音楽

      
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■2001/03/15 (木) 音楽は使い捨てなのか?

 鈴木あみが引退するとか。彼女にはひとかけらの思い入れもないので別にいいんだけど。
金銭とか複雑な裏事情があるそうけど、だからってついこの前まで売れていた人が、
いきなり引退ってこりゃどういうこと? こんなの前代未聞でしょう。
「音楽も大量消費の商品と化し、使い捨てにされている」とよくいわれます。
それを象徴するような、極端な形でそれが出た出来事、そんな気がしてなりません。
アーティストも使い捨て、そんなところでしょうか。

 話は変わって表ボードで「300円中古CD投げ売りコーナーでアークエンジェルスを買った」と書きました。
そのコーナーには邦楽も並んでたんですが、ものすごいメンツが揃っててビックリ。
Bz、trf、華原朋美、シャズナ、WANDS、福山雅治、シャ乱Q。これって全部
「云百万枚を突破」などと報じられ、チャートの上位に上ったものばかり。
それが5年と経たずに投げ売りの対象。「音楽は大量消費財=使い捨て」と化してるのか、
その想いを強くしました。云百万枚売れても数年で処分される。音楽ってその程度のものなのか。

 2つとも現代の日本の音楽産業の実態を露呈するような出来事。
また「売れているもの=素晴らしいもの」とはいい切れないことの証明ともいえそうです。
発売当初に云百万枚売れても、5年と経たずに処分される作品と、
バカ売れはしないけど、20年、30年後も多くの人に愛され、影響を与え続ける作品とでは
どちらが作品にとって幸せなんでしょう。例えばtrfとヴェルヴェット・アンダーグランドのバナナ、
どっちが幸せなのかな。言うまでもないですよね。「どっちが優れているか」とは言いません。
そもそも「生まれてきた目的」自体が違うわけでしょう。高級一眼レフ・カメラと使い捨てカメラ、
行列のできる店のラーメンとカップ・ラーメンの比較のようなもの。
だからバナナの方が「優れている」とは言わず、「幸せだ」と言いたいところです。
「はっきり言え」って声も聞こえてきそうだけど(笑)、私はそんなことが言いたいんじゃない。

 先に挙げたアーティストに特別な思い入れはありません。CDシングルを持っていたり、
カラオケでよく歌ったりする人も含まれているけど、思い入れなんて全く。
だから「悲しい」「寂しい」とかは全然思わないけど、いち音楽ファンとして
気持ちが殺伐としてしまった、そんな2つの出来事でした。

■2002/04/10 (水) みなさん、ラジオは聴いていますか?

 プロフィールのところや、あちこちで書いてきた通り、約10年前までは
FM雑誌で番組表をチェックしつつ、エアチェックで音楽に接する習慣があったので、
ラジオはよく聴いていました。でもやはり10年ほど前から、
じっくりと音楽を聴かせてくれる番組が激減、ラジオを聴くことはほとんどなくなりました。
以前も書きましたが、前は「音楽をじっくり聴かせる番組はFM、タウン情報、交通情報などの
しゃべりをメインに聴かせるのがAM」と、カラーがはっきりしていたはず。
ところが今はその境界線がない。FMでも「しゃべりの合間に、BGM代わりに音楽を流す」番組ばかり。
どうもこういうスタイルの番組は好きじゃないんだよなあ。そして作り手も、
DJも、実は音楽を知らない。クイーンのメンバーに関して、
「ベースのロジャー・テイラー、ドラムのジョン・ディーコン」と連呼、本当にクイーンを知ってるのか?
でも、もっと極めつけなのが・・・。ビートルズのHey Judeを流しながら、
「この曲は1969年の大ヒット、アルバムREVOLUTIONに収録されていた・・・」などと
しゃべってるのを聴いた時は、本気で呆れたもんな。ビートルズにREVOLUTIONなんてアルバム、
あったっけ?(笑) ひょっとして幻のアルバムか? うーん、凄い新事実だ。
って、そんなわけないだろう! こんな無責任な情報を流しておいて、恥ずかしくないんだろうか。

 そこで思った。今のラジオ番組というのは、実はテレビ番組と一緒なんだと。
つまり、「じっくり聴いている」人を対象にしてるのではなく、
あくまでも「聞き流し」派を対象にしてるんだと。だから情報はいい加減でもいいし、
音楽もテキトーに流しとけばいい。そういうことなんでしょう。だとすれば私のように、
「じっくり聴きたい」人は、ラジオを聴いても面白いはずはない。
テレビ同様、時代の変化で、ラジオの目的も変わってしまったんだろうなあ。

 だけど一方で、「じっくり聴ける」番組もある。実は「じっくり聴ける」番組は
NHK-FMに多い。ということはテレビ同様、もはやNHKだけが頼りってことでしょうか。
うーん、もっと選択肢が欲しいよな、テレビも、ラジオも。

■2002/05/15 (水) 北九州の中古盤店事情

 関東のみなさんはよくご存知でしょうが、関東一円にはディスク・ユニオン、レコファンといった、
多くの店を持ち、在庫数も豊富でマニアック、なのにコンビニ感覚の入りやすさも兼ね備えた
大規模チェーンの中古レコード店があります。ユニオン、関東在住時私もよく利用していて、
新宿店、家の近所の柏店には、どんなに忙しくても月に最低1回は通っていたものです。
なにしろ近年は貧乏で新品のCDを買えないから、CDを買おうと思えば、
こういうところに行くしかなかったのです。

 ところが、地元に帰って苦しくなった。というのも、ユニオンのようなタイプの中古盤店がない。
もちろん、中古レコード店はある。だけど街の個人の小さな店ばかり。
それが悪いわけではないんだけど、こういう店の場合、モー娘。などのミーハーな商品ばかりの店か、
狭くて気難しそうで「来たからには何か買え」みたいな雰囲気の、敷居の高い店か、
その2種類しかない。ユニオンのように、入りやすさとマニア度のバランスのとれた店は皆無。
福岡市まで行けばあるだろうけど。まして以前地元に住んでいた10年くらいの私は、
「中古は買わない」主義だったから、いかに地元といえども、こっちの事情に疎い。
おかげでもう、半年以上もCDを1枚も買ってないという、
とても音楽サイトの管理人とは思えない状態になっていたわけです。

 で、昨日、市内のある駅のコンコースを歩いていた私。
なんと、そこで一軒の中古盤専門店を見かけました。その店は県内に何店舗かの店を持つチェーン店。
店名くらいは知ってる。試しに入ってみようかなあ。駅のコンコースという目立つ立地条件もあってか、
「入りやすい」雰囲気はある。恐る恐る入ると、「いらっしゃいませ」。
この手の店でこうやって声をかけられるケースは珍しい。うん、いいかも。
ということで「ロック」コーナーを物色。うんうん。
結構在庫充実。しかも安いなあ。買うならまだ買えてないポールのDriving Rainだな、
と思ってたんだけど・・・。なんと、今や廃盤のバッドフィンガーNo Diceを発見。輸入盤950円。
何という安さ! ということで即購入。うーん、捨てたもんじゃないなあ、北九州の中古盤店も。
今後もう少し地元の店を回って、こっちの事情を探ってみようと思います。
こっちの事情を掌握できたら、店の名前も書きつつ、テキスト化しようかな。

■2002/07/06 (土)

>亜麻色の髪の乙女
 最近有線でよく耳にする。澄んだ声の女性ボーカル、覚えやすくて素晴らしいメロディ、
ウクレレの弾き語り風に始まってダンス・ビートに転調する展開と、
近年のチャート・ヒットにしてはいい曲だなあ、と思っていたら、どうもナツメロのカバーらしい。
歌ってるのは島谷ひとみ。でも、オリジナル・シンガーって誰? ネットで検索したけど
分からなかった。知ってる人、メールで情報下さい。最近この曲が頭からはなれない。
「いい曲」と思ったら実は昔の曲。現代の日本にはやはり「いい曲」はないのか?

■2002/07/07 (日) ジャパニーズ・スタンダード

 昨日書いた「亜麻色の髪の乙女」の件、どうやらヴィレッジ・シンガーズという
GSバンドが1968年にヒットさせたナンバーとのこと。
この数日は島谷ひとみによる全編ウクレレの弾き語りからなるバージョンが
地元FMでよくかかっています。うん、こっちの方がいいなあ。

 で、さっきテレビでやってたんですが、今年に入って日本のチャートではミリオン・セラーが
1曲も生まれていないらしい。私に言わせれば「ああ、やっぱり」ってとこ。
この数年はミリオン・ヒットこそ生まれていたけど、「永遠に歌い継がれるであろう文句なしにいい曲」も、
「老若男女すべての人に受ける曲」は皆無だった。だからこうなる日も遠くないと予想していた。
そこから一転、今はカバー・ブームなんだとか。60、70、80年代の名曲を掘り起こしてカバーするというパターン。
先日も福山雅治の歌う「ルビーの指輪」なんてのも聴いたよなあ。

 考えてみれば、日本にはすべての世代が口づさめるスタンダードというのがない。
英米では10代から60代まで、あらゆる世代のバンドが登場するロック・イベントが開かれたとすると、
全員がステージに登場してフィナーレで演奏できるスタンダードは確かにある。
Johnny B Goode、ビートルズ、ストーンズ、結構浮かびますよね。
どの世代もが知ってる、歌える、演奏できる、盛り上がれる。
ところが、日本のミュージック・シーンにはそういう曲は皆無。なぜ日本だけこうなるんだろう? 
日本ではチャートから落ちてしまった曲=古いと見なされて、見向きもされなくなる、
という傾向がもともと強い。つまり日本において、音楽は「商品」「消費財」であって、
「文化」「作品」ではなかったということなのでしょう。
だけどじゃあ、「文化」「作品」としての音楽はなかったのかというと
そういうことはなく、むしろ聞き手が音楽をそういう風にしか扱ってこなかった、
見てこなかったことが招いた弊害といえるかもしれません。

「懐古主義だ」「今の音楽がつまらないからいけないんだ」という批判もあるだろうけど、
私はその中から発掘された「ジャパニーズ・スタンダード」がもっと生まれるべきだと思うし、
そうすることで音楽を「作品」「文化」として扱う傾向が根づくとすれば、
このカバー・ブームはむしろ歓迎すべきことではないのかな、と思ったりします。

■2002/12/12 (木) ヒット・チャートの不毛

 ジョージのアルバムが最高位何位だったとか、そういう話題が出ていたボードに遭遇、
非リンク・サイトですが。チャートに興味がないので「何位まで上がったか」は忘れましたが、
決して好成績ではありませんでした。しかし、そのことをなぜ「嘆く」必要があるのだろう。

 「80年代世代」で、MTV全盛時に洋楽を聴きはじめた同世代の人たちの中には、
未だに「チャート最高位」に拘る人が多い。だけど、チャートで上位にいくことって
重要なことなんでしょうか。正直、趣味の多様化の進んだ80年代末以降、
チャートの権威は大きく落ちてます。「売れている=素晴らしい」という図式は、
もちろん、60、70年代から必ずしも成り立ってはいなかった。それが「趣味の多様化」が進んで以降、
さらに成り立たない状況になってる。

 「チャートで売れることがそんなに重要なのか?」の問いに対し「チャート信者」はきっと
こう反論するでしょう。「チャートで成功することは、それだけ多くの人が聴いてくれてるという証拠。
多くの人に聴いて欲しい。だからチャートで成功して欲しいんだ」と。
だけど「チャートで成功=多くの人が聞いている」なんて図式は、とっくの昔に崩壊してる。
日本で「超大ヒット」とかいわれてる作品、本当に「多くの人に聴かれてる」かといえば、
全然そんなことはないはず。逆に「多くの人に聴かれている」けど、チャート最高位は高くない、
という音楽だってある。いや、今ではむしろ「多くの人に支持される」音楽ほど、
チャートでは成功していないような気すらする。

 だから「チャートで成功していない=多くの人に聴かれてない」なんて大きな見当違い。
いや、私はむしろ「大量消費財」的な音楽ばかりが上位に進出するチャートで
ジョージのアルバムが大ブレイクしていない、ということは逆に喜ばしく思える。
ジョージを「最高位何位」とか、そういうくだらないことで語って欲しくないよ。
先月末にアップしたコンテンツでも分かる通り、私は「ザ・ベストテン」世代。
かつては「チャート好き」だった。だからこそ「現代のチャートは権威も意味もない」ことが
尚更よく分かるんだよ。過剰な「チャート信者」って「音楽が好き」なんじゃなく
「チャート=データが好き」なだけではないのかな。

■2002/12/23 (月) 日本版ロックン・ロール・サーカス

 1986年、高3の12月24日にMerry Christmas Showという特番が放映されました。
出演者は桑田佳祐、忌野清志郎、松任谷由実、ボウイ、中村雅俊、鮎川誠、アルフィー、
泉谷しげる、吉川晃司、石橋陵、アン・ルイス、チェッカーズ、ラッツ&スター他超豪華メンバー。
進行役がさんま。レコード会社だの、事務所だの欧米以上に制約の多い日本の音楽産業、
大物が揃うのは難しい。それなだけにメンバーの豪華さには当時、目眩がしそうだったものです。
日本版ロックン・ロール・サーカス。

 ただ後悔もあります。今思えば、番組の内容は洋楽のロックに詳しい人ほど楽しめる企画が多かった。
例えば、演歌と洋楽のロックのスタンダードをメドレーにして演奏、とか。
当時の私はまだ「洋楽音痴」だったから、番組の中で演奏されていた洋楽が何だったのか覚えてないんです。
後で聞いた話だと、ビーチボーイズ・ナンバーとクール・ファイブのメドレー、
サンタナと三橋美智也のメドレーなんてのもあったそう。あの頃はただ豪華なメンバーに喜んでただけでしたが、
今見るとネタでも楽しめそうな。

 ただ、覚えているのは、豪華メンバーが同時に集まって演奏するセッション・バンドに
「ロッケストラ」と名付けられていたこと。今思えば元ネタは明白。
「ロッケストラ」が演奏したのはLet's Spend The Night Togetherでしたが、
「デヴィッド・ボウイ風にやる」という氷室と「ストーンズ風にやる」という鮎川氏の間で
リハーサル時に論争が起こった、と語ってたのも覚えてたんですが、今となれば納得。
いちばん印象に残ってるのはオープニング。Come Together(ビートルズはほんの少し理解できていた)を
全参加メンバーがワンフレーズずつ歌ったシーンを繋いでクリップ風に仕上げてました。
この出来は素晴らしかった。さんまは「音痴だから」という理由で「シュッ」だけ、というのも笑えたし(笑)

 ちなみに翌年もメンバーが入れ替わって制作されましたが、1986年版と比較するとパワーダウンしてた。
やはり1986年版が素晴らしかった。だけど権利関係が問題なのか、一度も再放送されてません。
邦楽に詳しい人の間で「幻の番組」といわれ、ブートビデオも出回ってるとか。
もう、こんな番組が作られることはないのかな。でも、今やると小室ファミリーとか、
つんくファミリー主体になって、醜い結果に終わりそうだな。

■2003/10/26 CCCDと、その「反対論」に思う

  前も「小ネタ」としてちょっとだけ触れて、その中で自分なりの意見をほんの少しだけ述べたけど。遂にビートルズのLET IT BE-NAKEDまでもがCCCDでの発売となったことで、私の周囲も随分と騒々しくなってきた模様。その流れの中で、ずっと無関心だった私もさすがにCCCDが「単に音がよくない」「コピーできない」程度の存在ではなく、「プレイヤーが故障するかもしれない」大きな欠陥と弊害を抱えたソフトであることを知り、事の重大さを悟り、「CCCD反対派」と化したわけですが・・・。ただ、「反対論者」の過激すぎる言動を見るにつけ、私としては「撲滅運動をもろ手を挙げて支援したい」という気持ちにまでは至らない、というのもまた正直な気持ちだったりします。

 話がそれますが、ポール・マッカートニーが「動物愛護」に走るあまり、ベジタリアンになり、活発なベジタリアン運動を展開していることは、このサイトをご覧になっている方なら誰でもご存知のことでしょう。ただ、私はポールのこの活動には、ずっとかなり否定的な目をむけてきました。理由は、私が「肉が大好き」な「肉食愛好家」だから、というわけではありません。ポールの活動が「あまりにも押し付けがましい」と、私の目に映るから、それが最大の理由です。肉を食べる人を、まるで悪人のように罵ったり、肉を食べていたスタッフを、それだけの理由でクビにしたり、某フライド・チキン会社に抗議したり、そのやり方は多いに疑問。「俺は正しい、正しいことをしてる、主張してる→だからみんな、従え→従えない奴、理解できない奴は人間失格だ」。そんな押し付けがましさを感じ、はっきりいって怖いです。

 で、今回のCCCD反対論。「CCCDのことをよく知らない」人たちに、「CCCDはこんな弊害がある→つまり、音楽ファン、いや、音楽自体を冒涜するものなんだよ→だから買わない方がいいよ」と説明し、理解を求めること、それは素晴らしいし、そういう運動なら私としても支持したいところ。だけど、「それでもやっぱり買います」といってる人に対してさえ、「何言ってるんですか! 買っちゃ駄目です」と執拗に主張し続ける書き込みを見ると、「なんか、威圧的で押し付けがましいなあ」という気分になる。いくら主張している内容が正しくって、賛同できる意見であっても、残念ながら私は、その運動に加わりたいとは思えない。はっきり言って、傍目に見て怖いですよ、killとかの物騒な言葉も飛び出してるし。

 というわけで、私はプレイヤーを故障させる恐れがある、しかも「音楽の作り手、ファンの両方を冒涜する」ソフトと言っても過言ではないCCCDに対しては怒りを感じるし、「反対」の立場をとることに対しては、何の迷いもない。だけど、私の目から見て「持論の押し付け」行為に見えてしまう、そんな「撲滅運動」なるものを展開する気も、そうした運動に加わる気も一切ない。一時期は「CCCD反対」のバナーをサイトに貼ることも考えていたんですが、それら運動関係のサイトを見るにつけ、「威圧的」「怖い」という印象を持ってしまったので、こういう結論に至ったというわけ。もともと「持論を振りかざし、押し付けることはしない」のがこのサイト開設以来のポリシー。というより、私自身がそういう行為に違和感があるからこそ、そういうポリシーを貫いてきたわけですけど。なので、そのポリシーに従い、私はいかなる運動も、主張もしません。でも「反対派」であることには変わりありません。だから当然、CCCDは買わないでしょう。ただしそれは、「俺は反CCCDだから」ではなく、単純に「買いたくないものは買わない」からに過ぎません。過剰な反対論を唱えてるみなさんには、「賛成はするけど、くれぐれも押し付けがましい言動だけは慎んで下さい。何も知らない人が見たら、あなた方の方がずっと『悪者』に見えますよ。そんなケンカ腰では、いくら主張したって、ちゃんと聞いてもらえないよ」と言いたいところです。

 まあ、私自身には、決してここに書いた「持論」を振りかざし、押し付ける気は全然ない。単に「俺はこう思う」という気持ちを素直に書いただけなので、ご了承下さい。

■2003/12/29 ロックなカップル、ロックな夫婦

前も書いた通り、つい先日福岡市内に行ってCD店を周ってきたんですが、その際に見かけた光景。20代半ばくらいのカップルが、それぞれ自分の好きなCDを物色して、お互いの選んだCDを見せ合って、お互いに解説し合っていた。まあ、CD店に行けば、よくお目にかかれる光景で、別段珍しくもない。だけど、これは前々からなんですが、こうした光景を見るにつけ、いつも羨ましい気持ちになります。私は同じ趣味を持つ人と付き合った経験がないもので・・・。

  さっきも述べた通り、2人でCD店に訪れて、それぞれ物色し、選んだCDをお互い見せ合ってるという光景はよく目にする。それだけじゃない、近年では音楽ネタのボード上で、音楽の話を展開しているカップル(そのボードに参加している人公認)や夫婦も目にする機会があるし、さらに進んで、サイトの管理人のボードに、その旦那やカミさんが時々顔を出して、音楽の話をしている光景もよく見る。その最たるものは、管理人が夫婦であるサイト。意外とこれって、多いんだよねえ・・・。これらの光景、本当に見れば見るほど羨ましく、「俺もこんな風になれたらなあ」と思う。

  とはいえ、この場合、両者の趣味に、ある程度接点がなければ面白くない。例えば、私がモー娘とか、小室哲哉とか、ブリトニー・スピアーズなどのファンの女性と付き合ったとしても、おそらく音楽の話で盛り上がることは出来ないはず。いや、それが「好きか、嫌いか」とかって問題じゃなく、彼女の話が私には分からない、彼女にも私の話が分からない、しかも彼女の勧めるものに私は興味が持てない、彼女の方も私の勧めるものに興味を示さない、これじゃあ、どうしようもないし、音楽の話をしても面白くない。

  とはいえ、両者の趣味が「完全には一致していないけど、わずかに接点がある」くらいが一番面白いんじゃないかな、とも思う。まあ、他人同士の趣味が「完全に一致する」なんてことは絶対に有り得ないけど、もしも完全に一致していたとしたら、こっちが熱心に自分のお勧めについて話しても、「うん、知ってる」で終わり。これでは面白くない。だからせめて同じ「ロック・ファン」というくらいの、軽い接点はあるくらいが一番面白いだろう。例えば、ハイロウズやミッシェルガンが好きな彼女に「この人たちが影響を受けたバンドを聴きたい」なんて言われれば、私は張り切ってザ・フーやドクター・フィールグッド、ルースターズなんかを聴かせて、解説しまくること間違いなし。こういうのが楽しいから、私はこうした関係に憧れるんだよ。実はある夫婦が運営するサイトで「●●(有名プログレ・バンド)は難解そうで手が出ない」としたら、相方が「このアルバムを聴いてみて」と勧める、後日「聴いてみた」として感想が書かれていた・・・。なんて光景を見た。このサイトでは他にも、片方が絶賛するアルバムを、もう片方が「自分には退屈だ」と返していたりで、なんか、このカップルの日常会話がネット上で展開されてるみたいで読んでいて楽しいし、「いいなあ」と思ったりする。

 だけど、いいことばかりではないらしい。これは別のサイトの話。管理人(旦那)のカミさんがたまにボードに登場するんだけど、実はこの2人は同じアーティストのファン。だけど、両者が持っているそのアーティストに対するイメージや理想像、価値観が全く正反対。これでは、「2人で同じアーティストの話をする」ことは楽しみではなく、時として「大ゲンカ、家庭不和のもと」になりうる可能性もあるのかも、と思える。事実2人は、「音楽の話をすると、いつも険悪になってしまうので、なるべくしないようにしている」と告白している。他にも「彼女の方が自分よりもオタッキーなので、自分の勧めるものに全然関心を示してくれない、だから2人で音楽の話をすることもないし、2人でCD屋に行っても、別々に分かれて買い物をするし、買ったものを見せ合うこともない」としているカップルもいた。確かに、いいことばかりではないんだろうな。とはいえ、そんなことでケンカできる環境、それもまた、私にはうらやましいとしか映らないんだよ(笑)。まあ、後述した「お互いの聴いているものに興味を示さない」というのは辛いけど・・・。

今年はCD店のみならず、ライブ会場、ネット上でも多くの「ロックなカップル」や「ロックな夫婦」を見る機会が例年以上に多かった。だから思わず、こんなことを書いたわけだけど、これを読んで誤解して欲しくないのは俺は決してこの場で「彼女募集」宣言してるわけじゃないってこと(笑)。うちにボードがあった頃、ボードに同じようなことを書いたことがあるんだけど、その後、怪しいメールを貰って困惑した経験があるから、敢えて宣言しておきます。「出逢いというものは、自然発生的なもの」というのが俺の持論であり、ネットを出逢いそれ自体を求めて利用するのは嫌いなんだから。

■2004/8/8 「俺のロック」

■俺のロックって・・・

 いや、例のロック・オデッセイに稲葉が登場したことが不満で、火災報知器を鳴らしたという馬鹿者のこの言葉が、なぜか頭を離れません。先日も書いた通り、百人いれば百通りの「俺のロック」があるはずで、自分自身の思う「俺のロック」は絶対的なものではないはずだし、他人に押し付けるべきものではない、そう思ってるから、この言葉は非常に馬鹿げた言葉だといわざるを得ないでしょう。確かに私も稲葉は嫌いで、「俺のロック」とは違いますけど、でも、世の中には稲葉こそが「俺のロック」で、ザ・フーやエアロは「俺のロックと違う」と思ってる人もいるわけで。実際、この「はてなダイアリー」の中だけでも、ロック・オデッセイ関連のネタを書いている人の文章をあれこれ見ると、ごく少数ですが「ウェラー、ザ・フー、エアロはロックの古典の教科書を見せられているようなライブで退屈だった」としてる人もいる。正直、個人的には「それはないだろう」と思うし、「この人とは絶対仲良くなれない」気分ではあるけど、それはそれで、その人の感性だし、素直な感想なわけだから、「間違っている」わけではないわけで。

■ フジロックのルースターズ

 やはりロック・オデッセイとフジロックでは、規模も伝統も桁違い。フジロックの感想などが書かれているサイトや日記はネット上にいっぱいある。で、やはり今年の目玉、話題はルースターズに尽きるよう。もちろん、ルースターズがもともと好きな人、少しでも興味のある人は、「素晴らしかった」と絶賛してる。だけど「今回のルースターズは本当に凄かったんだ」と実感するのは、「聴いたことがなかった」「ちょっと覗いて見た」レベルの人たちまでもが、「最高にカッコよかった」と大絶賛していること。まあ、ルースターズの場合、ハイロウズ、ミッシェルガン、ブランキーなどを通じて知って、興味を持ってる人は多いんだろうけど、でも、「フジロックに出てなかったら、見る機会もなかっただろうし、見たい気分にもならなかったかもしれない」という人たちであることは間違いないわけだし。

■ 分かる人には分かる

 一方、ロック・オデッセイにも、決してザ・フーが目当てではなかった人、ロック・オデッセイに行くまでザ・フーに興味がなかった人もいっぱい参加していた。そうした人たちの中には、確かにさっき書いたような否定的な感想を述べている人もごく少数、いたわけだけど、やはり大多数の人たちは、「ザ・フーがこんなに凄いとは思わなかった」という感想を述べている。実際、会場でも、ウルフルズTシャツを着た、2人組の20歳くらいのお姉ちゃんが、「こんなにカッコイイとは思わんかった」「ほんと、写真とかで見るより全然若い」などと叫びながら涙を流していてるのを、この私自身が目撃している。この2人、ザ・フー登場前は「ヨボヨボのオジイちゃんたちだしねえ」などと否定的なことを言ってたはずなのに。ロック・オデッセイのザ・フーにしろ、フジロックのルースターズにしろ、「よく知らない」人をも感動させている。確かに「俺のロック」は「百人いれば百通りある」ものだけど、その「俺のロック観」が、そのアーティストの音楽性と近い人なら、そのアーティストのことを知ってるか、知らないかとか、思い入れがあるとか、ないとかは関係なく、平等に感動させる力が、ロック=音楽にはあるんだなと痛感し、感動させられた。とにかく、「よく知らなかった」という人が、ロック・オデッセイのザ・フーに感動し、フジ・ロックのルースターズの虜になっている様子をネット上で見ると、それだけで嬉しくなるし、私自身もその文章を読んでいるだけで感動してしまう。

■ フェスティバルの素晴らしさ

 で、こういうフェスティバルの楽しみって、「よく知らないアーティストを知り、体験できる」ことなんだなって、今回、痛感させられた。「よく知らなかった」人がザ・フーやルースターズを体験できたのは他でもない、フェスティバルだったからであって、もしも単独公演なら、本当のファンだけで埋め尽くされて当たり前だし、まして「よく知らない」人が足を運ぼうなんて思わないはず。私は今回、ウェラーとザ・フーしか見なかったわけだけど、もう少し時間に余裕があれば、他のアーティストも見ればよかったなと少し後悔している。と、同時に、またこういうフェスティバルがあれば、ぜひ行ってみたいな、そして未知のアーティストのライブに感動できたらいいなと思ってる。

■ 結局「俺のロック」なんてつまらない

 そこで思うのは、「俺のロック」はここからここまでだ、と線引きして、その線の中だけしか聴かない、ってのは、やっぱり楽しくないな、ということ。そういう線引きをすると、今回のように「知らなかったのに、ザ・フーに、ルースターズに感動した」なんて機会はなくなってしまう。それって寂しいことだと思う。はっきりいえば、「俺のロック」なんて考え方は60年代、「ニューポート・フォーク・フェスティバル」にエレキギターを抱えて登場したディランを野次った愚か者と大して変わらないような気がする。最高に「ロックでない」行為。ようするに、あの人たちは「俺のフォークと違う」って思ったから、ああいう行為に出たわけでしょう? 確かに「嫌いな奴が出てくる」のは抵抗があるかもしれないが、「公共の場」なんだし、それが好きで来てる人もいるわけだし。ただし、登場アーティストのカラーを統一できなかったこと、それがこういう事件を引き起こした原因なわけで、責任があるとすれば、何も考えずにアーティストを寄せ集めてしまった主催者にあるような気がする。もう1組のラルク、レッチリ、レニー・クラヴィッツ、ヤザワってのも、あまりにも脈略ないしねえ。ロック・オデッセイ、来年もあるのか?

■2005/1/11 ロックな親子

 もう10年くらい前になるでしょうか、ある都内のCD店で見かけた光景。制服を着た男子高校生と、日曜日ということもあってか、ラフな服装の40代半ばくらいの男性の2人連れが現れました。明らかに親子だと分かったわけですが、まずは父親の方がツェッペリンだの、ストーンズだの、ジョン・レノンだののCDを物色、何枚か手にとっていました。そしてそれを息子に見せながら、何やら解説している様子。息子の方も、嫌がった様子もなく、その話を聞いていました。次に息子の方が、レニー・クラヴィッツ、ガンズ、U2などのCDを物色。そしてやはり何枚か手にとって、父親に何やら解説していて、やはり父親の方も、その話を嫌がらずに聞き入っている様子でした。やがて2人は何やら話し込みながらレジへ。父親の取り出したクレジット・カードで精算後、店の外へと消えていきました。ああ、おそらくこの親子には共通の話題があるわけで、きっとありがちな「親子間の断絶」とかはないんだろうな、などと感心するとともに、「時代は変わったなあ」とちょっと感慨深くなったものでした。既に10年以上経ってるけど、あの親子は今でも「ロックな親子」で居続けているんだろうか。

 かつてはロックといえば、「反社会的」なものであって、いわば若者だけのものだった。つまり「大人」にとっては、「憎むべきもの」だったはず。もちろん、今ではロックも誕生して50年近くになるわけだから、例え今現在「親=大人」である人たちだって、「若い頃はロックが好きだった」としても当然ではある。だけど、ロックといえば「大人になるにつれて卒業していくもの」だというイメージがあった(私は違うけど、世間一般では)。例え若い頃、ロックに夢中になっていたとしても、ある年代になれば聴かなくなる、と。うちの亡き父親もよく言っていた。成長するにつれて、聴く音楽は変わってあたり前だと。テレビから流れるナツメロなド演歌を「ダサい」と言った私に対し、父は「年をとればお前もこんなのを聴くようになるんだ」と言ったこともあった。うちの父親はエルヴィス世代だけど、エルヴィスに夢中になったことはほとんどなかったというし、あまり音楽には夢中になることのない人だった。ほんの一時期、ニニ・ロッソやポール・モーリアを聴いていたこともあったけど、それは「カッコ付け」が目的でしかなかったし。なので、決してロック・ファンだったことはなかった人。そういう人の間では、ロックとは「若い人のもの」であって、「いつかは卒業するもの」だというイメージがあるということなのだろう。

 だけど、そういう認識はロックに疎い人の間だけではない。ある音楽系ブログで拾った話。そのブログの制作者は私と同世代の人。20代半ばくらいまでバンドをやっていたという人である。で、最近、久々にかつてのバンド仲間たちと再会する機会があって、その時にロックの話をしてみた。ところが全員、「ああ、昔はそんなものも聴いていたなあ」と言ったという。つまり、今もロックに興味があり、ロックを聴き続けているのは、そのブログの管理人ただひとりだったというわけである。他のメンバーは全員、ある年齢でロックを「卒業」していたと。まあ、結局はそういうものなのかな、という気はする。

 でも、それなだけに、私より上の世代の人で、ずっとロックを聴き続けている人には共感してしまうし、ましてその影響を自分の子供にまで及ぼして、「ロックな親子」関係を形成している人を見ると、本当に微笑ましく、なおかつ嬉しくなってしまうというもの。ネット上には、「父親の影響で昔のロックを聴くようになった」という若い世代のロック・サイトの管理人の方もとても多い。「親子でライブに行く」という、オヤジの管理人のサイトもある。なので、今では決して珍しいことでもないのかもしれない。でも、年をとっても「卒業」せずにロックを聴き続けているということ、そして親子揃ってロックの話ができるということ、そのことはとても素晴らしいことだと思わずにいられない。特に最近は「教科書でビートルズを知った」なんて世代も増え、それがためにビートルズに出会ったときから、ビートルズを「歴史上の人物」として過大評価し過ぎたり、必要以上にカリスマ視し過ぎる若いファンも多くなってしまっている昨今の状況は嘆かわしく思えるわけだけど、聴きはじめるきっかけが「両親の影響」であれば、こういう誤解を生じることもないだろうし、誤解を解消してくれる人が身近にいるわけだから、こういう人に関してはその心配もないわけで。

 12月30日、北九州・小倉に最後のCD店巡回に出かけた私。最初に小倉駅ビル内の中古CD店、「ボーダーライン」に入った。洋楽コーナーを物色していた時、40代前半くらいのオヤジと、小学校高学年か、中学校1年くらいの息子の2人組と遭遇。2人が物色していたのは、私の見ていたのとほぼ同じようなアーティストのコーナー。なかなかよい趣味をしてやがる(笑)。福岡県の人ならご存知の通り、この店には「地元アーティスト」の新譜やインディ関連のコーナーがあるんだけど、次に私はそこを見ていると、この2人もその辺りを見ていた。更に私はこの店を後にして、タワーレコード小倉店へ。で、同じようにあちこち物色していると、エスカレーターの方からあの2人が上がってくるのが見えた。しかもまたしても、私と同じアーティストのコーナーへ。息子の方は私を見て「またこの人だ」っていうような顔をしていた。私は先日書いたテレヴィジョンの「マーキー・ムーン」を手にレジへ。精算していると、後ろにさっきの2人が並ぶ。手にはクラッシュのLONDON CALLINGが。うん、素晴らしい。結局、私は先に精算を済ませて店を後にし、それっきり2人と別れたけど、会話はなくともなんとなく通じるものを感じてしまった。と同時に、これから「反抗期」がくるだろうあの息子だけど、共通の話題のあるあの親子には、きっと「断絶」はないだろうなと勝手に思ってしまった。


      
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