TOP10 HITS OF LAST CENTURY
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■ 全国のレコード店の選んだ今月のベスト・セラーズ 洋;邦楽ポピュラーシングル 1966.10.31

01 夕日が泣いている/ザ・スパイダーズ(Philips)
02 青い渚/ジャッキー吉川とブルー・コメッツ(Columbia)
03 この胸のときめきを/ダスティ・スプリングフィールド(Philips)
04 イエロー・サブマリン/ザ・ビートルズ(Odeon)
05 悲惨な戦争/ピーター、ポール&マリー(Warner Bros.)
06 虹と共に消えた恋/ピーター、ポール&マリー(Warner Bros.)
07 いつまでも、いつまでも/ザ・サベージ(Philips)
08 2人の銀座/ザ・ヴェンチャーズ(Liberty)
09 夜のストレンジャー/フランク・シナトラ(Reprise)
10 若者たち/ザ・ブロードサイド・フォー(Philips)

 チャートの名称が変わっていることにまず驚き、登場している顔触れの変化にまた驚く今回のヒットチャート。まずはこの“ポピュラー”という名称の概念から話を始めましょう。

 当時、日本のポップス(邦楽)は大手レコード会社4〜5社の寡占市場となっており、各社と専属契約を結んでいるアーティストと作曲家が作品を発表する仕組みになっていました。現在では信じられないことですが、ある作曲家の作品は、その“先生”が契約しているレコード会社のアーティストしか録音できなかったのです。これは新設のレコードレーベルが邦楽市場に参入するにあたって、大変な障害となっていたようです。

 そんな中、65年に発表され洋楽チャートでヒットした風変わりな作品がありました。それが前回紹介したエミー・ジャクソンの「涙の太陽」。洋楽レーベルのコロンビアで純国産のこの曲が制作された理由は、単に「洋楽ヒットを作る必要があったから」という程度のものだったようなのですが、この「洋楽レーベルから発売されれば、邦楽ではない=ポピュラー」というちょっとした発想は、その後思わぬ方向に発展していきます。

 もう一点、この年の重要な背景を。前年65年にベンチャーズの全国ツアーで爆発したエレキブームは、この年の7月に実現したビートルズの来日公演で新たなるスタイル、楽器を演奏しながら歌う“ボーカル&インスト・バンド”へと移行していくことになりました。勿論以前からそのスタイルのバンドはありましたが、ビートルズ来日公演で前座を務めた顔触れ(ドリフターズ、内田祐也、尾藤イサオ、ブレイク前のブルー・コメッツなど)を見れば判るとおりいずれもカントリー〜ロカビリーシーンから登場したアーティストたちで占められており、新世代の登場は未だ果たされない状態でした。

 この状況下、「東京ビートルズ」という特殊な例外を除けば、いち早くビートルズスタイルのバンド編成に改めブレイクへの試行錯誤を開始したバンドが2つありました。それが今回のチャートに登場しているブルー・コメッツとスパイダーズ。両バンドとも60年代前半から活動をスタートさせているベテランでしたが、65年にブルコメがコロンビアからポール・リヴィア&レイダーズ風のヘヴィなビートを持った英語曲「青い瞳」を、スパイダーズが三々七拍子調のリズムを取り入れた“東京サウンド”の「フリフリ」を発表したあたりから後のグループ・サウンズ(この言葉が使われるようになるのは67年からだそうです)ムーブメントは始動することになります。

 あーーっ、やっとヒットチャートに入れる。そういった前提を踏まえつつ今回の“ポピュラーチャート”を紹介していきましょう。この月トップに立っているのはスパイダーズ。彼らのユニークなロックセンスは海外でも評価が高いようで、先日とうとうイギリスの再発レーベル、エイスからベスト盤まで発売されてしまいましたが、そのバタくさいセンスがかえって災いしたのか、デビューから暫くは決め手となるヒットを出せずにいたようです。で、その状況を打破したのがこの浜口庫之助作のバラードでした。

 「プロの作家が作ったら、歌謡曲じゃないの?」という意見もあるかも知れません。しかしレコード会社専属体制の中、ハマクラ氏はいち早くフリー作家となって各社にヒット曲を提供、洋楽レーベルのフィリップスで出された彼の作品は当時“洋楽扱い”とされたのでした(如何に硬直したシステムだったかが窺い知れますね)。続いて2位に入っているのがブルー・コメッツの「青い渚」。前作「青い瞳」は日本語盤も発売されてかなりのヒットになったようですが、続いて唱歌風のわかり易いメロディと、「My Lonely First Love」に「なぜかハートが痛むのよー」と新旧のキーワードが続くこの曲で日本人の心を掴み、翌年のレコード大賞受賞曲「ブルー・シャトウ」へと成功は続きます。

 ついでにGS系のヒットをもう一曲取り上げておきましょう。7位のサベージ「いつまでも、いつまでも」は、音楽的には後述のブロードサイド・フォーと殆ど変わらないフォーク調ですが、グループが「勝ち抜きエレキ合戦」出身ということで初期のGSに分類されています。彼らは続く「この手のひらに愛を」もヒット(この月11位)させましたが、翌年になると寺尾聡が脱退、活動は尻つぼみとなっていきました。

 さて、ようやく洋楽です。この週3位に入っているのはイギリスの女性シンガー、ダスティ・スプリングフィールドの「You Don't Have To Say You Love Me(米1位/英1位)」。数年前惜しくも亡くなった彼女は、現在では60年代最高の女性シンガーの一人として日本でも評価が定まってきた感がありますが、当時はコアなヒットチャートファンを除いて余り話題となることはなかったようです。しかし、この曲だけは例外的に売れました。何故か?それはこの曲が“サン・レモ生まれ”だから。以前紹介しましたが、1964年以降日本ではイタリアのサン・レモ音楽祭に出品された曲のヒットが続き、一つのブランドとなっていました。この曲は数年後エルヴィス・プレスリーにも取り上げられ(70年米11位)、彼にとって日本で最も売れたシングルの一つとなりました。

 続いて4位はお馴染みビートルズの「Yellow Submarine(米2位)」。来日公演後に発表された(この月の同誌アルバムチャートで1位)「リヴォルヴァー」からカットされたこの曲は、今聴き返してみるとビング・クロスビーが40年代にヒットさせたアイルランドの歌「MacNamara's Band」に通じる雰囲気を感じるのですが、それはポール・マッカートニーに流れるアイリッシュの血が為せるものなのでしょうか。なお彼らはこの年をもってライブツアーを停止。スタジオでのアルバム制作に没頭する傍ら、音楽以外の様々な事柄にも興味を移していくと共に、グループとしての結束力を次第に弱めていきます。

 1966年はエレキブームに続き、学生を中心にフォークブームが盛りあがりを見せ始めた年でもありました。ちょうどベトナム戦争が勃発し、世の中でなんとなく“戦争と平和”についてぼんやりと考えられる雰囲気が出来上がったところで再び注目されたのがP.P.M.のハーモニー。元々6位の「The Cruel War」は63年発表の「Stew Ball(米35位)」の、6位の“シュー、シュー、シューラ、ルー”「Gone The Rainbow」は62年の「If I Had A Hammer(「天使のハンマー」米10位)」のそれぞれB面として発表された初期のレパートリーで、彼ら自身はこの頃既にフォークロック調のサウンドに移行していましたが、発表当時はなんとなく物語のように聴かれていた「恋人が戦場へ旅立つ」という内容が突然現実味を帯び、アメリカでもストリングスが加えられた新バージョンの「The Cruel 〜」は最高52位を記録するヒットとなったのでした。

 この流れを受けたのかどうか、日本でもオリジナルのフォークソングが作られる雰囲気が盛り上がってきました。で“日本のフォーク第一号”として話題となり、この年の夏にヒットを記録したのがマイク真木の「バラが咲いた(この月18位)」。やはりフィリップスから発売されたこの曲は、またもやハマクラ作。当初は前年「涙くんさよなら」をヒットさせたジョニー・ティロットソンのために書かれたというこの曲、そのまま歌われたら只の“和製ポップス”でしたが、マイク真木が取り上げたために“フォーク第一号”という数奇な運命を辿ります。なお、呆れたことに(?)ハマクラ氏はこの月の邦楽チャート9位にランクインしている青江美奈の「恍惚のブルース」まで作曲。まったく作風の違う、しかも今まで日本になかったタイプのポップスを同時期に生み出した彼の才能は今後、より詳細に評価していく必要があるような気がします。

 話が若干脱線しました。「バラが咲いた」を追うようにフォーク路線でヒットしたのがブロードサイド・フォーの「若者たち(10位)」。“文部省推薦”マークが目に浮かびそうなこの曲も、この年のヒット。フォークはいつしか大学のキャンパスに似合う・・というイメージが出来上がり(今も各大学の募集パンフレットには“芝生の上で車座でフォークギター”なんて写真が載っているのでしょうか?)「カレッジ・ポップス」なんて言葉も生まれました。

 残る曲は駆け足で。日本の音楽界が新しい時代を迎えようとするこの時期“エレキの伝道師”ヴェンチャーズはどうしていたのでしょう?彼らはすっかり馴染んだ日本の印象をもとにオリジナル曲「Ginza Lights(8位)」を発表、この曲は山内賢と和泉雅子によるボーカルバージョンもヒットしました。“ヴェンチャーズ歌謡”の誕生です。ボーカルバージョンの方を聴いてみると、当時バリバリのアイドル女優だった和泉雅子の“過剰な清純さ”が滅茶苦茶気になります。デュエットパートナーを圧倒するその逞しい生命力といったら!さすがこの十数年後、北極点まで行っちゃう人だけあります。

 最後の曲。この月のチャートでちょっと異色なのがフランク・シナトラの「Strangers In The Night(米1位)」。69年の「マイ・ウェイ」と並んで現在もカラオケスタンダードとして歌い続けられているこの曲が生まれた頃のシナトラは、衰えが目立つ喉と闘いながらコンテンポラリーなサウンドの導入に果敢に挑戦していました。70年に引退宣言(数年後に撤回されます)するまでに彼が60年代後半に発表した一連のアルバムは、個人的に好きなものが多いのですが、その話をすると他のシナトラファンにはあまりいい顔をされません。

 と、いうことで今回もようやく終わり。この文章を書くにあたって下調べをしているうちに、日本のポップスにとって1966年が如何に重要な年であるかが徐々にわかってきて、この実り多き年にどれだけのことが起こったのかをできるだけ詰め込むように書いたのですが、それがかえって非常に読みにくいものになってしまったかも知れません。また後追いで調べているので事実誤認も多々あるかも知れません。色々とご意見をお待ちしています。


(2000.11.7)

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