![]() トップ・ページに戻る |
![]() 前のページに戻る |
■2013/9/16 まさかの「一人暮らし」、まさかの・・・(母入院) プライベート・ネタはあまり書きたくないので、私の中での「一線」を越えないレベルで。
先日、母が負傷して入院、手術。本当に突然のことで戸惑ってしまいました。いや、既に70過ぎだし、同世代のほかの人と比較すると足腰が衰えているので、もちろん元気でいて欲しいという気持ちもあるけど、一方で「そう遠くない将来に・・・」という不安があったのも事実。だから昨年から「自炊」と何度かここで述べたとおり、私自身の夕食は私で作るようにして家事や買出しの負担を減らしてあげるようにしてきたし、無理をさせないようにもしてきた。だけど「病気で徐々に弱っていく」のではなく「負傷」となると本当に「突然」の出来事なので、さすがに戸惑ってしまって。
手術は無事に終わったし、命に別状があるわけでもない。ただ年が年だし、もともと足腰が弱っていた分、元通りには回復しないんじゃないかという恐れもある。まあ、本人は大病から復活した私と同様、普段は弱気でネガティブだけど、逆境になると意外な負けず嫌いぶりを見せる一面もあるので、時間がかかっても普通に生活できるまでには回復するだろうと私は信じています。
というわけで、5年半くらい前にこんなもの(こちら)を書いたけど、あの頃と同じ「4DKの広い家での一人暮らし」がはじまりました。といってもあの時と違うのは、今度はかなり長くなりそうだということ。あの時は2週間程度だったけど、今回は短くて3ヶ月、長ければ半年は続くんじゃないかと。幸いにも、去年から「自炊」を時々していたので、食事を作ることには慣れているし、洗濯も一人分なら苦にならない。ただ、一人で住むには明らかに広すぎる家の掃除を一人でするのは、考えただけでも大変そう。それを何ヶ月も続けるかと思うと・・・。
まして今はとても忙しい時期だし。ただですら疲れて帰ってきて、力尽きたかのように就寝しているのに、今後は帰って自炊、洗濯は必ずやらなきゃいけない。10月になれば多少は時間に余裕が出来るだろうけど、果たしてそれまで私自身の体力が持つかどうか・・・。そのあたりも不安だったりします。
とはいえ、今願うのは、母が無事に帰ってくること。時間がかかってもよいので、普通に歩行できるようにはなって欲しい。「歩いて周囲を散策する」「近くのスーパーに通う」ことだけが楽しみだった人なので、その「楽しみ」を奪うことは絶対にあって欲しくない。
・・・なかなかプライベート・ネタに踏み込むのは躊躇するので、この件に触れるのは最初で最後にしたいと思います。でも、どうしても一度は書いておかないと私自身の気持ちの整理が出来なかったので・・・。
■2013/10/3 本格的な「自炊」生活へ 10月に入ってようやく仕事が落ち着いてきたので休みもそれなりにあるし、帰宅が極端に遅くなることもなくなりで、時間に余裕が出てきました。これからは家でゆっくり洗濯や掃除に時間をかけることも出来そう。あと、家に帰ってゆっくり「自炊」する時間も出来そうです。
とはいえ、前も書いたけど、母が入院する前、いっぱい野菜を買いこんでいて冷蔵庫がいっぱいだったので、まずそれを片付けてしまう=食材を使って料理せねばなりませんでした。9月いっぱいは家に帰るのが遅かったので、家に帰り着いてから料理にとりかかるのは大変だった。でも私は小学生の頃から両親(ともに戦中生まれ)や学校の先生(小学校1,2,4,5年の頃の担任は全員、戦前生まれの高齢のおばさん)に「食べ物を粗末に扱ってはいけない」と厳しくしつけられてきたので、「使い切れないので捨てる」という発想は全くなかった。「痛む前に使わなければ」と思ったので、何とかそれらの食材を使っておかずを作らなければと。
とはいえ、かつて一人暮らししていた頃の料理のレパートリーといえば、炒め物や焼き物ばかり。なので、レパートリーは少ない。当然、今まで使ったことのない食材も多数。冷蔵庫の中に大根、ごぼうなど、私が一度も使ったことのない食材が。あと、きゅうりもある。きゅうりといえば、生で食べるのが一般的なんだろうけど、昔から生のきゅうりって「食べられない」わけではないけど、「あまり好きではない」のも事実。うーん、これらの食材、一体どうやって片付ければいいんだろう・・・・。
昔なら、今まで作ったことのない料理を作ろうと思えば、料理の本を買うとか、テレビの料理番組を見るとかしなければならなかった。でも、今はインターネットがある。そこで「大根 レシピ」とか、「ごぼう レシピ」とか入力して検索してみる。すると「クックパッド」なるサイトにヒットした。どうやら、有名な料理の先生のレシピではなく、一般の人のレシピの投稿サイトらしい。ということもあって、掲載されている料理はほとんど料理に縁のない私でも簡単に出来そうなほど簡単なものが多い。特殊なスパイスや食材が必要なものもない。家にあるスパイス、油、食材で手軽に出来るものばかり。おお、これはよい。
というわけで、このサイトに掲載されている大根を使ったレシピ、ごぼうを使ったレシピ、そしてきゅうりを使った炒め物を作ってみました。いや、本当に簡単に出来る。時間もかからない。正直、大根を使ったレシピは、私がしょうゆの分量を間違ったので上手くできなかったし、ごぼうを使ったレシピは、ごぼうが足りなかったので物足りない出来に終わったけど、きゅうりを使ったレシピはなかなか上手くできました。
こうして、気がつけば冷蔵庫の中は空っぽに。だけど、私自身にも時間に余裕が出来たので、今後は自分で食材を買ってきて、このサイトを見ながらいろんなものを作っていきたいと思っています。一人暮らしをしていた約10年間は、あまり本格的に料理なんてしてこなかったけど、ちょっと本気でやってみようかな。もしも母が帰ってきても、元通り料理が出来るかどうかわからないし、最早結婚など諦めているので(笑)、そうなれば今後一生、私自身で料理しなければならなくなるんだし・・・・。
■2013/10/11 「自炊」がマイブームに? 10月に入って時間に余裕が出来てきたこともあり、帰宅後に食事を作ったり、洗濯をしたりすることが全く苦痛にならなくなりつつあります。特に「自炊」に関しては、最初はあんなに煩わしく、時には苦痛に思うこともあったのに、今や「楽しみ」に思えることも。なんといっても、先日述べたクックパッドというサイトを見れば、何の知識のない私にも簡単に料理が出来ることが分かったので「次はあんなものを作ってみよう」とか、「最近食べてないあんな料理はどうやれば作れるんだろう」とかといった感じで、あれこれ調べて・・・・。
次に挑戦したいと思っているのが味噌汁。私は一人暮らししていた頃も、実家に帰って自分で食事を作る時も、いつも味噌汁はインスタントで済ませていたもの。だけど、冷蔵庫の中に新品同様の味噌がある。これを何とかして使い切らなきゃいけない。というわけで、先日は「クックパッド」で見かけた「豚肉とキャベツの味噌炒め」を作ってみたけど、やはり汁を作らないことには味噌はなくなならない。これがもしも出汁入り味噌なら簡単に自分でも作れるけど、どうも出汁入りではないようなので、自分で出汁をとるところからはじめなきゃいけない。いや、自分で出汁なんてとったことは一度もない。もちろん、出汁の素などを使う手もあるけど、せっかくだから出汁をとるところからやってみようと思っています。いや、先月までのような忙しい時期なら、そんなことは思いつかないけど比較的時間に余裕があるし、簡単に作り方がわかるサイトもあるので、敢えて挑戦してみようかなと。
あと、秋の味覚といえば秋刀魚。母は秋刀魚が好きなので、毎年この時期になると最低でも1回は「焼き秋刀魚」を食べていたもの。だけど私は、一人暮らししていた頃も、実家に帰ってきて以降も、ガスコンロの魚焼きなんて1回も使ったことないし、魚の焼き方なんて全く知らない。だけど、ネットの料理関係のサイトを見ると、秋刀魚の焼き方まで丁寧に紹介しているサイトがあった。これもまた、先月までの忙しい時期なら「生秋刀魚を買ってきて、一度も作ったことのない焼き魚を作る」なんてことは思いつかないだろうけど、これも「やってみようかな」と思っているところ。
というわけで、最初は「仕方なく自分で料理していた」はずが、気がつけば「今まで作ったことがない料理に挑戦する」こと自体が、まるで楽しみ、趣味のようになってきました。「今日は何を作ろう?」「食材は何を買って来ようか?」なんてことを考え、悩む。こんな経験は今まで生きてきてはじめて。母が入院した当初は「大半が外食になるだろうな」と思っていたんだけど、今では外食する気すらなくなってなくなってしまいました。正直、自分がこんなことになろうとは、思っていもいませんでした。
■2013/10/19 酒癖 亡き父は酒が弱いくせに、毎日帰宅すると瓶ビール1本飲み干してから夕食をとっていました。普通の子供ならビールの匂いを嫌うものだろうけど、私は2,3歳の頃から「いい匂いのする飲み物」という印象を持っていました。飲んでみたい、でも父も母も大人の飲み物だから絶対に飲んではいけないという。でも、どうしても飲みたくって、父が飲み干したコップの底ににほんの少し残っていたビールを飲んでみた。普通の子供なら「不味い」「苦い」とかって感想を持つだろうけど、私は「旨い」と感じた。だけど、父も母も「飲むなっていただろう!」と怒る。なので、以降ずっと飲みたいけど飲まずに我慢し続けた。「絶対、大人になったらいっぱい飲むぞ」と思い続けて・・・。
(以下、昔話だし、時代背景も違うので、今現在の中高生の方は真似しないように:笑)その後、高1の時に同級生の誕生日パーティや中学の同窓会で本格的に「飲酒」をはじめたけど、やっぱりビールは「旨い」と感じたし、悪酔いしたりもしない、その上、気分が悪くなることもなく、何杯でも飲める。「俺って酒が強いんだろう」「悪い酔い方はしないタイプなんだろう」と解釈していました。ところが、高3の文化祭の打ち上げで悪酔いして暴れてしまい、あわや学校にバレそうなピンチに。このことで卒業式後の「お別れパーティ」から排除されて参加できず。高校時代の同級生との関係が切れてしまったのは、単に私が浪人したせいだけでなく、この席から排除されてしまったことも大きかったと後悔しました。
ということで、大学時代には家での「晩酌」の習慣がついたものの、飲み会等には一切参加せず。「排除された」ことは私にとってはトラウマだったし・・・。その後、就職して社会人になると、どうしても職場や会社がらみの飲み会には参加せざるを得なくなりました。さすがにそれを断るわけにもいかないし、「飲める」のに「飲めない」と偽るのも嫌だったので、仕方なく参加するようになりました。ただ、毎回ではないけど、やっぱり様々な「騒動」を起こしてしまったもの。まあ「楽しく騒ぐ」とか「はしゃぎすぎる」とか、周囲を盛り上げるような、明るい「飲んで騒ぐ」ならまだマシなんだけど、私の場合、どうも「絡む」「悪態をつく」「不満をぶちまける」「愚痴る」等、周囲に迷惑をかけるような騒ぎ方をするので、後から気まずい思いをしたり、人間関係を壊してしまったり、信頼を失ったり・・・・。20代のうちは失敗の繰り返しでした。でも、強くて気分も悪くならないから、いつまでも飲むのを止めない。もう「最悪の酒乱」だったんじゃないかと思います。
ただ、私が30代になった頃、21世紀に入ったころから、時代の変化か「酒の席」が以前ほど社会で重要視されなくなりつつあるので「仕事関係の酒の席」が減ってきたのは私にとってよい兆候。しかも2005年の「大病」からは「飲んではいけないといわれている」(実は全く言われていません)といって、ほとんど参加しません。もしも参加してもほとんど飲まないとか、不満やストレスが溜まっている時は敢えて飲まないとか、なんとかやり過ごしています。なので、2005年以降酒の席で「壊れた」ことは一度もありません。まあ、酒の席に参加すること自体、ほとんどないですけど。
というより「飲んだら自分がどうなるのか?」とか、「どこまで飲んだらヤバいのか?」を自分で判断できるようになったのが大きいかもしれません。なので、極力酒は外で飲まない、飲んでも「ヤバく」なる前に「もう飲めん」といって弱い振りをして、それ以上飲まない、今はそうしています。一方で、家での「晩酌」を3,4年前に復活させて以降、週に2回は飲んでいます。もともと、飲んでも絶対に家族には絡まないので、家で飲む分は問題なかろうと・・・。今後もなるべく酒の席は避けようと思っています。
いや、先日書いた前園の件を聞いた時、なんとなく他人事のような気がしなくって・・・。まあ、私は暴力振るった経験はないですけど。でも、そのニュースを聞いて「この人も俺のように外で飲むのを止めた方がいいんじゃないか?」と思うと同時に、「自分のことをわきまえているから、外では飲まないという俺の選択は間違ってない」と確信が持てました。
■2013/12/25 ひとりきりのクリスマスイブ・・・その後 昨日はクリスマス・イブでしたが「たまにはちょっとだけクリスマスらしいことをしよう」と思い立ちました。まあ、幼少の頃や小学校低学年くらいまでは「プレゼントがもらえる」「めったに食べられないケーキや豪華な料理が食べられる」日として楽しみにしていたけど、小学校4年か5年の頃からは、甘いものがあまり好きではなくなったのでケーキはほとんど食べなくなって・・・。中学、高校の頃には大して楽しみでもなくなり、学生の頃はちょうどバブル真っ只中で「カップルのためにある日」のような騒がれ方をする風潮になったので、むしろクリスマスで浮かれる人たちや世の中を憎悪するようになり(笑)、家でも「普通にご飯を食べるだけ」に。以降、社会人になってからも「クリスマスだから」といって何かするとか、ケーキや豪勢な料理を食べるということも一切せず、完全に背を向けて過ごしてきました。近年は、前から述べているように「特に楽しみもなく、毎日単調な生活を送って、勝手に時間だけが過ぎていく」様に思われて、空しくなることも多い。それに輪をかけて、9月から続く「一人暮らし生活」のせいで、なんとなく気持ちが沈みがち。なので、ちょっと気分転換の意味もこめて、いつの頃からか敢えて避けてきた「クリスマスらしいこと」をしてみようと思い立ちました。といっても、妻子も彼女もいないので、外に出かけるとか、イベントに参加するとか、外食するとかって発想はなく、クリスマスらしい食べ物でも買ってきて「ひとりきりのクリスマス・パーティ」でもやろうかと。うーん、その発想自体、既に空しい気分もしないでもなかったけど(笑)、まあ、食事だけでも「らしい」ものにしようかなと。
ということで、いつもはおかずの買い出しをしているスーパーに向かう。総菜屋コーナーのフライド・チキンと揚げ物をいくつか、そして鮮魚コーナーの寿司詰め合わせ(中高生の頃のクリスマス・イブの夕食は寿司だったもの)を買う。あとは飲み物。ビールやウイスキー、ハイボールやチューハイではいつもと変わらない。シャンペンはあまり好きじゃないし・・・。ワインを買っているカップルが目に入る。ワインなんて、ほとんど飲んだことがないので逆に新鮮でいいかも。ボトルなんてとても買えないので、缶で我慢。2本もあればいいか。あとはケーキだけど、正直あまり好きではないので、小さいサイズでも一人では食べきれない。ということで、スポンジを使った小さなカップに入ったスイーツがあったので、それを買う。「クリスマスらしいか?」といわれればちょっと微妙だし、かなり質素ではあるけど、普段食べない、飲まないようなものばかりなので「ちょっといつもと違う=特別」な気分にはなるだろう。
夜になって、それらを飲み食いする。しかしひとりで、テレビを見ながら・・・。うーん、決して楽しくはないけど、普段とちょっと違う気分には浸れたかも。昔のように、もう少しクリスマスらしい番組(例:高3=1986年の桑田佳祐らによるクリスマスショーとか:こちら)があればいいんだけど、相変わらずの「タレントバカ騒ぎ」番組ばかりなのが残念。とりあえず、数年前にケーブルテレビから録画した「私鉄沿線97分署」のクリスマス・エピソードでもある「あなたにもクリスマス」を見ながら飲み食い。だけどこの話って、孤独に悩む男子高校生が、幸せそうな家族の笑い声が漏れる家に嫉妬して投石や鉢植えを抜くなどの嫌がらせをする、そんな悲しい事件を扱った話。うーん、余計に寂しく、空しくなってしまった(笑)。そして慣れないワインを飲んだせいか、気がつけば落ちてしまっていた。落ちて約1時間後に目が覚め、慌てて布団を出して寝た。
ところが、アクシデント発生。さらにそれから約2時間後、腹が痛くて起きる。トイレに駆け込む。めったに腹を壊さない私が、思いっきり下痢状態(笑)。そこで思い出す。そういえば柏在住の1999年頃、柏在住のネット上の知り合いと、柏に出張に来ていたネット上の知り合いと3人でファミレスでワインを飲んだ時も夜中に同じ症状になったんだっけ。私がワインを避けてきたのは、それが原因だったはず。いや、すっかり忘れていた。その後も明け方まで何度もトイレに立つ。朝には治っていたけど、ほとんど眠れませんでした。やっぱり私に「クリスマスらしく過ごす」なんて似合わないんだなと再認識しました。結局「楽しい」どころか、ただただ「空しかった」だけでした。
■2014/1/5 本格的「自炊」4ヶ月間の成果 最初は母の入院で「冷蔵庫の中のあまった食材をかたづけるため」に仕方なくはじめた「自炊」も4ヶ月目に。今では「スーパーに買い出しに行く」「献立を考える」ことが、ごく当たり前の日常になってきました。1992〜2001年まで約9年続いた一人暮らし生活の中では、ほとんどそんなことしなかったのに。前も書いたけど、あの頃は「こんな料理が作りたい」と思っても、作り方がわからない。作り方を知るには料理の本を買って読むしかなかった。だけど今ではネットで簡単に料理の作り方を調べることが出来る。しかも料理の先生や有名な料理人のレシピだと、素人が作るには難しかったり、一般家庭には置いてなさそうな食材やスパイス、調味料が必要だったりするけど「クックパッド」などのサイトには一般の人が考えた手軽で、どこにでもある食材で作れる料理がいっぱい載ってる。おかげでごく簡単なものしか作ったことのなかった私でも、簡単に手の込んだ料理が出来る。
とはいえ、そうしたサイトに載っている料理には「当たり、外れ」があるのも事実。「載っているとおりに作ったら味が薄かった」「味付けが自分の口に合わなかった」さらに「美味くなかった」等。当然、一般の人が考えたレシピだから「考えた人自身の口に合う」様な味付けになっているわけだし。まあ、もちろん「これははじめて食べたけど、とても美味かった」ものもあった。また「初めて自分で作ってみたけど、意外なほど上手くできた」ものもあった。というわけで今回は、今まで作った中で「当たり」と思ったもののベスト5を挙げてみたいと思います。
(1)鮭とキャベツの味噌汁:「余ったキャベツを片付けたい」「今まで使ったことのなかった出汁の入っていない味噌を片付けたい」一心で作りました。ちょっと石狩鍋風で、具が多くてボリュームもあって他におかずがいらないし、寒い日は温まるし・・・。今まで食べたことのない味で新鮮でした。
(2)サーモンステーキ:(1)で余った鮭を片付けたくって作ってみました。しょうゆとバターとレモン汁を使った味は、今までのうちにはなかった味。
(3)ごぼうとベーコンの炒め物:一度も使ったことのなっかった食材=ゴボウが冷蔵庫に余っていたので、「キンピラとか煮付けじゃない、一味違ったおかずが食べたい」と思って作ってみました。炒めたゴボウがスナックのようにカリカリになって、香ばしくて美味かったです。
(4)肉じゃが:「作ったことのないおかずに挑戦しよう」と思って作ってみました。私は九州=西日本の出身、在住だけど、実は煮物、うどん、汁物などの出汁、味付けは東日本仕立ての味、辛さの方が口に合います。ホームページに載っていたレシピどおりに作ったら、こちらでは食べることの出来ない「東日本=関東風」の味になったので満足でした。
(5)トマト、きゅうり、卵の炒め物:冷蔵庫にきゅうりが残っていたけど、個人的には「生で食べるきゅうり」が「嫌い」というほどではないにしろ、あまり好きではないので、「なんかレシピはないかな」と思っていたところにヒット。炒め物なのにさっぱりして美味かったです。
(5)あんこう鍋:同率の5位です。12月の寒い日に「鍋が食べたい」と思ってスーパーの魚売り場を見ていたら、肝つきの鍋用に解体されたアンコウを発見。個人的には好きな魚なので、思わず買ってきたのはよいけど・・・。たまたまネット上でヒットしたのが、味噌仕立ての鍋。九州では鍋物といえば水炊きが基本で、味噌味の鍋なんてないので「どんな味なんだろう」と疑いつつ作ったけど、水炊き風の鍋よりもはるかに美味かったです。
あと、開封済みのシチューの素やカレーの素が余っていたので、生まれてはじめて自分でシチューやカレーを作ったけど、意外と美味くできました。それから秋に秋刀魚を買ってきて、生まれてはじめてコンロを使って魚を焼いてみたけど、サイトに書いてある通りに焼いたら驚くほど美味く焼けました。でも、一番上達したのは味噌汁。私が9年間一人暮らししていた頃は、出汁入りの味噌を使っていたので「自分で出汁をとる」ことなんて全く出来なかったもの。だけど母が冷蔵庫の中に残していたのは、出汁の入っていない味噌。ハナマルキのホームページに昆布と鰹節を使った出汁のとり方が掲載されているので、それを見ながら挑戦。今では何も見なくっても毎回同じ味が出るくらい、出汁をとることに慣れてしまいました。母が一時帰宅した際に、私が出汁を採って味噌汁を作りましたが「自分の味以外認めない」「外食すら嫌う」母が、私の「味」を誉めてくれました。まあ、無理していたのかもしれないけど・・・。
上手くいった話ばかりしたけど、さっきも述べたとおり、口に合わないレシピもあったのは事実。また、私が「失敗」して上手くできなかったレシピもありました。特に大根やしめじを、砂糖を使って甘く煮る煮付けを作った際、なぜか「異常に辛い」ので不思議に思っていたら、実は砂糖と塩を間違っていた、なんて大失敗もしてしまったものでした(笑)。
そんなわけで、今では「自炊」にすっかり慣れてしまったし、母が退院してもあまり負担をかけたくないので、私自身でおかずを作っていきたいとは思っています。ただ、これから忙しくなるし、帰宅も遅い日が多くなるので、買出しに行く余裕もなくなってきそうだし、帰宅後に料理するなんて体力的に無理になってくるかもしれません。
■2014/8/13 イナカヘカエル? 以前も書いたとおり私にはお盆休みなどないし、相変わらず忙しい毎日。今日の朝もいつものように交通機関を使って通勤していたんですが、何時もにも増して家族連れが多い。ああ、よく考えれば明日から世間一般ではお盆休み、帰省している人たちなんだなと気がつきました。今ももちろんそうだけど、幼い頃の私にも「帰省」なんて全く無縁のものでした。3歳の時に出生地の山口県徳山市(現周南市)から北九州市に引っ越してきた私だけど、実は両親とも北九州市出身。つまり、父の実家も母の実家ももろ地元。お盆や正月には私が中学生くらいの頃までは必ずその両親の実家、つまり私にとっての祖父母の家には顔を出してはいたけど、日帰りできるわけだから長い移動もない、宿泊もない。よって、私には生まれてこの方お盆や正月に「帰省」した経験が全くありません。
まあ、今は別にだからといって何も感じないけど、小学生の頃は同級生が「夏休みにイナカへ帰る」とか「イナカで遊んだ」とか「イナカであんなことがあった、こんなことがあった」なんて話を聞くにつけ、羨ましくって仕方なかったものです。「なんで自分にはイナカがないんだ?」と両親を責めたりもしました。まあ、はっきりえば「夏休みに出かけたかった」だけではあるんだけど・・・。ただですら夏休みだからといって、どこかへ連れていってくれたりもしなかったので尚更でした。そして夏休みが終わって2学期が始まると「夏休みの思い出」を発表しなくちゃいけなくなるんだけど、約半分の同級生が「イナカ自慢」ばっかりでウンザリさせられました。中には「こいつ、イナカがないらしい」と馬鹿にする奴までいて、そいつとけんか騒ぎをを起こしたこともありました。なので、私自身は「イナカヘカエル」という言葉に対して憧れを抱いていたし、それとは相反するように嫉妬や憎悪も感じていたものでした。
さらに社会人になった1992年、今度は自分自身が就職して地元を離れました。こうなると「帰省」する機会も本来ならあった筈だけど、当時の私は「世間一般が休んでいる間ほど忙しい」状態だったので、みんなが帰省する時期は忙しくてそれどころじゃない。「イナカへ帰る」人たちを尻目に忙しく働いていたので、やはりこの時期にも「イナカヘカエル」という言葉に、憧れと嫉妬、憎悪を感じながら過ごしていました。
そして今、地元に戻ってきた私だけど、やっぱり今も世間一般の人が「イナカエカエル」中、忙しく働いている。しかも、自分自身が地元へ帰ってきたことで、帰るべきイナカがない状態に…。今は憧れも、嫉妬も、憎悪も感じませんけど。どうやら私は一生「イナカヘカエル」という行為とは無縁のままらしい。とはいえ、帰省している当事者のみなさんに言わせれば「こんなキツイ想いをしてイナカへ帰らなくて済む人たちが羨ましい」と感じているのかもしれませんけど…。
■2014/8/31 夏休みの思い出は「家で寝ていただけ?」 気がつけば8月31日、週1の休みしかなく、しかも帰宅の遅い毎日を送っているうちに、あっという間に夏が終わりらしい。小中高校生は夏休みも終わりということらしい。小学生の頃って、先日書いた「イナカヘカエル?」の中でも述べたとおり、始業式に「夏休みの思い出」の発表をしなければならない日でした。5年生まで過ごした学校では必ずやっていた記憶が。6年生の1年間だけを過ごした学校ではやっていたかどうか、記憶が定かじゃないけど…。ただ、この発表が私には憂鬱でした。約半数の人が「イナカ自慢」、残りの人も「キャンプに行った」「海水浴に行った」「泊りがけで旅行に行った」等の「自慢合戦」の場に。
だけど私には「イナカ」なんてない。じゃあ、どこかに出かけたい。小1〜3年の頃は海水浴に行くとか、山に行って昆虫(特にカブトムシを欲しがった記憶あり)を獲りたいとか思っていたし、小4くらいからは鉄道ファンになったので、列車で泊りがけでどこかに出かけたかった。だけど、両親に「どこかへ連れていってくれ」とせがんでも、父の仕事が忙しいことを理由に断られる。父は日曜日は必ず休みだったけど、家に寝転んでテレビを見ているだけ。いくらせがんでも「疲れるだけ」「暑いだけ」「今、テレビ見てるから騒ぐな」。小4の時には、時刻表を使って「旅行計画」まで作ってせがんだけど、「こんなところへ行っても、お前が楽しめるようなところはない」とか、「こんな高いホテルには泊まれん」とか、「連休なんかとれん」とか言ってはぐらかす。大泣きしながらせがんでもダメ・・・。3年の時には、小学館の「小学3年生」に、「夏休みお出かけブック」とかいう、海や山でできる遊び、住んでいる昆虫や生き物などを紹介した付録がついていたんだけど、読んでいるうちに悲しくなって破り捨ててしまった。学校に提出する絵日記に、ほぼ毎日テレビの前に寝転がっている父の絵を描いて「今日もどこもつれていってくれなかった」と、同じことを書き続けたりと「報復」にも出たけど逆効果。心配した担任の先生が家庭訪問に来てしまうほどの騒ぎになってしまい、「いい加減にしろ」と怒られてしまいました。
そんなこんなで小学生の頃は「思い出」なんて全くありませんでした。小5の時、「知り合いの勤めているホテルがある」という理由で、山口県萩市へ一泊旅行したことがあるけど、当日は大雨でどこにも出かけずホテルに籠っていただけで、とても「旅行」と呼べるようなものではありませんでした。ところが、中学生になった途端、毎年出かけるように。中1と中2の時、海の家で一泊する海水浴に連れていかれました。だけど、実はこれは父の会社の行事。はっきりいえば、海水浴よりも夜海の家で行われる宴会がメイン。当時の私はもう中学生。純粋無垢なガキではないので、上司の前で見栄を張ったり、機嫌をとったりする父の姿を見たり、酔っぱらったよそのおっさんに絡まれたり、宴会が終わった後、宴会の時に現れた派手なお姉ちゃんと一緒に消えてしまった数名のおっさんたちの姿を見れば、いろいろ複雑な気分になるもの。何が行われているのか、何が起こってるのか、分かるわけだから。決して「楽しい」ものではなく、むしろ参加して苦痛なイベントでした。
そして決定打は・・・。同じく中2の時、母方の親戚が宮崎にいたので、その親戚を訪ねるために宮崎に、まさに最初で最後になる「家族旅行」と呼べるような旅行に行きました。この時は天気もよくって、ちゃんと観光地周りをしたし、本当に唯一の旅行らしい旅行でした。だけど中学生といえば、そろそろ「親と出掛けるのが恥ずかしい」年頃。まして父は、乗り物の中や施設の中でも平気で大きな声でしゃべり、大声で笑う、そんな人でした。しかも、言わなくてよい余計なことまで言う。例えば、宮崎で乗った観光バスのガイドが「後ろに見えるのが巨人軍が毎年キャンプを張っている球場です」と紹介した時、「俺は巨人なんか好かん」と大声で言って失笑されたりとか。そんな父の言動が「恥ずかしい」「一緒に行動したくない」と映りました。
以降私は、父と出掛けることを拒否するようになりました。それまではよく映画に行ったり、外食したりはしてたけど、以降は全く行かなくなりました。そして中3の夏休み「旅行クーポン券をもらったから、今年もどこか行こう」と言われ母や妹は喜んでいたけど、私が断固拒否してどこも行きませんでした。正直、「本当にどこかへ連れていって欲しかった小学生の頃はいくらせがんでも連れていってくれなかったのに、なんで今更」と思ったものでした。本当に、タイミングが悪い…。今でもそう思う反面、あの時の父の気持ちを思うと「寂しかっただろうな」と同情してしまいます。
だけどやっぱり、今の時期になると「始業式の夏休みの思い出発表が苦痛だった」こと、「小学生の頃、どこへも連れていってもらえなかった」こと、「なぜか親と出掛けるのが恥ずかしい年頃になった途端に、父が積極的になってタイミングが悪かった」こと・・・、などを思い出してしまいます。しかし絵日記を提出したのは、ちょっとやりすぎだったなとも。今となっては父もいないので確かめることはできないけど、実は私の希望に応えたかったけど、本当に今の私と同じくらい忙しかったから、叶えることが出来なかったのかもしれないなと。
■2014/10/5 まさか、またしても・・・(母再入院) またしても母が負傷して入院。せっかくリハビリして、近所までなら歩いて行けるほどまで回復していたのに。またしても逆戻り。果たして今度は元通りに治るのか、どれくらい時間がかかるのか、とても不安。せっかくここまで頑張ってきた母を思うと気が重い。
私自身も9月まで異常に忙しくって、しかも嫌なこと、不快なことが続いたので、気持ちが荒んだ状態。それを解消すべく計画していた「放浪」も悪天候で幻に。それでますます気持ちが落ち込んでいたところで、まさかの追い打ち。ますます気持ちが暗くなってしまいました。何をやっても楽しくないし、本当に気持ちが参ってしまいました。
でも、私が暗くなっている場合じゃない。もっと落ち込んでるのは母に違いないわけだし。それを思えば、本当に俺が落ち込んでる場合じゃないんだ。というわけで当分はまた「一人暮らし生活」「自炊生活」になってしまいました。
■2014/10/26 はじめての揚げ物 母が入院して以降、またしても「自炊」生活に突入。まずは冷蔵庫の中身をすべて使い切るところからはじめました。昨年「突然の自炊生活」を経験した直後なので、前回と同じように、普段は使わない食材に関してはネットでレシピを検索して作り方を調べて・・・。そうするうちに野菜、肉等はすべて使い切ることが出来ました。だけど2点ほど、私が今まで使ったことがない、作ったことがない食材が冷凍室に。
それは冷凍食品の春巻きと海老フライ。「レンジでできる」ものであれば別に問題ないんだけど、よりによって「油で揚げなければならない」タイプ。実は私、生まれてこの方自分で揚げ物を作ったことがない。私は大学卒業→就職して一人暮らしする以前から、家で簡単なおかずを作ったりした経験がありました。だけどそんな時も母は「揚げ物は絶対作ってはいけない」と言っていたものでした。母曰く「火災の恐れがある」「油の取り扱いが難しい」。まあ、うちは集合住宅なので不慣れな私が揚げ物を作ることに危険を感じていたのかもしれません。その後、就職して一人暮らしを始めて以降も、やはり「怖い」という想いが邪魔して、自分で揚げ物を作ることは避けてきました。まあ1990年代にもなると、レンジでできる揚げ物の冷凍食品の数も増えたし、コンビニやスーパーの総菜コーナーの揚げ物も増えたので、さしあたって「リスクを冒してまで自分で揚げ物を作る」必要もなかったし。というわけで、生まれてこの方、揚げ物なんて一度も自分で作ったことがなかったわけです。だけど、この冷凍食品、なんとか片づけなければならない。困ったなあ・・・。
だけど実は、昨年母が入院中に変化がひとつ。「今後は火を使う調理器具は危険かもしれない」と病院のリハビリ担当の方から助言があったので、昨年末からガスコンロを撤去してIHクッキングヒーターを購入していました。つまり「火を使わない」調理器具。なので、揚げ物を作るとしても「火が出る」危険性はほぼない。油の温度調整もボタンひとつ。これなら私でも揚げ物が出来るかもしれない。ということで説明書を見つつ「挑戦」してみました。「パチパチ」と油の跳ねる音がすると幼少の頃は怖かったものだけど、ほとんど跳ねることもない。温度調整は自動、「温度が上がりすぎて火が出る」危険もない。「コンロに火がついている」わけでもないので「火が出るかも」という恐怖心もない。実に簡単に揚げ物が出来上がりました。
というわけで、昨年からの「自炊」生活の中で「今まで作ったことがない」ものをいろいろ作ってきました。はじめての味噌汁、はじめての焼き魚、はじめてのカレー、はじめての肉じゃが等々・・・。だけど「一生揚げ物だけは自分で作ることもなかろう」と思い続けてきました。その揚げ物まで自分で作ってしまった。こうなれば、本当に何でも自分で作ってしまえそう。「包丁も持ったことがない」という主婦もいるらしいけど、私の方がよっぱど料理のレパートリーが多いかもしれません。とはいえ、今回作ったのは「油で揚げればよいだけ」の冷凍のフライ。次は自分でパン粉や天ぷら粉をまぶして揚げ物を作ってみようと思います。
■2015/2/24 「外でご飯を食べる」? 年明け以降異常に忙しい毎日が続くけど、退院後間もない母のこともあるので、終業後は速攻で帰宅することを心掛けている私。そのためか年明け以降、一度も外食していません。母が入院中の「一人暮らし生活」の頃は、週の約半分は夜食は外食で済ませていたんですが。まあ外食といっても夜遅い時間だし、一人だしということで、ほとんどがファーストフードなんですけど。しかし私って、幼少の頃から今まで振り返ってみると、昼食はともかく、基本的に夕食を外食で済ませることはあまりなかったのも事実。幼少の頃は一度もなかったし、小学生の頃は年に1,2回程度家族揃って夕食を外で済ませることはあったけど、中高校生の頃は皆無だったし。
だから幼稚園児の頃、周りの友人に「昨日の夕ご飯は外で食べた」と言われても、全く意味が分かりませんでした。それを聞いた周囲の友人や先生などの大人が「わあ、いいねえ」と言うから、きっと「よいこと」なんだろうなとは思ったけど。私がイメージしたのは、公園や広場に御座を敷いて弁当を食べるとか、バーベキューのように火を起こして外で調理して食べるとか、そんな光景でした(笑)。
そんな中、私が小1の時だったと思うけど、突然父が「今日の夕飯は外で食べよう」と言い出しました。はじめてのことなので、意味は分からないけど喜んだ私。その日の夕方、学校から帰った私は母や妹と一緒に、父との待ち合わせ場所である家の近くの商店街へ向かう。だけど待ち合わせ場所に父はおらず、しばらく待っても来ない。今のように携帯もないので、外に出てしまえば連絡のとりようもなかった時代。仕方なく30分程度待っていたけど、父は来ない。待ちくたびれている私や妹を気遣ってか、母が商店街の中の駄菓子屋でお菓子と飲み物を買ってくれたので、それをベンチに座って食べる。そこで思わず「ひょっとして、外でご飯を食べるって、こういうこと?」と聞く私。母には爆笑されたけど、本当にこの時点でもまだ「外でご飯を食べる」の意味が分かっていませんでした。何しろ、デパートの食堂などで昼食をとったことはあったけど、夕食時に外食したことなど皆無だったので。結局父が遅れて到着、その後天ぷら屋か何かで食事をとった記憶があるけど、あまり覚えてません。「みんなが大騒ぎするけど、たったこれだけのことか」というのが素直な感想でした。
ただこれをきっかけにその後、年に1,2回は夕食を外でとる習慣が出来ました。行先はほとんど、当時の父の勤め先の近くにある駅の地下の食堂街。この駅は1990年代、私が地元を離れている間に取り壊されて建物自体が別物になったので、既にその食堂街は存在しませんが。その食堂街の中に洋食屋があったので、私はそこに行くのが楽しみで仕方なかったもの。父が極端な和食等で、何でもしょうゆ味でないと気が済まない変な人だったので、うちでは洋食なんてほとんど食べることが出来なかった。ハンバーグすら醤油で炊いたミンチの塊、シチューもコンソメとしょうゆで味付け、グラタンなんて見たこともない。そんな私にとって、その洋食屋に行くことは年に1,2回しかない楽しみだったものです。今思えば、レトロで「昭和な」洋食屋だったけど、それですら私にとっては「別世界のような味」に思えたし。この店には小1〜6年くらいの間に10回程度通いました。最後に行ったのは学生時代、帰宅が遅くなった日の夕食を一人でとった時だったと思うけど、駅が取り壊されて店も消滅してしまったのが残念です。
その後中学生になると、何度か書いてきたとおり「親と外出するのが恥ずかしい」特に「外で平気で大声でしゃべり、笑い声をあげる父と出掛けるのが恥ずかしい」気分になった私。父は映画好きでよく映画館に行っていたけど、一人で行くのが嫌なのか私や妹を連れて行くことが多かったけど、確か最後に父と映画に行ったのは中2の時だったと思います。その時、映画終了後にデパートのレストラン街の寿司屋で昼食をとりました。比較的高そうな寿司屋だったけど、臨時収入のあった父は気が大きくなっていたのか、いきなり「このメニューに載っている握り鮨を順番に全部出してくれ」ととんでもない注文。しかも大声で。その横柄な態度が恥ずかしくって。そして当然、途中で腹がいっぱいになったので打ち止め。店の人に苦笑いされるし、周囲の他の客からも変な目で見られるし。「姉ちゃん、お茶入れて」などと大声を上げるし。もう、恥ずかしいやら情けないやらで、精算時に思わず私が謝ってしまったほど。これが「父と外出したくない、外食したくない」気持ちを決定づける出来事になりました。
以降は家族と外食したことは一度もないし、昼食は外でとることが多い反面、夕食を外で食べる機会はやはり多くありません。ファーストフード店などで軽く夕食をとることはあっても、むしろ普通の食堂やレストランで夕食をとることなんて、年に2,3回しかありません。それも「放浪」先での食事がほとんど。やはり今の私にとっても「外でご飯を食べる」ということは、あの頃と同じく、特別なイベントのようなものであることに変わりありません。
■2015/5/16 10年ぶりに「死」を意識した出来事(大腸ポリープ切除) 実は昨年12月に何気なく大腸がん検診を受けたんですが、1月に「陽性」の判定が出て「精密検査を受けるように」との通達が。だけど1月といえば何度も書いてきた通り「1日10時間以上勤務」の激務を行っており、同時に母の見舞いや退院手続等で、とてもじゃないが時間をとれる状態ではありませんでした。ネット上を見ても「陽性だからといって本当に癌である可能性は低い」とある。「まあ、4月になったら多少は落ち着くから、落ち着いた頃に受ければいいや」と比較的気楽に構えていました。
とはいえ「癌かもしれない」可能性がゼロではない状態で日常生活を送っていると、時々大変な不安に襲われるもの。例えばケーブルテレビで昔のドラマを見ていると「癌に侵されて余命いくばくもない男が犯した犯罪を扱った刑事ドラマ」「不治の病で入院中の家族を看病する人物が登場するホームドラマ」などを目にする。以前なら単なる「悲しいドラマ=フィクション」として見ていたけど、全く他人事と思えない。「噂の刑事トミーとマツ」で、マツ(演:松崎しげる)が、自分が癌だと勘違いして絶望の中で犯人を追う話、本来なら「笑えるストーリー」なのに、なぜか全く笑えなかったし…。やはり「ほんの少しの不安」とはいえ、こういうドラマを見た瞬間は「大きな不安」になる。追い打ちは今話題のある俳優の「大腸末期がん告白会見」・・・。本当に他人事には思えない。
今の私は何度か書いているように特別嫌なことや悪いこともないけど、「特に楽しみもない」「将来に夢や希望は持てない」「楽しいと思える瞬間も少ない」「誰かのために生きているわけでもない」状態。だから「どうしても生きていたい」という気持ちも実は薄い。1月以降「若い頃にもっとあんなことや、こんなことをやってみたかった」「せめて結婚くらいしたかったなあ」とか、ネガティヴなことを考える瞬間も多くありました。でも一方で10年前のあの「大病」「難病」から生還した時「生きていることはありがたいこと」だと実感した、あの気持ちは忘れてはいません。まして今、母を置いて先に「逝く」なんてことは絶対にできない。だから「生きていたい」というより「生きなければいけない」という気分。同時にもしも病気なら「負けたくない」思いも強い。5月になってようやく時間的余裕も出来てきたので「じゃあ、このへんで」ということで先日、大腸内視鏡検査を受けてきました。
検査数日前から食事が制限される。この数年アルコール摂取量が増えていたので、アルコール類が飲めないのもつらいし、もともと「コーヒー党」で1日に5,6杯コーヒーを飲んでいたけどこれも飲めず。脂っこいものも好きだし、辛いものも好きだけど食べることが出来ない…。自由に何でも食べられることのありがたさを再認識させられました。そして検査前日の夜以降は絶食。腹を減らしたまま検査へ出かけました。
病院に着くと部屋に通されて、そこで約1時間以上かけて下剤1リットルを飲まされる。知らないオッサン3人と狭い部屋で過ごす。「知らない人と顔を突き合わせる」のも辛いけど「不味い下剤をゆっくり、チビチビ長時間飲む」ことはそれ以上に辛い。いっそ、一気飲みした方が苦痛も少ないんだけど。そして何度もトイレへ。「便が透明になれば検査できる」というけど、本当に10回近くトイレへ駆け込みました。小学生の頃から「人前でトイレに立つ」ことが何となく嫌いなので、これもやはり苦痛でした。
そして病院に着いて約4時間後、ようやく検査へ。下剤を飲む部屋で同席した「1年に1回検査を受けている」という爺さんの話では「内視鏡が腸に入る時は痛い」と聞かされていたけど、痛みは全く感じませんでした。それよりも時々腸の中に空気を入れられ、そのたびに腹が膨れて苦しいことの方が苦痛に感じられました。しかも医者がモニターを見ながら意外な一言。「ほらこれ、ポリープですね」。なぜか「はあ」と無感情に反応する私、いや本当になぜか他人事のように感じられたから。
「今とりますか? 後日入院してとりますか?」と聞かれたけど、「じゃあ、後日っていつなんだ?」「入院して家を空けて母を一人にする、会社を空けることが可能なのかどうか?なんてこの場で即断できない」と思ったので「今日お願いします」。というわけでその場で簡単に切除されました。「特に癌に直結するようなものではない」ということだったので一応一安心。ただ「今日いっぱいは絶食」ということで、この日も何も食べることが出来ず。翌日の朝からようやく食事が出来るようになったけど、約1週間は消化の悪いものや刺激物は避けるようにということで、今も相変わらずアルコール、コーヒー、脂っこいもの、辛いものを食べることが出来ず。本当に一番辛いのは「自由に飲み食い出来ないこと」。そしてポリープ切除後は特に痛みもないのに、しばらくは腹に力の入る動きを避ける、立ちっぱなし、走る等は避けるなど行動まで制限されているし。いや、翌日から普通に出勤しているだけに「自由に動けない」ことも辛いです。
とりあえずは大事にならずに一安心。とはいえ「一応、切除したポリープを調べる」ということなので、その結果次第ではまだ悪い診断を下される可能性もゼロじゃない。また「一度ポリープを切除した人は、何年かに1度検査しないと再発の恐れがある」という話も、例の爺さんから聞いた。だからまだまだ完全には安心していません。それにしてもあの「大病」「難病」からちょうど10年、またしても「死」を意識する出来事でした。同時にもう40代後半だし、今後も「ちょっとでも不調や不安を感じたら検査を受ける」ことをやっていかないと怖いなと再認識させられました。
■2015/5/18 眠っていた「結婚願望」? 先日の「10年ぶりに「死」を意識した出来事」の中で何気なく
>1月以降「若い頃にもっとあんなことや、こんなことをやってみたかった」
>「せめて結婚くらいしたかったなあ」とか、ネガティヴなことを考える瞬間も多くありました。
なんて書いてしまいました。今まで生きてきて「結婚願望」なんてなかったはずなのに、いざ「癌かも」「死ぬかも」と思ったら、なぜかそんな気分になって「へえ、俺にもそんな願望があったんだ」と自分でも意外でした。実際ここで「恋愛」だの「結婚」だのについて語ったことなんて、ほとんどなかったし。
中学高校時代の私は自分のデブにコンプレックスがありました。しかも1980年代はヤンキーがモテる時代だったし、まして北九州はよそ以上にヤンキーが多くてモテる土地柄だったので、私なんて「最もモテないタイプ」でした。でも「俺には奴らにない個性や良さがある」「それを理解できる女子は絶対にいる」と信じて疑わなかったし、セールスポイントもあるというある程度の自信を持っていました。よく周りに人に言われていたのは「面白い人」「楽しい人」「何事も一生懸命」「熱い人」という評価。自分ではよく分からないけど。実際「分かってくれる」女子はいたし、「ダサい奴」だけど決して全く人気がなかったわけではなかったと今でも思っています。だけどなぜか自分が好きになるのは「自分を分かってくれるけど、実は彼氏のいる女」だったり(こちら)、「自分を分かってくれないタイプの女子」だったりで・・・。
そしてそのまま大学へ。時代はバブル全盛。今度は「カッコばっかりの男」がモテる時代に。アッシーだのメッシーだの「三高」だのといって「女が男を選ぶ、使い分ける」ような嫌な風潮もあって・・・。そんな中で何人かに「告白」したけど、「私は(当時抱かれたい男No1だった)俳優のE.Y.がタイプなのに、あんたなんて全くそれとは正反対」とか、「身長が170センチない人は嫌」だとか、「デブのくせに私を口説くの?」とか、時代が時代なだけにえらくひどい言われようでフラれまくりで、最早トラウマになるほどの傷を負ってしまい「女は怖い」「恋愛は怖い」と臆病になっていきました。
そのまま社会人になって…。輪をかけて、間違った形でロック・アーティストからの影響を受けて、近づいてくる人に対して斜に構えたような態度をとることも増えました。今思えば中高生の頃に持っていた「自分の良さ、個性」をなくしてしまったのかもしれません。本当に心を許した人以外にはそうした部分は見せなくなっていきました。そのせいで「話しかけにくい」「偏屈」「不愛想」「ひねくれ者」、そんな印象を持たれていたような気がします。まあ20代半ば頃には、何人か「よい関係」になった人もいたのは事実。だけど、最終的には私の方が「フラれて」おしまい・・・。基本的に「惚れっぽい」性格だったので、恐る恐るでも私の方から声をかけてある程度まではうまくいくんだけど、結局最後は嫌われる・・・。まあ、中高大学時代に抱えたコンプレックスのせいでいじけた、卑屈な性格になってしまった私が悪いと今では素直に思えるけど、当時はそのことに気がつきませんでした。
そこで30代になった時に決心したのが「想うより、想われたい」。今までは私の方が一方的に「想う」相手に告白したり、実際に付き合ったりした挙句、「最初からフラれる」「最終的にフラれる」結果に終わってきた。だったら「自分を想ってくれる人を待つ」方が上手くいくのでは?と。だから30代以降は「別に恋愛できなくってもいい」「無理に結婚しなくってもいい」「もしも思ってくれる人が現れたら考えてもよい」、そう思って生きてきました。2000年にこんなものを、2002年にこんなものを書きました。これを書いた頃「☆TAKEはホモ?」と陰口を叩かれた(らしい:笑)けど、実はそういう思いで書いたもの。ちょっとカッコつけて書いてるからうまく伝わらないかもしれないけど「結婚したくない」ではなく、「まずは自分を想ってくれる人が現れれば考えてもよいが、それまでは考えていない」というのが実はホンネでした。あと、そういう人をいくら待っても現れない苛立ちが書かせたものだったのかもしれません。
2005年、37歳の時「難病」「大病」を患ってしまった。一応回復はしたけど、元通りにはらない。だからこの時点でもう一生「恋愛」や「結婚」なんて出来ないだろうなと悟りました。体にそんな爆弾を抱えた男なんて誰も「想って」くれないに決まっている。もしいたとしても結婚なんて無理。むしろ相手に迷惑がかかるので、相手が望んでもこちらから身を引くべき。実は「密かに想ってくれているっぽい人」はいたけど、私の方から遠ざけました・・・。
だから「俺には結婚願望なんてない」と思ってたんだけど、1月に検査の結果が出て以降、実は自分に「結婚願望」が眠っていたことに気がつきました。母が買い物に行けないので、時々スーパーに買い物に行くけど、20代、30代くらいの夫婦が、2人とも会社帰りのようないでたちで今日のおかずの食材を「キャベツもいるでしょ」「このカレー粉が美味いよ」などと言い合いながら選んでいる光景をよく目にする。そんな時、なぜか羨ましい気分になって「俺も一人じゃなく、あんな風にカミさんと買い物できたらなあ」という気分になる。俺は自分自身も料理が出来るから、帰って2人で料理するなんてのも悪くないよな。それだけじゃない、もっと現実的な問題として、もしも検査を受けた結果、長期入院が必要になったとしたら一体誰が着替えとか、必要なものを持ってきてくれるんだ?母は動けないし…。それにもしもカミさんがいたら「こいつのためにも絶対に死ねない」って気分にもなる。「誰かのために頑張る」「誰かのために生きる」、私にはそんなもの皆無。実は恋愛すると献身的になる私なので、生きるためのモチベーションも上がるだろうに…。
そう思った時に、自分の眠っていた「結婚願望」に気がついた次第。もちろんもう40代半ばだし、ましてあの「大病」「難病」で体に爆弾を抱える私には非現実的なので「今から結婚したい」とかっていう気持ちは全くありません。むしろ「20代、30代の頃にあんなに斜に構えずに、もっと素直に生きてれば人並みに結婚出来ていたかも」と後悔してしまったというのが正直なところです。ちなみに、リンクを貼った2002年のログにある通り「子供が欲しい」願望はゼロ、それは変化ありません。
■2015/6/8 ファッションの話、10年ぶりのその2 年末以降の激務でほんの少し収入が上がり、同時に母の最初の負傷の原因が実は「事故」だったので治療費や入院費等があまりかからなかったこともあり、ほんの少しだけど経済的に余裕が。こうなれば「ちょっとだけ散財してみたい」気分に。だけどさしあたって今すぐ買いたいものもない。以前なら「CDまとめ買い」とか「遠くに放浪する」とかになったんだろうけど。
そこで思う。そうだ、今まであまり金をかけなかったところにお金を使おう。10年前に「ファッションの話」(こちら)なんてものを書いた通り、私はもともとファッションに疎い。というかリンク先に書いている通り「もともとデブだったので、とにかく自分に合うサイズの服を探して買う」しかなかったので、そこに関心やお金を払うという発想がありませんでした。オシャレなものや高価なものに興味を持つことを諦めて「サイズが合いさえすればよい」、だったら「スーパーの安物で十分」そう思っていきたので・・・。今では「遠くへ出かける時も、仕事で出かける時も、ほとんど同じ服装」になってしまいました。でもやはり「放浪」に行くとか、遠出するとか、買い物に行くとか外食するとかいう時くらいは、もう少しマシな格好した方がよかろうという想いも少なからずありました。まして40代半ばになったので「オッサン臭くなりたくない」という想いも強くなったし。というわけで「たまにはファッションにお金をかけてみるか」と思い立ちました。さしあたって、これから夏になるのでカジュアル系のシャツ2着、新しくて、いつもより贅沢なのを買おうかなと。というわけで福岡市内のデパートに出かけました。
デパートの洋服売り場なんて、おそらくリンクを貼った10年前にコートを買いに行った時以来。でも、やっぱりこの雰囲気は相変わらず苦手。ちょっと売り場に足を踏み入れただけで「いらっしゃいませ」、ちょっと商品に手を触れただけで「何をお探しですか?」。うーん、どうしてもリンク先に書いている通り、高校生や大学生の頃にブランド系の店の店員に醜い扱いを受けた頃のことがトラウマになっているので、声をかけられただけで緊張するし、思わず逃げ腰になってしまう。大袈裟じゃなく、脂汗が出て目眩がしそう。まして今では40代半ば過ぎのオヤジになっているので、若者っぽいオシャレ系の売り場に足を踏み入れるのはあの頃以上に躊躇するし…。この約10年はほとんど店員が絶対に声をかけることのないスーパーばかりで購入していたので、やはりこの「声をかけられる」のが苦手でしょうがない。結局、何も購入できずに帰宅してしまいました。
このままでは一生スーパーの激安の洋服しか着ることが出来ないのか? そんなことを考えながらネットを見ていた時、ちょっとだけ興味を持っていたブランドのサイトに流れ着きました。こんなブランドの店、興味はあるけど間違っても実際に入る勇気なんて私にはない。でもよく見るとサイト内にオンラインショップもある。ということは店に出かけることもなく、店員に声をかけられることもなく、居ながらにして買い物ができるということか? でもサイズが合うかどうか、どんな生地なのか、どんなデザインや色なのか、そうした正確な情報は現物を直接手で触って、見て、試着してみないことには分かるまい。だけどサイズは具体的に丈、肩幅等が何センチなのか書かれているから、自分の今持っている商品の寸法を計れば大体推測できる。生地や色は商品を拡大してより鮮明に見ることもできるし、思った以上に分かりやすい。何着物色しても商品が乱れることもないし、後ろから店員が寄ってくることもない。これなら店員に声をかけられることなく、居ながらにして安心して買い物が出来そうだ。
ということでこの度、シャツ2着を通販で購入しました。これなら「オシャレな店だから入りにくい、敷居が高い」「店員に声をかけられるのが嫌、ましてあの頃のように嘲笑されるんじゃないかと思うと目眩がして卒倒してしまいそう」という、高校大学の頃からずっと私がアパレル系の店や売り場に対して持ち続けてきた「苦手意識」を感じることなく、安心して買い物ができる。ああ、もっと早く、私が高校や大学生だった頃に、こんなシステムがあれば、こんな気持ちを持つことなく、安心してファッションにお金をかけることもできただろうに。まあ、あの頃よりは体型が一般の人に近づいたこと、各アパレル・メーカーが少し大きめのサイズを普通に製造販売するようになったこともあるんだけど。
ひょっとすると今後、今までお金をかけてこなかったファッションにお金をかける機会が増えるかも。まさか40代半ばにして「ファッションに目覚める」とは思ってもいませんでした。まあ、実際に商品が届いて、着てみるまでは本当にはまるかどうかは分からないけど、今まで諦めていた、敢えて背を向けてきた「ファッション」という新しいジャンルに足を踏み入れるきっかけになるかもしれない、そんな出来事です。ひょっとすると私の価値観、生活、関心事が大きく変わるかもしれません。
■2015/10/9 20年ぶりにバーボンに親しむ 松本市在住の1994〜1995年頃、私には行きつけのスナックがありました。最初は当時の上司と2人で、その上司が転勤してからは一人で、1〜2週間に一度は通っていました。そこで2人でボトル・キープしてよく飲んでいたのがフォア・ローゼズというバーボンでした。といっても、2人とも酒の味も、銘柄もあまり分からなかったので「知ったかぶり」して選んだ銘柄でしたが…。
で、先日も書いた通り、10月に入って比較的時間に余裕が出来ました。だからといって泊りがけ放浪もできないので「今までとはちょっと違った楽しみを見つけて、そっちにお金を使ってみようか」と思い立ちました。5,6年前から「週1回、週末の晩酌」を復活させた私。といっても以前こんなもの(こちら)を書いた通り、自分の「酒癖」に関しては自覚があるので、外では飲まず専ら家で一人で飲んでいますが。ずっとビール、日本酒、ハイボール、さらに一昨年くらいからは新たに発掘したギネスなどを飲んできたけど、最近はワンパターンでちょっと飽きてきた。
そこで思い立った。そうだ、以前よく飲んでいたバーボンでも久々に飲んでみるか。といっても外で飲むのは「危険」。じゃあ、酒屋にでも行ってボトル1本、買ってこよう。でも自分でボトル1本買ったらいくらくらいするのか? ちょっと気になったのでネットでバーボンについていろいろ調べてみる。買うならあの頃親しんだフォア・ローゼズかな・・・。ところが、フォア・ローゼズは昨年から「日本サッカーへの不信感」を募らせている私が無意識のうちに避けている「あのメーカー」が販売元らしいことを知る。その瞬間「他の銘柄にしよう」と。そういえばあの頃、たまたまボトルが空いた時にフォア・ローゼズが在庫切れしていて、代わりにワイルド・ターキーというバーボンをボトルキープしたこともあったっけ。味は全然違っていたけど、あれも嫌いではなかった。ということでターゲットをワイルド・ターキーに変更した。
そして近くの酒屋に足を運ぶ私。ボトルの洋酒を購入するのなんて生まれて初めてでちょっと新鮮な気分。早速購入して約20年ぶりに飲んでみました。まずボトルを開けた瞬間の独特な香り、そして飲んだ瞬間は苦いのに、なぜか後に残る甘味。一気にタイムスリップして20年前に戻ったかのような気分になりました。これからも週に1回程度、ゆっくり味わって飲んでいきたいと思います。
■2015/10/27 最後に見た「この世」は・・・(父20年祭) 1996年10月のある日のこと。私は札幌市内の勤務先での仕事を終え、帰宅の準備をしていました。その時、なぜか実家の母から電話が。「まったく、仕事場に私用電話は絶対にするなと言っているのに」そう思いながら電話に出た時に告げられたのは「父の急逝」。
その瞬間の私の感想は・・・。実は「何も感じなかった」。1992年4月に就職していきなり関東勤務になって以降、一度も父には会っていない。電話で話したことも一度もない。前年の1995年にストーンズ福岡公演のために実家に帰った時は出張中。いや、それどころか、父は長期出張の多い人だったので、私が大学生になった1988年以降は盆と正月以外はほとんど家におらず、接点が異常に少なかった。最後に会ったのは実は1991年の12月、ジョージ・ハリスンの大阪公演に向かう新幹線の中(こちら)。だから丸5年も会ってなかったし、もっといえば最後の8年はほぼ疎遠な関係だった。だから「最近疎遠になった遠くにいる親戚が亡くなった」のと同じような感覚で。
むしろ札幌という、あまりにも遠方に住んでいる私にとっては「ああ、仕事何日休めばいいんだろう」「帰るにしてもお金もかかるし、時間もかかるしどうしよう」そっちの方が切実に感じられました。翌日朝の当時は一日一往復しかなかった札幌→福岡便の飛行機で地元に帰って夜は通夜、翌日は葬儀、そして葬儀翌日には大急ぎで札幌に戻りました。今思えば薄情だけど、新しい職場に転勤したばかりで仕事のことで頭がいっぱいだった当時の私には「とにかく早く帰って、早く仕事に戻る」ことしか考えられなくって・・・。その後柏在住の2000年に実家に戻って「5年祭」(私の宗派では「忌」とは言いません)は実施しました(こちら)。リンク先の本文では地元に戻った理由を「ある用事」としてるし、当時はまだ訪問者も多かった表のサイトのボードでもボカしていましたが、実は法事のためでした。この時は時間に余裕があったので、ようやくゆっくり「父を偲ぶ」気持ちが芽生えました。何かにつけて父には「アンチ」だった私にそうした気持ちが芽生えたのは、この頃だったように思います。
そして今年はなんと「20年祭」の年。最早父方の親類の大半が故人になってしまっているので、特に誰かを呼んだり、特別なことをしたりはしませんでした。まして足腰を悪くした母は最早市の郊外の急坂だらけの丘の上にある墓地になんて行けない。なので私一人で墓まで行って供養してきました。もう20年にもなるなんて・・・。
1996年、インターネットなんてなく、携帯も仕事で必要な人しか使っていなかった、父はそんな時代しか知らなかったんだなあ。父は病気などではなく、出張先でのいわゆる「突然死」だったので、直前まで「この世」を見ていたことになる。最後に見た「この世」は一体どんな世界だったんだろう・・・。
ちょっと調べたら、日本シリーズで仰木監督、イチローのオリックスが長嶋巨人に勝った日本シリーズはギリギリ見届けたらしい。「大アンチ巨人」だった父は「ざまみろ」などと言って喜んでいたんだろうか。だけどペナントレースは長嶋巨人の「メイク・ドラマ」の年なので、不貞腐れてテレビを消したりしてたんだろうか。テレビの前で倒れてたらしいけど、最後に見たテレビは何だったんだろう。「これを見るために生きている」というほど楽しみにしていた大河ドラマは竹中直人主演の「秀吉」の年らしい。続きを楽しみにしながら、続きを見ることなく「志半ば」(?)で逝ったのか・・・。日本は橋本内閣、アメリカはクリントン政権だったとか。この年の夏には前年にメジャーリーグに移籍した野茂のノーヒットノーラン、そしてアトランタ・オリンピックもあった。サッカーの「マイアミの奇跡」、有森裕子(妹の情報によると好きだったらしい)の「自分をほめたい」に歓喜したんだろうか…。ヘビースモーカーで若い頃はハイライトを吸っていたのに、40歳を過ぎたころから飲み屋の姉ちゃんの前でカッコつけるのが目的でより高いキャビンに代えたらしい。寝室にもキャビンの吸いかけの箱があったとか。分煙が進み、ポイ捨てなんてもっての外、しかもたばこ税の導入で高騰してしまったたばこの価格。そんな現代で健在だったとしたら、果たしてたばこを止めるだろうか。それでもやっぱり「たばこ止めるくらいなら死んだ方がマシ」というんだろうか・・・。
不思議なもので、ここで何度か触れてきた通り、中高生の頃は「父のようになりたくない」「一緒に出掛けるのは嫌」と言ってきた私。そして1988年以降は盆と正月以外はほとんど会わず、疎遠になったので亡くなったときは不思議なほど何も感じなかったのに、最近になって「父ならこの事件や事故、ニュースを見てどう思うだろうか?」「父がいたら今でも大河ドラマに夢中だろうか?」「今でもアンチ巨人か?」「この食べ物を食べて何と言うだろうか?」「今の俺や母を見てどう思うだろうか?」「ネットや携帯を見て何と言うだろうか?」「弱いくせに気取って大酒を食らう人だったから、もしも俺と飲んだら先に潰れるんだろうなあ」・・・、いろんなことを考えてしまいます。というより、今回墓前でひとり、そんなことを考えてしまいました。同時に気がつけば俺も40代後半、「最後に会った頃の父」の年齢に近づきつつあることにも驚かされてしまいます。
■2015/12/27 47歳にして「やってみる」 私は子供の頃からコンプレックスが強くて、自分が「やってみたい」と思うことがあっても、いつも「どうせ俺なんか・・・」という気持ちになって逃げてしまうことが多かったものです。幼稚園年少組(5歳)の時に腕を骨折、年長組(6歳)の時に足を骨折したので、母は私が「外で遊ぶ」ことを嫌がりました。特にこの年代の男の子がよくやる「高いところから飛び降りる」「外を駆け回る」ことを許しませんでした。時代は仮面ライダー・ブームなので周囲の友人はみんな飛び回り、走り回っていたし、私も当然「走り回りたい」「飛び回りたい」と思ったけど、「ダメ」と言われると逆らえず…。いつしか私は「俺は周囲の友人とは違う、劣った人」だという意識が芽生えました。
そのため友人もなかなか出来ず。まあ「遊ぼう」といっても「そういう遊びをしたら怒られるから」なんて言って断り続けていたら当然そうなる。そして小学校に入った頃から今度は太りだしてしまい「運動音痴」と化していく。私自身は野球やサッカーをするのは好きだったけど、異常なほど下手なので「入れてくれ」とは言い出せない。ミスしたら罵られそう、下手だから笑われてしまう、いや、下手くそな俺なんて入れてくれるわけもない。そして段々「運動する」こと自体も嫌いになる。「どうせ俺は何をやっても下手だし、下手なところを見られて笑われるのが恥ずかしい」ということで、完全に「スポーツする」ことから逃げてしまいました。逆に「スポーツを見る」ことが好きになったのは、そんな「自分が出来ないことをやっている人」をヒーローやヒロインのように感じたせいでしょう。
父は妹ばかりを贔屓して、妹には音楽教室(オルガンやピアノ)に入れ、そろばん教室にも通わせました。私も何かやってみたかった。そんな時学芸会でエレクトーンを弾きこなす同級生(男子)を見て「カッコいいな、俺も弾いてみたい」と思ったので遠回しに「習いたい」と言ったら「男にお稽古事なんか必要ない」「どうせお前は不器用なんだから弾けるわけがない」と一蹴された。音楽室で放課後に少しいじってみたけど、ほんの少し弾いただけで「確かに、不器用な俺にこんなもの弾きこなせるわけない」「どうせ俺なんか・・・」と諦めてしまいました。
そんな少年時代を送ったせいか、私は何かを「やってみたい」と思っても「どうせ俺になんてできるわけない」と最初から諦めて「やってみる」ことをせずに逃げてしまったことは数知れず。免許をとったものの、一度も路上を運転せずにここまできてしまった車の運転もそう。新しい仕事をはじめるチャンスがありながら「俺には無理だろう」と臆病になって逃げたこともあった。「どうせ俺なんて嫌われる」と好きな相手に告白できずに別れ別れになった人も数知れず。放浪先で「入ってみたい」と思ったけど、一人では入り辛い店だったので思わず通り過ぎてしまったことも何度もあった。おしゃれなお店やスポットに「行ってみたい」と思ったけど、「俺が入ったら笑われるかも」と恥ずかしくなって入ることが出来なかったことも何度もあった。そのせいか、この47年間を振り返ると「あの時こうすればよかった」と思えることばかり。まあ、それって私だけではないだろうけど、私の場合「自分に対するコンプレックスに負けて」始めることが出来なかったことがあまりにも多すぎます。
10年前「もう死ぬ」「無事に生還できても元通りの生活が出来なくなるかも」という大病を患いました。その時思ったのは「生きていることは有り難いこと」。あれから10年、47歳になった私が最近思うのは「生きているうちにやりたいことはやっておかなければ」。もちろん、今の年齢ではもう出来ないこともいっぱいある。子供にしか出来ないこと、20代の人にしか出来ないこと、それはもう諦めるしかない。大病を患ったので、体力的にもうできないこともあるけど、それも諦めるしかない。でも「今からでもできること」はいっぱいあるはず。
この数年、年末になるたびに「自分自身には何の変化もないのに月日だけが勝手に流れていくかのよう」と書いてきました。そんな中で「新しい楽しみが欲しい」とも書いてきました。さらに「見る、聴くといった受け身な趣味ではなく、自分でやってみる趣味が欲しい」と書いてきました。そう書き続けてもう5年近くが経ってしまったけど、このたび10代の頃から「やってみたい」と思いながら「どうせ俺には無理」と諦めていた「あること」をはじめてみることにしました。40代後半の今の私に本当に出来るのか? 自信はありません。でももしも今はじめて、万が一「出来なかった」としてもそれはそれで仕方ないと思えます。「やる前から諦める」のと「やってみたけど出来なかった」のでは大違い。とにかく「やってみたい」と思えます。というか不思議なことに今の私には「どうせ俺なんて」とは思えず、「絶対に出来る」と思っています。何十年かかろうと、一生かかっても「出来る」ようになりたい、今は素直にそう思えます。
・・・ちなみに何の話なのかは後日、改めます。
■2015/12/31 47歳にして「やってみる」2 何度か書いたことだけど私が高1の時、高校の同級生がやっていたバンドがスカウトされて上京してプロデビューしました。その影響でその翌年、1885年には私の周りではちょっと早い「バンド・ブーム」がやってきました。ボウイやレベッカのブレイクが翌1986年、イカ天ブームが1987年なので、ブームが来たのがかなり早かったわけです。影響された同級生の多くはギターやベースやドラムをはじめ、文化祭のバンド演奏に向けてバンド結成と異常な盛り上がりでした。親しかった連中も熱心にバンドをやっていたので、リハーサル等に立ち会ったこともありました。
私自身は「流行りもの邦楽」には興味があったけど、当時は洋楽はもちろん邦楽に関しても「ロック」にはあまり興味はなく。さしあたって「バンドをやりたい」「楽器を弾きたい」とは思わなかったので、本当に「見ているだけ」「立ち会っているだけ」でした。何度か「ギターってどうやって弾くの?」と聞いて触ってみたことがあったけど、左利きな上、物凄く不器用なこともあってか、全く「出来そう」な気配すらありませんでした。「右手と左手で全く違う動作を同時に行う」なんて、不器用な私には絶対無理。まあ、どうしても弾いてみたいわけでもないからまあ、出来なくてもいいや、そう思いました。だけど文化祭本番で速弾きを交えて長いギターソロを弾いた奴が、大喝采を浴びているのを見ました。正直言えば、勉強でも運動でも大して目立たない奴、普段から口数も多くなく、女子にも大してモテない奴。でも実は小学生の頃からギターを弾いていたらしく、まさに「隠れた才能」といった感じでした。それを見た時「ああ、俺もギターを弾きたい」、そう思いました。だけど前回も書いた通り「どうせ俺なんて」な性格の私。何人かの親しい連中に恐る恐る「俺も弾きたい」ようなことを言ったら「お前に出来るわけない」と。まあ、軽く冷やかすような言い方ではあったんだけど、私は本気で受け取り「そうだよな、無理に決まっている」ということで諦めてしまいました。
時は流れて1987年にビートルズに目覚め、その後多くのロックを聴くようになりました。当初は「聴いているだけで満足」だったし「自分で演奏したい」なんて欲求もほとんどなかったんだけど、1990年に短い「ディープパープル・マイ・ブーム期」が来た時(こちら)、リッチー・ブラックモアに憧れて「ギターを弾きたい」欲求が。以降も何度か「ギター弾きたい」気分が時々押し寄せては引いていきました。1992年にはじめて「ウッドストック」の映画を見て、動くピート・タウンゼンドの姿をはじめて目にして衝撃を受けた時(こちら)。1995年北海道に赴任した際にギターの弾ける上司に出会ってギター談義を聞かされた時。その上司に連れられて行ったすすきののライブハウスのバンド見た時。1998年にネットをはじめて自分のサイトを開設して以降、自分で演奏のできる相互リンク先の管理人の方に多く出会った時。そうした管理人の方が演奏した音源をネット上で聴いた時…。そうした感じでたびたび「ギターを弾きたい」欲求が押し寄せてはまた引いていく、その繰り返しでした。
そして2010年代に入った頃から「音楽を聴く」ことへの情熱は冷めていったけど、一方で動画サイトで無名のバンド、シンガー、ギタリスト、キーボーディストなどが演奏する、歌っている動画にはまっていきました(こちら)。プロになりたくって活動している本格的な人もいれば、趣味のレベルで気軽に楽しんでいる人もいる。だけどそれらの動画に共通しているのは「音楽をやることを純粋に楽しんでいる」姿。どの人もみんな、本当に楽しそうだし、生き生きとしている。私にとって音楽はずっと「聴くもの」でしかなかったけど「やってみる」ことって、こんなに楽しいものなんだ。もちろん、やっている音楽の「質が高い」ものもあれば、お世辞にも「質が高い」とはいえないようなものもある。でも「質」なんてどうでもよくって、やっている人が楽しそうであれば、見ているこっちもちょっとだけ「幸せな気分」になれる。
そんな中で私が強く心を惹かれたのは、CD音源に合わせてギターを弾いているいくつかの映像。それを見ているうちに「弾いてみたい」強い欲求が。その欲求は今までにないほど強くって。いや、もう47歳なので「プロになる」なんてことは思わない。「バンドを結成したい」なんてことも全く思わない、「動画サイトで公開したい」「人に聴かせたい」「人前で弾きたい」欲求も全くない。いやそれどころか「上手くなりたい」とすら思わない。「ある程度弾けるようになる」それだけでいい。とにかく「やってみたい」それだけ。「どうせ俺なんか」とか「不器用だから無理」とか最初から諦めてしまうより、まずははじめてみたい、やってみたい。本当にそれだけです。
「年をとると新しいことを覚えられなくなる」傾向にあるけど、幸いにして私は仕事でも常に「新しいことを覚えなければいけない」環境にあるので、「新しいことを覚える」ことが同世代の他の人よりは苦にならない。そして「熱しやすく冷めにくい」性格。子供の頃から不器用で要領が悪く、何をやっても最初から上手くできず、人一倍練習して訓練して物事を覚えてきたので、忍耐力は人よりもあると自負しています。そんな私だからすぐに上達しなくっても簡単に投げ出すことはない。一生かかってマスターする、それくらいの気持ちで取り組んでいきたいと思っています。
通販の初心者用のセットを入手、まあ立派なものなど必要ないのでこれで十分。ようやく手に入れた「やってみる」趣味。時間は限られているけど、焦らずゆっくりでいいので少しずつマスターしていきたいと思っています。
■2016/1/6 「やってみた」ものの・・・苦戦中(ギターに苦戦) 1/1に見た2本の映画でモチベーションを上げたところで、1/2からいよいよ実際にギターに挑戦。専ら「聴く」が専門だったので、実は音楽を「やってみる」ための知識はゼロ。例えば譜面が読めないまでも、音を聴いて「ド」なのか「レ」なのか認識できる人、CDを聴いて「この曲のキーはEだ」などとキーを認識できる人って多いけど、私には全く分からない。そしてギターに関しても「ピックガード」とか「フレット」とか言われても意味が分からない。そんなレベルから実際に「やってみる」わけだからもう、これが大変で大変で…。
ギターと一緒に送られてきた「教本」の1ページ目にギターの「部位」の説明が載っている。「ああ、フレットってこういう意味なんだ」「ああ、これがピックガードなんだ」。「6弦が下の細い弦で、1弦が一番上の太い弦」ということもはじめて知った。次に「チューニングをやってみよう」とある。「音を聴いても認識できない」レベルなので自力でチューニングするなんて絶対に無理だけど、幸いにも付属品としてチューナーが付いていたので開封してみる。うーん、教本に載っているチューナーと全く形が違う。教本にはシールドを繋ぐタイプのチューナーの使い方しか載ってないけど、私の手元にあるのはクリップ式。なので「どうやって使うのか?」よく分からん。一応取扱説明書もついていたけど、よりによって英語・・・(笑)。仕方なく「おそらくこう使うんだろう」という「勝手な推測」で我流でチューニングして教本の次のページへ。
次のページから「実際に弾いてみよう」とある。Tab譜の見方が分かりやすく解説されている。全く知識のない私でも非常に分かりやすく、このあたりはあっさりクリア。ところが、Tab譜通りに左手の指で弦を押さえて弾いてみたけど…。おかしい、音が鳴らない。壊れているのか? と思ったけど実は弦の押さえ方が悪いらしい。力を入れ過ぎても、力を抜きすぎても鳴らないし、押さえる場所が悪いと鳴らないし。いや、この「押さえ方」は理屈じゃなく、実際に何回も何回も押さえて「体で覚える」しかなさそう。まあ、慣れれば何とかなるか。ところが、またしても次の難関が。
今度は「コードを弾いてみよう」とある。「簡単なコード」としてEとAが紹介されているので、Tab譜通りに弦を押さえて弾いてみる。ところが、どうやっても上手く鳴らない。Eを弾くのに3弦を押さえている薬指がどうしても下の4弦に当たるので4弦が上手く鳴らず。仕方なく指を少しずらすと、今度は4弦を押さえている人差し指が真下の5弦に当たって5弦がミュートされた状態に。「指を立てろ」とか「爪を短く」とか「なるべくフレットの近くを押さえろ」とかいろいろ書いているので実践したけど、やっぱり結果は同じ。その後、ギターの構え方、持ち方、姿勢、親指の位置、手首の使い方など様々なところを矯正してみたけど、やっぱり結果は同じ。今日1/6まで何度も何度も、数十回試したけどやっぱりダメ・・・。いや、まだ教本の5ページ目くらいなのに、こんなに早く「止まって」しまうとは思っていませんでした。もちろん「人よりも数段不器用」「要領が悪い」「時間がかかる」ことは覚悟していたけど、こんな「初歩」の段階で止まることは予想していませんでした。
ただこういうのって「知識」や「理屈」ではなく、「何度も何度も試してコツをつかんで、体で覚える」しかないので、とにかく「毎日地道に触り続ける」しかないだろうと思います。例えば今やペーパードライバーになってしまったけど、自動車教習所に通った際も、人の約2倍の時間がかかりました。どこで時間がかかったかというと、実は「1段階」、単に教習所の中をクルクル回るだけ、それが出来るまで7〜10時間を要しました。どうしても「ハンドルを切るタイミング」が掴めなくって・・・。だけどある日、何もしてないのに突然「切るタイミング」が勝手に体に染みついてしまって、以降は普通の人より少し遅い程度で進行して「卒業」にこぎつけました。新しいことに挑戦した時「最初で大きく出遅れる」のがいつもの私のパターン。なので今は「感覚を掴む」ために毎日毎日触り続ける、それを実践していきたいと思っています。
というわけでネット上で「指を動かす訓練」をいくつか検索して実践しているこの数日、そんな中で「ドレミファソラシドを弾いてみよう」という項目があったのでちょっと弾いてみました。そこで気がついたこと、実はチューニングが合ってない=クリップ式チューナーの使い方を誤っていたよう。そこで今度はネットでクリップ式チューナーの使い方を検索して、改めてチューニングし直して…。というわけでまたチューニングの段階にまで逆戻り。やっぱり俺って要領が悪いなあと我ながら呆れてしまったけど「つまずいたら立ち止まる」「上手くいかなければ何度でも試す」「逆戻りしても焦らない」・・・。いつもの私のように「要領を掴めば一気に・・・」となるはずだと信じて、とにかく「毎日短時間でもいいので触り続ける」ことを実践していきたいと思います。
しかしあの2本の映画では、こんな苦労は描かれていなかったよなあ。でもネットで検索すると、「左手がうまく使えない」というのは実は初心者がぶち当たる「壁」の定番のよう。それを知って少し安心しました。もちろん私のは人よりもこの「壁」を乗り超えるのに時間はかかるでしょうけど…。
■2017/3/27 卒業式よりも寂しく、悲しい「別れ」 (小5での転校) もう17年も前になるけどこんなもの(こちら)を書いたことがありました。私は小5から小6に上がるタイミングで引っ越し、転校を経験しています。おかげで6年生の1年間だけを過ごした、ほとんど思い入れのない小学校を卒業、逆に5年間を過ごして思い入れたっぷりの小学校の卒業アルバムも手元になく、卒業名簿にも名前がありません。昨年「卒業式の思い出など何もない」と書いたのは、やはりこの体験が大きいかもしれません。逆にいうとこの3月=別れの季節になると思い出すのは、その「5年間過ごした小学校との別れ」の寂しさ、悲しさばかりです。いや「その時は気がつかなかったけど、後で思い出して失ったものの大きさに気がついて寂しく、悲しくなった」と言った方が正確かもしれません。
その1年〜5年を過ごした小学校ですが、前から何度か書いてきた通り八幡製鉄所のお膝元のような場所にありました。その当時(1970年代後半)から既に業務縮小傾向にあったので、新たによそから転入してくる生徒よりも、父親の仕事(=製鉄関連の会社)の関係でよそに転出していく生徒の方が多かったものです。そんな中私の場合は「老朽化の激しい借家を出て、新築のマンションに移りたい」と両親が切望していたこともあっての「引っ越し」でした。いくら「新しい家に引っ越せる」といっても、なんで校区外? しかもなんでよその区に? 私は泣いて抗議したのを覚えています。当時の小学校の同級生のうち、約半分は幼稚園の頃から一緒の奴ばかり。物心ついた頃から当たり前のように一緒だった同級生たちと離れる、とてもじゃないが自信もないし、想像もできない。たった一人で知らない学校、しかもよその区(北九州は5市合併で誕生したので、区が違うだけで風土も全く違ってた)の学校にいかなきゃいけないのか。たったあと1年なのに。あと1年だから転校せず、卒業までバスを使って同じ学校に通い続けるとか、従兄弟(父方の親戚)が同じ学校に通っているので、1年間そちらに住ませてもらって学校に通う、いろんな提案をしたけどすべて却下されて叶わず。「親しい人たちともいずれ別れなければならない」、そんな当たり前のことも知らずに生きてきたので、まさに「あり得ない」事態でした。
だけど私は転校が決まった後は動揺を隠して強気に振舞っていました。「どこに行っても学校は学校、変わらんだろう」「従兄弟の家も近くにあるし、お前らに会いたくなったらいつでも会える」、そんな発言を繰り返し、私との別れを悲しんだり、惜しんだりする連中を軽くいなし続けました。当時この小学校の大運動会は5月半ばの日曜日に行われていたので「また運動会の時に来ればいい」と思っていたのも事実。だから「新しい連絡先とか、知りたい奴にはその時に伝える」「じゃあ、また運動会の時に会おう」、そう言い残して名残惜しそうな同級生たちに特別別れの挨拶もしないまま足早に学校を後にしました。いや、その時は私自身も思っていました。どうせまたすぐみんなに会える、別れはその時に言えばいい。仲のいい連中には、その時に連絡先を伝え、次に会う日、遊びに行く日などはその時に話し合えばいいと・・・・。
ところがまさかの出来事。その「前の学校」の大運動会の当日は朝から滝のような大雨に。とりあえず従兄弟の家に行ってみると「当然中止だ」と。じゃあ順延だろう? 次はいつやるの? 日曜日ならまた来れる。ところが非情なひとこと。雨で順延の場合は水曜日と最初から決まっていたと。平日ということになると自分自身も学校なので来ることなんてできない。じゃあ、もうみんなに会いに行けない? 別れの挨拶もできない? 連絡先を教えたりもできない? ひどく落胆してしまいました。
その翌日、転入して間もない小学校に登校。そこで「前の学校の運動会が中止になって、前の学校の友人たちに会えなかった」ことを担任や同級生たちに話しました。実はこの、6年生の1年だけを過ごした小学校は、前の学校と正反対で「転出も多いけど、転入も異常に多い」学校なので、同級生の約3分の1くらいは「途中転入」経験者でした。その連中に言われました。「前の学校のことばっかり言いすぎ、気にし過ぎ。早く馴染まなきゃいけない」と。前の小学校は4年生の頃までいた校長(こちら)がちょっとユニークな教育方針の方で教科書をあまり使わない授業を行っていました。その分、市内には「アンチ」な教師もいたらしく、新しい学校の校長も担任も、ことあるごとに私に「ここは前の学校とは違うよ」と嫌味っぽく言われていました。だからでしょう担任に言われました。「もう行くな、連絡も取るな。そんな暇があったら早く溶け込みなさい」。今思えば嫌な言い方だけど、そんな裏のドロドロまでは理解できなかった当時の私は素直に「そうかもしれない」と思いました。他の転入経験者にはそんなこと言わなかったのに私にだけに言っていたのは、そのあたりが理由だろうと今なら推測できるんだけど。
以来私は「前の学校」のことは口にしなくなりました。前の学校の友人に会いに行きたいとか、連絡をとろうとか、そういう気持ちも捨ててしまいました。夏休みのような長期休暇なら可能だったかもしれないけど、その頃にはすっかり「前の学校」云々考えることもなくなってしまいました。でもやっぱり、新しい学校には溶け込めませんでした。私自身は溶け込もうと頑張ったけど、逆に頑張りすぎて空回りしてばかり。区が違うので風土が違いすぎるし、同級生ともうわべだけで心の底から親しくなれなかったし、前の学校とは違う「教科書通り」な授業は退屈で面白くなかったし、担任の教師のことも外面だけは優しいけど、言葉の節々に冷たくギスギスした面が見えて好きになれなかったし。結局、何の思い入れも持てないままの卒業式でした。
そこで初めて「失ったもの」の大きさに気がつきました。ああ、俺は前の学校への思い入れの方がはるかに強かった。どうせ卒業するなら前の学校を卒業したかったし、前の学校の卒業アルバムが欲しかった。もう連絡取らないまま1年以上、今や誰とも連絡なんてとれやしない。以降私は現在に至るまで、その「前の学校」の同級生に誰一人として会ったことがありません。前の学校の校区内に住んでいる従兄弟などから何人かの消息を伝え聞いたことはあるし、大学時代に地元のバラエティ番組の「街で見かけたカワイイ娘紹介」コーナーに約1名出ていた(暗くて地味でおとなしい子だったのに、本当に可愛くなっていてビックリ)のは見たし、高校時代に高校野球の福岡県大会をテレビで見ていた時に2名ほど選手として出場しているのをみかけたことはあるけどそれだけ。3,4年前に仕事の関係で知り合った方がその頃の同級生の甥だと知ってビックリしたけど、同時に「叔母なら数年前に事故死した」と聞いて逆に気持ちが沈んだことはあったけど。最初のリンクにある通り「幼馴染」というのがひとりもいなくなったのは、この時の「別れ方」が悪かったせいでしょう。今思えば痛恨。最早みんな、卒業アルバムにも卒業名簿にも名前のない私のことなど、誰も覚えていないでしょう。一方で6年の1年間だけを過ごしたけど、結局は馴染めなかった小学校の同級生は、ほぼ9割9分方、同じ中学校に進学しました。私がようやくこちらの同級生と溶け込めたのは、中学進学後のことでした。「転校せずにあと1年、前の学校に通い続ける」ことを両親が反対したのは「中学に入る前に新しい同級生と馴染んでおくべき」というのが理由でしたが、結果的にはそうはなりませんでした。それを思うと「もしも私が前の小学校を6年まで過ごして卒業後、中学からこちらに入学していても同じだったんじゃないか」という気もするわけで、6年生の1年だけど新しい小学校で過ごしたことって、マイナスでしかなかったんだなと思っています。
![]() トップ・ページに戻る |
![]() 前のページに戻る |