【徒然論】あなたの論理性が問われる。「恋人」「オリジナル」「個性」「自然」・・・あなたは自由ですか?(1999年03月20日)
「論理的な考え」に興味のある方はお読みください。
親友が親友に対して「自分以外の人間と親友になってはいけない」と言ったら、その言動はどう評価されるであろうか?。
もう少しすすめると、友達が友達に対して「自分以外の人間と友達になるな」と言ったらば、それはどうなるであろうか?。
それでは
恋人に対して、「自分以外の人間と恋人になるな」と言ったならば?。
上2つとその違いはありますか?。
その違いの理由は?
上2つの言動はどう評価されるだろうか。
上2つの言動は、やはり、「そんなこと言うなんて、おかしい」とか「独占欲が強すぎてわがまま」などと評価されるのが一般的であろう。
注)その言動だけならば、ある意味、自分をそれだけ認知してくれているという喜びはあると言えばあるでしょう。しかし、それと社会で下される評価はまた別。
注)実際このような言動は小中学校の子供の間では頻繁に行われうることは了解できるであろう。
それに対して、恋人に対してのその言動は、大抵の場合「あたりまえ」と捉えられるのではないか?。
この質問から2つの主題へと僕は話をつなげていきたい。
二つ目の話は別の文章で。とりあえずはひとつ。
言語・文化からの【自由/不自由】
この上記の質問から明らかになるのは、どれだけ、人間が不自由なものかってこと。
人間が言葉から文化からどれだけ不自由かということ・・・。
この質問からわかるように
「友達(親友)」とは大抵の場合、無意識・無自覚のうちに「複数であること」を前提と認識している。
それに対して
「恋人」は一人であるはず(もしくは「一人であるべき」)という概念が出来上がっている。
人間を抽象的に区別するということは色々な問題を含む。
注)人間の区別に限らず、抽象的な言葉には常にこういう問題がつきまとっている。
気付いてる人は多いと思うが、「恋人が一人である」という論理的自明性はない。
たとえば、友人に対する友情を「友愛」と表現するならば、その友愛は複数を対象としてもそれは不思議ではないだろう。
そして、「恋人」に対する「愛」というものが複数を対象とすることはありえないと考える論理的根拠は実はない。
そして、「複数の対象に恋をすること」が【いいこと/いけないこと】という【評価】の問題は全く別の問題。
事実と評価の分離が出来ないというのはこういう部分(【いいこと/いけないこと】)での混同をいう。
(こういうミスを犯す人は多い)
「恋人が論理的に一人とはありえない」ということから、平気で「恋人は複数がいい」という結論が導き出せると考えるのは明らかに論理の飛躍を起こしている。
その場合には「複数である可能性があるならば、複数であるべきである」という前提を勝手に導入しているということを認識するべきだろう。
注)いわゆる三段論法です。
認識をしていないならば、「論理的でない」という烙印を押されるおそれがある。
実際、「複数である可能性があるならば、複数であるべきである」も「複数である可能性があるならば、単数であるべきである」も論理的にはどちらでもいいことである。 (それぞれに実質的な根拠はあるだろうが)
その結果、
「恋人が論理的に一人とはありえないから複数がいい」
というのも
「恋人が論理的に一人とはありえないけれども複数はよくない」
という議論も、共に根拠なしなのである。
すでに発言者の評価の話なのである。
注)評価≒好み と捉えてもらって大丈夫。
これは別の文章(優しさと自己満足)中の「やっぱり、優しさなんて自己満足のためだから・・・・無意味?」という部分も対応する。
「自己満足」という言葉のイメージの悪さ(≒評価)にひきずられて
「自己満足」→無意味
という前提を勝手に導入しているのである。
同じく、その誤りは
「世界は幻想である」→「世界は無意味である」
「生きることは演技であり、虚構である」→「生きる事は無駄である」
という論理にも見られる。
この場合にはそれぞれ
幻想→無意味
演技・虚構→無駄
という前提を勝手に決め付けている。
しかし
「何故幻想が無意味なのか、何故虚構ならば無駄なのか」という点に対しては、ほとんど気に止められていない。
無自覚のうちに幻想は無意味だと「評価」してることに気付いてないのであろう。
本題に戻ると
「恋人は一人」
という(論理的には根拠がない)無自覚の前提が実は人間の考えというものを既に制限しているのだということ。
「恋人」という言葉に限らず人間は言葉の持つ力にひきずられて、論理の部分と評価の部分とを分離できないでいることが多々ある。
自由に考えてると思っていても、実は、言葉の持つ力に制約されている。もしくは言葉のない概念を考えるのは難しく、言葉がある概念を思いつく方が容易であるという点で、人間の思考などというのは、文化・言語から不自由なものなのである。
もちろん、人間を概念で区別する(つまり「友人」と呼んだり「恋人」と区別したりするということ)ことは、それ自体、社会である程度の共通認識があるからそれで通じるし、「ある妥協の一致点として、大体の目安をつける手段」としては非常に便利であり、これを理由に抽象的概念で物事を区別するなと言ってるわけではない。
注)「言葉の持つ力にひきずられて、論理の部分と評価の部分とを分離できないでいることが多々ある→言葉を使うな」という考えも、短絡的で、僕がここで言ってることは理解されてないことになってしまう・・・・。
注)僕はそういう抽象的概念の言葉では「論理の部分と評価の部分とを分離できないでいることが多々ある」という事実を述べているだけであって、それをどうするべきかという「評価」については述べていない。
一般的に抽象的な言葉にはそのような評価とも事実ともとれる要素が共に含まれている。
そして、その言葉が持つ「評価」の部分を自覚しないと、実は論理的に考えることは難しいのである。
注)実のところ、どういうふうに定義するかってのはその人の「好き/嫌い」だけの問題だったりする。
このような評価を伴い、事実を論理を考えるのを阻害しやすい言葉に
自由
平等
権利
自然
純粋
オリジナル
真実の・本当の
くだらない
【個性/画一的】
【創造/模倣】
というものがある。ついでに「愛」「善」「無駄」なども加えておく。
あなたは、このような言葉を多用する人ではありませんか?。
注)このような言葉を多用する場合は、「自分の好み」を正当化するために、「権力のある言葉」に乗っかろうとしていることが多い。
注)つまり、大抵の場合、このような言葉が発動される時というのは、「自分がこれが好きだ!」と言いたいだけなのだが、そう言わないで、自分が正しいということも主張したいから、つい「そういうのが好き」と言わずに「これが真実」だよとか「これが自然だ」「個性だよ」とか使う。
評価と事実の分離が出来ていますか?
それぞれの言葉についての非論理的な使われ方はいくらでもあるが、ここでは細かくは例示しないでおく(別の機会に書くと思うけど)。
もし良ければこれを機会にどういう風に使うのが一般的になっていて、そこに論理的な根拠があるのかどうかを自ら検討してみませんか?。
注)もちろん、ここに挙げた言葉以外にもこんなのはたくさんあります。
とりあえず、結論があるってわけではなく、こういう現象が起きているということを書いてみました。
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