11位 Non Ho L'eta (Per Amarti) - Gigliola Cinquetti('64英17位)
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毎年のように世界的なスターを生み出していた黄金期のサンレモ音楽祭から登場したアーティストの中でも、日本で長期間に亘って強い印象を残したのがジリオラ・チンクェッティ。この前年同音楽祭の前哨戦であるアマチュア・コンテストで優勝しプロデビューを果たした彼女は、この年本選に初出場し「夢みる想い」でボビー・ソロの「ほほにかかる涙(この年の洋楽年間チャート74位)」、ポール・アンカの「太陽の中の恋(同61位)」など強力曲を抑えて優勝。その後彼女は約20年間で10回音楽祭に出場、うち9回で入賞を果たしたという“サンレモっ娘”であった。このドラマチックなバラードは同年のユーロヴィジョン・ソング・コンテストでも優勝を勝ち獲り、イギリスのヒットチャートでも好成績を収めている。
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12位 Kissin' Cousins - Elvis Presley('64米12位/英10位)
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1964年は“エルヴィス映画”が最も数多く日本で封切られた年で、「アカプルコの海」「ラスヴェガス万才」「キッスン・カズン」「青春カーニバル」と数ヶ月毎に彼の勇姿がスクリーンに登場した。「キッスン・カズン」はエルヴィスがミサイル基地建設のため用地買収に奔走する空軍将校(黒髪)と、建設予定地の地主の息子(金髪←実はこちらがエルヴィスの元の髪の色)の2役を演じ、それに大勢の美女たちが絡む・・というお気楽映画。主題歌「いとこにキッス」は前年にロイ・オービソンがヒットさせた「Mean Woman Blues(米5位/英3位)」をもじったような歌詞が登場する楽しいナンバーで、ヒットパレードの王者/スクリーンのアイドルという指定席を、この年をもってイギリスの4人組に奪われることになる彼の、象徴的なヒットとなった。
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13位 Please Please Me - The Beatles('64米3位/英2位)
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1962年10月にリリースされたデビューシングル「Love Me Do」が全英チャートで最高17位とまずまずの成績を収めたビートルズの面々に、レコード会社はプロのソングライターによる作品「How Do You Do It?」のレコーディングを提案。しかしあくまでも自作曲のシングル発売にこだわった彼らは当初ロイ・オービソンタイプのロッカバラードだったという(初期のデモを聴いたことはないが、確かにオービソンの「Runnning Scared('61米1位/英9位)」風に歌うことはできる)「プリーズ・プリーズ・ミー」を思いっきりアップ・テンポに作り直し本格的なブレイクを果たす。一方中に浮いた「How 〜」は同郷のジェリーとペースメーカーズが録音し、2位止まりだった「Please 〜」を尻目に全英ナンバー1を獲得。レコード会社の判断も間違いではなかったのだ。
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14位 I Should Have Known Better - The Beatles('64米53位)
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映画「ビートルズがやって来る/ヤァ!ヤァ!ヤァ!」サントラ収録曲。ハーモニカとアコースティック・ギターの音色が印象的なナンバーで、作曲、リード・ボーカルともにジョン・レノンが担当している。余談になるが、映画の中でこの曲は列車の貨物車両の中で演奏されるのだが、そのシーンで彼らの後ろではしゃいでる女学生がパティ・ボイド。この撮影をきっかけにジョージ・ハリスンと交際を開始し66年に結婚した彼女だったが、70年代にはハリスンの盟友エリック・クラプトンと関係を深めその後再婚。彼の「Layla」や「Wonderful Tonight」のインスピレーションの源となり、その後授かった息子の突然の死が「Tears In Heaven」を生んだという“不幸な”パティが、最初にメジャー・シーンに登場した瞬間であった。
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15位 Navy Blue - Diane Renay('64米6位)
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“ガール・ポップ”の全盛期は1961〜63年頃とされ、ビートルズ登場以降はチャートから一掃された印象があるが、注意深くヒットチャートを眺めてみると実は1966年あたりまで様々な少女たちがしぶとくTOP40に登場し続けていることがわかる。フィラデルフィア出身のダイアン・リネイはフォー・シーズンズなどを手がけたことで知られるプロデューサーのボブ・クリューと知り合い、彼の制作の下63年末に「ネイビー・ブルー」でデビュー、ビートルズ旋風吹き荒れる中TOP10入りに成功した。「Concrete And Clay('65米35位)」のヒットを放つエディ・ランボウもクレジットに名を列ねるこの曲に続き彼女は“海軍シリーズ”として二匹目のドジョウ「Kiss Me Sailor」をリリース、こちらもヒットを記録している('64米29位)。
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16位 A Hard Day's Night - The Beatles('64米1位/英1位)
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この年の1月に初めてHOT100に登場し、忽ちのうちに全米チャートを征服したビートルズだが、本当の意味でその人気を決定づけたのは、彼らが飛び跳ね駆け回る姿を映し出した映像「ビートルズがやって来る」ではなかったかと思う。イギリスでピーター・セラーズらとTVのコメディ・シリーズを制作していたアメリカ人、リチャード・レスターが監督したこの映画はコメディとして斬新であったばかりでなく、アイドルたちの素顔が垣間見れるような錯覚を起こさせる秀逸な“ドキュメンタリー風”作品でもあった。“D7sus4”という珍しいコード一発で始まるこの曲とともに「A Hard Day's Night」は世界中の少女たちを夢中にさせただけでなく、これをきっかけにエレクトリックな音楽への転向を決意するプロのミュージシャンも多数輩出させる。
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17位 I Left My Heart In San Francisco - Brenda Lee
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“ミス・ダイナマイト”ブレンダ・リーがレコード・デビューを果たしたのは彼女が11歳の1956年のこと。60年代に入り大ヒットを連発した彼女はコニー・フランシスと人気を二分する“オールディーズの女王”であったが、彼女のナッシュビル流ポップスは日本ではあまり受け入れられず、この年まで代表作といえるものはなかった。「〜 San Francisco」は1954年に作られ、62年にトニー・ベネットのバージョン(こちらは「霧のサンフランシスコ」)がミリオン・セラーを記録した人気ナンバー。ヴァース(前唱)で始まるベネット版に対し、いきなりAメロで始まるブレンダ版の方が認識し易かったことがこのヒットの要因か。彼女はこの年もう一曲カバー「The End Of The World(世界の果てに)」をヒットさせている(年間59位)。
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18位 Please Mr. Postman - The Beatles
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アメリカでブレイクする以前にビートルズには約1年間分のレコーディングのストックがあり、そしてキャピトルとの正式契約前に発売の権利を獲得していたレーベルが幾つもあったことから64年のレコード市場は彼らの作品で溢れ返り、ビルボードのHOT100にはこの1年だけで実に30曲もの作品(EP盤含む)が登場した。アメリカでの発売状況に準じた我が国でも似たような現象が起り、この年の年間チャートには12曲(全体のちょうど一割)がランクインしているが、それに飽き足らず我が国独自にシングル発売されたのが「プリーズ・ミスター・ポストマン」。マーベレッツ1961年の全米ナンバー1ヒットだが当時日本ではモータウンの発売権を持つ会社がなく、多くのファンはこの曲をビートルズのオリジナル・ヒットと受け止めたようだ。
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19位 Seven Daffodils - The Brothers Four
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アメリカの商業フォーク史でもっとも重要な影響を残したグループといえば、かつてピート・シーガーやウディ・ガスリーらを擁した「ウィーヴァーズ」。50年代に入ってからの彼らはオーケストラをバックに世界各地の曲を取り上げる“ノヴェルティ・グループ”的色彩を強めたが、1955年のカーネギー・ホールに於けるコンサートの成功は後のモダン・フォーク・ブームの発火点となったと言われている。「七つの水仙」はメンバーのリー・ヘイズが作曲し、グループが1957年に録音した作品だがこの年ブラフォーによりリバイバル。富はなくとも、毎朝君にキスと水仙の花を贈るよ、という“清貧の思想”を唄ったこの歌は彼らの穏やかな作風に良く合い、学生の音楽としてフォークが盛り上がったこの時期の大ヒット曲となった。
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20位 She Loves You - The Beatles('64米1位/英1位)
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イギリスでは通算4枚目のシングルとして発売され、彼らにとって2曲目の全英ナンバー1となったばかりでなく、150万枚を超えるシングル・セールスで60年代を通じて歴代売上記録のトップを守り通した作品でもある。彼らがシーンに登場した際世界中の大人たちが感じた共通のイメージに“白痴っぽい”があったようだが、ビートに合わせて長髪の頭を激しく振る仕種に加え、この曲で聴かれるコーラス「Yeah, Yeah, Yeah」が特に大人たちの神経を逆なでした模様(日本でも「Hard Day's Night」のタイトルに「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」が付け加えられたほど)。「Yeah!」という非常にありふれたフレーズなのに、これを3回繰り返すと世界中の誰もがビートルズを思い浮かべるという“言葉のマジック”が、この曲の中にはある。
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