TOP10 HITS OF LAST CENTURY
Presented by meantime

■ 洋楽ポピュラーシングルチャート 1977.1.25

01 カントリー・ロード/オリビア・ニュートン・ジョン(EMI)
02 ジョリーン/オリビア・ニュートン・ジョン(EMI)
03 2人だけのデート/ベイ・シティ・ローラーズ(Arista)
04 イエスタデイ・ヒーロー/ベイ・シティ・ローラーズ(Arista)
05 ディスコは恋の合言葉Part 1/リッチー・ファミリー(Epic)
06 愛にすべてを/クイーン(Elektra)
07 妖精コマネチのテーマ/バリー・デ・ヴォーゾンとペリー・ボトキン・Jr.(A&M)
08 「ラスト・コンサート」/サウンドトラック(Seven Seas)
09 運命'76/ウォルター・マーフィー&ビッグ・アップル・バンド(EMI)
10 ディスコ・ダック/リック・ディーズ(RSO)

 邦楽チャートでは森田公一とトップギャランの「青春時代」がナンバー1を記録していた昭和52年1月、洋楽チャートのトップはオリビア・ニュートン・ジョンの「Take Me Home, Country Road(73年英15位/米119位)」でした。

 このコラムをお読みの方に、彼女のプロフィール紹介なんて必要ありませんよね。イギリスのケンブリッジに生まれ、オーストラリアで育った彼女は70年代初頭にポップ・フォーク調の曲を次々と発表してブレイク。この「カントリー・ロード」は「Let Me Be There(73年米6位)」でアメリカにおける本格的なブレイクを迎える直前に発表したジョン・デンバーのカバー曲。

 で、なんでこの時点で既に発表後数年たっているこの曲が日本でヒットしたのか?というところから今回の本題に入ります。

 この曲の前にアルバム「Come On Over(水の中の妖精)」に収録されていたドリー・パートンのヒット曲(74年米60位/英7位)のカバー「Jolene(この月2位)」のヒットで、日本でも注目を集め始めた彼女、続くシングルはTBSテレビのモーニングショー「おはよう700(セブン・オー・オー)」の挿入歌に使用されることになりました。と、これだけの話なら何処にでもあるタイアップなのですが、この番組の名物コーナー「キャラバン7」に使用されるのは、大きな意味がありました。

 海外レポーターが半年だか一年交代で、世界各地を車で延々と旅して廻るこのコーナーのテーマ曲としてこの「カントリー・ロード」の前に使われていたのは、ダニエル・ブーンの「Beautiful Sunday(72年米15位/英21位)」。この曲は当時なんと192万枚という天文学的な枚数を売り上げ、我が国洋楽史上最大のヒット(勿論現在も)となりました。セールス200万枚級の洋楽ヒットって、どれほどのものか想像つきますか?続いて起用されたこの曲も、当然のことながら大ヒット。この評判を受けて76年後半には来日公演を行い、この圧倒的な人気を獲得したのでした。

 当時彼女が日本で人気を博したのは、勿論のことながらその美貌と、カーペンターズに続くわかり易く爽やかなポップスが求められていた時期に、ちょうどマッチした音楽を提供した、という要素が大きかったのでしょう。しかし彼女はこの頃既に日本人好みの“清純なオリビア”からもっと成熟したエンターテイナーへの道を模索し始めており(当時の彼女のスタンスは、現在でいえばシャナイア・トゥエインと共通するものがあると思います)、その後より幅広い芸風に挑戦していったのでした。勿論我が国の洋楽ファンも、ジョン・トラボルタと共演した映画「グリース」をはじめとした彼女の新たな試みを応援し続けてはいったのですが。。

 この年のチャートにはもう一組、戦後洋楽史において忘れることの出来ないアイドルが登場します。それが3位と4位にランクインしているベイ・シティ・ローラーズ(BCR)。

 1970年代前半に結成され、バブルガムポップ風のヒット曲を発表していた彼らは、74年にイギリスで、翌75年にはアメリカで大ブレイク。以降76年にかけて連続ヒットの山を築き“ビートルズ以来の現象”とまで言われる程のヒステリックな大ブームを巻き起こしました。

 日本における彼らの人気は75年の「Bye Bye Baby(英1位)」で火がつき、曲をリアルタイムで聴いていない人でさえも、英語で「土曜日」と綴る時には“S-A-TUR-DAY”とつい口づさんでしまう「Saturday Night(米1位)」で爆発。そして76年の来日公演でその人気は頂点に達します。このチャートに登場している「I Only Want To Be With You(米12位/英4位)」と「Yesterday's Hero(米54位)」はちょうどその時期にリリースされたシングルで、いずれも日本では好セールスを記録しましたが、77年に入ると英米における“ローラーズ・マニア”は終息に向かい、バンドは分裂を始めます。ギタリストでアイドル的人気を誇っていたイアン・ミッチェルとパット・マッグリンはそれぞれロゼッタ・ストーンとスコッティーズを結成し、本家BCRと日本のヒットチャート上で争い合うというかつてのウォーカー・ブラザーズ以来の話題を提供。一方リード・ボーカルのレスリー・マッコーエンを擁するBCRは“バンドごっこ”を卒業してディスコ路線へ転向。やがてヒットチャートからフェイドアウトして文字どおり「イエスタデイ・ヒーロー」となっていくのでした。

 続いて今週もディスコものヒットの紹介に移りましょう。まず5位に入っているのはリッチー・ファミリーの「The Best Disco In Town(米17位)」。フィリー・ソウルシーンを支えるミュージシャンたちのアルバイト的なプロジェクトとしてスタートしたこのグループ(グループ名は首謀者であるアレンジャーのリッチー・ロームに因んでいます)、この頃にはスリー・ディグリーズスタイルの女性3人組をフロントに立てたグループに姿を変えており、様々なダンスヒットのフレーズがちょこちょこ顔を出すこのディスコ讃歌でヒットチャートに顔を出しました。

 ついでに同じくディスコものの9位、10位も。9位のウォルター・マーフィー「A Fifth Of Beethoven(米1位)」はその名のとおりベートーベンの「運命」をディスコ化したもの。当時はディスコブームに便乗して、いにしえのレパートリーをディスコアレンジで焼き直す手法が大変流行しており、リッチー・ファミリーは1940年代のヒット曲「Brazil(75年米11位)」をディスコ化、サルソウル・オーケストラもやはり40年代のヒット「Tangerine(76年18位)」を取り上げ、更に60年代に活躍したアーティスト、フランキー・アヴァロンも全盛期のナンバー1ヒット「Venus(76年46位)」をリメイクするなど、その応用はとどまるところを知らず、題材はクラシックにまで及びました。

 そういった中でも飛び抜けた成果を残したこの「運命」、その発想は何ヶ月か前にこのコーナーで紹介した寺内タケシ版と大して変わりませんが(出来からいえば寺内氏に軍配が上がります)、この年に公開され日本でも「ディスコでフィーバー!フィーバー!」の大ブームを巻き起こした映画「Saturday Night Fever」のサントラに収録されることによって、この時代の音楽サンプルとして永久保存されることとなります。我々の何世代か先の文化人類学者は、ディスコ文化の研究のためにこのサントラにまず耳を通し、ベートーベンのディスコ化について「時代や伝統に対する批評」やらなんやら、あれこれこ難しい推察をするんでしょうね。今のうちに言っておきましょう「別に深い意味なんかないんだってば。」

 10位のリック・ディーズ「Disco Duck(米1位)」もこの時代の雰囲気を代表するノベルティ・ヒット。現在も「リック・ディーズTOP40」を毎週ラジオで紹介し続けている彼が、メンフィスのラジオ局で働いている時に思いついたのがこのドナルド・ダック(と明記すると、権利関係に大変うるさい例の会社がクレームをつけるので控えめにしたのでしょう)風の声が曲中捲し立てるこの曲。ディスコ・ミュージックは商業性の極み、創造性の欠除など散々ないわれ方をした音楽でしたが、一方で“客をツカんだ者勝ち”のまさに何でもありな世界な訳で、そこから登場した人材がその後の音楽界に果たした功績を考えれば、この時期にこのようなアナーキーな音楽シーンが存在したことに感謝すべきではないかな、なんてことも今は考えたりします。

 さて、残りの曲は手短にいきましょう。6位に入っているのはクイーンの「Somebody To Love(米13位/英2位)」。BCRはちょっと・・という当時の少年少女にとって恰好の洋楽の世界への入口となった彼ら、確かにサウンドは結構ハード、ルックスも当時はまだ“問題の”フレディ・マーキュリーも細身を保っていて、見る人によっては「ひょっとしたら、カッコイイかも・・」と思わせるレベルにあったので、アイドルバンドとしてもなかなかの人気を誇っていたようです。音楽性に関しては、今更いう必要はないでしょう。余談ですがフレディの死後、彼の追悼コンサートで録音されたこの曲のジョージ・マイケルがボーカルを務めたバージョンがシングル発売され、93年にアメリカで最高30位を記録しています。

 7位はこの時期ならではのヒット「Nadia's Theme (The Young And The Restless)(米8位)」。「コマネチッ!」と聞くと腰のあたりに三角形のポーズを作る例のヤツが目に浮かぶ方が多いと思いますが、あれが流行るのは80年代以降のこと。この前年76年にモントリオールで開催されたオリンピックに登場した“ルーマニアの妖精”ナディア・コマネチは、10点満点連発の体操演技で大会を丸ごとかっさらうほどのインパクトをブラウン管の向こう側にいた観衆に与えました。

 この曲自体は映画「動物と子供たちの詩」のサントラとして1971年に発表されたのですが、コマネチの演技がABCテレビの中継で紹介される度にかけられたことから反響を呼びシングルカット、TOP10入りを果たす大ヒットとなりました。その後アメリカのテレビ界はオリンピックがある度に中継用のサウンドトラックを制作、80年代にはその中の幾つかがヒットチャートのTOP40入りを果たしましたし、近年ではその流れが日本にも飛び火しているような印象がありますね。残念ながら昨年のオリンピックでは、その年を代表するような大ヒットは生まれなかったようですが。

 まったく余計な話なんですが、たけし師が「コマネチッ!」とともに漫才ブーム当時盛んに披露していた「アンドレアノフッ!」ってのは、現在まったく聞くことがありませんよね。どのギャグが生き残って、どのギャグが消えていくのか・・は、何が一番の基準になるんでしょう?語感ですかね・・。

 最後8位はイタリアと日本の合作映画「ラスト・コンサート」のテーマ曲。この映画の筋を簡単に紹介すると「リタイア同然の老ピアニストを、白血病で余命短い少女が命をかけてやる気を出させる・・。」というもの(もうちょっと感動的な言葉の方がいいですかね?)。白血病とか骨肉腫とか、70年代は少年少女の心を“不治の病”で悪戯に不安に陥れる時代でもありました。劇中のセリフが登場する「ラスト・コンサート」も、映画を観た方には涙腺を刺激する、しみじみ感漂う出来でなかなか良いものでしょうが、個人的にはこのB面の「愛のテーマ」が非常に美しいインスト曲でかなりお薦め。この原稿のためにシングル盤を\200で入手したのですが、ちょっと感動してしまった。。


(2001.1.30)

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