TOP10 HITS OF LAST CENTURY
Presented by meantime

■ 洋楽ポピュラーシングルチャート1972.4.25

1.愛するハーモニー/ジョーダネイアーズ(Ember)
2.ママに捧げる歌/ニール・リード(London)
3.母と子の絆/ポール・サイモン(CBS Sony)
4.木枯らしの少女/ビョルンとベニー(Epic)
5.デイ・アフター・デイ/バッドフィンガー(Apple)
6.マイ・ワールド/ビー・ジーズ(Polydor)
7.アメリカン・パイ/ドン・マクリーン(United Artists)
8.ライオンは寝ている/ロバート・ジョン(Atlantic)
9.ウィズアウト・ユー/ニルソン(RCA)
10.アイルランドに平和を/ポール・マッカートニーとウィングス(Apple)

 歌謡曲チャートでは石橋正次の「夜明けの停車場」が1位を記録していた昭和47年4月、洋楽チャートのナンバー1はジョーダネイアーズの「I'd Like To Teach The World To Sing (In Perfect Harmony)」でした。

 随分と珍しい曲が1位になっていますね。ジョーダネイアーズ(通常は“ジョーダネアーズ”と表記されることが多いようです)はグループ名に「ヨルダン」が入っていることでも推察されるとおり、白人のゴスペル・カルテット。ナッシュビルで結成された彼らは、本職であるゴスペルのアルバムも多数残しましたが、音楽史的にその名を知られているのはかの地で制作された無数のカントリーやポピュラーのレコード・セッションに参加し、数々の名作に貢献したことから。中でもエルヴィス・プレスリーとの深い結びつきは有名で、彼がRCAレコードからリリースした1970年迄の作品の殆どに参加。エルヴィスは元々ロックンローラーよりもゴスペル・カルテットの一員になりたがっていたような人ですから“ファミリー”として常に彼らと行動を伴にしていたようです。

 一方「愛するハーモニー」の方は、元々コカ・コーラのCMのために作られたジングル(オリジナルは“We'd Like To Sing 〜”だったようです)で、これを3分台に引き伸ばしたバージョンを、何週か前のこのコーナーで紹介したオーストラリア出身のグループ、シーカーズの元メンバー、キース・ポトガーが70年代に入って新たに結成した“ニュー・シーカーズ”が発表し、世界中で大ヒット(71年米7位/英1位)したもの。

 で、この「愛するハーモニー」の元となるジングルをTVCM用に吹き込んだのが、他ならぬジョーダネアーズ。1970年代に入り、エルヴィスがラスヴェガスで連続公演の日々を送ることになる際も彼らは随行を求められたそうですが、エルヴィス以外にも膨大な数のセッションをこなし、コカ・コーラという全米規模のCMソングのオファーも受けていたジョーダネアーズはここでエルヴィスとの“Separate Ways”を選び、ナッシュビルにとどまりました(当地の名物カントリー番組「Grand Ole Opry」ではコカ・コーラの“生CM”もやっていたそうです)。なおこのレコーディングはニュー・シーカーズ盤のヒットを受けてイギリスで行われたもので、アメリカでの発売はなし。イギリスでもヒットチャートに登場した記録はないので、非常に珍しいケースの“日本のみヒット”となりました。“ダーク・ダックス風”朗らかな男声コーラスです。

 その後彼らは現在に至るまでナッシュビルを拠点に幅広く活躍中。カントリーの殿堂入りも果たしましたし、今年のグラミーにはアルバム「We Called Him Mr. Gospel Music: The James Blackwood Tribute Album」がゴスペル部門でノミネートされるなど、今なお第一線で頑張っているようです。

 2位はこの時代の印象的な“一発屋”ニール・リードの「Mother Of Mine(英2位)」。これは現在も非常に熱心なファンを持つ“少年合唱団もの”ヒットで、当時11才だった彼はTV番組でこの“母に捧げるバラード”を披露して大ブレイク、ヒットチャートを駆け上がりました。しかしこの手のものの宿命で人気は長くは続かず、リード君は何枚かのアルバムを発表したものの、ヒットチャート的には続くシングル「That's What I Want To Be」を最高45位に送り込むに留まる結果となりました。なお「ママに捧げる詩」はオズモンド・ファミリーの“リトル”ジミー・オズモンドがヒット曲「Long Haired Lover From Liverpool(米38位/英1位)」のB面としてカバーしており、こちらは最高101位と、ごくわずかながら全米チャートに足跡を残しています。

 3位にはポール・サイモンのソロ第一弾「Mother And Child Reunion(米4位/英5位)」。1968年の映画「卒業」の大ヒット以降、サイモンとガーファンクルは日本の洋楽界においてビートルズに匹敵する“ブランド”を確立した印象があり、コンビ解散後の2人の作品も70年代を通じて安定した人気を保っていたようです。で、もう一つのブランド“ビートルズ”関連の作品も幾つか登場しているので、ここでまとめて紹介しておきましょう。

 5位のバッドフィンガー「Day After Day(71年米4位/英10位)」は、彼らにとって最大のヒット。現在は70年代ブリティッシュ・ポップを代表するバンドの一つとして音楽面でも高く評価されていますが、当時はやはり“ビートルズ・ファミリー”の看板があってこその、これだけの人気だったのではないか?と思われます。69年〜70年のメリー・ホプキン、71年〜72年のバッドフィンガーと、この当時“アップル・ブランド”は絶大な影響力を誇っていました。ただし、バッドフィンガーが単なるアイドルでないことは、メンバーであるピート・ハムが書いたこの「Day After Day」や、ニルソンが取り上げてたちまち古典化したこの月9位の「Without You(米1位/英1位)」によって当時も認識されていたとは思いますが。余談ですがニルソンが初めてバッドフィンガー版「Without You」を聴き、レコーディングを決心した際、彼(大変酔っぱらっていたそうです)はこれを友人でもあるジョン・レノンの作品であると思い込み、翌日ビートルズのレコードをひっくり返してもその曲が何処にもないことに気付いて大変焦った、というエピソードが残されています。

 飛んで10位は御大ポール・マッカートニーの「Give Ireland Back To The Irish(米21位/英16位)」。彼にしては珍しく非常にストレートな政治声明をレコードとして発表していますが、これが「パレスチナをパレスチナ人に返してやれ」だったら、アメリカのラジオ局は何処もその曲をかけなかったんでしょうね。そういえば70〜80年代の一時期まで、アイルランド人(というかIRA)は“テロリスト”の代名詞的存在で、映画によっては彼らを非常にロマンチックに描写しているものもあったのですが、現在はまったくイメージが変わってしまいましたね。信条もやっていることも、同じはずなのですが。

 順位を戻しまして、今度は4位。スウェーデンのデュオ、ビョルン&ベニーの「She's My Kind Of Girl」は後に「アバ」として世界中の音楽シーンを席巻する二人の記念すべきスタート点。日本でアバの人気が本格化するのは「Dancing Queen(米1位/英1位)」が発表される1977年以降で、英米に相当遅れをとることとなりますが“ビョルン&ベニー”としてはいち早くこの曲に注目、大ヒットとなりました。1974年にアバとしての第一弾、北海道小樽市のイメージソング(ウソ)「Waterloo(米6位/英1位)」が発売された際もアーティスト表記にはしっかり“ビョルン&ベニー”の名が見られます。

 6位はビートルズ、サイモンとガーファンクルに劣らぬ人気を誇りながら、アイドル人気っぽいイメージが災いしたのか、それとも学校音楽の教科書に採用されるなどの“お上のお墨付”がなかったためかブランド的には両者より弱い印象のビー・ジーズ「My World(米16位/英16位)」。60年代後半から70年代初頭にかけてメンバーの脱退や再集結を繰り返し、安定しない活動を続けていた彼らは、71年の「Lonely Days(米3位/英33位)」と「How Can You Mend A Broken Heart(「傷心の日々」米1位)」で一時復活を果たしますが、その後活動はすぐに停滞。72年以降暫くシーンの第一線から退きます。次の復活は1975年の「メイン・コース」で、本当の意味の彼らの黄金期はそこから始まりました。

 7位にはドン・マクリーンの全米ナンバー1ヒット「American Pie(米1位/英2位)」が。シングル盤両面、8分半に亘ってR&Rの歴史を辿るこの曲は、出だしはモノラル、やがてステレオになるという非常に凝ったミックスがされていました。1959年にバディ・ホリーが飛行機事故で亡くなったのを「あの日、音楽は死んだんだ。」という表現が、その後様々に言い回しが変わり、現在までロック史のそこかしこで繰り返されているのは、皆さんよくご存じの通り。最後8位はロバート・ジョンの「Lion Sleeps Tonight(米3位)」。これはトーケンズが1961年にナンバー1ヒットさせたことでよく知られる、南アフリカにルーツを持つナンバーのリメイクですが、このレコーディングのプロデューサーはトーケンズのメンバーで、この時期トニー・オーランドの“ドーン”を大成功させていたハンク・メドレス。ロバート・ジョンの方は1958年に“ボビー・ベドリック・ジュニア”の名前で「White Bucks And Saddle Shoes(米74位)」を出してから15年目という苦労人シンガーで、その間様々なレーベルからシングルを発表していましたが、中でも1968年にコロンビアから出した「If you Don't Want My Love(米49位/英42位)」という曲が非常に優れたソフト・ポップでした。アルバムも出ていたようなので、いずれCD化を願いたいところです。

 苦節15年にして初めてTOP10入りを果たし、我が世の春を満喫できるかに思われたロバート・ジョンでしたが、この成功はたちまちに終わり、再び彼は“潜伏期間”に。本当の意味の成功が訪れるのは「Sad Eyes(米1位/英31位)」がチャートのトップに輝く1979年まで待たなければなりませんでした(なんと気の長い・・)。


(2003.4.1)

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