【会話というもの】適切な会話の構築とその協働:(1999年11月 3日)
 会話をすること、コミュニケーションすることとは単に意思を伝達する手段ではないと思っている。



 コミュニケーションというのは、それ自身が目的なのだ。



 会話自身が、コミュニケーション自身が、僕にとっては人生の目的なのだ。





 唐突ではあるが、死とは沈黙である。


 それとは反対に「産声」は死とは対称的な騒々しさを持っている。


 生きると言うことは、死という沈黙を避けるために「沈黙を埋めていく作業」なのかもしれない。



 よりよく生きているということは的確に沈黙を埋めることができることではないかとさえ思っている。




 沈黙を怖がり、もしくは沈黙を嫌悪し、沈黙を埋めることに協力をしてくれる人間を僕は好ましく思う。



 ただし、その埋め方は適切でなければならない(苦笑)。埋めればいいというモノではない。



 ただひたすらに、沈黙を潰していくだけの人には、それならば黙っていてくれと思うことが多々ある。



 成長して適切な会話を身につけてくれと感じる。



 空気を読め、リズムを乱すな、人が喜ぶ話を選べ、外したらそれに気づき反省しろ、自分が話したいことだけを優先するな、自分がここにいることを宣言するだけの行為はやめろ。


 かといって、うまく埋められないからって必ず黙ってしまうだけでも駄目だろう。





 会話に加わってる出来るだけ多数の人が「ここでコミュニケーションして良かったな・・・」と感じることができるような「沈黙の埋め方」を「適切な会話空間の構築」をしたい。


 そう、「構築」、もしくは「建築」なのだ。「楽しい会話」、「面白いコミュニケーション」という「建物を造る作業」なのだ。



 失敗もする。いわゆる「外したな」とか、「話が続かなかったな」とか、「自己言及に過ぎたな」とか、「沈黙を埋めるネタを思いつかなかった」とか。



 それだけに、誰かと共同して、上手に「建築」をできたときには、うれしくなると同時に、その協力者に感謝の念を抱く。



 そして、また今度も【彼/彼女】と連帯をしたくなる。



 そう、また今度僕は君と連帯したいと思っている。



 これからもよろしく。




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