TOP10 HITS OF LAST CENTURY
Presented by meantime

■ 洋楽ラジオ・チャート1960年間(その1)

01.太陽がいっぱい/フィルム・シンフォニック楽団
02.死ぬ程愛して/アリダ・ケッリ
03.恋の片道切符/ニール・セダカ
03.ロウハイド/フランキー・レイン
05.グリーン・フィールズ/ブラザーズ・フォア
06.悲しき16才/ケーシー・リンデン
07.夏の日の恋/パーシー・フェイス管弦楽団
08.渚にて/ハリウッド・スタジオ・シンフォニー楽団
09.星空のブルース/ベルト・ケンプフェルト楽団
10.マイ・ホーム・タウン/ポール・アンカ

1位 Plein Soleil - Film Synphonic Orchestra
 戦後を代表する“イケメン俳優”アラン・ドロンの人気を決定づけた映画「太陽がいっぱい」は、野望溢れる貧しき青年が、殺害した富豪の友人になりすまし、完全犯罪を企てる・・というサスペンスもの。印鑑の偽造や、故人のサインをまねるシーンなどは、実際にやってみた方も多かったのではないだろうか。映画の大ヒットとともに哀愁味溢れるテーマ曲も人気を呼んだが、当時オリジナル・サウンドトラック盤の発売がなかったため「フィルム・シンフォニック・オーケストラ」名義のカバー版(日本制作?)がシングル発売され、1960年を代表する洋楽ヒットとなった。なおこのシングルのB面にはやはりフィルム〜による映画「撃墜王アフリカの星」のテーマ「アフリカの星のボレロ」が収録されており、こちらもラジオでよくかけられた(この年の年間洋楽チャート42位)。
2位 Sinno' Me Moro - Alida Chelli
 洋楽チャートで2年に亘る大ヒットを記録した「鉄道員」同様、ピエトロ・ジェルミが監督・主演した映画「Un Maledetto Imboglio(刑事)」の主題歌。映画のラストシーンで流れる♪アモーレ、アモーレ・・というフレーズが印象的なこの曲を作曲したのは、「鉄道員」やこの前年ヒットした「わらの男(洋楽年間チャート41位)」など、ジェルミのよきパートナーとして音楽面を担当したカルロ・ルスティケッリで、情熱的な歌を聴かせているアリダ・ケッリは彼の娘だという。意味もわからずつい口ずさんでしまいたくなるような、不思議な魅力を持った曲である。なおアリダはその後女優としても活躍、66年の「大追跡」ほかいくつかの作品への記録が残されており、「セクシー女優」としての一面も様々なメディアで披露していたようだ。
3位 One Way Ticket - Neil Sedaka
 ニール・セダカは1959年から63年の間に全米チャートに20曲近くのヒットを残し、その多くが日本でも親しまれたが、加えて日本独自に人気を博したヒット曲も多数あり、それがこの時代の彼を特別な存在としていた。「恋の片道切符」はアメリカでは「Oh! Carol('59米9位/英3位)」のシングルB面に収められていたもので、彼にしては珍しく他のソングライター(ハンク・ハンターとジャック・ケラー)が提供した作品。元々この曲はフランキー・アヴァロンの為に書かれたものだという記述を何処かで見かけたことがあるような気がするが、もし彼のリリースが実現していたら本国での輝かしい実績に比べ不当に低い日本における彼の評価も、また違ったものがあったかも知れない。マイナー・メロディに様々なR&Rヒットのタイトルがちりばめられた、楽しい一曲である。
3位 Rawhide - Frankie Laine('59英6位)
 「ローレン、ローレン・・」のフレーズが印象的な、人気TV西部劇主題歌。本国で7年も続いたこの人気シリーズは日本にも輸入され、初期の民放TV史を代表する人気番組となった。主題歌を歌ったフランキー・レインは1950年代を通じて“ウェスタン・ポップ”調の曲をヒットパレードに送り込み、そのうちの何曲かは我が国でも人気を博したが、この時期になるとポップ・シーンも様変わりしたということなのか、それとも20世紀FOXで放送されるドラマの主題歌を他系列のラジオ局がオンエアすることを好まなかったのか、アメリカで58年に発売されたシングルはヒットチャート入りを逸し、彼が根強い人気を誇っていたイギリスと、サントラものに弱い日本で大ヒットを記録した。チャート成績はともかく、この時代を生きた世界中の人々に親しまれたナンバーであることは間違いない。
5位 Greenfields - The Brothers Four('60米2位/英40位)
 キングストン・トリオに続いて日本で大変な人気者となったモダン・フォーク・グループが通称“ブラフォー”、ブラザーズ・フォア。ワシントン大学の学生寮で知り合った4人はフォーク・グループを結成し、地元のフォーク・クラブに出演。その当時からのレパートリーとしてステージで取り上げていたのがこの「グリーン・フィールズ」だった。この曲は56年に「マリアンヌ」を大ヒットさせたイージーライダーズのテリー・ギルキーソンら3人が作曲したもので、バイオグラフィーなどを見ると関係が希薄な印象のあるギルキーソンと残りのメンバー2人が、実はかなり意欲的に共作活動を行っていた事実が窺えて興味深い。その後日本で本国を遥かに凌ぐ人気を博し、一時はメンバーが日本に移住さえした“ブラフォー”が、最初に我が国の音楽シーンに残した貴重な足跡である。
6位 Heartaches At Sweet Sixteen - Kathy Linden
 1939年生まれ、ニュージャージー出身のケーシー(キャシー)・リンデンがレコード・デビューを果たしたのは58年の「Billy(米7位)」で、これは20世紀初頭に生まれた古いポップスのリメイクだった。続いて1920年代のナンバー「You'd Be Surprised(米50位)」をヒットさせた彼女は同年に男性の名前がタイトルに冠された曲を集めたアルバム「That Certain Boy」をリリース。この路線を継承したのが59年の「Goodbye, Jimmy, Goodbye(米11位)」で、日本でも好評を博したが(この年の年間洋楽チャート31位)、B面に収録されていた「悲しき16才」はそれを上回る人気を呼んだ。印象的な♪ヤンヤヤンヤ・・というコーラスと、甘ったるく歌われるボーカルは浜口庫之助作の「愛して愛して愛しちゃったのよ(65年)」に引用され、我が国の歌謡史にも足跡を残している。
7位 The Theme From "A Summer Place" - Percy Faith and His Orchestra('60米1位/英2位)
 1908年、カナダのトロントに生まれたパーシー・フェイスは1940年にシカゴに移住、大戦後にアメリカの市民権を獲得し、50年には長年の活動の場となるコロンビアと契約した。オーケストラを率いて数々のインストヒットを放つ一方多くのアーティストのアレンジャーとしても同社でミッチ・ミラーに次ぐ重責を担うようになった彼にとって最大のヒットである「夏の日の恋」は、トロイ・ボナヒューやサンドラ・ディーが出演した同名映画のテーマ曲。穏やかなボーカル・バージョンも存在するが、シングルカットされたこちらはドラムのバック・ビートを効かせた「ロック時代のイージー・リスニング」に仕上がっており、これが本国で9週間ナンバー1という大変な人気の要因となった。この曲は彼の死の直前にディスコ調にリメイクされ「夏の日の恋'76」として再ヒットも記録している。
8位 On The Beach - Hollywood Studio Orchestra
 59年に制作された映画「渚にて(監督:スタンリー・クライマー、主演:グレゴリー・ペック)」は、北半球で起り人類を壊滅状態に陥れた核戦争の難を逃れたオーストラリアを舞台に、迫りくる放射能に怯えながらなんとか人類の生き延びる道を模索していこうとする(結局それは叶わない)シリアスな作品。テーマ曲に使用された「ワルツィング・マチルダ」はオーストラリアの第2の国歌と呼ばれる有名な民謡で、タイトルは音楽の「ワルツ」を意味しているのではなく開拓時代に起ったゴールド・ラッシュ時に、男たちがずた袋を背負って歩いた姿のことなのだそうだ。アメリカではこのサントラ盤はヒットせず、当時の人気歌手ジミー・ロジャースがシングル「T.L.C. (Tender Love And Care)('60米24位)」のB面としてリリースしたバージョンが最高41位を記録している。
9位 Wonderland By Night (Wunderland Bei Nacht) - Bert Kaempfert and His Orchestra('61米1位)
 一連の「ブルース」シリーズで日本における人気を確立したベルト・ケンプフェルトが、アメリカのヒットチャートのトップに立った記念すべき一曲。元は同名映画のテーマ曲として吹込まれたようだが、アメリカでも日本でも公開の記録は残っておらず、純粋にトランペット・サウンド(ソロはチャーリー・テイバー)が受け入れられたということなのだろう。ハンブルグのポリドール・スタジオを本拠としていたケンプフェルトは翌61年、ロックシンガー、トニー・シェリダンのバックに当時地元のライブハウスに出演していたイギリス人バンド、ビートルズを起用。当初ケンプフェルトの名前にピンとこなかった彼らも「星空の〜」のタイトルを聞いて態度一変、大喜びでオファーを受けたという。「ビートルズの初代プロデューサー」の称号を得た彼の、ちょっとした逸話である。
10位 My Home Town - Paul Anka('60米8位)
 1958年に日本の洋楽シーンを席巻し、その後もヒットを放ち続けた彼が全米チャートでもっとも好成績を残したのが59〜60年にかけての約1年間。「ダイアナ」以来のナンバー1ヒット「ロンリー・ボーイ」や「あなたの肩に頬うめて(米2位/英7位)」などがこの時期生まれたが、その最後を飾ったのがこの「マイ・ホーム・タウン」。多くが熱唱型である彼のヒットの中では異色の、肩の力が抜けたポップスで、この気軽さが来日騒動以来評判を落としていた彼を洋楽チャートに呼び戻した。彼はその後62年にABCからRCAに移籍、その際過去のヒット曲をすべて買い取って流通をストップ、RCAで再録音しそちらのみを発売する(以降暫くオリジナルのバージョンを聴くことが出来なかった)というカタログ・コントロールを行い、後進アーティストの“お手本”となる商魂を見せた。


(2005.9.6)

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