【徒然論】「終わりなき日常」の議論の広がり(2001年11月08日)
元の文章である【徒然論】たとえテロの後でも、日常は終わらないに対して、反応をもらった。
「終わりなき日常」っていう世界の解釈を前提にすると不毛な議論になりそうな予感。完結した世界観だと思われる「終わりなき日常」に対して、外側からいくら斬りつけても似たような問答になるんじゃないかな、とね。
非常に示唆的な意見であった。
その通りなのだろう。
この「終わりなき日常」というセリフは、主観的な「印象」についての「キャッチフレーズ」だから、そこに論理的な検証をしようとしても限界がある。
「終わりがない」のかどうか、を考えれば、「いつか死ぬじゃないか!」とか、そういう反論・検証・検討が可能ではあるのだが、ポイントは違う。そう感じざるを得ない人間がいるということが問題であって(そして、そこに自分は含まれる)、論理的に終わりがあるかどうかは問題ではないからだ。
だから、ここで厳密な定義論を検証していっても、何一つ問題点に近付かない。
「終わりはある!」「いや、終わりはないって!」という感じの水掛け論に終始するだろう(その論理的検証によって、「そうか、終わりはあるや」と思える人は、そもそも、何も考えずに流されてるだけだろう(笑))。
連続する世界を、「言葉を使って、人によっては、大体こんな風に切り取れる」という「程度」の問題になっているため、「そういう切り取り方もあるよね」で、ある意味、話は終わってしまうのだ。
ただ、「外側からいくら斬りつけても似たような問答になる」というなら、次に話を進めるなら、外側から斬りつけるのではなく、「『外側』自体が、どうなっているのか」、その土台自体を議題にすることは可能のはずである。
とすると、
(1)「終わりなき日常」と感じさせてしまう社会を議論する
(2)「終わりなき日常」と感じてしまう心性自体を問題とする
(3)「終わりなき日常」というキャッチフレーズを使用すること自体の問題性を検討する
という方向性は考えられる。
(1)の点は、社会が、豊かになって、餓死・病死・戦死などへの恐怖が減少し、かつ、現状の社会が、娯楽が増え日常の労働の合間に「ハレ」がちょこまかと存在する社会であることが原因であるわけだ。
が、これを問題視しても、「世界の破壊を目指そう」とか、「自然に帰れ」という、なんだか問題解決(はそもそもないのだろうけど)とは、ほど遠いところに話が落ちてしまう可能性が高い。
(2)の点は、「終わりなき日常と感じてしまうのだからしょうがないじゃないか」という風に終わりそうだが、(元の意見でも書いた通り)「それは、感性が鈍いと考えることはできないか?」とも言える。
また、「終わりなき日常」というフレーズ自体に流されている可能性はないか?、その流される心性に問題はないか?、「言葉と思考の関係に対する検証が足りない」という姿勢に問題はないか?という問題提起もある。
なんとなく、日々の生活を、ぼんやりと、つまらないと感じているが故に、「終わりなき日常」という言葉を聞いて、何か、それに「形」が与えられたかのように感じて、その想いを強固にしてしまっているのではないか、ということ。
「言葉」というのは、強力な道具だ。連続した世界を切り取り、曖昧模糊とした認識に輪郭や形を与える装置である。 そして、それだけに、人間の「想い」は、実は「言葉」の持つ「型」による暗示にかかりやすい。
そんな風に想ってなくても、その言葉を聞いて、その通りだ、と感じてしまうことも多々あるのだ。
その意味で、「終わりなき日常」という言葉に踊らされていないか?、という問いかけは常に重要である(これは、「終わりなき日常」という言葉よりも、はるか昔に日本社会に流布しがちだった、「日本人は皆、同じ」・「流されやすい日本人」などの言説にも同様の問題だろう)
こちらも、暇なら参照のこと
↓
【嫌悪】そう、どうしても、やっぱり、お前が嫌い
【あなたがキライ】自由・平等・権利という口癖のあの人
【あなたがキライ】出る杭は打たれろ!
あなたの論理性が問われる。「恋人」「オリジナル」「個性」「自然」・・・あなたは自由ですか?
「言葉」に規定されている「思考」というものを意識しているか、自らの想い・思考を検証しているかどうかが問われる。
そして、同時に、日常に対して新鮮な喜びを探そうとする態度が鈍くなっていないかを検証することは重要なのだ。
が、しかし、これは、端的に「生きてることに感謝しなさい」という宗教的説法に流れる危険もある(笑)。
(3)の点は、(2)の点を受けて、問題点として出てくる。
「言葉」が「想い」に形を与えるが故に、その影響力故に、あるキャッチフレーズを使う場合には、慎重になる必要があるのではないか、ということ。
「終わりなき日常」という言葉が一人歩きしていけばいくほど、「終わりなき日常」は広がっていってしまう(どこかで摩耗して、その広がりも収縮するのだろうが)。
その意味で、「この言葉自体を使う時には、慎重であるべきだ」という論の展開は存在するだろう。
って、使ってるのは、僕か(^^;)。
つい使ってしまう僕個人の心性をも検証に加えれば、まあ、概念操作をしてグルグル考えることが単に好きなだけだというのがある。
自己の中にある「なんだかわからないモノ」に言葉という器を与えて、ごろごろと転がしてやる。熱を加えて、鋳型にはめて、冷やしたりしてみる。
何か結論があるわけではないが、こんな風に観念を言葉という「型」で鋳造する、思考ゲームが楽しいのだ、僕はヽ(´ー`)ノ。
と、こんな観念鋳造が好きじゃない人にとっては、こんな文章は、かなり無意味な文章なのだろうなぁ。
それでも、こんなゲームにつきあってくれる人が一定数でもいれば良いのだが(あまりつきあってくれる人はいない)。
本当は「考えない」人にこそ、読んで考えてみてもらいたいよなぁ、とも思っているのだけどね。
脱線) 自分で言うのもなんだけど、もし、この発言で役に立つ部分があるとすれば、「議論の展開のさせ方」かしら。
ある議題から外側に出て、議題を広げ直すというやり方を覚えることは、それなりに意義があるのではないかな。
てなところで終わり。
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