12位 Where The Boys Are - Connie Francis('61米4位/英5位)
|
 |
コニー・フランシスが映画界への進出を果たした同名映画(60年公開)のタイトル曲。ニール・セダカ作曲のドラマチックなシングル・バージョンは勿論この時代を代表する名バラードだが、派手なオーケストラのテーマとつなげられたサントラ・バージョンも、また違ったよさがある。いつかめぐり逢えるであろう運命の男性たち(複数形なのが気になるが)を待ち焦がれる内容に「ボーイ・ハント」という和製英語のタイトルをつけた当時のレコード会社のセンスは評価したい。フランシスとセダカ(&ハワード・グリーンフィールド)のコンビはこの曲や出世作「間抜けなキューピット」の他「Fallin'('58米30位/英20位)」「Frankie('59米9位)」「Baby Roo('61英5位)」といったR&R風味の上質なポップスを、約3年に亘り立て続けにチャートに送り込んだ。
|
13位 Just Couldn't Resist Her With Her Pocket Transistor - Alma Cogan
|
 |
1950年代半ばから後半にかけてUKチャートで大活躍した女性シンガーがアルマ・コーガン。54年以来20曲近いヒットを放ち続け、既にベテランの域に達しつつあった彼女が日本で人気になったのはこの前年に発表したポール・アンカ作の「Train Of Love(『恋の汽車ポッポ』'60英27位、洋楽年間チャート37位)」のヒットがきっかけで、続いて発表されたこの曲も大ヒットと、66年に癌で早世することになる彼女が、短期間ながら人気アーティストの地位を日本で確立した時期であった。余談になるが、小柄ながら肉感的な魅力を持った女性を「トランジスター・グラマー」と称することが流行ったのもこの時期(1960年前後)だそうで、陽気なメロディやサウンドの「ポケット・トランジスター」に、これに通じるニュアンスを感じた人も多かったのではないだろうか。
|
13位 Never On Sunday - Melina Mercouri
|
 |
1923年(20年説もあり)ギリシャ生まれ、1955年にフィルムデビューを果たした遅咲きの女優メリナ・メルクーリが世界的な名声を獲た映画「日曜はダメよ」主題歌。彼女にカンヌ映画祭の主演女優賞をもたらしたこの映画を監督し、脚本を書き、メルクーリの相手役も務めたのがアメリカ人のジュールズ・ダッシンで、50年代の「赤狩り」でハリウッドを追われヨーロッパを転々としていた彼はこの作品で華々しいカムバックを果たした。ギリシャ民謡調のメロディを活かしたこの曲は、アメリカでドン・コスタ盤他多くのカバー・バージョンが生まれヒットを記録しているが、日本ではオリジナル版が人気に。映画でキュートな魅力を振りまいていたメルクーリは以降も女優業を続ける傍ら80年代には母国で文部科学大臣を務め、ヨーロッパの都市政策に影響を与えた大人物であった。
|
15位 Don't Want The Moonlight - Dick Jacobs and His Orchestra
|
 |
1918年ニューヨーク生まれのディック・ジェイコブスは第2次世界大戦従軍後ビッグ・バンドのアレンジャーやTVの音楽番組のディレクターを務め、53年にコーラル/ブラウンズウィック・レコードに入社。R&Rとオーケストラ・サウンドを融合させたごく初期のアレンジャーの一人で、当時の代表作にはジャッキー・ウィルソンの「Lonely Teardrops('58米7位)」や、バディ・ホリーがもし事故死しなかったらどのような活動を展開したのか・・を常に音楽ファンに夢想させる「It Doesn't Matter Anymore('59米13位)」「True Love Ways」などがある。楽団を率いて幾つかのヒットを放った彼自身名義の「月光のノクターン」はイタリア産のポップ・ナンバーが原曲で、ベートーベンの“ピアノソナタ第14番嬰ハ短調「月光」”がベースとなっている。
|
16位 Someone Else's Boy - Connie Francis
|
 |
アメリカで大ヒットを記録したポップカントリー調の「Breakin' In A Brand New Broken Heart(『ブロークン・ハート』米7位/英12位)」のB面に収録されていた曲。他人の彼氏に思いがけず胸をときめかせてしまう複雑な恋心が、典型的なティーンポップ調のサウンドにのせて歌われるこの曲は様々な言語(スペイン、イタリア、ドイツ、フランス、ポルトガル等々)のバージョンが作られ、アメリカ以外の国々で大ヒットを記録した。日本語で吹込まれたバージョンも英語版に続いて我が国でリリースされ、これがオリジナルを超える評判となったことから以降他国語同様、日本語バージョンもシングルリリースの度に録音されるようになる。一説によれば日本語のロック・ボーカルの礎になったとも言われる「日本語で歌うコニー・フランシス」初期の傑作である。
|
17位 You Mean Everything To Me - Neil Sedaka('60米17位/英45位)
|
 |
ポール・アンカと並び称される「オールディーズの王者」ニール・セダカだが、両者の作風は対照的と言ってもいいくらいの違いがある。ロッカ・バラード調を得意とし熱く歌い上げるアンカに対し、セダカは幼少時から受けた高い音楽教育が反映された複雑なコード進行を多用、“プログレッシブ・ポップ”とでも形容したくなるようなヒットを数多く放った。「君こそすべて」は彼にしては異色の“アンカ調”バラードで“「君は我が運命」のパクりだろ!”と言われても反論出来そうにない仕上がり(日本人はこういうのが好き)。アメリカに於けるこの曲の評価は相当分かれたようで、シングルB面の方をかけたラジオ局も当時多く、旧約聖書のエピソードをモチーフに書かれた「Run Samson Run」は最高28位を記録。彼にとって唯一の両面ヒットとなっている。
|
18位 Footsteps - Steve Lawrence('60米7位/英4位)
|
 |
R&Rの流行にも気を配りつつ、伝統的なポップスを歌い続けた若い世代のシンガーとして、アンディ・ウィリアムスなどと並び60年代のヒットチャートで活躍したアーティストにスティーヴ・ローレンスがいた。1935年ブルックリン生まれの彼はスティーヴ・アレンのTVショーへの出演で有名になり、この時期は若手のソングライターたちの作品を積極的にシングルリリース。バリー・マンとハンク・ハンターによるこの曲と、キャロル・キング&ジェリー・ゴフィン作の「Go Away Little Girl(『かなわぬ恋』'63米1位)」がこの時代の彼の代表作となっている。58年に歌手のイーディ・ゴーメと結婚した彼は現在まで50年近く夫婦でステージに立ち続けており、90年代にはフランク・シナトラのサポート・アクトとして来日公演も行っている。
|
18位 Little Devil - Neil Sedaka('61米11位/英9位)
|
 |
本国を凌ぐ勢いでこの時期日本でヒットを放っていたニール・セダカのR&Rナンバー。景気のいいコーラスの入った愉快なポップスで、活動がのっている時期であれば彼のような才能の持ち主ならいくらでもこの程度の曲は作れただろう。提供曲も含め次々とヒット曲を我が国の洋楽チャートに送り込んでいた彼はこの前年に初の来日公演が実現、場所は銀座にあるホールだったそうだが聞くところによるとあまり声量のあるタイプのシンガーではなかったようで評判はあまり芳しくなく、そのことが彼が全盛期にあまり日本を訪れなかった原因になったようだ(次に来日するのは活動がすっかり落ち着いた1966年になってから)。彼はこの年にあと1曲「Going Home To Mary Lou(恋の一番列車)」を日本のみでヒットさせている(このチャート45位)。
|
20位 Greenfields - The Brothers Four('60米2位/英40位)
|
 |
前年に続いて“ブラフォー”が登場。我が国で「フォーク」が認識されるようになるのは、恐らく58年のキングストン・トリオ「トム・ドゥーリー」あたりからではないかと思われるが、これと同じ年にヒットしたジョージ・ハミルトン四世の「いとしのクレメンタイン」も強い印象を残したようだ。当時どれほど流通したかわからないが、この曲を収録した彼のアルバム「George Hamilton IV On Campus(ジョージ・ハミルトン四世の青春)」のジャケットで提示された、ギターを携えキャンパスの芝生で寝転ぶ彼の姿は我が国の「フォーク」に対するイメージに大きな影響を与え、現在も芝生の上で車座になってフォーク・・というカットを学校案内に掲載する大学もあるほど(本当か?)。このクリーンなイメージを受け継いだブラフォー最大のヒットは、この61年に生まれることになる。
|