TOP10 HITS OF LAST CENTURY
Presented by meantime

■ 洋楽シングルチャート 1988.9.12

01 モンキー/ジョージ・マイケル(Epic Sony)
02 アップサイド・ダウン/クー・クー(Alfa)
03 クロス・マイ・ブロークン・ハート/シニータ(Victor)
04 ラッキー・ラブ/カイリー・ミノーグ(Alfa)
05 ナイト・アンド・デイ/アル・B・シュア!(Warner Pioneer)
06 パーフェクト・ワールド/ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュース(Toshiba EMI)
07 フェイマス/BROS(Epic Sony)
08 トゥゲザー・フォーエバー/リック・アストリー(BMG Victor)
09 ボーイズ・アンド・ガールズ/マンディ(Alfa)
10 リヴ・ウィズアウト・ユア・ラブ/シカゴ(Warner Pioneer)

 邦楽チャートでは男闘呼組の「DAYBREAK」がナンバー1を記録していた昭和63年9月、洋楽チャートの1位はジョージ・マイケルの「Monkey(米1位)」でした。

 さて。一言でいって1988年の洋楽界は「ジョージ・マイケル(彼には略称が無いので、ここでは以下“GM”としておきます)の年」でした。86年にワム!を解散し、ソロとなった彼は、それまでの「頭からっぽの兄チャン」的イメージの払拭に躍起となり、87年に入るとまずは“クイーン・オブ・ソウル”アレサ・フランクリンとのデュエット「I Knew You Were Waiting (For Me)(米1位)」を成功させ、続いて前回このコーナーでボブ・シーガーの「Shake Down」を取り上げた映画「ビバリーヒルズ・コップ2」サントラに「I Want Your Sex(米2位)」というきわどい曲を提供し、物議をかもします。

 彼の思い切った路線変更は、当初こそ違和感を覚えたものの、アルバム「Faith」が発表される頃にはそれは期待感に変わっており、アルバム内容が非常に気合の入ったものだったこともあって彼は一躍時代のトップアーティストの地位を確立します。結局アルバムからは「Monkey」の他にも「Faith(米1位)」「Father Figure(同1位)」「One More Try(同1位)」「Kissing A Fool(同5位)」と物凄い勢いでヒット曲が生まれ続け、おまけに「One More Try」はR&Bチャートでもナンバー1という異例の好成績を残して「時代はGM」の印象を強くし、以降暫くは彼の天下が続くもの、と誰もが思ったのでした。

 が、この成功にもかかわらず彼は「Faith」の内容にまだ物足りなさを感じていたのでしょうか、続いて90年に発表したアルバムを「Listen Without Prejudice(先入観を捨てて聴いてくれ)」と名づけ、世に問うたのでした。タイトルからして作り手の意気込みが空回りしている印象のある同アルバムは、幾つかのヒット曲を生んだものの前作の800万枚というセールスには遠く及ばない成果しか上げることが出来ず、また長引くレコード制作期間に業を煮やしたレコード会社との間で契約にまつわる係争も始まり、彼の活動は強制的に中断されることとなりました。

 この裁判はGM側には不利なもので、それに対して彼は「だったら今後絶対にレコードなんか作らない。」と意固地になってしまった為問題は更にもつれ、この話題は暫く音楽ファンの格好の話題となりました。結局この問題は明らかに才能を持て余してるアーティストが世に提供すべき作品を発表できない、という状況にいてもたってもいられなくなったエンターテインメント業界の大物たちが出資して作った「ドリームワークス」がソニーへの賠償金を肩代わりする形で片を付け、彼はトラブルから開放されました。

 その後彼はアメリカでかつてのような成功を収めることは出来ず、現在はイギリスを本拠に活動を続けています。係争のもつれがアーティストのキャリアに重大な影響を及ぼすという例は昔も今も多く見られまして、GMと同じ時期にはプリンスもワーナーと派手な訴訟合戦を繰り広げ、結果ヒットチャートから遠ざかっていくことになりました。独立を勝ち取った後に行われた来日公演のセットの質素さといったら!“リストラ”プリンスの表情は、それでも晴れ晴れしていましたが・・。

 こんなことをやっていたらアーティスト、レコード会社のどちらにもいい結果をもたらすことがない訳で、近年はさすがにこのようなレコード数百万枚分の売上見込が一瞬にして消えていくような派手な訴訟合戦は見られなくなりました。例えばイン・シンクがこの前ジャイヴに移籍した一件なんて、以前だったら彼らのキャリアが一発で消え失せてしまうような問題だと思うんですが、何となくすんなりいってるし(BMGは一体どんな条件で移籍を呑んだのでしょう?)、この前マライアがヴァージンに移籍した際の「アメリカ国外では引き続きソニーが販売権を持つ」というのも話のつけ方の一つなのでしょう。人間は経験から学習していく生き物ですからね。

 長くなりました、話をチャートに戻しましょう。この年も2位以下にはいわゆる「ユーロビート」が多数登場しています。このチャートで2、3、4、8、9位がそれにあたりますが、順に紹介していきます。まず2位のクー・クー「Upside Down」は、当時アルファ・レコードが毎月のように発売していたコンピレーション「That's Eurobeat」シリーズから生まれた数多くのダンスヒットの中でも、強く印象に残っているものの一つ。イタリア産のダンスものって、サウンドが物凄く軽薄でなんだか好きになれないんだけど、キャッチーなフレーズが耳から離れない・・というのが多いですよね。この手のサウンドは90年代から現在にまで至る“J-POP(この言葉が生まれたのって、この頃だったような気がします)シーン”で飽きることなく焼き直しが続けられています。

 残る3、4、8、9位は何れもストック、エイトケン、ウォーターマン(以下SAW)関連。「またかよっ!」といわれそうですが日本の洋楽チャートにSAWがインパクトを与えるようになって3年目、この年に彼ら最大のヒットメーカー2人が登場します。順にいきますと3位「Cross My Broken Heart(英6位)」のシニータは、母に「So Many Men, So Little Time(83年米107位)」のディスコヒットを持つミケール・ブラウンを、叔母に79年の全米ナンバー1ヒット「Knock On Wood」のエイミー・スチュアートを持つというディスコ・ディーヴァのサラブレッド(?)。イギリスや日本では前年の「Toy Boy(英4位)」の大ヒットで記憶されているシンガーです。

 4位はSAWが音楽シーンに送り込んだ最大のヒットメーカーの1人目、カイリー・ミノーグ。オーストラリアでティーン女優として活躍していた彼女は渡英してレコードデビュー、非常に賑やかな「I Should Be So Lucky(英1位/米28位)」の大ヒットでたちまちスターとなりました。意外にもアメリカ市場はカイリーに冷淡で、彼女はこの曲に加え「The Loco-Motion(米3位)」等都合3曲しかヒットチャートに曲を送りこむことは出来ませんでしたが、イギリスでは別格的な人気がその後10年近く続き、現在もその活躍は続いているようです。

 8位は“ヒットメーカー”2人目、リック・アストリー。SAWが手掛けた中で恐らくもっとも才能に恵まれたシンガーだった彼は、87年に「Never Gonna Give You Up(英1位)」で一夜にしてトップスターとなり、遅れて紹介されたアメリカでもこの曲はナンバー1を記録。続いて発表された(イギリスでは4枚目)この「Together Forever(英2位/米1位)」も大ヒットし、注目を集めました。日本でも60年代に人気を博したアイドルシンガー、ジョニー・ティロットソン(バックナンバー参照)の顔立ちをぼやかしたようなルックスは、好感を持って受け入れられました。

 目覚しい活躍ぶりを見せつけた1988年の彼でしたが、“SAWの操り人形”的なイメージを嫌い、彼らとの蜜月期はそう長くは続きませんでした。やがて彼は独立し、よりアダルトな路線を進むようになり、発表した作品も決して内容の無いものではなかったように記憶していますが、それはファンが求めるリック・アストリーのあるべき姿ではなかったようで、90年代半ばには彼はヒットチャートから姿を消していました。

 もう1曲9位はマンディことマンディ・スミスの「Boys And Girls」。彼女は彼らが設立した PWLから「Positive Reaction」でイギリスで売り出され、日本では他のSWV系アーティストと同様「ユーロビート」の流れで紹介されました。結局彼女は本国でも「Don't You Want Me Baby(89年英59位)」くらいしか成果を収めることは出来ず、洋楽ファンの記憶には当時まだローリング・ストーンズに在籍していたビル・ワイマン(彼は病的に若い女の子が好きなことで有名でした)と結婚した女の子、として印象を残したのみでした。

 残りの曲も各々。5位「Nite And Day(米7位)」のアル・B・シュア!は、この時期シーンに多数登場した男性R&Bボーカリストの一人。丁度この頃R&B界では新しい波「ニュー・ジャック・スウィング」がヒットチャートを席巻し始め、その中で最大の成功を収めたのがボビー・ブラウン(次回には取り上げられるはず)でしたが、本来はちょっと違うタイプのシンガーである彼もその潮流に巻き込まれる形となりました。

 「Nite And Day」は彼のごつい外見に似合わぬ(私は彼の“カモメ眉毛”が非常に気になりました)ムーディなナンバーで、恐らく当時新たに影響力を持ち始めていたFMから灯がついた人気ではなかったかと思われます。そのメロウな持ち味を活かした彼の活躍は90年代前半まで続き、特にR&Bチャートにおける人気は大変なものがありましたが、当時は「ニュー・ジャック〜」な時代だったため、彼もPVでバックダンサーを従えて踊ったりしなければならないという可哀想な状態となり、何となく尻つぼみなキャリアになってしまったのは気の毒でした。

 6位のヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュース「Perfect World(米3位)」は、83年の「Sports(米1位、売上700万枚)」、86年の「Fore!(米1位、売上300枚)」と立て続けにメガヒットアルバムを発表し、80年代有数のヒットメーカーとなった彼らが発表したアルバム「Small World」からのファーストカット。人気者の彼ら久々の新作ということで期待が集まり、見事この曲は大ヒットとなりましたが、アルバムのセールス自体は落胆すべき結果に終わりました。

 以降彼らはTOP10ヒットを出すことなくレコード会社を移籍。その後は“80年代の遺物”的な扱いを受けながら現在に至っています。数年前、久々に来日が実現したと思ったら、埼玉県の大宮で一回公演だけという告知を見て「ここまで扱いが変わるものなのか・・」と切ない気持ちになった覚えがあります。時代は変わりつつありました。

 7位「When Will I Be Famous?(英2位/米83位)」のブロスは、この時期の洋楽ファンには非常に思い出深いグループかもしれません。彼らは美形の双子、マットとルークのゴス兄弟に、友人のクレイグ・ローガンが加わった3人組。「いつになったら有名になれるの?」というこの曲でいきなり有名人になってしまった3人は、アメリカでは殆ど相手にされませんでしたが、イギリスでは2年間に8曲の連続TOP10ヒットを放つトップアイドルとなりました。が、誰が見ても余計、と思われていた“苛められっ子顔”のクレイグが脱退し、デュオとなるとその人気は次第に下降、彼らは契約を失いました。グループ内のバランスって、傍目には(もしかしたら本人達にも)判らないものですよね。

 最後10位はシカゴの「I Don't Wanna Live Without Your Love(米3位)」。82年「Hard To Say I'm Sorry(素直になれなくて)」のナンバー1ヒットで劇的なカムバックを果たした彼らは、その後ボーカルのピーター・セテラを中心にロマンチックなバラードを武器としてヒット曲の山を築きましたが、この“セテラ偏重”は彼に「だったらソロでやった方がいいじゃん。」という事実を気づかせる結果となり、彼は脱退。看板を失ったバンドはセテラそっくりに歌え、しかもベースの腕前は父親である伝説的なセッションベーシスト、ジェリー・シェフ譲りというジェイソン・シェフを加入させ、立て直しを図りました。

 新生シカゴ第一弾は代表曲「25 Or 6 To 4(長い夜)」のリメイクという訳のわからないもので、これはハズしましたが(86年米48位)、続いてジェイソンが切々と歌い上げる「Will You Still Love Me?(米3位)」が成功して「これはいけそうだ」と確信。この年に発表したアルバム「19」からのファーストカットは、それまであまり表に出てこなかった“新参”ビル・チャンプリンのリードボーカルでうって出て、これも成功を収めました。

 結局「19」からは5曲のヒットが生まれ、その中には「Look Away(89年の年間ナンバー1)」という彼らにとって最大級のヒットも含まれていましたが、まさかこれが彼らにとって最後の大ヒットアルバムになるとは当時予想していなかったでしょう。時代が90年代に入ると“ロック”という音楽ジャンルの定義が変容し、彼らはヒットチャートのメインストリームから遠ざけられていくことになります。。

(2001.9.11)

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