消費と歴史と、価値観と (2000年10月18日)
 消費とか、文化の価値とかで、その時代に瞬間に消費されることを毛嫌いして、長い期間で考えることを無条件に是とするタイプの人というのがいる。


 しかも、そういう人に限って、文学とか詩とか、文化とかをやたらと重視するわけです。


 しかし、素朴に100年や200年のスパンで考える意味は何なのだろうか、瞬間ではダメな理由は何なのだろうか、などと思う。

 「消費」という言葉は「無駄」という言葉のイメージを常に随伴するのだろうけど、でも、そういう言葉の持つ「典型的イメージ」から脱却したところに到達してこそ、(詩などの芸術領域であろう)「言葉」を操るということが出来るのではなかろうか、と感じる。

 言葉がステレオタイプに持ってる「マイナスイメージ」に、価値観が引っ張られることは多い。

 価値観を変える必要はないのだけど、それが典型的な「刷り込み」によるものだとしたら、意図的に変えてみようというのも、また、面白かろう。

 また、刷り込みに気付いてないのなら、気付いてないにも関わらず大上段に「消費なんてダメだ」などと語るのは恥ずかしかろう。


 消費にコミットする人間をそんなに嫌うなよ、ということではない。嫌いなら嫌いでいいのだろう。



 当然、この話も「『刷り込みによるものだ』という断定をしたい」ということでもない。
 「刷り込みによるものである可能性」をどこまで意識できるかを意識したいということ・・・。

 もしかしたら、刷り込みによるモノかもしれないという自問自答の繰り返しこそが、状況判断を確証するのではないだろうか。


 「残るモノは良い」という価値観は結構メジャーな価値観で、一般論としては、それは人間の「永遠性への憧れ」みたいなものに由来するのだろう・・・。

 消費も歴史も有限であり、無限でもある。どちらかの価値が高いという問題なのだろうか?。




 これに対して

 「「G-Shock」の方が「腕時計」を考えた人よりももてはやされただろうけど、多分「G-Shock」なんて人間にとってほとんどどーでもいい。

 というようなことを言われた。


 しかし、これは「どーでもいい」と考えた根拠が無視されてる。

 何故、どーでもいい、と考えたのか?。

 それは「後世の人間への影響力の大小」がやっぱり「意味ある/どうでもいい」を決定する基準となっているからだ。結局「歴史」が無意識に重視されてるのである。


 歴史を重視することに個人的には異論があるのではないが、「意味がある」の中に既に「後世の人間への影響力」という意味が入り込んでいるというトートロジーでもある気がしてならない。


 「意味がある」の中に既に「後世への影響力が大きい」という意味が繰り込まれているならば、後世に影響を与えない消費は「意味がない」のは理論上当然。

 先ほど述べた通り、後世への影響力が大きいものが、重要で意味がある、ことには僕の価値観の中では何ら反論はない。


 が、しかし、その前述の「繰り込み」が「無意識に行われすぎてるのではないだろうか」という点を僕は指摘したいのだ。




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