかにマシ。どこにも行く気がしないし、日常生活にも差し支えるし、何か話したり、声を出したりしないといけない場所には一切行くことができないし。早く治ってくれればいいんだけど・・・。


      
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