舞台・映画フィルム保存室(room15)



17:祈りのあとに(play)



闇の中で
もう
祈らない。





La Compagnie ”A-n"

作・振付・出演
西山水木
振付・出演
赤樹由佳
出演
河合知子 宮木志保子 吉良知彦 小峰公子 内田滋啓
音楽
zabadak(吉良知彦)

2000年 1月29日 六本木アトリエ・フォンテーヌ


 ラ・カンパニー・アン、の舞台を見てきました。
 赤樹さんの「A」と西山さんの「n」で。「あん。」1999年、フランスに行く機会を無駄にすまじ、とダンスパフォーマンスをするためにつけたユニット名だそうです。後、河合さんや宮木さんを加えてこの「祈りのあとに」という作品を、かたちをかえながら上演しているそうです。(この公演を最後に宮木さんは抜ける、とのことですが)


 さて。
 私にはとても衝撃の強い舞台でした。
 終わって最初に思ったことが、吐きそうに良い、という。(体長も悪かったんですけれどね)
 「演劇」よりは「舞踏」に近い作品で。実は私は赤樹さんの「踊り」が(6月のzabadakの舞台で見た限りでは)嫌いではないけど無茶苦茶すき、というわけではなかったのでちょっと心配だったのですが。そんな心配などする必要もなく。
 「自分のこと」を忘れて見入っていました。あれはやっぱり1対1の動き・・つなひきみたいな・・があったからだと思う。(いや二人だけ、でもないんだけど、赤樹さんと西山さんの、力の駆け引きがすごくすごく印象的で。)
 いまだに舞台のなかの「闇」と「光」を思い出せるくらい。動きが 音が感情を増幅させるってことはすごく知っているけど、目でとらえた動きが音を増幅させるとは知らなかったです。動きのなかに音が溶けていくような、音から生まれた動きがつるをのばしていくような舞台でした。


 私が「A−n」を知ったのはzabadakと縁が深かったからです。この作品の音楽はzabadak(吉良知彦)の担当。アルバム「IKON」の曲などが多く使われています。使われた曲と、全体のイメージだけでも、以下。


○双子の星

 歌詞は舞台のオリジナル。。この「違う歌詞」が好きな人には好きな内容かも。残酷童話風。かきとってしまった。
「泥田に転がる骸/砂漠 乾く 骸/鉄の船もろとも沈む/中空に 炎と 燃える」・・・この歌詞に合わせる「せっせっせ」はちょっとやってみたい・・・。

○銀河鉄道の夜

 歌詞は舞台のオリジナル。この舞台を通じる背骨のような歌でした。淋し気で切ないです。身体がゆっくりひきさかれていたようなかんじのする。一番根本的なところに穴が空いて寒くて仕方のないような。
「あたしは 気付くと ここに立っていた。/見知らぬ都の 見知らぬひとのまえ」

○椎葉の春節

 この歌詞も舞台のオリジナル。というかずっと 「弥生 卯月 葉月 皐月 水無月 文月 葉月 長月 神無月 霜月 師走 睦月 如月 弥生」 と月の古称をつなぎつづけるうた。小峰さんがあの低い独特の声でうたうのがぞくぞくいたしました。この日一番ぐっときた「うた」だったかも。時間の経過、めぐりめぐる季節、というのをあらわすのにあんな方法があったなんて。。。というのが衝撃的でした。このときの「所作」も時の巡りをとても感じさせるもので、「死に続ける」場面と同じくらいすき。

○PACO

 「電気な音」=CDからの演奏。あわせて、赤樹さんと西山さんが激しく踊る。この二人はずっと、「同一人物の裏と表」や「明と暗」「陰と陽」を私に連想さえていたのですが、その立場や力関係の裏表がいれかわりいれかわりながら動いている、とすごく圧倒されました。PACOという曲のもつ跳躍感が増幅されたイメージ。

○アベ・マリア

 シューベルトのほうです。立ち尽くした小峰さんが歌う、どこかダークサイドで、土着風な「アベ・マリア」。祝福より血をながすマリア像みたく怖い感じがしました。鬼子母神とか。そんな感じ。

○遠い旅の記憶

 「電気な音」=CDよりパート2。重たいからだを引きずる感じが良い意味で伝わってきたです。赤樹さんの「哀しい顔」はほんとうに哀しい。

○??

 知らない曲。言祝ぐためのうた。「めでためでたのよいざしき」。沖縄の祝いの踊りとか、笛とかがはいってくる感じ。

○星ぬ浜

手話つき。エンドロールのように出演者みんなで歌っていました。


全編、基本的に吉良さんは演奏。小峰さんは歌。河合さんがリズム隊、宮木さんがじゃみせん。台詞がほとんどない分、歌が浮き立つことが少なく、ミュージカルのように気恥ずかしいこともなかったです。歌から見えた風景を、というコメントがポストトークであったのですが、それが、なるほど、と嬉しくなるかんじでした。



○装置としての舞台のこと
 アトリエ・フォンテーヌは、ぐるぐると地下への階段を二階分ほど下ったところにありました。入ると、舞台に「二階」がある、不思議な黒いくらい、くらいけど落ち着くかんじのフロアが広がっています。入り口の暗幕からか、イメージが「小さな古びた体育館。」一番前の席は座布団でかぶりつきだったのだけど、ちょっとあきらめて階段席のひとつに座ってました。私が入場したときには、舞台の上にはもう西山さんや河合さんが居て、照明の調子や舞台の調子を見て居ました。階段教室のようになってるんですが、舞台のところまで降りると、舞台は階段3段分くらいの高さがあって、しかもその床のささえが若干ふかふかしてました。。二階にあがる階段がふたつ、舞台右側にあって、二階の真ん中には扉がひとつ。一階のまんなかにもおおきな扉がひとつ。あの舞台設計はそれだけでドラマティックで、わたしは好きです。
 舞台の調子をみながら、はだしの西山さんや河合さんが、ふっと笑っては「今日はご来場ありがとうございます。」「ありがとうございます。」と口にしているのが妙にこころに残っています。


○ストーリーとしての舞台のこと
 この舞台はほとんど台詞がなく、音楽と動きでお話をつなげていくものです。
 ストーリーに「おしつけられた定義」はなく、けれど違和感なく1時間半ほどがすすんでいきます。話の流れを無理矢理に読みとろうとすると、ストレスをかんじてしまったかもしれないけれど、私はもう一瞬一瞬にしびれてしまっていました。感情移入、ではなくて、感覚移入、みたいな感じでした。
 うまくいえないのですが、「外側の物語」が違っても、「動き」や「感情」がすごく相似することってあると思う。100年前のことも1000年前のことも、見る事も想像することも正確にはできないけど、きっと今の自分と同じ動きをした場面があったのだと思う。そんなかんじ。この舞台で描かれるのが、遠い未来の戦争の話でも、近くても想像できないアジアの国の物語でも、架空の南国の昔語りでも、良くて。そのすべてになり得る不思議な輪郭。
 かたちとしても「音がライブであるもの」「音がCDからのもの」で違うし、出演者も変化するし、脚本自体もかたちをどんどんかえているそうです。その不思議な「はば」と「ぶれ」が、良い方向で空間を広げていって、とおいくにのはなしが自分のうちがわのなにかにつながる、イマジネーションを連れてきてくれました。

 とりあえずまた見たいもの。再演予定があるそうなので、きっと行くことでしょう。


○正確には見えたはずのない風景たち
●せっせっせ
 残酷童話が好きなひとには絶対たまらないだろう「せっせっせ」。そういえばこの遊びって、(アルプス一万尺しかり)むっずかしい振り付けもありましたよね・・。宮木さんと河合さんふたりで、冒頭にやるのと、赤樹さんをまきこむのと2パターンあります。二回目の、「ばん!」はすっごい素敵だった。。ぞくぞくしました。殺されたです。

●いくたびもじぶんをころす。
 赤樹さんの目の前で西山さんが、いろんな方法で、いくたびも死のうとする場面。痛かったです。「ばん!」のあとだったからかもしれないけれど。他人としてみているのか、自分のかげをみているのか、内側の願望をみているのか、とにかく生々しく痛いのです。

●『恋人よ 栖をもたない僕たちは 何処でおちあおうか。』
 とにかく「静」があってこそ「動」が際立つこと、
 「闇のなかの一条の光」だからこそめのなかにのこること、のように。
 ことばが多様されないことの重さと輝きを確認させていただきました。その日のプログラム(というかコピーされたものなんですが)にすべてのっていて、帰りに読んでまたよくわからない涙に襲われそうになりました。できるだけこの感触を忘れて、また違うかたちの「祈りのあとに」を見たいと思わせる、またことばが聞こえてきた瞬間に驚いた心地を味わいたいと思わせる場面でした。




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