僕たちのジハード(2000年12月07日)
 「女たちのジハード」(篠田節子:集英社文庫)という小説を読んだ。

 簡単な感想から言うと、「面白かった」。あっと言う間に読んでしまったし、読めてしまった。読んで良かったというのが率直な意見。

 小説の物語構造については、今回は割愛。描かれている問題や視点についての話。



 フェミニストというのが、どういうものなのか、いまいちわからないし、おそらく僕が(というか男性が)フェミニストを名乗ったところで、「エセフェミニスト」呼ばわりされるに決まっているので、名乗ろうという気はないが、「夫は仕事、妻は家事」という概念に固まってる男性を見ると思わず冷笑を浮かべてしまうし、力仕事が減っている現在では仕事をこなす能力に男女差があると僕は思ってない、ということは述べておく。

 この本は、幾通りかのタイプの女性を描いていて、「こういう人いるいる」と感じさせるリアリティーや、観察力は素晴らしく、女性の視点で社会問題を描くという意気込みを感じる。

 女性蔑視オヤジを蹴飛ばしつつも、「働く以上このくらいの意識、意欲は必要でしょ!」という風に甘え女性にも肘鉄をくらわせている。


 宮部みゆきの著作にも、さりげなく働く女性の意志というか意識というものが色々と描かれているのだが、篠田の「女たちのジハード」にも、かなり濃厚に、かつ、わかりやすく描かれている。

 おそらく、この「女たちのジハード」は男性にとっては「女性」の視点や、考えてることを勉強するのに、良い参考となる。

 共感はできないという男性(女性も)いるかもしれないが、共感できない、という男性ほど読んでみるべき本であろう。

 こういうセリフとか、こういう考え方は、不用意に刺激してしまう、というマニュアルとして読むということも可能であろう。


 「女たちのジハード」は働いている女性にこそ共感を得る本かもしれないが、浮ついてるだけのキャリア志向の人は、この本で反省をするのかもしれない。

 そういう意味で、本当は、社会人よりも大学生や高校生こそが読んで勉強するべき本なのだろう。


 就職難という時代であり、転職が盛んになっている時代だからこそ、「女たち」のジハードというよりも、「労働者たち」のジハードと読むことも可能だろう、という風にも感じられた。


 ホモであるフーコーが、いい例だが、被抑圧者は社会の自明性に対して鋭い視点を持ちやすい。
 それ故に、女性の作家の作品というのは、読んでいて興味深いことが多い。

 この「女たちのジハード」も被抑圧者だからこそ得やすかったであろう視点を十分に生かしている。

 ただ、被抑圧者の視点には、もちろん「抑圧されてる」という意識がないといけない、という条件が必要になる。

 したがって、「抑圧されてる」と言うことも可能な人達が、抑圧されてることに気付かない間は、被抑圧者の視点は現出せず、その視点は「自明性」の覆いが被されたままになる。


 ここから先は、小説の話は置いておく。ここから先の話は、この小説が次に述べるようなことを描くべきだったということを言うのではない。


 この作品のような視点に到達してる人達ならば、この作品を読んで、色々考えるのならば、もう一歩先まで進められるだろう、ということについて述べる。


 つまり、もう一歩先を見るならば、女性が「抑圧」されてる、という概念自体が、実は「労働至上主義(≒資本主義でありマルクス主義でもある?)」の現れでもあるということにまで気付いて欲しい気がするということである。


 労働こそが最も尊い価値である、という近代社会の価値観(男性社会の価値観?)の中では女性は抑圧されてると言いやすい。が、その価値観の枠組みを取っ払っても本当に抑圧されているのであろうか?。

 それは、女性が「家事奴隷」であり、「性的奴隷」であるというような表現がまかり通るのと同様、実は男性が「労働奴隷」でもあるのではないか、ということなのだ。


 そして、幸せなことに、労働奴隷(≒男性、いや、すでに「過去の男性」というべきか)は、奴隷であることに無自覚なまま、自分たちが偉い、優越していると勘違いしているとも言えて、女性は女性で別に労働奴隷にならなくてもいいのに、労働奴隷にあこがれているともいる(つまり、男権社会に反抗してるつもりで、女性自身が男権社会の価値観に飲み込まれているともいえる)。


 自明とされている「抑圧」は本当に抑圧なのか、抑圧だと感じるものを支えている価値観にも、一応の疑いを差し挟むことはできないのか、ということなのだ。

 当然のことながら、労働奴隷である男性の権利を認めろ!とか、シュプレヒコールをあげるなどという気はさらさらない(苦笑)。

 あくまで、こういう視点もあるだろう、というところにとどまるのであって、現状の社会が「生活の基本が労働である」という観点から、機会の均等の意味でも、社会通念上も、女性が特に労働という場面では未だに不遇に扱われているという事実をまず是正すべきであることは当然であろう。

 だが、上記視点に気付かずに、無邪気に自明の権利として叫ぶ人間に対しては、僕は肩をすくめて苦笑いを浮かべて沈黙するであろう、という感じか。






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