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夢のない生き方(1999年08月 4日)
今の世の中、夢を持ち、目標を持つ人生は是とされる。 でも、僕個人としては、「目標を、夢を持たない主体的な生き方」というのを模索していきたい・・・。 注) 僕は司法試験で弁護士を目指してはいる。 しかし、これは、僕の中では、別に夢とかそういうものではない。ただ、単に生きていくのに、都合のよさそうな手段だというだけである。(思った以上にハードルが高かったのは誤算だったが(苦笑))。 「夢」や「目標」へ向かう人間は美しく、強い。 だからこそ、世の中は、夢を持て、目標を持てと僕らを駆り立てる。 「自分が何かである」こと(アイデンティティという言葉が日本人を脅迫するもの)を探そうとすることは、困難で、大変な道でもある。 でも、そうでなければいけないのだろうか?。 あまりにも世間がそういう方向へ駆り立てようとうるさいから、僕は疑問を持ってしまった。 そして、だからこそ、「夢を追う」ことは「安直」であり、かえって本当の生き方ではないのではないかと感じてしまった。 (そもそも「本当の生き方」ってのは嫌いな言いまわしなのだが・・・) 夢を持って一生懸命にやってる人間をあざ笑うだけの人間は、僕にとって忌み嫌うべき人間である。 ただ、一生懸命なだけの人間は、やはり、僕は「それではいけないのではないの?」と言ってみたくなってしまう。 「夢」を追うことが、「生きる」ことで「人生」だとしたら、夢をあきらめた人間はそのまま否定されてしまうし、「夢を持たないことで不要なコンプレックスを持つ人間」を量産してしまうのではないか。 だから、社会全体がそういう価値観を呈示しつづけている限り、僕はその主張が流行していくのを受け入れたくはない。 夢を追う人生を否定するわけではないが、そうでない人生もあるはずだという風に社会が動くことを望んでいる。 「夢がなくたって、素晴らしい生き方、人生はあるはずだ」。 僕はそう信じているから、夢や目標を探さないという生き方を選んでみたくなる。 いや、一部では、夢や目標がないことへの言い訳なのかもしれないとは思っているけど、でも、それだけでもない気がしている。 夢を追うことは、困難だけれども、だからこそ、やりがいもあり、逆に、楽な人生でもある。 「夢中」とはよく言ったもので、夢中になるのは、中毒みたいなもので、容易とも言えるのではないか。 いわゆる、中年世代で問題になったワーカホリックなんてのも、ある意味では、同じもののような気がする。 夢を追うことで、達成した先には何があるのだろうか、目的を目標を失ったらどうなるのだろうか。 その目的への進行は、ある意味で宗教にはまった若者の盲信にも似ていて、また、その挫折は、リストラ・定年退職後の男性が生きる目的を失い、人生の楽しみ方も知らないで家で粗大ゴミ扱いをうけるという構図に似ている気がしてしまう。 「夢」・「目標」を持つ人間は強いけれども、それが崩れると、そこが人格の基盤だけに、脆いとも言える。 僕には「硬直した強さ」に見えてしまう。 僕はもっと「しなやかな強さ」を身につけたい。 常に何かに幸せを喜びを感じられる。そういうものを見つけるのがうまいというそういう生き方をしたい。 それでいて、何かに常に力強く取り組んでいられるような・・・。 夢を持たずに、美しく、しなやかに強く・・・・そうやって生きていきたい。 |