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1.明日へのハイウェイ/ビリー・オーシャン
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1980年代を語るにあたって説明の大変難しい事象の一つに、ビリー・オーシャンの人気ぶりというものがある。70年代のドレッド・ヘア時代ならいざ知らず、84年に「カリビアン・クイーン」で再ブレイクを果たした時に彼はゆうに30を超えたいい歳のオッサンで、圧倒的なボーカル・スキルがある訳でもなく、飛び抜けた作曲能力がある訳でもなく、類い稀な幸運がそこにあった、としか今になっては言い様がない。なにしろこの年はこの曲が年間1位だし。彼が活動の本拠地にしていたイギリスで録音された「〜ハイウェイ」はジョン“マット”ランジの作・プロデュースで、かの地では「オレの車に乗りなよ。」という歌詞が誘拐/拉致や売春を連想させるということで多くのラジオ局で放送禁止になった、という逸話も残されている。なお彼は現在ではブリトニー・スピアーズやR.ケリーでお馴染みのジャイヴ・レコード最初期の大黒柱であったが、現在はその点を評価されることはほとんどない。
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2.ロール・ウィズ・イット/スティーヴ・ウィンウッド
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スティーヴ・ウィンウッドがトラフィック時代以来20年間在籍し続けたアイランド・レコ−ドを離れ、ヴァージンから発表したアルバムのタイトル曲。ここではウィンウッド長年の憧れであるアメリカ南部(メンフィス)のソウル・サウンドを取り入れ、彼自身まるでレイ・チャールズのようにシャウトしている(註:メンフィス・ソウルとレイ・チャールズは実際には直接の結びつきはない)。この曲は彼にとって実にスペンサー・デイヴィス・グループ時代の「I'm A Man(67年)」以来というR&Bヒットとなったばかりでなく、アダルト・コンテンポラリー(AC)チャートではナンバー1を記録。しかしこの傾向は当時既に“クラシック・ロック”と呼ばれ始めていた彼のような音楽がラジオ・フォーマット上の“ロック”とは見なされなくなる時代に入りつつあったことの前兆であり、その後彼らベテラン・アーティストたちはACマーケットを主たる活躍の場としていくこととなる。
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3.ワン・モア・トライ/ジョージ・マイケル
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1988年の洋楽界を象徴するアーティストを一人だけ挙げるとすれば、それは間違いなくジョージ・マイケルであろう。ワム!から独立し、意欲満々で発表したアルバム「Faith」は、収録された曲どれもが質が高いもののバラエティに富み過ぎていたため当初はやや散漫な印象があったが、カットされたシングルが次々と大ヒットを記録するにつれやがて「グレイテスト・ヒッツ」的な側面を持つようになり、アルバムの半分以上がお馴染みの曲と化した時には誰もその内容に違和感を覚えるものはいなくなっていた。この曲はアルバムから4枚目のシングルカットで、情熱的なR&Bバラード。実際R&Bマーケットでも好評で、この曲はビルボード誌のR&Bチャートで1位を記録している。
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4.マン・イン・ザ・ミラー/マイケル・ジャクソン
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現在ではかつての栄光も、その顔だちも影も形もなくなりつつある“キング・オブ・ポップ(と呼ばれるようになるのは90年代に入ってから)”マイケルの大ヒットアルバム「Bad」から生まれた5曲連続ナンバー1ヒットの4曲目にあたる「マン・イン・ザ・ミラー」は、ファースト・シングル(勿論ナンバー1ヒット)「キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」でデュエット相手を務めていたサイーダ・ギャレットと、グレン・バラードの共作曲。プロデューサー、クインシー・ジョーンズの秘蔵っ子として、パフォーマーとしてもソングライターとしても大々的にフィーチャーされる形となったサイーダだったが、この評判の中リリースした「K.I.S.S.I.N.G.」は最高97位と不発に。その後イギリスに渡り90年代後半にブラン・ニュー・ヘヴィーズのボーカリストとしてそれなりの存在感を示したが、結局ソロ・アーティストとしての成功は、彼女には訪れなかった。
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5.永遠の愛の炎/チープ・トリック
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1979年「チープ・トリック at 武道館 」でブレイクしたハードロックバンド、チープ・トリックは翌80年にはベーシストのトム・ピーターソンの脱退を機に(?)早くも低迷期を迎えた。その後目立ったヒットに恵まれなかった80年代も終盤に差しかかったこの年に当のピーターソンがバンドに復帰し、オリジナル・ラインナップで久々にリリースしたアルバム「Lap Of Luxury」からカットされたダイアン・ウォ−レン作のパワー・バラードが起死回生の大ヒット。バンドの愛すべきキャラクターもウケて彼らは再び人気バンドの座に返り咲いた。チャート成績的にはこのカムバックも短期間に終わったが、以降彼らは安定した活動を続け、現在も“クラシック・ロック”アーティストとして人気を保ち続けている。
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6.ファーザー・フィギュア/ジョージ・マイケル
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ジョージ・マイケルのアルバム「Faith」から再び登場。こちらは同作から3曲目のナンバー1ヒットで、ゴスペル・クワイア風のコーラスが雰囲気を盛り上げていた。この曲はそれから5年後にポップな作風で人気を博したヒップホップ・グループ(ゆえに他のラップ系アーティストに殴られたりしていたらしい)PMドーンの「Looking Through Patient Eyes」に印象的にサンプルされ、ヒットを記録したことでも知られている。
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7.エニシング・フォー・ユー/グロリア・エステファン&マイアミ・サウンド・マシーン
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85年の「Conga」以降ダンス・アクトとして活躍を続けていたグロリア・エステファンと一党たちによる初めてのナンバー1ヒットはバラード・ナンバー(彼女自身の作)。ラテン・アメリカを明確なルーツとしながらこれだけの成功を全米チャートで収めたアーティストは当時他にはおらず、彼女たちのクロスオーバーな活躍が後のラテン系アーティストの活躍の場を開拓したといっていいだろう。ポップ史的に、より評価されるべきグループであると思う。
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8.思い出に抱かれて/ティファニー
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1971年生まれ、カリフォルニア州出身のティファニーは、全米チャートで最初にトップに立った1970年代生まれのアーティスト。12歳の時にプロデューサーのジョージ・トビンと出逢い、レッスンとレコーディングを開始。14歳になってようやくアルバム一枚分の録音を終えたティファニーとトビンは、そのテープを持ってMCAと契約、カラオケテープを持って全米のモール街を回るという地道なキャンペーンがやがて実を結び、トミー・ジェイムスとションデルズのカバー「ふたりの世界」がナンバー1となり、新世代のアイドルとして注目を集める。この曲は続くセカンド・シングルで、こちらもナンバー1を記録。17歳にして連続2曲がナンバー1というのは、当時の新記録だったが、その録音自体は彼女が13歳の時に既に済まされていたものだったという。
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9.ギブ・ユー・アップ/リック・アストリー
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イギリスのプロデューサー・チーム、ストック・エイトキン・ウォーターマンの3人が生み出す“ユーロビート(彼らの主催するレーベル名からPWLサウンドと呼ばれた)”世界中のヒットチャートを席巻した時代が80年代の何年間にわたって確実に存在し、そこから登場した特筆すべき存在がカイリー・ミノーグとリック・アストリーだった。PWLのスタジオでアシスタントを務めていた彼は87年にソロデビューの機会に恵まれ、デビュー・シングルであるこの曲は全英ナンバー1を記録、その年の年間1位にも輝いた。続いて全米チャートも征服することになった彼だが、PWLとの蜜月はそう長く続かず、その後アダルト路線を目指したがそこで大きな成功をおさめることはなかった。
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10.フーリッシュ・ビート/デビー・ギブソン
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ティファニーと並んで当時人気アイドルとしてもてはやされたのがデビー・ギブソン。当時の二人は現在でいえば“ブリトニーとアギレラ”に匹敵する存在だった(ちょっと古いか?)。シンガーソングライターとしての側面も持ち合わせていた彼女は自作曲を次々とヒットチャートに送り込み、この曲はデビューアルバム「Out Of The Blue」から4曲目のTOP10ヒットにして初のナンバー1。これまで如何にもティーン・アイドル風のダンス・ナンバーが続いたところにカットされたバラードで「この娘ひょっとして才能あるのかも?」と思わせた佳曲だった。
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