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【雑文】クリスマスに対してウダウダ言うヤツ(マクロな視点の逃避性)。(1999年12月24日)
今日はクリスマス・イブなのです。 大騒ぎした人、恋人とラブラブな人、プレゼントを待ってる子供、関係ないよって仕事してた人、色々いるのです。 でも、こう言う時になると必ず何か言いたがる人がいます。 「貴様ら日本人か」「日本の文化は西洋の真似ばっかだ」「クリスマスはキリストの誕生日だ、お前はキリスト教徒なのかぁ」とか、何やら主張したがる人ってのも結構いるのだ・・・。 なんで、そんなこと言うのでしょうねぇ(^^;)。歴史を説明するのは、まあ、どうでもいいのだけど、「だからお前らはおかしい」的なことを言う人達の神経はよくわかりません(苦笑)。 歴史は歴史、由来は由来だろ。そこに理由は存在してないぞ。 で、「由来」とか「歴史」にこだわるのは端的に僕はバカだと思ってるタイプなのだが・・・西洋かぶれ(←曖昧な言葉だが)な人間ほど「歴史」「由来」にこだわるかとも思ったけど、よく考えると「由緒正しい」って言葉とか「家」の制度なんてのは日本でも結構昔からあるわけで、日本・西洋うんぬんという問題ではないのだろう。 「歴史」や「過去」にこだわるのは人間の特性なのだろう。 人間は有限の個体である。つまり、世界に一人しかいない、いつかは死ぬ存在である。 その有限性に人間は無限性を付与したがる。 それは、「日本人」「民族」という括りであったり、「人類」という括りであったり「地球上に存在する生命体」であっても、それはなんでもいいのだが、自分は単なる個体でしかないということを、そういう団体としての一体性を考えることで、普遍へと広がる自己を幻想として抱くことができる。 そして、「祖先」「血」とかの、永遠と続いてきてる命を意識することで、「いつかは終わってしまう自分の生命」を時間的に「永遠」という物語の中に自己を拡張することに成功する。 今では科学的にも遺伝子とやらが子々孫々に伝わっていくことを証明してることで、「終わってしまう自己」を、「どこから来たかわからない自己」を科学という「物語」で「由緒正しい永遠の生命の一部」として救済するのである。 それでも、やっぱり自分は単なる一個の個体でしかないし、いつかは生命の果てる存在なのに。 歴史を振り返ることは自己の将来の過ちを避けるという意味において意義があると思う。 でも、その歴史だけを理由に無自覚に今の「眼前」を批判することは意味がない。 でも、何かを語る時に「歴史」や「由来」を語ると、語れた気になってしまうのだよなぁ(^^;)。 この語ることが出来た気になってしまうタイプにはほとほとうんざりする(苦笑)。 なんだっていいじゃないかよ、由来なんか。クリスマスがキリストの誕生日だからなんだっていうんだよ。現実に日本ではクリスマスには恋人二人が過ごすとか、サンタクロースに扮した親とか先生とかが子供にプレゼントするとか、皆で大騒ぎしてパーティーするとかっていう日になってるんだから、「そういう日」ということにすればいいじゃないか。由来を気にすることで何かあるのか?。 「永遠性へのロマン(≒自分の小ささへの恐怖?)」なのか、「何かを語った気分になって自己満足をしたい」のか(まあ、これは僕の書いてるモノも同じだが)なんだかは知らないのだが・・・。 ブランド信仰とかも実は根は同じなんだよな。「パクり」うんぬんを批判したり、真似文化を批判する姿勢もそう。 何か「由緒」「歴史」とかに安心したいのだよ。 ブランドにはブランドの意義がある。好みのブランドの中から探す方が自分が好きなモノが見つかるとか、質が高いものが多かったり、バリエーションも多かったりとか、それぞれのブランドごとに理由があるはず。僕も好きなブランドとかは、結構ある。 で、そういう「現状」「現在」というか「眼前」とでもいうのかな、そういうものを無視してブランドを盲目的に信仰してはいけないのだよな。 まあ、でも逆に面倒だからブランドで探すって態度も逆にありだとも思ってるのだ。その「自分にとって合ってる」という蓋然性の高さを信頼して、自分の生活の能率を上げる意味でそのブランドを選ぶってことは別にいいだろ。 そういうことに対して、今度はブランドの由緒であるとかうんたらかんたらを語って批判するのは、それこそブランドに囚われてるアホのやること。 パクり、真似文化批判ってのは、その作品であるとか、何かの真似である、と、だからイケナイと。 まあ程度問題でもあるのだろうけど、パクりの要素がないモノなんてありえないだろうに。極端な話、絵画で言えば「絵」だって言う時点で、もう「絵」というものをパクってるとか、音楽であれば、音階を使ってる時点で、ピアノを使ってるとかいう時点で「過去の作品のパクリだ!」とも言えるわけでさ。どこに焦点を絞るかによっていくらでも全てのモノはパクりなわけなんだな。 文化とか、個性なんてものなんて(それが意図的なのか、無意識なのかは別として)結局過去の遺産のパッチワークに過ぎないわけで完全にオリジナルなものなんて存在しないのだし、そもそも「なんでオリジナルじゃなければいけない」のかって考えが、そこにはスッポリ抜け落ちてるってこともスゴイ問題なのだ。 「オリジナルはいい」っていうのは、いまだに強烈に盲目的にあちこちで信仰されてる考え方のひとつだけど、「なんでオリジナルがいいの?」っていう部分が、ホントにないんだよね・・・・。 オリジナル信仰って、これだけ見ると、「絶対的な個」の信仰だから、「永続性への憧憬」とは逆の心性に見えるけど、限られた単なる個でしかない自分を、脈々とつながる永続性によって自分の永遠性を幻想したいというのと、単なる個をナニモノにも侵されない絶対的な存在でありたいという思いは実は根は一緒なのよね。それとオリジナルから脈々と流れる歴史性には結局畏敬の念を抱くみたいだしね。 自分の小ささが怖いという部分。 勘違いされると困るんだけど、世界に比して、宇宙というものに対して、歴史というのに比べて自分が小さいと感じて怖がること自体は別に問題視してないのだ。そりゃ怖がるのはあたりまえでしょ。やっぱり、ちっぽけな自分でありたくないっていうのはわかるもの。 でも、何か、そういう永続性とか歴史性とかオリジナルを語ろうとする精神の裏側には、「そういう何か恐怖から逃れようとする自己の動機が隠されているのではないかな」という部分に気づいた方が、モノを見る時に見誤らないんじゃないの?ってことなのだ。 この話ってのは「大きな物語好き(←菅原さんとよく話す題材なのだが)」にもつながる話だったりするのだけど、「クリスマス批判」に対する批判から、そこまで一気に持っていくよりも、この辺までをとりあえず考えて欲しいなとか思うので、この辺で終わるのです。 歴史性、由来、由緒、オリジナル性にこだわるのはどうなの・・・というところから考えると、今度は眼前の実質重視ということになるんだけど、これやると加減知らないと今度は近視眼的な現状肯定にも行くのだよなヽ(´ー`)ノ。 もちろん、近視眼的な現状肯定は駄目なんであって、どうかとも思う。 けど、「実質的な何か」ではない部分での批判。つまり、「歴史性のなさ」であるとか「由緒のなさ」を理由に物事を批判していたりすると、絶対に物事の本質を見失うと思うのだな。 それと同時に、もっと瑣末的なことだけど(ある意味もっと重要)、語った気分に浸ってしまうヤツに限ってそういうことを言いがちだから「人から嫌われる」なんていう即物的なデメリットもあるのだということを書いておくのだ。 と、そんなところで、とりあえず終わるヽ(´ー`)ノ。 以上。 ロマン、大きな目的を見て、語った気になってると、必要なものを見失うのです。そんな教育をされる子供達は哀れです。 ↓ 【教育】無駄な教育、「能率」が必要な場面 (15460) |