【社会学?】「意味から強度へ」の次の戦略?。享楽的・刹那的生き方と旧世代的生き方の止揚。(1999年12月 2日)
 「意味と強度」「意味から強度へ」・・・・「意味を見出したがり意味的に生きようとする姿勢ではなく、生きる強度を保って生きていくべきではないか」というような主張が、この意味と強度という言葉が出てくる場合の要点だろう。



注)遅れてきたニューアカ(だっけ?(笑))宮台真司的文脈が社会言論一般にも結構出てきているだけに、それなりに重要なキーワードとして理解しておいて損はないはず<意味と強度



 もう少し補足するなら、「僕は世界を救うために生きているんだ」、「人は無くしてしまった何かをみつけるために生きていく」、「俺の人生の意味って何だ?」「私は家族の生活のために生きている」とかいうように、「生きる」ことになんらかの意味を付与する生き方を「意味的な生き方」とでもいう。



 で、これに対して「世界に、自分の存在に意味なんかない」としたり、もしくは見出そうとしないで、生きている「充実感」(幸福感、快楽、刺激、満足、でもこの場合なんでもいいのだが)のみで生きていく態度を強度による生き方と言う。





 で、かつては(今も結構)意味による生き方というのが、主流だった、という。



 これは端的には「人生には、生きることには何か意味がある」という考え方とかに集約されるのだろう。



 で、こういう生き方をあまりに強く押し進めていくと、今の社会全体とか世界全体が「腐ってる」ものに見えて「意味のない」ものに見えて「意味を与えよう」と一度世界を浄化してしまおうとか考えることがあったりするわけだ・・・。オウム(麻原は別として)の幹部達なんてのは、ある意味では非常に倫理的に世界に意味を見出そうと真剣に生きた人たちなんだろうなぁとは思うわけだ。




 でも、やっぱり生きていく意味ってのは世界に意味ってのはないと思うのだよな、僕としては。


 これは普遍的にとか、永続的にとかいう意味で、個々人がそれを抱くことは可能だとは思ってる。でも、それを無前提に導入されると「????」って感じになってしまうのだ。



 「この世界に生まれてきた以上は何か意味があるとは思いませんか?」的な問いに対しては、「ないんじゃん。君も僕もいなくても世界は回っていくよ」的な返答が心の隅にあるわけだ。




 で、「じゃあ、死ね」と言われても、やはり僕は人生「まあまあ楽しい」と感じてるわけだから死ぬ気はない。



注)そもそも、「じゃあ、死ね」ってのも、論理的ではなくて、「意味がない→死ぬべき」という不思議な前提が無批判に導入されてることの証拠であったりする。



注)ニヒリズムなんてのは、結局「頭ワルイ」としか思えない部分もあってさ、「意味がない」ことに気付いてるのはイイが、「意味がない→生きてたってしょうがない」なんて図式にはまるのは、どこにも論理必然性がないんだもの。極論すれば「意味がない→楽しい」だって成り立つんだよ?。



注)「まあまあ楽しい」は平均するとってことで、「あんまり面白くない」とか「かなり楽しい」とか「目玉が飛び散るほど(?)幸せ」とかそういう振れ幅はあって、それを総じて平均すると「まあまあ楽しい」、収支決算黒字くらいの人生って気分ってことね。






 どんなに「意味」を見出しても、それは結局、生きる力、糧となって、幸せ・充実として生きていくことになる。それは「強度」であるのだな・・・・。



 ってことは、結局、どんなに「意味」で生きているようでも「強度」で生きてること自体は変えようがないのだ。



 実は「意味的生き方」ってのも「強度的生き方」のバリエーションの一つに過ぎない(生きてる以上「強度」があるのは当たり前なんだもの)。


注)「自覚」の問題だってことなんだな<「意味的生き方」と「強度的生き方」のボーダーライン



 ただ、強度ってのを考えたときに、別に身体的快感だけじゃないことはあたりまえで・・・。



注)「意味から強度へ」を短絡的に捉えると今度は変な自己破壊的、破滅的快楽に走ったり、結局つまらないから自殺へと行ったりという方向に流れる危険が高い気がするから、こういう発言をしていたりするのだ・・・。



注)実際には無自覚に「意味」を生きている人ってのはたくさんいて、それはそれでいいんだよなぁ・・・というのは独り言か。



注)なんらかの形で「意味」に躓いた人が、これ読んで何か思うところがあればいいと思ったりするのだが・・・。




 オイシイものを食べた時の味覚の刺激は、確かに幸福・充実などにつながる強度なのだろうけど、そういう直接身体的な刺激による強度ってのは、飽きが来てしまう部分が大きくて、最終的にはそれほど幸福感とかそういうものをもたらさないような気がするわけだ。




 (これは、ライブやダンス(ドラッグもか?)とかでの恍惚感とかそういうものも、直接身体的なものとして飽きやすいものだろうという風に感じている)




 で、短絡的な、刹那的な【快・不快】原則に支配されることが強度を生きるというわけではないはずだ・・・・・・と。



 意味的生き方も強度的生き方のバリエーションのひとつに過ぎないならば、強度的生き方にあえて意味を与えるという、強度を補填する意味で「意味」的に生きるという戦略がやはり浮上するわけだよな。



 この場合のように意味的に生きる生き方も「強度的生き方」であると僕は感じているのだが、そうすると結局「意味的生き方」と「強度的生き方」の違いってのは、意味的なモノは無意味で、結果的には強度的なモノだと自覚して、でも、かつ「意味」を選択として強度の補填に充てているかどうかということなのかなぁ・・・というのが今の僕の考え。



 強度的な生き方を充実させるために、僕なりには意味を創る、生み出すことというものに挑戦したいという気分。



 で、強度の補強に充てる「意味」をいかに選んでいくかなんだよな。それは「キミのために生きる」でも「僕は世界を救う」でも「金こそ人生」、「アメリカ万歳」でもそれは個々人の感性とかセンスの問題なんだろう・・・(あくまで無自覚でない選択でなければ怖いのよ)。



 ただ、こういう時に重要なのは、やはり「物語」を紡げる「想像力」なのだろうな、というのが最近の実感。「妄想」じゃなくね(苦笑)。



 「物語」については別個に、また書くでしょう。ということで、終わり。









 ・・・・ここまで書いて思ったのだが、これって誰が読んでくれるものなんだ?(苦笑)。いや、それは、このHP全体に言えるか(苦笑)。


 長くって、要点が掴みにくいものになってるのは、「主張」よりも「今思ってること」を徒然に書いてみてるから。それは僕が今、バイオリズム的に意味的な方向に振れてるせいでもあるのだろう・・・。


 それでも散発的に、部分的にそれなりに興味を持ってくれる人がいてくれたらいいな・・・とヽ(´ー`)ノ。


 興味持った人はメールとかで反応してください(^^;)。




 宮台氏の著作を読んでみようと思った方(ある程度、社会や人間のあり方について考えたりする人で、読んだことがないならば、肯否は別としても、一度は絶対に読んでおくべきだと思いますが(知らないと恥ずかしいレベルということになってしまうだろうし))には、「自由な新世紀・不自由なあなた(メディアファクトリー刊)」と「宮台真司これが答えだ!(飛鳥新社)」をお薦めします。総まとめとしてもわかりやすく、非常にとっつきやすい本です。

 おまけとして、昔の本になりますが、「終わりなき日常を生きろ(幻冬舎文庫)」「制服少女達の選択(講談社)」なども、どういう過程で話が進んでいるのかを理解するのを助けます。



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