「崩れた歌が好きだった」
上にヌナが二人いるんだけれど、洋楽が好きだった。初等学校の時、中学生・高校生だったヌナ達が聞く音楽を耳で聴いたのが、音楽を知る初めてのきっかけだった。Olivia Newton-Johnの“Xanadu”がすごく流行った時だった。言い音楽が出れば無条件に録音したのけれど、耳にぱっと入ってくる音楽があった。素早く録音を押した。These arms of mineという曲だったけれど、最初はタイトルも知らなかった。だけど調べてみるとそれがR&Bの古典だとは。ハングルでルビを振って練習した。R&Bに関する知識が全然ない状態で、何故か楽に歌うよりも「崩れた」歌が聞き良かった。ラジオで崩れた歌を探して録音して練習した。
初等学校の頃から殆ど毎日洋楽を聴いた。それも「歪んだ」洋楽だけ。国内音楽は高校を卒業してMBC舞踊団で活動をしながら「仕方なく」聞いた。歌謡曲に会わせて踊りを踊らなければいけなかったから。舞踊団は公債で入社したんだけど上手いというよりはなんとかやってみたら自ずと出来たという表現が合う。好きで一生懸命やってみると試験があって運良く合格した。
時間がある時は梨泰院のムーンナイトなどで友達と踊ったりした。当時ムーンナイトにはクーロンのカン・ウォンレ、グ・ジュニョプ、ルーラのリーダーのヨンワン、ソテジワアイドゥルのヤン・ヒョンソクなどと一緒につるんだ。89,90年の事だ。
一度はウォンレとジュニョプが事務所にはいると言った。当時ジュニョプとウォンレはヒョン・ジニョンとワワの「ワワ」として活動していた。ヒョン・ジニョンがS.M.所属だったから言ってみればS.M.の事務所にはいるということだった。
「そうか、俺も一度行ってみるかな。」
その時初めてイ・スマン先生と会った。有名歌手の彼だったが、初めて会った僕に決してタメ口を使わなかった。とても丁寧に接してくれたのですっかり惚れ込んでしまったとでも言おうか。
「後であの人ときっと縁を作らなくちゃ。」
一人でそんな決意をした。
その後90年9月に軍隊に行くことになった。1軍司令部に勤務したけれど原州にある芸術団の舞踊パートを受け持った。その時初めて作曲を勉強した。ギターとピアノを初めて習いながら作曲の勉強もした。今も僕がピアノを弾くのを見た人達は一言ずつ言う。
「なんでピアノをそんな風に弾くの。」独学だからどうしようもなかった。
しかし一年は虚しく時を過ごした。そうして『こんなの違う』と思って、何か一つだけやり遂げなくてはと考えた。音楽・・・・・・。小さい時から僕とは距離が遠いと思っていた。「歌手」と言えばすごい人で、誰でもやることではないと思っていた。殊更、音楽的知識が全然なかったから夢にも見れないことだった。『それは欲が過ぎるんじゃないのか』という思い出いっぱいだった。だけど小さい時から夢見た他でもない歌手だった・・・。古株に沢山悪口も言われた。「お前なんかが音楽をやるだと・・・」だけど、ただやりたくてやった。未熟なギターとピアノの実力、そして本がせいぜいの所だった。僕の音楽の師匠は。分からない単語が出れば辞書で探し、歌を沢山聴いてアルペジオをつかむ形式で一つ一つ覚えていった。
除隊する頃、僕の手にある曲は100余曲。一年の間Guitarist Groove.kと一緒に作った曲だ。今もすごく未熟だけれど、その時作った曲は如何ほどだったろうか。だけど自分としては内心胸がいっぱいだった。
「新人歌手募集、作詞・作曲者募集」
TVジャーナルに出た広告だった。
「S.M.エンターテインメント」
「どっかで沢山見たけれどいつだっけ。あ、そうだ。ヒョン・チニョンとワワ・・・・。」
縁という思いが浮かんだ。除隊していくらもたたないうちだった。93年3月だと記憶しているが、当時ソクチョン洞にあったS.M.の事務所の門を叩いた。手には10曲が録音されたデモテープを持っていた。