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1.ミス・ユー・マッチ/ジャネット・ジャクソン
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86年のアルバム「コントロール」で大ブレイクを果たし、ポップ・シーンのトップに躍り出たジャネットは、続いてこの年3年ぶりに発表したアルバム「リズム・ネイション1814」のさらなる大ヒットで、兄マイケルに次ぐポップ界の“イコン”に成長。アルバム先行シングルのこの曲は長いこと待たされたリスナーの期待感と、その期待に違わぬサウンドを送り出したプロデューサー、ジャム&ルイスの手腕によりたちまちヒットチャートのトップに躍り出、ビルボード誌では4週連続のナンバー1を記録した。「リズム・ネイション」は結果的に7曲(エアプレイヒット「State Of The World」も含めると8曲)のTOP10ヒットを生み出すモンスター・アルバムとなり、90年代最大のポップスターの一人となる彼女の地位を確立することとなった。
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2.冷たいハート/ポーラ・アブドゥル
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ジャネットの「コントロール」の大ヒットは勿論ジャム&ルイスの斬新なサウンドやジャネットのパフォーマンスが最大の要因であったことは言うまでもないが、それに匹敵して(それ以上に?)音楽ファンに強い印象を残したが彼女のミュージック・ビデオ。シングルが切られる度に発表された大がかりなダンス・ビデオはアルバムのセールスを押し上げたが、それらの振付けを当時担当していたのが元ロサンゼルス・レイカーズのチアリーダー、ポーラ・アブドゥル。一連のジャネット作品で名を上げた彼女は以降次々とビデオやTV番組の振付けを手がけ、88年にポップ・シンガーとしてデビューを果たし、この年大ブレイク。「冷たいハート」はブレイク後記録した3曲連続ナンバー1ヒットの3番目にあたる曲で、得意のダンスを武器に彼女は80年代後半〜90年代前半の“ダンス・ミュージックの時代”に大輪の華を咲かせた。この彼女とジャネットが、それから5年後ヴァージン・レコードでチャート女王の座をかけた直接対決を行うことになろうとは・・。
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3.フォーエバー・ユア・ガール/ポーラ・アブドゥル
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大ヒットを記録したポーラ・アブドゥルのデビューアルバムのタイトル曲。「ラジオ&レコーズ」誌におけるポーラ人気は大変なものがあり、参考までにビルボ−ド誌同年の年間チャートを見てみると後述の「ストレイト・アップ」が一番人気で4位、「冷たいハート」が6位、この「フォーエバー〜」は一番成績が低くて30位ということで、その差は歴然としている。この曲はブレイク後2番目のナンバー1ヒットで、最もポップな曲調のナンバー。ダンス・シーンの裏方と、ショービズ界の熟練パフォーマ−という彼女のこれまでの経歴を紹介したようなミュージック・ビデオが秀逸で、このヒットにより多くのファンを一気に獲得した印象が強かった。
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4.ラビング・ユー/ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック
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80年代後半に最も成功を収めた男性アイドルグループがこのニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック。前年発表のセカンドアルバム「Hangin' Tough(ニュー・キッズ・ストリート・タフ宣言)」で人気に火がつき、全米ツアーで一大騒動を巻き起こしていた彼らはこの時期のヒットチャートを席巻。ヒット曲の切れめない中リリースされたサードアルバム「Step By Step」までの88〜90年が彼らの活動のピークだった。「ラビング・ユー」はジョーダン・ナイトのファルセット・ボイスによって歌われるバラードで、彼ら初のナンバー1ヒット。意外にも(?)本格的なR&Bマナーに音楽ファンは唸らされた。
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5.2人の絆/シンプリー・レッド
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マンチェスタ−出身の白人ソウル・バンド、シンプリー・レッドによる86年の「Holding Back The Years」以来のアメリカにおけるTOP10&ナンバー1ヒット(実は当時本国イギリスでも彼らのTOP10ヒットはこの2曲だけで、どちらも最高2位を記録している)。この曲ではフィラデルフィアのR&Bボーカル・グループ、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツ1972年のヒット(最高3位)のカバーという“ストレート路線”を打ち出しており、メロウなムードはアダルト・コンテンポラリーチャートでも好評を博した(ビルボード誌6週1位)。以降彼らがアメリカでこれに匹敵するヒットを放つことはなかったが、イギリスでは現在なお人気グループの座を保ち、90年代以降8曲の全英TOP10ヒットを放っている。
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6.ロスト・イン・ユア・アイズ/デビー・ギブソン
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87年のデビューアルバムからヒットを連発し“天才少女シンガーソング・ライター”と評判になったデビー・ギブソンが発表したセカンドアルバム「Electric Youth」からのファースト・シングル。確かに当時彼女はキャロル・キングとブリトニー・スピアーズを足して、2以上の幾つかで割ったような魅力があったのだ。この曲はピアノ弾き語り系のバラードで、前作の余韻を引きずっていた時期だけにナンバー1を記録。しかし「Electric Youth(彼女が立ち上げた10代向け化粧品ブランドと同名)」「We Could Be Together」と魅力に欠けるダンスナンバーが続くにつれ、チャート成績は低迷。やがて彼女はニュー・キッズたちと同様、90年代いっぱい続く“アイドル冬の時代”に放り出されることとなる。
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7.ドント・ワナ・ルーズ・ユー/グロリア・エステファン
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キューバ移民を中心としたダンス・グループ「マイアミ・サウンド・マシーン」の看板として80年代半ば以来活躍してきた彼女がこの年のこの曲からソロ名義で作品を発表。より明確にアダルト路線を打ち出し“米国歌謡”の本流に挑戦したバラード第一弾は見事全米ナンバー1を獲得し、彼女はステップアップを果たすこととなる。新路線も成功を収め、順風満帆に思われた彼女のキャリアだったが、この翌年の3月20日にツアーバスの事故で瀕死の重傷を負い活動は長期間ストップ。一時は生命の無事も危ぶまれたが91年に見事復活、ゴスペル風味の「Coming Out Of The Dark(ナンバー1ヒット)」を歌い上げるグロリアは、人生の危機を脱し、何段も格上の風格を漂わせる歌手に変貌していた。
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8.ストレイト・アップ/ポーラ・アブドゥル
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この曲のナンバー1ヒットにより突然ポップ・シーンに現れた印象のある彼女だったが、実はこの曲はアルバムから3枚目のシングルカット。デビュー・シングル「Knocked Out(あいつにノック・アウト)」はビルボード誌最高41位と検討空しい結果に終わり、続く「(It's Just) The Way That You Love Me(恋するままに)」は88位とさらに低迷(後に再リリースされ最高3位を記録)。アルバム最後のシングルの予定でカットされたのが、アトランタのラジオ局で人気を呼び始めていたこの曲だった。白と黒のコントラストが印象的なミュージック・ビデオととともに彼女は全米に紹介され、ついにはナンバー1を記録。余談になるが彼女はR&Bチャートで最初に成功を収めたヴァージン・レコード所属アーティストだったそうで、その後の同社のアーティスト獲得状況を考えると、隔世の感がある。
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9.リッスン・トゥ・ユア・ハート/ロクセット
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スウェーデンから突然登場した(当時)夫婦デュオ、ロクセットは、当時アメリカでは徐々に“ダサいもの”とされ始めていたポップ・ロックを何の衒いもなく披露しラジオで絶大な人気を博した、今思うと非常に後の“J-POP”に通じるスタイルとサウンドを持ったグループであった。この曲はアメリカでのデビューヒット「The Look」に続いて全米ナンバー1を記録したパワー・バラード系のナンバーで、彼らは89年から91年にかけて4曲のナンバー1と2曲の最高2位のヒットを記録するという(注:ビルボード誌)大変な活躍ぶり。こういったタイプのグループが、まだアメリカで“ロック”といわれていた最後の時代の、人気ユニットである。
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10.ライク・ア・プレイヤー/マドンナ
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考えてみるとこの年はほとんど原題をカタカナにしたタイトルの邦題ばかりなので、日本語表記してもあまり面白くないのだが、これが時代を遡ると段々味わいが出てくるはず・・ということで暫しご辛抱願いたい。で、音楽的創造性がピークにあったこの時期のマドンナが生み出したアルバム「Like A Prayer」からのファースト・シングルがこの曲。世界的に物議を醸した「ライク・ア・ヴァージン」以降「トゥルー・ブルー」そしてこの「ライク・ア・プレイヤー」とアルバム毎に音楽性を高めてきた彼女を、音楽的に評価する記述というのを未だに見かけたことはないが、いい加減そういう語られ方をしてもいいのではないだろうか。90年代に入って暫し迷走し、その後見事商業的な復活を遂げ、現在なお美しい彼女と同時代を過ごした者としては、彼女に畏敬の念を感じずにはいられない。
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