三週間前から詰まらせたままの下水管
耳を澄ますとその塩ビパイプからは子供の泣き声
何処かで見覚えのある紅茶色に色褪せたモノクロームの写真
子供は目深に黄色い交通安全用の帽子をかぶっている帽子のゴムひもは伸びきって引きちぎれている
切れ長の子供の眼球に映るその景色
オレンジ色のカーブミラーに映るように球体に歪んだその景色
走馬燈のように流れる自分自身の過去の追憶
子供の泣き声はますます大きく聞こえてくる
それは決して泣き声が激しくなってゆくのではなく泣き声は無機質のままヴォリュウムばかり増大してゆくのだ
私の頭蓋CTスキャナで透視するとまるでタマネギのように輪切り状にその姿を露わにする
その輪つまり私の頭蓋を衛星のようにぐるぐると五六ぐらいのヴォリュウムのその泣き声が駆けめぐる
そうだ泣き声は私が幼少の頃に自らが発していた音なのだ
その横を一直線に青いダンプが通り過ぎてゆく
ダンプの荷台にはマネキン人形が屍体のように積まれ中には首のないのもいる
ダンプの運転手は少年のようなつぶらな瞳を輝かせながらけたたましくクラクションを鳴らして通り過ぎる
運転手にも血液は流れている
通り過ぎるダンプに向かって威嚇している野良犬
その気になればダンプで一轢きの小型犬の遠吠えは
一九七八年後期型の救急車のサイレンと全く同じ周波数の音を発している
右耳からは地下鉄が迫ってくる
白線の内側にたっていればその下り線に乗ることはできるのだが
ホームを飛び出して今か今かと地下鉄に轢かれるのを待ち焦がれているようだ
アルミシルバーに光を放つその車体に自らの血液を塗りたくったらどんな色彩を放つのだろう
きっと二.三日経ったらどす黒く乾燥してしまうのだろう
私に向けられる地下鉄その縦横奥行きから構成される物体は時速四四キロで迫ってくる
ここの駅は小さいので急行は通り過ぎるというのだがしかし時速四四キロと言う感覚は理屈上の感覚であって
急行電車はゆっくりと近づいてゆく一五年という永い時効を待つかのように
目の前では氷が音を立てて溶けてゆくその音は
ベビーベッドの上にぶら下げられてくるくる回るピンク色のおもちゃのように
からからと薄いプラスチックの音を立てて溶けてゆく
気がつけばそこは朝靄に包まれた湖畔風は全くなく水面は深く澄んでいる
垂直に幾千の筋を垂らしながらその筋は深くなるに連れてフェイドアウトして闇に包まれてゆく
その闇つまり湖底には何が見えるのだろうかそれは獅子威しであるカーンと鮮やかな音を立てて時を刻む
その間隔はかなり正確だ
時を刻むごとに湖底都市の人々が一人又一人消えてゆく
もう何度この音を聞いたことかいつまで経っても湖底都市の人々は亡くならない
そうだ次々に消えていっても同じ数だけ又何処かで増え続けているのだろう
すると私の目の前に白痴の少女が立っている
一言も話をしなくても解るあの目は白痴の目だ間違いない
その水晶体に私自身が映し出されているのが私の距離から確認できる
白痴少女の脳に私という四肢そのものが認識されたのだろう
しかしその認識内容も間もなく上書きされて消去されるのだろう何せ白痴なのだから
白痴少女は笹の模様の入った真っ白い浴衣を着て左手に赤い風車を持ったまま風に吹かれている
風はだんだんと強くなり彼女の腰辺りまである黒髪を真っ逆様になびかせ
赤い風車はごうごうと音を立てて回っている
こんな格好をした女の子を実際に見たのは初めてだ
確か祖母の持っていたアルバムの風景で見たことがある
彼女が私に向かって手招いている正確には少女の前方に存在するもの全てを対象として手招いている
私は後ろを振り返ったが他に存在するものはなかったので私を手招いているのだと私流に解釈し
私はその手招きに応じた
少女は朽ち果てたレストランに私を招待した
レストランと言ってもそれは玄関の看板にレストランと銘打ってあっただけのことであって
その朽ち果てたレストランには人影は一人もいなく厨房もすっかり埃まみれで
玄関からは死角になっている一番奥のテーブルにはポルノ雑誌が山のように無造作に捨てられている
おそらく不良中学生か浮浪者の仕業であろう
流しからは錆色に濁った赤い滴がぽたぽたと音を立てて落ちているだけだった
少女は奥からメニューを取り出して無言で私に手渡した
私にこのメニューから何かを選べと言うのか
しかし選んだところでこのシェフの人影すらないレストランで何かを食することが出来ようか
少女は鋭い眼差しで私を睨み付けるので仕方なく私はきのこハンバーグを指さした
少女は全く罪を知らないような満面の笑みを浮かべて厨房へ消えていった
その白い肌に映し出された少女の幻影を回想しながらきのこハンバーグを待つことにした
少女はいつまで経っても私の座ったテーブルにもどってこない
厨房の方から女の子の笑い声が響いている
私は白痴少女の声を聴いたのはこれが初めてだったしかし声だけなのでそれが彼女の声という保証は出来ない
水中に沈めたピアノを叩くようにやわらかく澄んだ声
白痴少女の声に違いない
私はその時初めて白痴少女に恋をしてしまったのだと自覚した
黴だらけになった赤い蓋の醤油ビンと中味が干涸らびて口が塞がった黄色い蓋のソースビンを交互に叩き割って
彼女の消えた厨房に私は駆け寄った
しかし厨房には鍵が掛けられ
その中では相変わらず彼女の笑い声が聞こえる
私は扉を叩いたが返事がない
彼女は私のノックが聞こえていないのだろう
結局彼女が本当に白痴だったかどうか確かめることもなく私はレストランをあとにした
白痴かどうか確かめることを恋と呼ぶべきなのだろうか
醤油ビンとソースビンを叩き割るという
安直な行為にいたったところで恋という感情の有無を検証するなどと言った自己内面の整理が果たして出来たのだろうか
私は黒い服を着た老人に私の恋という感情は真実なのかを尋ねたが老人は葬列に紛れて消えていってしまった
葬列は地平線の彼方まで続いている
しかしこの壮大な葬列は誰を弔っているというのだ最前列に行けば解るかもしれないが
何しろ地平線の彼方まで行かなければいけない
近くにいる人に誰が死んだのですかと聞くのも悪い気がする
しかし不思議なことに誰一人として悲しみに暮れていないのだ
まだ小学生にならないくらいの子供達はハイキングの歌を歌っているし
しわくちゃな顔をした老婆は何処の民謡だか解らないくらいに大袈裟に抑揚豊かに数珠を振り上げるのだ
その手つきはやたらと手慣れていてひょっとしたら毎日葬列に参加しているんじゃないかと思ってしまうほどであった
ゆっくりと進む葬列の横を私は全速力で併走した
三百人くらい追い越したとこだろう私は白痴少女によく似た女の子を見つけた
彼女もやはり葬列の一人だったので真っ黒い喪服を着ていた
私は彼女にきのこハンバーグはどうしたのだと問い詰めた
彼女は何のことだかさっぱり分かっていない様子だったので私はその悔しさのあまりに彼女を叩いた
彼女は痛みにもがき苦しみながらただただすみませんと謝った
私の中で初めて恋をしたはずの彼女の姿と声がここで初めて同時に認識されたのであった
しかし厨房で聴いた水中に沈めたピアノを叩くようにやわらかく澄んだ声とは全く違った
街頭演説の割れたスピーカーから垂れ流されるような非常に醜い声だった
私の中で昇華された記憶はその醜い彼女の声によって傷つけられた
私は彼女という回想と矛盾した存在そのものを否定しようと試みその細い肉体を傷つけた
彼女という肉体と精神の融合条件を切り離したことによって彼女は消えていなくなった
あれから十年立った今でも臨床実験の時になると決まって白痴少女のことを思い出す
鎖で繋がれたベッドで仰向けになった私はあの時失った彼女について妄想を巡らす
私は病室を抜け出してあの時と同じ時刻の地下鉄の下り線に乗った
湖畔の駅にたどり着いたまでは記憶通りだが湖は枯渇してレジャー施設が建ち並んでいた
その中に十何前と同じレストランの看板を見つけた
苺のように赤かった文字は色褪せて下品な下着のようなクリーム色と化していた
彼女は自らの手によって消去したのだからこんな所にいるはずはないのだ
頭では解っていても兎に角その重く錆び付いたレストランのドアをこじ開けなければという衝動に駆られ
私は十年前と同じテーブルに腰掛けた
誰もメニューを渡しに来ないのでどうしたのだろうと思い厨房に近づいた
すると私の手によって死んだはずの彼女の笑い声が聞こえる
あの時と同じやわらかく澄んだ声
私はきのこハンバーグ下さいそう叫びながら厨房の扉を叩いたがやはり反応がない
明日又ここを訪れようかいやしかしいくら白痴な彼女でも24時間でも待てばトイレか何かのために厨房から出てくるだろう
私は担当医が私に言ったこの点滴を外したら貴方の命は永くないですよという忠告を破り
湖畔のレストランで残り少ない毎日を過ごすことにした
相変わらずポルノ雑誌は無造作に積まれてあったのだがどうやら今年に出版されているらしい
しかし私の存在に警戒してか不良中学生の姿も浮浪者の姿も一度も見たことがない
結局二ヶ月ほど彼女の笑い声を聴いただけで
きのこハンバーグと彼女の姿にありつけないまま私の記憶が途絶えた
もどる。
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