【徒然論】たとえテロの後でも、日常は終わらない(2001年11月04日)







参考→【宮台?】「意味から強度へ」の次の戦略?。享楽的・刹那的生き方と旧世代的生き方の止揚。



 テロ事件が起きて、「やっぱり世界は危険なんだ」、「これからは今までとはガラリと変わった時代がやってくる」、とか、「平和ボケしている人間は駄目だ」とか、そんなことを言う人達というのは、いる。



 しかし、(テロで死んだ人間達、その周囲の家族達のことは、とりあえず置いておくが)結局、今回のテロ事件の後であっても、どんなに不謹慎だと言われようと、僕らの「日常」に大した違いはない(それこそが【感性の・認識力の】鈍磨だ、という反論もありうるし、そこにこそ、日常の「乗り越え」の鍵がある気がするが、話が大きくずれそうになるので放置しておく)。



 あれだけの事件の後であっても、大戦争後の弱肉強食の世界も、核の冬もやってこない。いや、実は、やってくるかもしれないが、一般市民にとって、そんなことは来てから考えるしかない問題だ。



 起きているのは、所詮は株価が下がったとか、上がったとか、そんな程度の問題でしかない。いや、そんな程度でも重要だ、という人がいるのもわかるし、そんな程度ではないことが見えないところで色々起きているのだろうけど、「実感」レベルで言えば何も起きていないし、極端なレベルで変わるわけではないだろう。



 飢餓の苦しみや、戦争状態はやって来ない。一応生きていくために働くことをやめるわけにはいかない。生活水準や、取り巻く環境の微妙な推移はあるだろうけど、それでも、特段の死ぬ怖れもなしに、今日も明日も、とりあえず生きていく。



 日常は緩慢に僕らの首を絞めていき、僕らは、どこかで窒息しそうになりながら、一部の人間は窒息して一部の人間を殺したり、傷つけたりしながら、総体としては、やっぱり、「終わりなき日常」を生きていくことになる。




 終わりなき日常への対抗策が「まったり」だけだとは思わないけれども、これからの時代は「終わりなき日常」を生きるしかないことを告知し、かつ、一つの方法として、「まったり生きる」という方法を提示した宮台真司を、僕は評価している(宮台の著作を読めばわかるが、彼は、「まったり」が唯一の方法だとは述べていない)。




 が、「まったり」だけではない、「ならば、どうする?」という問いは残り続ける。「終わりなき日常」を生きるしかないからこそ、「終わりなき日常をよりよく生きる」ことをなんとなく目指していくしかないのだろう。



 そして、「この終わらない『日常』をどのように生きていくことが幸せなのか」とか、無駄なことを考えつつ、「この考えるという【終わらない行為】が僕にとっては、【幸せ】なんだろうなぁ」とかいう思考ループの中を、僕は、たゆたっていたりするわけだ。


 この僕の行為は、ある種の人間達がクラブやレイブの音の波に体を預け、たゆたう行為に、実は類似した行動様式なのだろうと僕は理解している(「まったり」の一種だという規定も可能か)。




 そして、終わらない日常をよりよく生きるために「終わらない日常をどうやって生きていこうか?」という問いの中で、僕は今日もゆらゆらと浮いている。



 「終わらないのは、日常ではなく、受験生活じゃないのか?」というツッコミもあるが、それはそれだ、気にするな<気にしろ(;Δ;)。






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